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The Left Arm Wars  作者: 過酸化水素水
【4章 神の医師】
66/121

63: 仕事

 

「ほら! 手を止めるんじゃないよ! じゃんじゃん洗いなっ!!」

「は、はい」


 でっぷりと太った大柄の女性が、前掛けをして外庭にある井戸の前に座り込んでいるオーベールの前にドンと籠を置いた。

 中に入っている殆どは、木製の食器である。

 女性はそれを置いた後オーベールをジッと一睨みすると、「他にも仕事はあるんだからね!」と、吐き捨てるように言って再び元の場所に戻っていった。


 オーベールは井戸の水を汲み上げ、それで食器を洗っていた。

 ここ一刻ほど、絶え間なく。

 当然の話だが、貴族の御曹司であるオーベールに水洗いの経験などあろう筈も無く悪戦苦闘していた。

 その為、ここの女将である女性に、”愚図だの、トロくさいだの、使えないだの”と、ずっと怒鳴られる羽目になっていた。


 恐らく、オーベールが人にそんな言葉を吐かれたのは、生まれて初めてのことだったろう。

 もし仮にフォレスタの館の人間が知れば、皆青筋を立てて怒ったに違いない。

 そうした罵倒の数々はオーベールの心を折るには十分な筈だったが、それでも青年は不満を見せることなく、寧ろ笑顔を絶やさず言葉に従っていた。

 

