89: 宿屋
食堂を出たグラストスとオーベールは、村を散策していた。
が、どこへ行くにもどこからか視線を感じ、居心地は良いとは言えなかった。
視線を集めていたのは、グラストスである。
通りすがりの人間全員ではないものの、通りを歩くグラストスの顔を見るなり、ササッと道をあける。
そんな反応をみせる村人が少なくなかった。
食堂の三人と同じ、一挙一動を見逃さないというようにどこか怯えた目でグラストスを凝視し、グラストスがそちらを見ると逃げるように去っていった。
グラストスは気分が悪いというのを通り越し、逆に不安にさせられた。
理由も分からず一方的に怯えられるというのは、正直気味が悪い。
恐怖に駆られた村人から突然襲われるのではないか、そんな想像が消せなかった。
ともかくこれ以上動き回るのも良くないと考え、まだ外は明るいが二人は宿屋に戻る事にした。
その道中、オーベールが何かを思い出したように声を上げた。
「あっ、そう言えば」
「ん?」
オーベールは隣を歩くグラストスを、温和な顔で見つめる。
「グラストスさん、一つ質問しても宜しいですか?」
「ん? 何だ?」
「フォレスタの平民区にある小さな教会について……ご存知ありませんか?」
グラストスはチラリと視線だけをオーベールに向ける。
少し調子の下がった声で尋ね返した。
「……その教会がどうかしたのか?」
「ええ……」
オーベールは逡巡しているように目を伏せると、静かに話し始めた。
「実はフォレスタでは、領内外問わず両親を亡くして身寄りの無くなった子供達を引き受けてまして……」
フォレスタが周辺の領地よりも豊かな事は、周知の事実である。
金が有り余っているという訳ではないが、社会に貢献する余裕は十分にあった。
元々オーベールの家系は、身寄りを亡くした子供達への援助に力を入れていた。
自領地だけでなく、領外の労働力にならない子供でも積極的に引き取っていたのである。
ただそれは、どちらかと言うと世間体を考えた政治で、地方の領地の中で突出して裕福なフォレスタへの不満を少しでも躱す事が目的だった。
また民への領主への信奉度も増し、成長した子供達はフォレスタの民として、自領地の発展に尽くしてくれる。
金銭的な点以外の悪い面は、大凡考えられなかった。
だが、始めこそ利益の為だったその取り組みも、徐々に様変わりしていく。
特に今の当主になって、その事業への支援が更に強まった。
正確にはバレーヌ侯爵というより、その夫人が推進者である。
少しでも多くの子供の悲しみを減らすように、という夫人の想いだった。
バレーヌ侯爵やオーベールもその想いを共有し、積極的に力を貸していたのだが――――
昨年『安死病』が猛威を振るった。
それにより、各地で大勢の人が亡くなった。
年端もいかない子供や、年老いた老人がその半数以上を占めていたが、それ以外の年齢層でも発症者は存在した。
親を亡くした子供も決して少なくない。
加えて、領内における『安死病』患者への薬の配布などもあり、裕福なフォレスタをもってして年収益の大幅赤字の事態だった。
しかし、そんな国を傾けかねない事態にあっても、バレーヌ侯爵家は不幸な子供達への援助の手を止めようとはしなかった。
私財を投資するなど、正に身を削って費用を捻出したのである。
表立って批判をする者はいないが、影では『偽善者』と罵っている貴族が決して少なくない事を、侯爵達は知っていた。
だが、決して自分達の行いは間違っていない。
その信念のもと、例え周囲にどう思われようとも貫き通した。
1年経過し、ようやく『安死病』の被害が落ち着いてきて、徐々に経済状況も立て直りつつあった。
とはいえ、まだ傷跡は深く残っている。
身寄りのない子供達の養育費は賄えるとしても、親を亡くした子供達の心の救いにはならない。
少しでも何かの支えになれればと、侯爵夫人やオーベールは積極的に子供達との交流を図っていた。
フォレスタの小さな教会の子供達とオーベールが親しくなったのは、そんな真摯な行動の結果だった。
