78: 一本道
2014/8/20: 安死病の期間 30⇒90 に修正
スゥスゥと、安らかな表情で眠るアーロを、二人は幸せそうに眺めていた。
かなりの長い時間、二人の間に会話はなかったが、それでも二人の居心地は決して悪かった訳ではなく、寧ろ心穏やかでさえあった。
「本当に、本当に有難うございます。奥様……」
息子が健やかであることに、うっすらと涙さえ浮かべながら、ヘイディが深々と頭を下げて言った。
ヘイディの綺麗な黒髪がサラサラと零れ落ちる。
礼を言われた夫人は、薄く微笑むと、優しくヘイディの肩に手を置いた。
「良いのよ。きっとこれは、運命を司る神のお導きがあったから。だから、貴女が申し訳なく思う必要は無いわ」
「奥、様…………」
ヘイディは夫人の言葉に、声を詰まらせる。
オーベール達がヘイディとアーロを連れてフォレスタの館に戻ってきてから、既に数日が経過していた。
男四人の旅だったにも拘らず、戻ってきたら妙齢の婦人と赤子を伴っていたのだ。館の人間は皆驚いた。
加えて、オーベールはヘイディの事を尋ねられるなり、彼女を夫人のお傍付きにすると宣言したのである。
それを聞いて、館の人間。執事を始めとする、特に侯爵家に深く関わりのある使用人達は皆動揺を抑えられなかった。
ヘイディは子持ちとは言え、今は未亡人で、若く、そして、とても美しい。
そんな女性に、病の床についている夫人の世話をさせるというのである。
確かに安死病の患者を診ていた経験というのはとても頼りになる。
ただどうにも、オーベールはヘイディを自分の妻にと考えているのではないか、と邪推してしまい、皆は気になって仕方がなかった。
そして、更に微妙な事に、今この館にはオーベールの婚約者でもある、ビリザド侯爵家令嬢のアーラが滞在している。
何か拙い事にならないだろうか、と誰もが心配していた。その筆頭であった執事から、アーラとヘイディをなるべく会わせないように、という通達すら内密に出されていた。
が、周囲のそんな心配を他所に、アーラはヘイディと直ぐに接触を持ってしまった。
アーラとしては、安死病患者の世話の経験があるという一点が重要だったのだ。
話をしていく内にヘイディの人柄の良さも分かり、しまいには、ヘイディなら夫人を任せられると太鼓判を押す始末だった。
またヘイディが病気の幼子を連れていることを知り、そんな二人をこの館に連れてきたことに関して、アーラはオーベールを高く褒め称えていた。
そんなアーラとの関係もあって、館の人間達はどこの人間とも知れぬヘイディを最初は不安に思っていたが、その心根の温かさと、何より夫人本人が心を許した様子を見て、徐々に打ち解けてきていた。
そして、連れ子のアーロのこともある。
まだ若い未亡人が夫から唯一残された大事な一子が、死病に侵されているというのである。皆は彼女達が不憫に思えて仕方がなかった。
ただ、不幸一色であった彼女も、運命が好転している兆しが見えてきていた。
最愛の息子、アーロの病が治癒できる見通しがたったのである。
夫人の為に、バレーヌ侯爵が方々から取り寄せていた薬の中に、アーロの病に効くとされる薬が存在したのだ。
生憎、その薬は安死病には効果がなかった為、夫人には無用のものだったのだが、不要と見なされていた薬が、幼子の命を救えるかもしれないというのである。夫人は快く、その薬をアーロに譲った。
その薬は、ヘイディが自らを賭け事の形にしてしまうほど欲していた薬だったが、何分高価なもので、平民にはとても手が出せるものではなかった。
その為、薬を譲られようとした際に、恐縮して断わろうとしていたヘイディを、
「貴女の謙虚な心はとても好ましいものだけれど、時と場合があります。今はもっと、子供の為に浅ましくおなりなさい」
