第八話:デビュタントの舞踏会
公爵邸の正面玄関。ルシアンとライラは、今夜開かれる王都最大のデビュタント舞踏会へ向かうため、馬車の横に立っていた。
ライラは、アルベールが「最高の鎖」と称した、ルシアンの衣装と対を成す白銀のドレスに身を包んでいる。その装いは、婚約指輪の青白いサファイアと呼応し、まるで夜の月に照らされた氷の彫刻のような、冷たい美しさを放っていた。
ルシアンは、ライラの蜂蜜色の髪を一房、指に絡め取りながら、恍惚とした眼差しを向けた。
「さあ、ライラ。貴女の復讐劇の幕開けの日だ。今日は存分に私を楽しませてもらうよ」
「はい。公爵様のご期待に添えるよう頑張りたいと思います」
ライラは、感情を伴わない、あくまで事務的な決意を口にした。彼女にとって、この舞踏会は**復讐のための情報収集と、地位を確固たるものにするための「仕事」**に過ぎない。
ルシアンの薄水色の瞳が、わずかに不満の色を宿す。彼の望む親密さは、ライラの徹底した合理性によって、常に壁に突き当たっていた。
「フフフ。緊張しているのかい? 『公爵様』なんて他人行儀なことを言わず、名前で呼んでいいんだよ、我が愛しき婚約者殿」
その言葉は、優しさの仮面を被った、支配的な催促だった。彼は、ライラが公的な場で、自分を最も親密な存在として呼ぶことを求めている。それは、「君は私のものだ」という、世界への高圧的な宣言だ。
ライラは、その要求を「合理的」に処理した。ルシアンを名前で呼ぶことは、彼の歓心を得て、復讐の協力を最大限に引き出すために、必要な行動であると判断した。
「……ルシアン」
ライラは、初めて彼の名を口にした。その声は小さく、さざ波のような微かな響きだったが、「感情」が一切乗せられていない分、かえって契約の冷たさを強調した。
ルシアンは、ライラのその声に、熱狂的な満足を得た。
「ああ、素晴らしい! ありがとう、ライラ。その名前は、私だけのものだ。」
ルシアンはライラの手を取り、彼女を馬車の中へと導いた。
「さあ、行こう。今夜、君の可憐な天使の仮面の下で、血に飢えた悪魔が踊り出すのを、楽しみにしているよ。」
馬車は王宮へ向かって静かに走り出す。デビュタントの舞台で、ライラの第一の復讐劇が、いよいよ始まろうとしていた。
綺羅びやかな舞踏会会場に到着する。
寸分の乱れもなくルシアンはデビュタントを迎える可憐な婚約者に手を差し伸べ、完璧なエスコートで会場に向かった。
「ルシアン・ヴァイス公爵、並びに、ライラ・クレール伯爵令嬢、ご入場!」
それまでざわめいていた会場がしんと静まり返る。これまでゴシップと無縁だった若き筆頭公爵家当主が「婚約した」という噂が、今の貴族サロンで一番話題になっていた。お相手は没落令嬢とも未成年の少女とも言われており、あの清廉潔白な氷の貴公子に何が起こったのか、今日の舞踏会の最大の関心事となっていた。
ライラとルシアンを迎えるのは楽団が奏でる軽快なメロディのみ。人々の注視の前に、美しい光の一対が姿を現した。
ほうっ――と誰かがため息を漏らす。
プラチナブロンドの髪が光り輝く完璧な美の化身である公爵と、白銀のドレスを纏った少女の完璧すぎる姿は、圧倒的な存在感を放っていた。蜂蜜色の艶やかな髪と淡いライラック色の大きな瞳を持った可憐な乙女は、揃いの衣装を纏い、優雅に登場し、その場を支配する。
ルシアンの支配的な光に包まれたライラは、氷の貴公子の隣にあるに相応しい高貴で冷たい美の頂点に立っていた。その左手の薬指には、ルシアンの瞳の色を映した青白いサファイアが、冷たく輝いている。
会場の隅で、勝利者として優雅に振る舞っていたセシリア・クレールは、その光景を直視し、思わず手に持っていたグラスを取り落としそうになった。
(ま、まさか……嘘でしょう? ライラ? あんな没落したはずの娘が……どうして?)
セシリアの善良な微笑みの仮面は、一瞬で驚愕と、底知れぬ嫉妬に満ちた醜い表情へと歪んだ。風の噂でヴァイス公爵の婚約者になったと聞いていたが、**「ありえない」**と一笑に付していた。没落令嬢に、あのルシアン公爵が興味を持つなど、彼女の常識ではあり得なかったからだ。
だが、今、目の前で繰り広げられているのは紛れもない現実だ。自分が奪い、追放したはずの娘が、自分が一生かかっても届かない帝国の頂点であるルシアンの腕に抱かれ、誰よりも華やかで、誰よりも美しく、女王のようにそこに立っている。
セシリアの心臓は、屈辱と恐慌で激しく脈打った。彼女は、ライラが自分に仕向けた最初の、そして最も残酷な復讐の刃を、視線で受けたのだった。
ライラは、ルシアンのエスコートのまま、会場の中心へと進んでいく。そのライラック色の瞳は、一瞬だけ、会場の隅のセシリアを冷静に、感情抜きで見下ろした。
それは、「復讐は始まった」という、無言の宣告だった。