その過程でそこの子供達が魔物の子供を拾い、隠れて育てていることをオーベールは知る。
本来ならば子供達から引き離すべきだったろうが、オーベールはそうはしなかった。
魔物が子供だったという事もあるし、神父と同じように子供達の心の糧となればいいと考えていた。
なので自分は金銭的な面で、子供達の支えになる事に決めたのだった。
「神父様からお聞きしました」
オーベールは、悄然としたグラストスを悲しげな目で見つめる。
「通りすがりの若い自由騎士殿に、子供達を救ってもらったことを」
「その自由騎士殿には、もう一人仲間の方が居たそうです。その仲間の方は蒸栗色の髪をした、自由騎士殿よりも更に若い少年だったとか」
「…………」
「僕はそれを聞いて、二人の姿が思い浮かびました」
オーベールは、グラストスへの視線を強めた。
「その二人は、グラストスさんとリシャール君……で、間違いないですよね?」
そこまでを聞いて、グラストスは何とも言えない顔で俯いた。
「そうか」
苦々しい表情を貼り付けたまま、オーベールに笑いかける。
「あの子達の支えになっていた街の有力者っていうのは、お前の事だったのか」
「やはり……そうでしたか……」
「会いに行ったのか?」
「ええ。モンスールから戻った後直ぐに。暫く顔を見せていませんでしたので。ですが、まさかあのような事態になっていたとは思いもよりませんでした」
オーベールは再び強い視線をグラストスに向ける。
「本当に、有難うございました」
「俺は何もしていない」
グラストスは悔恨の表情をのぞかせながら答えた。
「そんな事!?」
「いや、何も出来なかったんだ。結局あの魔物を救う事は出来なかった」
「それは……」
オーベールは首を小さく振りながら下唇を咬む。
「いえ。本当に何の役にも立たなかったのは、僕の方です」
肝心な時に傍にいてやれなかった、とオーベールは悲しげに語る。
「……ただ、子供達は流石に沈んでいましたが……気丈に頑張っていました。子供達なりにきちんと現実を受け止めているようでした」
「そうか。それは、良かった」
グラストスは僅かに表情を緩ませた。
「だから、本当に有難うございました」
「いや、礼を言われるのは俺じゃない。それはドレイクに言ってあげてくれ」
ドレイクも関係したことは把握してなかったのか、オーベールは少し意外そうにする。
そんなオーベールに、グラストスは簡単にあの日の出来事を順に説明することした。
あくまで自分の目で見た範囲での話だが、と前うってから、グラストスは話し始めた。
宿屋までの道中、グラストスの話は続き、オーベールはジッと耳を傾けていた。
そして、丁度宿の前に辿り着いた時、一通りの話が終わった。
「……そうでしたか」
オーベールは神父から話を聞いたが、その神父はグラストスから話を伝えられていた。
なのでオーベールが知りえた情報の源はグラストスになる。
とはいえ、グラストスは神父を気遣って、全てを伝えたわけではなかった。
しかし、オーベールには全てを伝えた。
オーベールがそれを欲したからである。
グラストスが知りうる限りの話を聞いたオーベールは、一度深く息を吐いた。
まるで、自分に中に溜まった後悔の念を吐き出すように。
「子供達が僅かにでも現実に耐えられるのは、ドレイクのお陰だろう」
ドレイクが子供達をきちんと現実と向き合わせたからだと、グラストスは思っていた。
「はい。きっとそうですね……」
オーベールは薄汚れた宿屋の外観を見ながら、小さく頷いた。
「……戻ったら、御礼を言わないと」
顔は建物を向いているが、視線はどこかずっと先を見据えているようだった。
***
ガヤガヤと部屋の外が騒がしい。
宿屋に借りた部屋で休んでいたグラストスとオーベールは、何事かと扉を見つめた。
直後、勢い良く扉が開け放たれたかと思うと、金髪の少女がなだれ込んできた。
「今戻ったぞ」
「おかえりなさい。済みません。もう少ししたら迎えに行こうとと思っていたのですが……。よくここが分かりましたね」