と、夫人が諌めた。
滅多に見せない夫人にしては厳しい口調に、周囲の人間は思わず固まってしまったが、ヘイディは言葉の裏に秘められた夫人の溢れんばかりの思い遣りを受け止め、アーロの為に薬を頂くことに決めた。
ただ、その薬は飲んで直ぐに治癒されるというものではなく、六十日間は間を空けながら投与を続ける必要がある。
しかし、まだ投与を始めて一、二日しか経過していないものの、医師の診断によると、既に薬が効き始めている兆候がみられるとの事であった。
その診断を聞いて、ヘイディは涙ながらに、夫人や、オーベール達を含む館の人間、そして生と死を司る神に、感謝したのだった。
そうして、本日もその薬の投与が終わり、眠りについたアーロの姿を、母親であるヘイディと、今日は体調が良かったので寝台から抜け出していた夫人が、慈しむように眺めていたのである。
「大丈夫。この子はきっと大丈夫よ。でなければ、貴女達の出会いは説明がつかないわ」
夫人はヘイディから聞いた、ヘイディとオーベール達が、出会うことになった切欠の話を思い出して、ニコリと笑った。
ヘイディは恥ずかしそうに微笑むと、はい、と頷く。
再び穏やかな顔で、眠る我が子を眺めていた夫人を、ヘイディはそっと見つめた。
大部分が感謝で覆われており、ただどこか申し訳無さそうな、そんな感情が込められた目で。
やがて、ヘイディは何かを決断したように唇を震わせ、口を開こうとする。
だが、その直前に、夫人はヘイディを振り返って言った。
「本当に可愛いわねぇ。このままずっと見て居たいけれど、少し疲れてしまったみたい。残念ですけれど、私は寝室に戻るわ」
「は、はい。では、お連れ致します」
「あ、いいのよ。私は大丈夫だから。貴女はここに、アーロの傍に居て差し上げて?」
「そういう訳には参りません。この子の事なら、大丈夫でございます。奥様のお陰でこれからはずっと傍にいられますし、それに…………この子は必ず治るのでございましょう?」
温かく微笑むヘイディに、夫人は小さく目を綻ばせる。
「そうでしたね。では、ごめんなさい。お願いしますね」
「はい、ではお手を……」
夫人は申し訳なさそうに、ヘイディにその身を預けながらアーロの眠る寝室を出ると、ふと思い出したように呟いた。
「そういえば、あの子達はそろそろ『ヴェネフィム』に入った頃かしら?」
夫人は廊下の窓から覗く青色の空をぼんやりと眺めながら、再びこの地を離れた息子達のことを思うのだった。
***
「お疲れでしょう。僕が代わりますから、グラストスさんは休んで下さい」
馬車内から御者台に顔を出し声を掛けたのは、馬車にいる面々の中でただ一人、ずっと起き続けていたオーベールである。
他の面々と言えば、今朝は早かった為か、皆馬車内に思い思いに寝っころがり、安らかな寝息を立てていた。
御者をしているグラストスがちらりと中を振り返ると、そこには穏やかな表情で爆睡している仲間達の姿を見ることが出来た。それらを見て、グラストスはふぅ、と小さく溜息を吐く。
「いや、気にしないでいい。丁度眠気も通り過ぎた所だし、俺はまだ大丈夫だ。オーベールも寝てていいぞ」
「そうですか……では僕も起きていますよ。今寝ると、逆に夜眠れなくなりそうですしね」
「ああ……そうかもな」
眠気は過ぎたと言っても、元気溌剌、という訳にはいかないようだ。グラストスの声は、どこか気だるい響きを持っていた。
「はい……」
対するオーベールも、いつもの穏やかな笑みこそ絶えてはいないが、優しげな瞳の端には疲れが見える。綺麗な銀髪もどこか萎びている。
グラストスの勧めに、疲れていない、と返答しなかったと言う事は、オーベールも自分の疲れは自覚しているのだろう。
それでも起き続けているのは、御者をしているグラストスのことを気遣っているからに違いない。