 汲み上げた水を水樽に入れ、その中で汚れた食器を洗う。

 あらかた汚れを落とし終えたら、それを隣の籠に入れる。ひたすらその繰り返しである。

 ずっと腰を屈めた体勢でいるのは慣れない人間にはとても辛く、オーベールの腰は既に悲鳴を上げていた。

 ただオーベールは泣き言を言うことなく、黙々と皿洗いを続けていた。


 そうして、オーベールが一心不乱に作業を続けていると、

「オーベール様……大丈夫ですか?」

 いつの間にか外庭に出て来ていたらしいリシャールが、不安そうにオーベールに声をかけてきた。

 話しかけられ、水洗いの手を止めたオーベールは顔を上げる。

 リシャールを視界に入れると、ニッコリ笑いながら言った。

「あ、リシャール君。お疲れ様。食器籠はここにあるよ」

 そう言って、洗い終わった食器の入った籠を両手で持ち上げると、はい、とリシャールに手渡した。

 リシャールはそれを受け取りながら、ずっと水作業を行なってきた所為で、赤くふやけてしまったオーベールの指を見て、申し訳無さそうに謝罪する。


「……ごめんなさい。水洗いなんて、本当は僕がするべきなんでしょうけど……」

 小さい身体を一段と小さくして頭を下げるリシャールに、オーベールは”気にしないで”、と微笑んだ。

「ははっ。注文取りは僕では対応出来なかったからね。僕が駄目だっただけだよ。それに、こんなことを言ったら女将さんに怒られるんだろうけど、皿洗いも意外と楽しいんだ」

 言葉に嘘はないのだろう。その事は明るい表情からも窺い知ることが出来る。

 オーベールは、お互い頑張ろう、とリシャールの肩をトン、と叩いて作業を再開した。


 リシャールは静かにその後姿を見つめていたが、女将の怒声が聞えてきたので慌てて店の裏口から中に入っていった。

 オーベールを気遣っていたが、リシャールの方も余裕があるわけではない。

 少年は給仕の仕事に加え、オーベールが洗った食器を乾拭きしないといけないのだった。


+++


 今、二人が慌しく働いているのは、街の食堂兼酒場である。

 三人が仕事を求めて街を訪れて、最初に足を運んだ場所がここだった。

 街のほぼ中央にデンと存在しており、小さな街で最も活気のある場所のように見えたからだ。

 こんな場所なら仕事を貰えるのではないか、と考えたのだ。


 その狙いは正しかった。

 店は雑用係を募集していたので、三人は簡単な事情を説明して雇って貰おうとした。

 もちろんオーベールの身分は隠して、平民と偽る事にした。

 有力貴族の御曹司を働かせるなど、忌避されるのに違いないからだ。

 とは言っても、オーベールが着ている服装などはまんま貴族である。

 怪しまれないか内心ドキドキしていた三人だったが、それは杞憂に終わった。


 女将はオーベールの事を羽振りの良い所の坊ちゃん、とでも思ったのだろう。

 平民が自分の身分を貴族と偽ることはあっても、逆に通常貴族が身分を偽って平民を名乗る、何てことは大凡ありえない事なので、疑われないのも当然だったのかもしれない。

 二日という制限が邪魔をしたものの、何とか採用される事になった。

 ――――ただし、二人だけ。


 グラストス以外の二人である。

 女将はリシャールとオーベールの容姿を見て、僅かの期間とは言え客引きに使えると判断したのだった。

 決してグラストスも容姿が悪い訳ではないが、繊細とも言える整った顔立ちの二人と比較すると、分が悪い。

 更に、女将の選考基準は容姿というだけではなく、この街に居そうにない二人の優しげな雰囲気を買った、という事もあった。

 その判断からするとグラストスは、この街の住人でもおかしくないと見なされたのだ。

 そうして一人面接落ちしたグラストスは、渋面を浮かべながらも二人に激励の言葉をかけると、女将に何かを尋ねた後、どこか寂しそうに街に消えていった。

 

 残された二人は、早速仕事を与えられる事になった。

 もちろん、容姿を生かしての給仕である。

 大雑把に仕事内容を説明されて、直ぐに店に出されることになった。

 ただし、幾ら美形だといっても、この街の半数以上の住人は男である。

 それを考えると男の給仕はどちらか一人で良く、結果――――リシャールにとって不幸がもたらされた。

 ”女装しろ”

 と、女将に申し付けられたのであった。


 先日の盗賊団の騒動が思い浮かび、必死に拒否したリシャールだった。

 しかし、女装しないのなら解雇、と言われたらどうする事も出来ない。

 他の仕事が見つかる可能性は低い上、オーベールを一人にする訳にはいかないからだ。

 泣く泣くリシャールは、人生で二度目の女装をする事になった。

 女装したリシャールを見て、女将だけでなくオーベールも褒めてくれたが、残念ながらリシャールは嬉しくなかった。

 

 そうして、給仕の仕事を始めて数刻が経ち、美形の男女が雇われたという噂を聞きつけて、街の人間が大挙して食堂を訪れ始めた。

 女性客はオーベールに。

 男性客はリシャールに釘付けになり、この食堂開店以来の大盛況に見舞われた。

 女将は自分の考えが当たり、ほくほく顔だったものの、二人はそれどころではなかった。

 ひたすら客にちょっかいを出され、給仕の仕事もままならなかったからだ。


 オーベールは妖艶な美女にこなを掛けられ困惑していたし、リシャールはむき出しの足を触られたり、尻を撫でられたりして鳥肌を立てていたりと、互いに仕事とは違う所で苦闘することになった。

 そして、人はどんどん増えていき、比例して注文も増えた。

 給仕、女給達は、この店始まって以来という程の殺人的な忙しさに追われることとなった。

 そんな中、客の拘束をやたらと受けるオーベールとリシャールは、徐々に仕事がままならなくなっていった。

 それでもリシャールは何とか最低限の働きは見せていたものの、基本的にのんびりしているオーベールは、完全に注文を廻す事が出来なくなってしまった。

 

 そうなると、中々注文の品が届かない客は苛立っていく。

 やがて、店内を怒号が飛び交うようになった。

 最終的に、それを憂慮した女将によって、オーベールは裏方に廻された。

 それに伴い女性客は減ったが、店が荒れるよりは良いと判断したのだろう。

 オーベールは、そのまま皿洗い兼雑用に従事させられる事になった。

 

 そうして長かった一日目が終わる。

 その頃には二人とも肉体的にも、精神的にも疲労が限界にきていた。

 疲労困憊の身体で何とか荷馬車まで辿り着くと、唖然とするドレイクとグラストスを他所に、そのまま倒れるように眠り込んだのだった。


+++ 


 次の日。

 二人は早朝から店に来るように言われていた。

 かまどの火用の薪割りを始めとした、雑用の為である。

 女将は二人が働く期間が二日間だけということもあって、さんざんにコキ使うつもりのようだった。

 そんな女将の思惑を悟っていたのかは定かではないが、二人はまだ薄暗く朝靄の降りる中むっくりと起き上がると、朝食もそこそこに、足を引きずるようにして、食堂に向かったのだった。