「ああ、マリッタがここだろうとな。部屋は宿の者に聞いた……」
どこか憔悴しているアーラの背後から、マリッタが静かに部屋の中に入ってくる。
更に一呼吸置いて、リシャールがその後に続いて現れた。
だが、リシャールは何故か満身創痍の様子で、顔や腕など剥き出しの肌の至るところに青痣がある。
少年の変わり果てた姿に、グラストスとオーベールは驚く。
オーベールは慌ててリシャールに駆け寄り仔細を尋ねたが、少年はただ涙ぐむだけで何も話そうとはしなかった。
ただ、リシャールがそんな状態であるのにもかかわらず、アーラとマリッタは何ら気にかけている様子はない。
心配そうにリシャールに声を掛け続けるオーベールに対して、グラストスはアーラ達の様子から何となく事情を把握した。
どうせマリッタあたりを怒らせて、折檻を喰らったのだろうと。
「流石に疲れた。それで、私達の部屋は?」
確保していてくれているのか、とアーラはオーベールに向かって気だるげに尋ねる。
「え、ええ。隣の部屋がお二人の部屋になりますが……」
今いる部屋は三人部屋で、隣は二人部屋である。
人数比からすると、女性陣の部屋は隣になる。
「そうか。分かった」
返答を受けて、アーラはそのまま部屋を出て行こうとした。
その背中から疲れているというのがありありと伝わってきたが、状況も確認しておきたいオーベールは、少し申し訳無さそうに問いかけた。
「あの、すみませんアーラさん」
アーラはゆっくりと振り返り、胡乱気な目でオーベールを見る。
その目は休ませてくれ、という想いで溢れていたが、オーベールは挫けず今日の収穫を尋ねた。
アーラは面倒そうではあったものの、確かに状況を伝える必要があるとは思ったのだろう。
重い口を無理やり開くようにして、今日の成果を説明した。
とは言っても、どんなに修飾しようとも結論は決まっている。
『収穫なし』
今日一日では、医師の娘に関しての何の情報も得られなかったのだった。
アーラ達は中庭で休んだ後、残りの教室を廻った。
貴族で医者に就く者は少ないが、皆無という訳でもない。であるならば、可能性が低くとも尋ねる必要がある。見落としがあるかもしれない、とアーラが考えたからだ。
だが、そこらでは回答を得る事すら叶わなかった。
廊下で出会った貴族の生徒達の対応と殆ど同じで、質問もろくに出来ずに険もほろろに追い返されたのである。
アーラは憤ったが、ここで暴れるとオレリア達に迷惑が掛かるというマリッタの助言があり、渋々引き下がった。
そして、そうこうしている内にコニーが現れ、また後日出直して欲しい、ということを告げられた。
学校の授業が終わり、閉校の時間であったからだ。
関係者以外は、学校の敷地内から出るのが規則なのだという。
仕方なくアーラは、決まりに従い出直すことにした。
「もし明日も来るのだったら、校門の門衛さんに伝言して頂戴? 話は通しておくから」
というコニーの提言に礼を言うと、アーラ達はオレリア達とコニーに見送られながら、学校を後にしたのだった。
なお、オレリア達は去り往くマリッタを捕まえ、何かを熱心に話しかけていた。
マリッタは邪険にはしないものの、彼女達の訴えを聞き入れているようには見えなかった。
去り際、
「絶対明日も来て下さい」
日頃は大人しいカリーヌが、泣きそうな顔で叫んでいた。
マリッタは振り返ることなく歩き続けた。
何気なくアーラはマリッタの横顔を盗み見たが、そこには何の感情も見出せなかった。
そのことが逆にアーラの印象に残ったのだった。
「では、どうしましょう?」
今日一日校内を巡って情報が得られなかったとすると、明日学校に行ったとしても何の情報も得られない可能性のほうが高い。
オーベールはそれを心配していた。
「……明日、もう一度行ってみる。まだ話を聞いていない人間もいる」
アーラは渋い顔でそう告げる。
だが、オレリアの協力もあって、平民の生徒には一通り話を聞けていた。
なので残っているのは、一部の貴族の生徒だけである。