グラストスもそれは分かっていたが、オーベールとて子供ではない。本当に限界近くなった時は、自分で休むだろうと思い、今は何も言わず前に向き直った。
一刻ほど前から、ずっと同じ景色が続いている。
景色が違うからといって、御者の作業に何か変化が有るわけでないが、気分の問題である。
流石に腰丈の草が茂った草原の中を、ただひたすらに真っ直ぐ馬車を進めるのは、退屈以外の何者でもなかった。
だが、だからといって、進路を変えるわけにもいかない。一行はこの退屈な道のりの先にある場所に向かっているのである。
――――『魔法学校』という目的地へ。
+++
一行がフォレスタを出発したのは、今朝の事だった。
グラストス達が旅から戻ってきた、二日後と言い換えることも出来る。
濃い旅だった割に、休息期間が短いのには理由は二つあった。
まず一つは、夫人の病のこと。
旅から戻り、安死病患者を診続けてきたヘイディに様子を見て貰った所、夫人の容態はまだ安定期にある人の症状のようだと彼女は告げた。
安死病を患った多くの人は、何も処置をしなければ、大凡九十日程で亡くなると言われている。
病の特性ゆえに正確な日数は不明であるが、夫人が発症してからの日数は三十を数えていると思われていた。
通常、安死病を発症して三十日を超える頃になると、本人は元気なつもりでも歩く力などが失われ、寝たきりになる者も少なくなかった。
だが夫人は未だ気分の良い時は、館の中を出歩ける程の調子の良い様子を見せていた。
これはまだ病が進行していないとみる事が出来る。
もしかしたらバレーヌ侯爵が取り寄せた薬の中に、多少は効果があるものが存在していたのかもしれない。
ともかく、この様子であればまだ当分は最悪の事態に陥ることはないだろうと、ヘイディは説明した。
ただあくまでそれは自分の経験上の話で、この病はまだ謎が多い。確かな保証などはなく、今は穏やかでもいつ急変するかは分からない。
と言う様な事も彼女は言い添えたが。
そのヘイディの最後の言葉もあって、楽観視は止めて行動することにした為、これほどの強行軍になったのだった。
グラストスなどは旅の疲労からか、フォレスタの宿に戻ると泥のように眠り、そのまま一日半はぐっすりと寝ていた為、目覚めたら直ぐにまた旅立ちという有様だった。
それもまた、今グラストスが気だるそうにしている理由の一端なのかもしれない。
そして二つ目。
これは言うに及ばず、アーラの我慢が限界に達した為であった。
ただし、アーラはバレーヌ侯爵から留守を頼まれていた。アーラにとって侯爵の頼みは重要かつ重大である。しかし、性格上これ以上ただ座して待つのに耐え切れない。
その板挟みによって、ここ数日ずっと頭を唸らせていた。
そうした葛藤から救い出したのは、当の夫人だった。
「アーラさん、私は大丈夫よ。皆も居るし、今はヘイディも居てくれるのよ。数日くらいでどうにかならないわ。私のことは気にしないでいってらっしゃい。そして、また戻ったら、旅のお話を聞かせて頂戴?」
アーラが自分の事で頭を悩ませているのを、本当に嬉しく思いながら、夫人はその小さな背中をポンと後押ししたのだった。
信頼する夫人にそう言われては、アーラももう迷わなかった。
「安死病の薬の手掛かりが見つかっておきながら、のうのうと休んでいられるかっ!! 直ぐに出発するぞ!!」
などと叫びながら、グラストス達を叱咤して、半ば強引に連れ出したのだ。
オーベールは母親のことだけあって、アーラと同じ心境だったようだが、グラストスやリシャールは流石に疲労があった。
ただ、理由が理由だけに拒否する訳にもいかず、まるで荷物のように馬車に押し込められて、出発となったのだった。
旅には事前準備が何より大事なことは、辺境では子供ですら分かっていることである。
