第九話:舞踏会、開演
ルシアンは、会場のざわめきを意にも介さず、ライラを連れてそのまま王族や主だった大貴族への挨拶回りへと進んだ。その道筋は、まるで王が領土を歩くかのような支配的な威厳に満ちていた。
「この子は、私の婚約者、ライラ・クレール伯爵令嬢です。私の最高の知性と未来の公爵夫人として、皆様にご紹介させていただきます」
ルシアンは、ライラの地位を「愛する妻」ではなく、「知性と道具」として強調することで、ライラの価値と、彼女が完全に自分の管理下にあることを公然と示した。ライラは、ルシアンの言葉一つ一つに、感情を排した完璧な笑顔と礼儀で応じ、誰もがその非の打ち所のない令嬢ぶりに舌を巻いた。
挨拶が一通り終わると、ルシアンはライラを人目に付きやすい一角のソファに座らせ、冷たいワインを手に静かに見守る姿勢を取った。
「さあ、ライラ。ここからは君の『光の仮面』の真価が問われる時間だ。君の美しさと、私の婚約者という地位に興味を持つ者が、群がってくるだろう」
ルシアンの言葉通り、すぐに貴族たちがライラを取り囲んだ。彼らの目的は、氷の貴公子を射止めた娘の秘密を探ること、そして、没落令嬢の成り上がりに対する好奇と嫉妬を満たすことだった。
「ライラ様、公爵様とはいつ頃からご親密に?」「その美しいサファイアは……」「クレール伯爵家のご事情は……」
矢継ぎ早の質問攻めが始まったが、ライラは一切動じない。彼女はルシアンから教わった情報戦術を駆使し、真実を漏らさず、しかし相手を満足させる完璧な回答を返していく。
(質問の意図は『私を試すこと』と『ルシアン様の私的な情報を探ること』。返答は『親密さ』と『公爵家への献身』に絞り、具体的な情報は全て『愛』という曖昧なベールで覆う)
ライラの無表情な知性が、質問者たちの好奇心を柔らかな言葉でいなし、論理的な袋小路へと追い詰めていく。
その様子を遠巻きに見ていたセシリアは、屈辱と焦燥に耐えかねていた。このままでは、ライラが完全に社交界での地位を確立してしまう。
セシリアは、「善良なクレール伯爵夫人」という最後の仮面を引っ張り出し、ルシアンに向かって優雅に近づいた。
「ヴァイス公爵様。ご挨拶が遅れ、申し訳ございません。ライラさんは、以前、私どもが親身になってお世話をしていた……」
セシリアは、ライラを「可哀想な、自分に依存していた娘」として印象付け、ルシアンの高貴な心を利用しようとした。
ルシアンの薄水色の瞳が、セシリアに向けられる。その冷たさたるや、一瞬でセシリアの心臓を凍らせるほどだった。
「ああ、セシリア夫人でしたね」ルシアンは笑顔を保ったまま、しかし一切の感情を込めずに言った。「お世話、感謝いたします。ですが、もう結構。彼女は今、私という最も完全な支配者の下で、私だけの悪女として教育を終えましたから」
セシリアの顔が引き攣る。ルシアンの言葉は、公然と彼女の「親切」を否定し、ライラの所有権を宣言するものだった。
その時、ライラが貴族たちへの対応を終え、ルシアンの隣に戻ってきた。
「ルシアン、お待たせいたしました」
彼女は「公爵様」ではなく、「名前」でルシアンを呼んだ。それは、二人だけの背徳的な誓いであり、セシリアへの最も残酷な示威行為だった。
ルシアンは満足げにライラの手を取り、セシリアを二人で見下ろす形になる。
「セシリア夫人。お久しぶりですね」
ライラは完璧な笑顔を浮かべた。その笑顔は、昼間にガブリエラが教え込んだ、感情が一切含まれない、計算され尽くした令嬢の笑みだ。だが、そのライラック色の瞳の奥には、氷のような冷徹な優越感が宿っていた。
「私の新しい地位、そして新しい人生は、全て貴方様方が私を追い出してくださったおかげでございます。心より感謝を申し上げます」
ライラの言葉は「感謝」だったが、その声のトーンと笑顔は、「貴方方の悪意は、私にとって最高の栄養剤だった」という、最も痛烈な皮肉としてセシリアの胸に突き刺さった。
セシリアは、その非人間的な冷たさと圧倒的な高みに、もはや反論の言葉を見つけられなかった。彼女の善良な夫人という仮面は崩壊し、顔は悔しさと嫉妬で醜く歪んでいる。
彼女は、かろうじて「ご、ごきげんよう」と呟くのが精一杯で、逃げるようにその場から遠ざかった。
ルシアンは、セシリアの惨めな背中を一瞥し、満足そうに瞳を細めた。
「上出来だ、ライラ。君の最初の復讐は、完璧な美しさと残酷さをもって成功した。さあ、次は我々の時間だ」
ルシアンはライラの手を取り、会場の中心へと足を進めた。
楽団が、ファーストダンスの開始を告げる荘厳なメロディを奏で始める。この場に王族の姿はない。帝国で筆頭公爵の地位にあるルシアンと、彼のエスコートを受けるデビュタントであるライラが、この夜の主人公としてスポットライトを浴びることは、誰も異論を挟めない事実だった。
周囲の貴族たちは、嫉妬と好奇心がない交ぜになった視線で二人に釘付けになっている。
ルシアンは、ライラを抱擁し、支配的で完璧なリードでダンスを始めた。
昼間のレッスンが、今、この公的な舞台で再現される。ルシアンのリードは精密機械の如く、ライラの身体を迷いなく、優雅に、しかし逃れられない力で導く。ライラは、その力を受け入れ、感情を完全に排除した正確さで応じた。
二人のダンスは、愛を歌うワルツではなく、支配と服従、そして悪の共犯関係を誓う、冷たい儀式だった。
ルシアンのプラチナブロンドとライラの蜂蜜色の髪が、ワルツの動きに合わせて光に揺れる。ルシアンは、ライラの耳元にそっと唇を近づけ、周囲には歓喜の表情を見せながら、背徳の囁きを続けた。
「君の動きは、昼間よりもさらに洗練された。君は、私のリードを完全に理解している。いいね、ライラ。君の命運は、私の手の中にある」
ライラは無言で、その言葉を受け入れる。彼女のライラック色の瞳の奥には、ルシアンへの合理的で絶対的な信頼だけが宿っていた。
「セシリアは、君の圧倒的な地位に絶望し、舞踏会の途中で退散するだろう。そして、彼女の心はすでに崩壊を始めている。次は、経済と法律の論理で、彼女を社会の舞台から完全に消し去る段階だ」
ルシアンは、愛を囁くように、残酷な復讐の計画をライラに伝えた。
「第二の復讐は、来月の裁判所で。君の悪女の知性を、存分に発揮してもらうよ。ああ、楽しみだ」
ダンスが終わると、会場は割れるような拍手に包まれた。誰もが、ルシアン公爵と新しい婚約者ライラの圧倒的な美と権力に、ひれ伏していた。
二人の悪の共犯関係は、この舞踏会を舞台に、公的に、そして絶対的なものとして確立されたのだった。