ただ明日出直しても、今日の二の舞になるだろうということは目に見えている。
しかも、オレリアも言っていたように、貴族の人間が『医師』という職に就いている事は大凡考えられない。
学校の生徒の中に医師の娘がいるというのは、アーラの希望的観測といえた。
ただ学校に行っていないグラストス達には、そんな裏事情は分からない。
アーラは詳細な説明は省いたからだ。
だから二人は、寧ろ明日も苦労をかける事に関して、申し訳ない気持ちで一杯だった。
労おうとオーベールが口を開こうとした時、部屋の隅でボソリと声が上がった。
「……お嬢さん。明日行っても、何か収穫があるとは思えませんよ」
マリッタは苦々しい表情で、アーラに諫言する。
「それは分からぬではないか」
アーラは反論するが、力はない。
そんなアーラに対して、マリッタは直ぐに再考を促す。
「いえ、お嬢さんも分かってるでしょう?」
そして、マリッタは更に付け加えた。
「それに……仮に子供がいたとしても、何か知ってるとは思えません」
それはマリッタがずっと思っていたことだった。
娘がいたとして、果たして『安死病』の治療法を伝え聞いているだろうか。
『安死病』は流行から一年経過した今でも、治療法は確立されていない。
王都の優秀な研究者達ですら発見できていないのである。
当然、そんな病に対しての治療法を知っており、公表したとすれば国から莫大な報酬が得られるのは間違いない。
歴史に名を刻む事になる可能性だって零ではない。
そして、そんな事はパウルースで暮らす人間であれば、誰もが分かっている。
だが未だに治療法が発見された、という話は聞かない。
マリッタが知らないだけ、という事はあるかもしれないが、オーベールやバレーヌ侯爵が把握していないという事は考えられない。
つまり、まだ治療法の発見の報告はされていない。
医師の娘が治療法を知っているのであれば、それはとっくに為されているだろう。
未だされていないということは、娘も何も知らないという事に違いない。
マリッタはそんな話をアーラに訊かせた。
本心では面倒極まりないと思っていたが、二人の気が済むのならと従っていた。
アーラに対して甘い、ということもそれに一役買っていたのだろう。
だが、今日一日古巣を廻り、過去の様々な出来事が胸の内に鮮明に蘇り――――
マリッタの我慢は限界に達していたのだった。
「だ、だがしかし、治療法をすべて知らずとも、何か手がかりになるようなことを知っているやもしれん――」
「それに意味がありますか?」
手がかりから実際に治療法を確立するまでには、少なくない時間が必要である事が推察される。それでは一行の望みは満たされない。
「うぐっ、何か理由があって、報告していないのかもしれない」
アーラは自分でも思っていないような事を口に出す。
直ぐにマリッタは否定する。
「だとしたら、仮に学生の中に娘が居たとしても、自分達には何も教えてくれないでしょう」
「何故だ?」
「考えてもみて下さい。『安死病』の治療法なんてこの国中の人間が知りがっている情報です。皆が必要として期待しているのにそれを公表しないなんて、善意のある人間なら考えられません。公表しない人間が居たとしたら、それは何か善良とは程遠い思惑のある人間で、そんな人間がぽっと出の自分達に、情報を教えてくれる筈がないですよ」
マリッタの話は確かに頷けるものだった。
アーラとオーベールは表情を暗くする。
「……ぼ、僕もマリッタさんの言う通りだと思います」
恐る恐るリシャールがマリッタに追従した。
アーラやオーベールに対して申し訳ない気持ちはあったが、可能性は低いにもかかわらず、明日もあの学校に行くのは精神的に辛かったのである。
そして、内心マリッタと同じことを考えていたグラストスは、静かにアーラやオーベールの反応を待った。
やがて、
「それは――――正直、僕も考えなかった訳ではありません」
オーベールが苦しげに、マリッタの話を認めた。
アーラが戸惑ったように口を開こうとするが、オーベールはそれを手で制す。
