第十五話:貴公子様の愛の暴走
公爵邸の執務室。ルシアンは、完璧な執事であるガブリエルに、最も非合理な命令を下していた。
「ガブリエル。ライラの一日の動向を、全て報告せよ。ただし、その内容には主観的な評価や推測は一切不要だ。事実のみを、数字と論理で構成された報告書として提出せよ」
ガブリエルは、公爵の薄水色の瞳に宿る非合理な熱を理解しつつも、表情一つ変えなかった。
「畏まりました、公爵様。これは、オーギュスト侯爵戦における、『公爵夫人の行動パターン分析』という高度な戦略的情報収集と解釈してよろしいでしょうか?」
「フフッ。ああ、そうだ。その通りだ」ルシアンは愛の暴走を「戦略」という言葉で正当化されたことに満足し、口角を上げた。「ただし、彼女がエミールやミラベルと共有した時間は、秒単位で記録せよ。その会話内容の全てもだ」
ガブリエルは、「公爵様は、ライラ様の公務への集中力を、極めて緻密な手法で測定されているのだ」と、内心で無理やり合理化しながら、その奇妙な命令を承諾した。
翌日、ライラは護衛騎士団長エミールと共に、オーギュストの闇の貿易に使われたと推測される港湾の倉庫群を視察していた。ライラの指示は鋭く、正確だった。
その時、場違いなほど豪華な公爵家の馬車が、砂埃を上げて倉庫の前に停止した。馬車から降りてきたルシアンは、「たまたま*近くを通りかかったかのように、優雅な微笑みを浮かべた。
「ああ、ライラ! エミールも。こんな埃っぽい場所で会うとは奇遇だね!」
ルシアンは、エミールが持つ地図を無視し、ライラの腕を優しく取る。
「君の肉体的疲労は、公爵家にとって最大の損失だ。ましてや、エミールのような無骨な男と二人きりで、こんな不衛生な場所にいる必要はない。さあ、私の馬車で、私と二人きりで公爵邸に戻ろうじゃないか」
エミールは、「公爵様は、ライラ様の護衛を、自ら行うほど大切に思われているのだ」と、内心で理不尽な嫉妬を最高の配慮と解釈して感銘を受けていた。
しかしライラは、ルシアンの手を論理的に外し、手にしていた文書を指差した。
「ルシアン様。ここで中断すれば、最適な視察ルートが崩壊し、情報収集の効率が23%低下します。それは、貴方の目的達成を遅延させます」
ルシアンの顔が一瞬、憎々しげに歪んだが、すぐに完璧な笑顔に戻った。
「フフッ。分かったよ、ライラ。君の論理には敵わない。だが、休憩時間はきちんと取ることだ。さもないと、私が、君の非効率な行動に罰を与えることになる」
彼は支配的な脅しを残し、馬車に乗って立ち去った。エミールは、公爵様の愛の深さに、ただただ畏敬の念を抱くばかりだった。
ライラとミラベルが夜通し書斎でオーギュストの裏帳簿と格闘していると、ガブリエル執事が再び現れた。
「ライラ様。公爵様からの『緊急の贈り物』です」
運び込まれたのは、極上の羽毛を使った天蓋付きの豪華なベッドと、純白の絹の寝具一式、そして深紅の薔薇100本だった。
ライラは、書斎の限られた空間を寝具が占拠したことで、ミラベルとの作業スペースが半減した事実に、不快感を示した。
「ガブリエル。この私的な物品を、なぜ公的な任務の場に?」
ガブリエルは真顔で答えた。
「ライラ様。公爵様は、『最高の道具』であるライラ様の機能維持が、公爵家の最優先事項であると判断されました。この寝具は、『道具のメンテナンス』という最も合理的な目的のために送られたものです。そして、夜間の孤独な作業は、精神的な疲労を誘発します。公爵様は、「愛しい婚約者が安らげる空間」を創出することで、知性の効率を間接的に高めることを意図されています(と解釈しました)」
ライラは、ガブリエルの完璧な合理化に、一瞬納得しかけたが、それでも非効率であることに変わりはない。
(公爵様の『私的な感情』が、公務に支障をきたしている。これは修正すべき課題ね)
ライラは、薔薇を再利用し、寝具を来客用の部屋へ移すという、完璧な合理的処理をガブリエルに指示した。
その夜、自分の愛の贈り物が公爵邸の設備品へと変わった報告を受けたルシアンは、誰も見ていない執務室の片隅で、ハンカチーフを血が出るほど噛みしめ、愛の悲鳴をあげるのだった。
「ああ、ライラ! なぜだ! なぜ君は、私という最も非合理な存在に、合理性で応えるのだ!」
