65: 光ゴケ
翌朝。
リシャールとオーベールが、どこか疲れたような足取りで馬車を出て行ったのを見送ってから少しして、グラストスも荷造りを終えた。
と言っても、グラストスの持ち物は高が知れている。
残り二本になった剣を腰に差して、外套を纏った位だ。
朝食は、昨日の晩飯の残りで賄う事にした。
それは、一人この場所に待機していた筈のドレイクが、どこからか捕獲してきた何かの動物の肉である。
一体何の肉なのかドレイクに尋ねても微妙にはぐらかされ、結局何の肉なのかは分からずじまいだった。
味は拙いとも美味いとも言えなかったが、金欠の身で贅沢は言えない。
グラストスも仕方なく、それで空腹を満たしていた。
グラストスは身支度を終えると、一度馬車に視線を送った。
そこには、どこか眠たそうな馬達がのんびりと佇んでいる。
そして、馬車の中からは留守番役の高鼾が聞えてきていた。
とりあえず、鼾は聞かなかったことにして、馬達に近づいて首筋を軽く撫でる。
馬達は”気をつけて行って来な”とでも言っているかのように、軽く頭を上下する。
それに思わず頬を緩ませながら、グラストスは静かにその場を離れた。
***
「兄さん!! 本当に来てくれやしたんですね!」
小男と待ち合わせをしていた、街を東に外れた所に建っている崩れかけた廃屋の前に待つこと四半刻程。
ようやく小男が現れた。
グラストスを誘った側でありながら、遅れたことを詫びる素振りも見せない。
ただ、黄色い歯を見せびらかしているかのように笑った。
少し不満はあったが、今日一日行動を共にする連れなので、グラストスは気にしない事にした。
「約束だからな」
「本当に助かりやすよ。それに装備も……」
小男はグラストスの腰に揺れる二本の剣を見て、窪んだ目をギョロつかせてみせる。
小男の方は肩に麻袋をかけ、右手にピッケルを持っているだけだった。
持ち物といったらその位で、剣はどうやら持ってきていない様だ。
もし魔物に遭遇したら、戦闘しないで逃げるつもりなのだろうか。
「まあ……何があるか分からないからな」
「はぁ。なるほど。そうでやすね」
数日前、想定外の戦闘を強いられた事を思い出しながら、グラストスは答えた。
二本の剣はそうした事柄に対する備えだった。
一方、事情を知らない男は、グラストスの慎重さに満足したかのように小さく頷いた。
「それじゃあ、早速行きやすか! 先ずは兄さんの依頼を終わらせやしょう」
「ああ。済まない」
そうして二人は、遠く街の東に広がる森に向かって歩き始めた。
***
グラストスの受けていた依頼の薬草は、森に到達してから程なくして採取する事が出来た。
これは小男……名前をデイヴといった。
そのデイヴが、薬草の群生している場所を把握していたからに他ならない。
ところで、デイヴは相変らずグラストスに敬語を使っていた。
道中、グラストスが確認したところ、デイヴは見た目通り恐らくグラストスの倍以上の歳だった。
そんな相手が、自分に敬語を使うのにはやはり抵抗がある。
なので敬語と、そして”兄さん”と言う呼び方を止めて貰うように頼んだのだが……。
「あっしは誰に対してもこういう口調ですから」
と、デイヴは聞き入れようとせず、あくまでソレで通す気らしかった。
好んで使っているのであれば、自分が止めさせる道理もあるまい。と、グラストスは努めて気にしない事にしたのだった。
そして、二人は特に魔物と遭遇する事もなく、そのまま森を抜ける事が出来た。
ただ、それ以上は進めなかった。
直ぐ先に、絶壁が立ち塞がっていたからである。
グラストスは首を後ろに倒すようにして上を見上げた。
鳥だろうか。遥か空高くに米粒以下の黒い点が見える。
岸壁の天辺は、その鳥と同じ高さほどはあるように見えた。
ともかく、ここが今回の目的の場所であった。
「運が良かったな。魔物と遭遇しなかった」
「へへっ。比較的魔物が居ない場所を通りやしたからね。まぁ、運が良かったことにゃあ変わりはねえですが」