 決して遅刻した訳ではない。

 だが女将は既に店の前に仁王立ちしており、二人は着くなり怒声を浴びせられた。

 開店まで散々雑用に扱き使われ、開店してからも更に扱き使われ、昼過ぎになり、客がひとまず落ち着いた頃には既にクタクタになっていた。

 

 そうしてようやく僅かばかりに与えられた休憩時間を利用して、オーベールは遅めの昼食を摂った。昼食は賄い料理を貰えたので、財布が傷まないのは有り難かった。

 とは言え、その賄いは焼け焦げたような、とても客に出せないような代物だったので、お世辞にも美味しいとは言えなかったが。


 リシャールはまだ給仕をしているようで、オーベールは外庭に一人で休んでいた。

 外庭は通りとは反対側にあり、薄汚れている印象だった。客に見えない部分なので掃除をしていないのだろう。

 ただ陽の光は届いており、今も建物に寄りかかるようにして腰を下ろしているオーベールの全身を優しく照らしていた。


 朝から散々働いたせいで大分汗をかいたものの、気分は何故か晴れやかだった。

 目の廻る程に忙しく、怒鳴られてばかりだったが、反面、とても充実しているとも言えた。

 そして、このような忙しい毎日を送っている人々に対して、尊敬の念が湧き上がっていた。

 オーベールは如何に自分がぬるま湯に使った生活をしていたか、という事を思い恥じ入るような気持ちで一杯だった。


 ただそれはオーベールの自分に対する卑下というものである。

 オーベールは決して日頃、他の多くの貴族達のように享楽に身を置いているわけでは決してなかった。

 バレーヌ侯爵もそんな行いを決して許さなかった。

 どちらかと言えば商人気質であるバレーヌ侯爵は、時や経験が金子より大切である事を、重々悟っていたからである。



「やっと見つけたわぁ~~。こんな所に居たのねぇ~~」



 昼食を摂り終わり、オーベールは両目を瞑り束の間の休息をとっていると、急に店の戸口から現れた女性が話しかけてきた。

「え?」

 オーベールが目を見開いて視認する。

 四十代後半と思われるでっぷりと肥えた熟女で、趣味を疑うような鮮やか過ぎる服装をしている。


 オーベールはその女性のことを知っていた。

 彼女は店の人間ではなく、女性客である。

 昨日、給仕として店に出ていたオーベールに対し、やたらと個人的接触を図ろうとしてきていた客だったので印象深かったのだ。


「今日はお店に出ないの~~? 会えるのを楽しみにしてたのに、貴方ったら居ないんだものぉ~~」

 この女性客は、昨日オーベールが裏方に廻る前に帰っていったので、事情を知らないのだろう。

 気色の悪い間延びした口調で、くねくねと大きな尻を振りながらオーベールに近づいてくる。

 それを見て、オーベールは何となくアヒルを思い浮かべてしまった。

 誰が見ても明らかにオーベールに懸想している様子であるも、オーベールは気付かない。

 絶対的に人に優しいオーベールは、笑顔で応えた。

「ああ。今日も来て下さったのですか。有難うございます」


 深々と頭を下げる様子からは、邪険にしている気配は全く感じられない。

 もちろんオーベールの言葉に深い意味は無い。

 しかし、それが女に期待感を抱かせている要因になっている事も、また事実だった。


「ねぇ。今日はこの後暇かしらぁ? 今晩一緒に過ごしましょうよぅ?」

 女はオーベールの腕にしなだれ掛かりながら、上目遣いで顔を上げねだる様に言う。

 合わせて、生暖かい吐息をオーベールの首筋に吐きかける。

 本人は誘惑しているつもりなのだろう。

 しかし、オーベールは穏やかに笑うだけで、女の意図は理解してはいなかった。

 ただ、女のキツイ香水の臭いは内心閉口していた。心の中で思うだけで、表情には出さなかったが。


 女は、いける、と踏んだのか、豊満というよりもはや巨大な胸をオーベールの腕に押し付ける。

 ただでさえ暑かったにもかかわらず、女の肉で更に暖められ、オーベールの身体は更に熱を持ち始めていた。