「ですが、こうとも考えられませんか?」
と、口を噤んだアーラに弱々しく微笑みかけながら、丁寧に言葉を紡ぐ。
それは――――
モンスールに居た医師は『安死病』について、他の人よりも深く把握していた筈だということ。
ただ『安死病』は王都の研究者達が一年費やしても、確実な治療法を見つけられない程難しい病であること。
そんな病を深く知る為には研究が必須であり、病を研究できるような施設は、恐らく設備が整っている所でない限り無理だということ。
そして、その医師は王都の研究所の人間ではなかった。
王都の研究所を除くとすると、そんな場所はパウルースには恐らく一ヶ所しか存在しない。
「なるほど。つまり、医師は『学校』で研究したのではないか、と言いたいのだな?」
オーベールの話が終わり、アーラが後を引き継ぐ。
「確かに逆説的に考えると、そう考えられぬな」
アーラは何度も頷き、オーベールの説へ理解を示していた。
若干落ち着いた様子からは、学校への捜査が無駄では無さそうであることが分かり、安心している様子が伺える。
「…………」
確かにマリッタが知りうる限り、他に研究施設は存在しなかった。
オーベールの考えも的外れという訳ではない。
マリッタは何とも言えない顔で押し黙る。
ただ、オーベールの話は理解したが、納得はしかねた。
グラストスもマリッタと思いを同じくしていた。
釈然としないものは胸に残っていた。
とはいえ、グラストスは学校には入れない。
実際に探す側ではないのに、あえて否を告げるつもりもなかった。
アーラは腕を組みをして、オーベールに視線をやる。
「そうだな。明日はそういった方面からも攻めてみるとしようか」
「すみません。僕が中に入れれば良かったのですが……」
「気にせずとも良い。私が好きでしている事だ」
「……有難うございます」
オーベールは深く目を瞑り、感謝を示す。
そんなオーベールを見ながら、アーラはマリッタに顔を向けた。
「マリッタ。という事だが良いか?」
問いかけられたマリッタは、苦々しい顔で答える。
「良くはありませんけど……はぁ。分かりましたよ」
「申し訳ありません。マリッタさんにもご苦労をお掛けします。このお礼はいつか必ず……」
オーベールが深々と頭を下げる。
そんなオーベールに多少驚きながら、マリッタは慌てて手を左右に振る。
「あっと、別に気にしないで下さい。アタシはお嬢さんの付き添いに過ぎないんで」
「そんな事はありません。そもそも学校にこんなにも容易く入れたのは、マリッタさんのお陰です」
あくまで持ち上げてくるオーベールに困惑したマリッタは、落ち着かない様子で周囲に視線を散らした。
そして、その光景を目に映す。
マリッタは無言でドカドカと端の寝台に近づいていくと、
「なんで先に寝てるんだ?」
我関せずと、いつの間にかでスヤスヤと寝息を上げていたリシャールの掛け布を剥ぎ取った。
続けて、リシャールのこめかみを掴むようにして持ち上げる。
強引に夢の淵から叩き起こされたリシャールは、目を瞬かせながら自分を掴み挙げている相手を見上げた。
ようやく焦点があったのか、マリッタの顔を凝視して一気に顔を青ざめる。
リシャールは無表情で自分を見つめるマリッタに恐怖を覚えたのか、唾を飛ばしながら一心不乱に説得を始める。
「い、いや、ぼ、僕は今回殆ど役に立たなかったから、明日はお二人にお願いしようと……」
「…………」
「ほっほら! そうすれば綺麗に女性組と男性組で分かれますし……」
「それに何の意味がある」
「え、ええっとぉ…………さ、さぁ?」
リシャールは力なく微笑んで、頬を掻く。
その笑みは見る者を蕩けさせる程愛らしいものだが、この場合何の意味もなかった。
ゆっくりとマリッタの体が緑色で覆われていく。
「ま、ま、待ってください! 許してぇ!!」
少年は嫌々と首を左右に振りながら、泣き叫ぶ。
助けを求めようと周囲を見回すと、意外なところから制止の声が上がった。
「そうだぞ。マリッタ止めるが良い」
「ア、アーラ様!!」