ライラは、ガブリエルに「最も効率的な活用」を指示した後、再びミラベルとの作業に戻り、薔薇の存在を完全に意識の外に追い出していた。
翌日の朝。書斎には、裏帳簿の分析を終え、疲れも見せずに優雅に紅茶を飲むライラと、疲労困憊ながらも達成感に満ちたミラベルの姿があった。
そこへ、夜通し公爵の愛の悲鳴を聞いていたガブリエル執事が、完璧なプロの顔で入室してきました。
「ライラ様。公爵様からの『愛の贈り物』、すべての処理が完了いたしましたので、ご報告させていただきます」
ライラは手を止め、冷静にガブリエルを見ました。
「結果を」
「はい。薔薇100本は、最高の威厳を示す玄関ホールの装飾として配置。純白の寝具は、急な来客に対応するための予備室へと移動させました。これにより、公爵邸の公的空間の価値を、一時的にではありますが、平均7%向上させることができました」
ガブリエルは、費用対効果まで含めた詳細な報告書をライラに手渡しました。
ライラは、報告書に一瞥をくれ、感情ゼロで結論を出します。
「効率的な対応でした。公爵様への感謝は、今後の任務の完璧な遂行をもって代えさせていただきます」
その直後、ルシアンの執務室。
ルシアンは、「愛しいライラ自身からの、私的な感謝の言葉」を期待していた。しかし、執務室に入ってきたのは、達成感に満ちたミラベルだった。
「公爵様! ライラ様のご指示により、昨夜の贈り物の『資産転換処理』が完了いたしましたので、『費用対効果と実態報告書』を提出いたします!」
ミラベルは、ルシアンの前に、数値とグラフが並んだ書類を誇らしげに差し出した。
(なぜ……なぜミラベルなのだ! ライラはどこだ!? そして、これは「愛の報告」ではなく、「経費精算書」ではないか!)
ルシアンは、書類に目を通す。そこには、彼の非合理な愛の行動が、いかにライラの合理的処理によって公爵家の公共財へと変貌したかが、冷徹な数字で示されていた。
「……ミラベル」ルシアンは、完璧な微笑みを崩さずに、冷たい声で問うた。「ライラは、この『公的な資産転換』に対し、個人的な感想はなかったのか?」
ミラベルは、公爵の「複雑な配慮」を理解しようと、真剣な顔で考え込む。
「ああ、はい! ライラ様は、『公爵様の配慮は、公爵家の威厳向上に有効な手段であった』と、非常に高く評価されておりました!」
ルシアンの口元が、ピクリと引きつるす。
(『有効な手段』!? 私の、血を吐くような愛の叫びが、君の頭の中では『有効な手段』だと!? しかも、それをミラベルという第三者を通して、事務的な報告として受け取らねばならないとは!)
ルシアンは、完璧な美貌の下で、歯ぎしりを堪えた。
「……そうか。分かった。ミラベル。君は非常に優秀だ。ライラの優秀さを、完璧に補佐している」
ミラベルは「ありがとうございます!」と、最高の忠誠をルシアンに示した。
しかし、ルシアンの心の中は、「誰にも理解されない愛の飢餓」によって、完全な敗北の悲哀に満たされていた。
「愛」を贈ったのに、「公爵邸の設備品」に変換され、「最高の道具」であるはずのライラからは何の反応もない。そして、部下には「最高の公爵様」だと誤解される。
貴公子様の愛の暴走は、ライラの合理性と周囲の忠誠心によって、滑稽なほどに完璧に迎撃されたのだった。
ルシアンは、薔薇の件でミラベルに敗北した後、ついにライラを直接詰問う。
「ライラ。君はなぜ、私を『最高の道具』として利用するために、エミールやミラベルといった他の道具を私よりも優先する?」
ライラは当然、論理的に答える。
「ルシアン様。任務の最適な配分は、効率の最大化を図るものです。ミラベルは情報分析の専門家、エミールは護衛と物理的な視察の専門家。貴方を煩わせることは、貴方の時間という最も貴重な資産を非効率に浪費することになります」
ルシアンの表情が、絶望的な愛の飢餓で歪んだ。
「効率、効率、効率! 私は、君の感情について聞いているのだ! 君の感情は、私を最優先しないのか!?」
ライラは、ルシアンの「非合理的な要求」を、最後まで冷静に理解できなかった。
「ルシアン様。感情は、思考のノイズです。貴方の目的達成と、公爵家の利益、そして私の恩義の返済という最大目的に対し、『貴方を最優先しない』という事実は、合理的です」
ルシアンは、愛を論理で完全に否定されたことで、最後の理性が崩壊しそうになるのだった。