 そのまま同じ体勢でい続けたら、もしかしたらオーベールは暑さと臭いによって倒れてしまっていたかもしれない。

 不幸中の幸いか、或いは不幸中の不幸だったのか――――

 この場に突然の怒号が降り注いだ。


「何やってるんだいっ!? 遊ばせてやるような時間は無いんだよっ!! さっさと仕事しな!」


 見ると、戸口に仁王立ちした女将が立っていた。

 まるで悪鬼のような表情を浮かべている。

 女も肥えていたが、女将はそれ以上にがっしりしている。

 敵わないと見たのか、女は名残惜しそうにオーベールから離れる。

 店の中に入っていこうとして、数歩歩き――――オーベールを振り返った。


 再びノシノシとオーベールに近づく。

 オーベールの右手の手首を掴んで掌を強引に上に向けさせると、何かを握らせてきた。

 オーベールが戸惑いながら、そっと手を開くと、そこには高価そうな宝石が一つ乗っていた。

 端が鎖で括りられているので、首飾りなのだろう。

「これ。今日の記念にあげるわぁ。今度是非、それを付けて店に出てねぇ」

「え? あ、こんな高価なものを頂く訳には……」

「いいのいいのよぉ。気にしないでいいの」

 オーベールの動揺をしたり顔で宥めながら、女はバチッと片目を瞑った。

 愛らしさには程遠い笑顔でひらひらと手を振ると、そのまま戸口に消えようとした。


「待ちなっ」

 それを女将が苛立たしげに引き止める。

 女はまだ何かあるのかと、五月蝿そうに振り返った。   

 女将はオーベールに近づくと、その手の中にあった高価な首飾りをむずっと掴むと女に投げつけた。

 それは女の身体にぶつかると、肉に衝撃を吸収されてそのまま地面に落ちる。


 女は首飾りを拾い上げると、引きつった顔で女将を睨みつけた。

「何のつもりよぉ!? それは彼にあげたのよ!!」

「喧しい!! うちの従業員に色目を使うんじゃないよっ! とっととそれを持って消えなっ!」

 女将は、女のけたたましい金切り声以上の声量で怒鳴りつける。

 その迫力に圧されたのか、女は口惜しそうに舌打ちをすると、オーベールをちらりと見た後、肩を怒らせながら戸口に消えて行った。


 それを見送った後、女将は呆然と見送っていたオーベールを振り返る。

 今度はオーベールに対して怒声を浴びせた。

「客からあんなもんを勝手に貰うんじゃないよっ!!」

「す、すみません……」

「あんな高価なもんをただであげるような奴がいるもんかね! 必ず何か裏に思惑があるに違いないのさ!」

 女将は”店で余計な面倒ごとを起こすんじゃないよ”と、恐縮するオーベールに更に怒鳴り続けた。

 その間オーベールに出来たのは、ただひたすらに謝ることだけだった。


 ひとしきり言いたいことを言い終えると、女将はふっと息を吐く。

 険しい顔でオーベールを見下ろすと、

「ただより高いものはこの世に無いんだよ!! 覚えときなっ!」

 そう言い残して、女将は食堂内に消えていった。


 オーベールはその言葉の意味を完全に理解は出来なかった。が、女将が自分に金言を吐いてくれたのだと思う事にした。

 そのまま女将の消えた戸口に視線を送っていたが、やがて我に返ると、再び洗い物を再開したのだった。



***



 その頃。

 オーベールとリシャールが食堂で奮闘していた時。

 ただ一人店の募集に落ちたグラストスの眼前には、魔物の群れの姿があった。


 否。


 今の状況を正確に表現すると、”眼前”というのでは語弊がある。

 何故ならグラストスは、魔物の”中に”その全身を取り込まれていたからだ。


 もがいてももがいても、状況は好転しない。

 どころか息をする事も侭らない状況である。

 時が経つにつれて、状況は悪化の一途を辿る。周囲には人も居らず助けを求めようも無い。


 そう。

 グラストスは今正に、絶対絶命の状況にあった…………。

 

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