「……で、ここが『光ゴケ』のある洞窟か?」
「ええ。この奥に」
二人が見据える眼前には、丁度成人男性一人通れる位の大きさの、洞窟の入り口がポッカリと口を開けていた。
岩壁にある入り口は丁度陽の光の入りからは影になっており、その周囲は薄暗い。
中に入れば、一寸先も見えない闇が広がっているのだろうとグラストスは想像した。
そして、ふと気付いた。
「しまった。松明の類を持ってきていない」
目的地が洞窟である事を予め聞いておきながら、なんと間抜けだろう。
グラストスの後悔を伴った呟きを聞いて、デイヴは低く笑いながら首を振った。
「そりゃあ、心配せんでも大丈夫です」
「ん? 何故だ? 灯りがないと、どうしようもないだろう?」
入り口の奥に広がっている闇を見つめながら、グラストスは首を捻る。
それに対して、デイヴは明確な回答を告げようとせず、ただ一言。
「まあ、中に入ってみりゃあ分かるこってす」
と、自信有り気に入り口への移動を促した。
それに戸惑いながらも、グラストスは特に何も尋ねずに後に続いた。
デイヴはこの土地の人間である。そのデイヴがそう言うのであれば、意味あってのことだろう。
そうして、先導するデイヴの後を追うようにして、グラストスは洞窟の中に足を踏み入れた。
+++
洞窟の中はどこかに空気穴でもあるのか、生暖かい風がグラストスの体を不快に撫でつけていた。
入り口付近はまだ良かったが、ある程度奥に進むと想像通り真っ暗で何も見えなかった。
胸辺りに掲げている筈の自分の手すら判別できない。
思わず立ち止まってしまっていたグラストスは、慌てたようにデイヴに事態を確認した。
だが、デイヴは「そのまま。もう少しですわ」と言うだけで、明確な回答を返さなかった。
よく分からないまま、不安を抱きながら言われた通りその場で待機する。
やがて、目が闇に慣れてくる。
外光が一寸も差し込まない闇の中である。
目が慣れたからといって、どうなる訳でもないと思っていたグラストスは、それが誤りであった事を悟った。
薄ぼんやりとではあるものの、洞窟の中を進む事が出来る程度には視認することが出来たからだ。
「慣れやしたか?」
「あ、ああ……」
デイヴの確認の言葉に、グラストスは数度頷く。
その返事を聞いたデイヴは、グラストスの疑問を解決しないまま、「なら、先に進みやしょう」と、再び歩き出し始めてしまった。
「…………」
戸惑いは胸に燻っていたものの、グラストスは後に続いた。
目が慣れた事で、洞窟の内部が何となく判別できた。
広さは入り口と同じで成人男性一人が通れる位だった。
両手を左右に伸ばすには幅が足りない。
高さも、グラストスだと腰を屈めるには及ばないものの、これがサルバであったなら、そうせざるを得ないだろう。
閉塞感を感じないでもなかったが、周囲を覆う闇がその不安を逆に紛らわせてくれた。
はっきりとは見えない、という事が功を奏した形であった。
デイヴはこの洞窟には通い慣れているのか、足取りは軽かった。その様子からは、何ら不安を感じとれない。
しかし、グラストスは別であった。
初めての土地で、少なくとも記憶を失ってから、洞窟に入った事は初めてである。
心穏やかに居られよう筈も無かった。
自然、歩く速度は遅く、デイヴとの差は広がるばかりである。
ただ、今の所はずっと一本道なので、道に迷う心配がないのは幸いだった。
そうして、四半刻ほど進んだだろうか。
先に進んでいたデイヴの小さな背中を、再び間近に捉える事ができた。
デイヴは立ち止まり、グラストスが追いついてくるのを待っていたのだ。
「兄さん。こっからは右に進みやす」
そう言って、デイヴはグラストスの方を振り返って、左手を横に伸ばして方向を示す。
グラストスは言われてようやく気付いたが、この場所から道は三方に分岐していた。
デイヴはグラストスが了解したのを見てとったのか、そのまま右の穴に進み始めた。
帰り道が多少不安になったものの、デイヴが一緒なので大丈夫か、と思い直し、グラストスは特に目印を付ける訳でもなく後を追った。