にも拘らず、グラストスとリシャールに至っては、持ち物は着ている服と、それぞれが持つ剣だけ、と言う有様だった。
なお、アーラとオーベールは自ら望んで。
グラストスとリシャールは半強制。
マリッタは館の生活が退屈だったのか、旅自体には比較的乗り気だったのだが、場所が魔法学校という事を聞くなり、激しく嫌がった。
ただ、マリッタは唯一の魔法学校の内部を知る人間である。今回の旅に欠かすわけにはいかない。
アーラの執拗な頼みに抗いきれず、結局渋々参加することになった。
そのようにして、アーラはたちまち他の面々を引っ張り出して、夫人の言葉から半刻後には、フォレスタを後にしたのだった。
ただ、ここまでで、名が挙がらなかった男がいる。
アーラの護衛として雇われている、自由騎士ドレイクである。
今馬車にいるのは、御者のグラストス、その後ろで控えているオーベール。
馬車の中央に大の字なって、穏やかな表情で寝ているアーラ。そのアーラに腹を枕代わりにされ、悪夢でも見ているのか苦悶の表情で眠っているリシャール。
馬車の後方で帆にもたれ掛かるようにして、静かに寝息を立てているマリッタ。
その五名だけだった。ドレイクの姿はない。
ドレイクは腕利きの男である。今回の旅をする上で欠かせない存在でもあった。
アーラだけでなく、他の面々としても、街を離れるのであれば是非にでも同行してもらいたいたかった。と言うより寧ろ、ドレイクが居なければ旅など出来ないと言っても、過言ではない。
まして、今はアーラだけではなく、オーベールも居る。
盗賊に襲われたり、魔物に襲われたり、などの局面を考えた場合、ドレイク抜きでは必ずしも侯爵家の子女である二人を護りきれるとは言い切れない。
他の三人にとって、それが何より問題だった。
だが、ドレイクは今回の『魔法学校』までの旅を何故か断わった。
自分の重要性は分かっている筈である。
なのに同行を求めるアーラに、申し訳無さそうに詫びながらも、「少し気になることがあるんですわ」、と考えを曲げようとしなかった。
いつもの飄々とした様子であったので、リシャールなどは、「酒を飲む時間が欲しいだけでしょ」と疑っていたが、アーラはドレイクの言葉を認めた。
ドレイクの軽い口調の中に、どこか真剣さを感じた為だ。
とはいえ、ドレイクが居なくては旅は難しい。
このままでは出発できない――――筈だったが、今回の場合、目的地が『魔法学校』であったことが幸いした。
それは――――
「この辺りは、ケーレス騎士団の演習場なんですよ」
「ケーレス騎士団…………ああ、この前の」
オーベールの話を聞いて、グラストスはフォレスタへの道中で出会った騎士達を思い出しながら、周囲を見回した。
確かにこの辺りは、見渡す限りの草原が広がっている。障害物になりそうなものは見当たらない。演習をするには良いのかもしれない。
「まぁ、盗賊を心配する必要がないのは、ありがたいな」
グラストスはのんびりと呟くと、退屈そうに一度だけ大きな欠伸をした。
この近隣の土地は治安が安定している。
パウルースの鷲。ケーレス騎士団の砦も近く、彼らが演習している場所で悪さを行おうとする者は皆無と言ってよいからだ。
そうした理由から、一行はドレイク抜きでも比較的安心して、旅を行なえるのだった。
グラストスとオーベールは、そのままポツポツと騎士団について話し始めた。
その為、二人は気付かなかったが、その背後の馬車内では、眠っていた筈のマリッタが薄目を開けていた。
マリッタは俯いたまま、一度グラストス達に視線を送った後、横目で馬車の外を眺めた。
そして、何かを嫌なことを思い出したような苦々しい表情を浮かべると、それらを吹っ切るかのように、再び瞳を閉じるのだった。