リシャールは期待に目を輝かせる。
「こんな所で魔法を使ったら、部屋が壊れてしまうではないか。やりたくば外でやれ」
「そ、そんな事だろうとは思ったけどねっ!」
叫び声に悲痛な色が混じり込む。
アーラの了承を受けて、マリッタの体を包み込む光は一層力を増した。
リシャールを掴んだまま、マリッタは部屋の外に出ようとする。
「グラストスさん!」
為すすべなく引っ張られながら、リシャールは屈んだ体勢で助けを求める。
グラストスは一度ちらりとリシャールを一瞥した後、マリッタに視線を移した。
マリッタの苛立った顔を見て、何かを納得したように小さく頷く。
「明日はどうしようか? 一日部屋に閉じこもっておくのも……」
「え? あ、そ、そうですねぇ……何か僕達で出来ることはないでしょうか?」
グラストスはリシャールを視界に入れないように背を向けると、オーベールに話しかけた。
オーベールは心配そうにリシャールとグラストスを見比べていたが、話の方が重要だと考えたのだろう。真剣な表情で打ち合わせ始めた。
そこにアーラも参加し、リシャールの救いの手は完全に無くなった。
「ううぅぅぅぅ」
「ちっ、きりきり歩きな」
体重を後ろに掛けて、必死に抵抗を続けるリシャールに、マリッタが腹立たしそうに舌打ちする。
こめかみを掴む手に、一層の力が込められた。
「あぎゃあああああああ。い、いや、いやだああああああああ」
遂に恐怖で我を忘れたリシャールは、マリッタの手を強引に振り解こうと暴れ始めた。
引っ張っても外れなかったので、数度マリッタの手首に手刀を打ちつける。
「つっ! このっ餓鬼!」
痛みで一瞬マリッタの力が緩んだ隙に、リシャールは逃亡した。
そんなことをすれば更に罰が酷くなる事は分かっていたに違いないが、他にどうしようもなかったのだろう。
「待てっ!」
マリッタの体が更に強く発光する。
「いやだああああああああああ」
部屋の中での折檻を咎められたとはいえ、怒りに狂ったマリッタならば、関係なく魔法を使う。
なので、部屋の中に逃げ場はない。
どの道外に活路を求める以外、リシャールに助かる道は存在しなかった。
脱兎の如く、部屋の扉に近づいて取っ手に手を掛ける。
焦りからガチャガチャと数度取っ手を捻り、ようやく開ける事に成功し――――
それと、部屋の外から内に向けて扉が開けられたのは全く同時だった。
なのでリシャールの想像以上に扉は勢いよく開き、加えて外からの力は異常なほど強かった為、リシャールは扉と壁に気持ちよく挟まれてしまった。
「ぎ、がっ」
扉に顔面を強かに殴打され、リシャールは挟まれたまま直立で気絶した。
「ん? 何か挟んだかぁ?」
外から扉を開けた人物は、惚けた声でのっそりと呟く。
ただ体が非常に大きく、部屋の中からは顔が扉の上の壁に隠れている為顔は見えない。
「よいしょっど」
その人物は、屈む様にして部屋の中に入ってきた。
部屋の中で唖然としていた面々は、呆然と侵入者を見つめ――――
ようやく顔を認識すると、アーラが目を丸くして叫んだ。
「な、サルバではないか!?」
「おおおおお! やっど会えました。お姫様ああああぁぁぁ!」
サルバも喜色を浮かべ、ドタドタと建物を揺らしながらアーラの元に駆け寄っていく。
アーラに会えた嬉しさからか、サルバの声はいつも以上に大きい。
突然のことだった為、対応が遅れたアーラ以外の面々は、頭をふらつかせていた。
特にサルバとは初対面であるオーベールなどは、直撃を受けて目を廻していた。
「くっ、何でアンタが一人でここに……」
憎々しげにサルバを睨むマリッタに、
「……いえ。私も参りました」
と、否を告げながら、続いて部屋の外から現れたのは、アーラの小間使い兼教育係である寡黙な女性であった。
「ヴェ、ヴェラ!?」
再びアーラが声を上げる。
部屋の中にアーラを見つけ、小さく目礼してくるヴェラ。
アーラは未だ驚きが消えないのか、声も発せずに戸口に立つヴェラを見つめ返す。
サルバの時とは異なり、悪戯を見つかった子供のような、そんな顔で。