更に四半刻進んだ時、グラストスは既にかなりの疲労を自覚していた。
道に大きな起伏があるわけでもなく、魔物に襲われた訳でもない。
歩く速度も通常以下で距離も大した事は無い筈だったが、それでも通常の倍は疲労していた。
原因は分かっていた。この暗闇である。
視界が乏しいという事は、それと分からない内に、身体の疲労を促進させる効果を持っているのだということを、改めてグラストスは認識した。
ビリザドでは、夜の森で依頼を受けた事は一度しかなかった。
ただ、その時はひたすらに穴を掘っているだけだったので、暗闇がどうとかはあまり関係が無かった。 気心の知れたリシャールとサルバが傍に居た事も大きいだろう。
後は、盗賊団に襲われた時にも夜の森を行軍した。
しかし、あの時は捕まったアーラ達の事が心配で、闇の暗さを意識する事は無かった。
なので真の意味で、暗闇の中を行動するのは今回が初めてであったのだ。
グラストスの腰から伸びる二振り剣が、ぶつかって静寂の闇にカチャカチャと音を立てている。
その音を耳に入れながら、グラストスは剣を二本も持ってしまった事を後悔し始めていた。
一本を目印代わりに次の分岐点にでも置いていこうかという事を、本気で検討していた時。
前方に、微かな薄明かりが広がっているのに気付いた。
その灯りの中に、デイヴの姿を確認する事が出来た。
どうやら、デイヴは松明でも隠し持っていたらしい。
ならばもう少し早く、灯して欲しかったとグラストスは思った。
グラストスは距離を詰めて、デイヴにそれを告げようとして、自分の誤りを悟った。
デイヴは手ぶらだった。当然、松明は持っていない。火属性の魔法の光でもなかった。
薄光は、洞窟の壁から発せられていたのだ。
「これが『光ゴケ』でさぁ」
疲労も忘れ見入っていたグラストスに、デイヴは告げた。
そう教えられて、グラストスは改めて壁に顔を近づける。
確かに、光を発しているのは壁を覆ったコケだという事が分かった。
「なんとも……不思議だな」
壁にこびり付いたコケが、ボンヤリとした光を放っている。
頼りない光量ではあるものの、それがある程度固まると、それなりの光になるのかもしれない。
ただ、『光ゴケ』は壁の一部分にしか生えておらず、遠く洞窟を見通せる程の明かりは望めなかった。
グラストスは目の前のコケに視線を向けたまま、デイヴに声をかけた。
「とりあえず採取しておくか?」
それは松明代わりにもなるだろう、と考えての提案だった。
その提案に、デイヴは「とんでもない」とでも言うように、首を横に振った。
「兄さん。そりゃあ駄目です」
「どうしてだ? 依頼にはこれが必要なんだろう?」
「それはそうですが……こんな場所の光ゴケは採取しねえってのが、ここの暗黙の決まりなんですわ。明かりが無くなると皆困りやすからね。まあ律儀に守ってる奴なんてのは、こんな治安の悪い土地にゃあ殆どいねえですが……かと言って、あっしらがそれに習う事はありやせんぜ」
「なるほど。そうだな……」
グラストスは感心したように一つ頷く。
確かに、もっともな話だ。
そう思ったグラストスは、光ゴケをジッと眺めた後、再び進み始めたデイヴに続いて歩き出した。
+++
そのまま二人は一言も発さず、窮屈な洞窟を奥へと進み続けた。
途中に分岐点は二・三存在したものの、言い換えればそれだけしかなかったとも言える。
分岐点は常に右に曲がっていたので、分かりやすくもあった。帰りは常に左を選べば良いのだから。
例えデイヴと逸れたとしても、恐らく迷う事は無さそうだという事が分かったのは、グラストスの気力を少し回復させる事に繋がっていた。
更に、奥に進めば進むほど、視界は明るくなっていった。
周囲の壁に、採取する事は難しいような小さなコケが、至る所に発生していた為である。
お陰で自分の所から、かなり先まで見通すことが出来た。
それにより、デイヴに距離を開けられることもなくなっていた事も、グラストスに精神的余裕を与えていたのだろう。
そして、奥に進むほど通路の幅・高さが少しずつ広くなっているようだった。
入り口付近と比べ、今はグラストスの頭三つ分ほど、天井は高くなっている。
ここまで余裕があると、閉塞感は感じにくい。
ただし、奥に進めば進むほど、ジメジメした空気が肌にこびり付く様なのには辟易していたが……。
やがて、グラストスの前を歩いていたデイヴが立ち止まり、振り返って言った。
「兄さん。目的地はこの奥です」
言われて、グラストスはデイヴの頭の上から覗き込むようにして、その先を眺めた。
どうやら、この先は少し広い空間になっているようだった。
確かに、中から明るい光が発せられているのが分かった。
「この中の『光ゴケ』は、採取していいんだな?」
グラストスが念の為に確認すると、デイヴは、へい、と頷いた。
「すいやせん。あっしはちょっと準備しやすので、兄さん先に中で採取していてくだせえ」
デイヴが肩に背負っていた麻袋をその場に下ろし、何やら中をゴソゴソと触りながら中腰の姿勢で言った。
「ああ。分かった」
グラストスは了承すると、半ばデイヴを跨ぐ様にして、位置を入れ替えた。
そのまま先に進み、奥の空間へと侵入した。
+++
「光ゴケか……。確かに、松明要らずだな。報酬が良い筈だ」
中に入ると、一層明るさを感じる事が出来た。
夜の月明かりと比べると、全然こちらの方が明るい。
書物も十分読むことが出来るだろう。
どうやら、ここで行き止まりらしい。先に道は無かった。
周囲の壁一面は、びっしりと『光ゴケ』で覆われており、デイヴの持ってきた布袋では四分の一程度も収める事は出来そうにない。
それでも、依頼達成には十分な量を、採取出来るに違いなかった。
グラストスは狭い空間から、とりあえずは解放されたことを全身で喜ぶかのように、うんと背筋を伸ばした後、早速採取作業に取り掛かることにした。
先ず、腰の剣を邪魔にならないように入り口傍の壁に立てかけた。
そして、『ジェニファー』でない方の剣を抜く。
グラストスは袖を捲くろうとして、自分が外套を羽織っている事に気付いた。
直ぐに外套を脱ぎ捨てると、それを『ジェニファー』に服掛けの要領で掛けた。
袖を捲くりながら、最もコケが多く生えている突き当たりに当たる壁の前に立つと、抜いた剣を鍬代わりにしてガツガツとコケを削ぎ落としにかかった。
ボロボロと光を放つコケが、その場の地面に降り注ぐ。
壁の苔は人差し指の長さほどの厚みがある。
壁の肌が露出するように綺麗に削ぎ摂っていくと、どんどん地面の盛りが大きくなっていった。
グラストスは、恐らく両腕に一抱え程になるだろうと思われる量が地面に積もったのを見やって、一度通路を振り返った。
「デイヴ。コケを入れる袋を貸してくれ」
大きな声で、広間の外の通路に居る筈のデイヴに声をかけた。
しかし、デイヴからの返事は無い。
「デイヴ? おい、デイヴ?」
グラストスは多少声量を大きくして、再び通路に呼びかける。返事は無い。
「……どうした? 居ないのか?」
何かあったのだろうか、と首を捻りながらグラストスはゆっくりと通路に向かった。
先程までデイヴが居た場所に視線を向けるが、確かに姿が見当たらない。
「ったく、何処に行ったんだ?」
グラストスが呆れた声で呟いた時だった。
”バシャアァッ”と、樽の中の水が地面に叩き付けられたような音が、グラストスの背後で起こった。
グラストスは慌てて振り返る。
振り返った直後、再度グラストスの背後で一つ、二つ。先程と同じ水音がした。
今度は振り返りはしなかった。
振り返らずとも、その水音の正体が何であるのかをグラストスは悟っていたからだ。
グラストスの眼前、そしてその背後には、水生生物が蠢いていた。
それはいつかビリザドの森で遭遇した『スライムハウンド』の何倍もあろうかという程の、巨大なスライムだった。
グラストスは右手に掴んでいる剣の感触を確かめるように、力強く握り締めた。