61: 十八
【4章 神の医師】
パッカパッカと、馬蹄が地面を叩く音が周囲に鳴り響く。
音の発生源である二頭の馬によって、帆のついた荷車が引かれている。
その馬達を操っている中年の御者、ドレイクは、いつも通り眠そうな顔で、街道を北に向かって馬を進ませていた。
時折発生する欠伸を噛み殺して、本当に見ているのかどうか分からないような視線を前方に送っている。
荷馬車の中には、他に三名の姿があった。
一人は、出入り口の直ぐ傍に腰掛けている。そこが半ば自分の定位置になってしまっている、グラストスだった。
後ろに伸びた街道をぼんやりと眺めながら、残り二本になってしまった手持ちの剣の手入れをしている。
乾布で剣を磨いているが、何を考えているのか、表情は明るいとは言えない。
もしかしたら、先程まで見えていた、先日の小さな森の事でも考えているのかもしれない。
もっと正確に言うと、そこで起こった出来事について。
他の二人は街を出て以来、荷馬車の中で楽しそうに会話をしていた。
静かな馬車内において、そこだけが明るい。
その内の一人、見目麗しい――――少年は、持ち前の人懐っこさを発揮して、目の前に座る人物へしきりに話しかけていた。
もし彼に尻尾が生えていたのであれば、間違いなく今は左右に振り振り忙しかった事だろう。
最後の一人は、リシャールに話しかけられて穏やかな笑みを浮かべながら、応答している。
どうやら気が合ったらしい。二人の話はとても弾んでいた。
その人物は、優しそうな雰囲気を醸している銀髪の青年だった。
値の張りそうな服の上から、紺色の外套を羽織っている。
一応、剣を腰に差しているが、本人に剣の心得はない。
あくまで念の為に持っているに過ぎなかった。
「オーベール様。僕は『モンスール』に行くのは初めてなんですけど、ここからどれくらい掛かるんですか?」
リシャールが尋ねた相手。
銀髪の青年オーベールは、柔らかい笑みを崩さないまま答える。
「そうだね……。馬車で真っ直ぐ向かって……三、四日ってところかな」
「ビリザドからフォレスタまでより遠いのかぁ」
「うん。ビリザドからフォレスタまでは、間にホモンを挟むだけだけど、モンスールまでは同程度の広さの領地を二つ間に挟むからね」
オーベールの言葉に、リシャールは頷く。
そして、眉を微かに不安そうに歪める。
「そうすると往復で八日かぁ……アーラ様が爆発しませんかね?」
リシャールの呟きにオーベールは何も答えず、ただ苦々しく笑った。
今、一行が乗っている馬車は、フォレスタまで乗ってきたアーラの家の荷馬車である。
しかし、今ここにアーラの姿はない。ついでに言うと、マリッタの姿も。
何故、荷馬車内が男四人という、むさ苦しい状態になっているかを説明するのであれば、それは前日まで遡る必要がある――――
***
「ふざけるなっ!! 私は絶対に行くぞっ!!」
領主の館に、怒号が響き渡る。
その声の持ち主は、瞳を怒らせ、恫喝するかのように周囲の人間を見渡している。
普段は愛らしい容姿の持ち主ではあるにもかかわらず、今は見る影もない。
白絹のような白い肌も、怒りからか薄い紅色に色づいている。
居間の窓から降り注ぐ陽の光が、少女艶やかな金髪を撫でており、ある種荘厳な雰囲気を与えるのに一役買っていた。
両拳を固く握り締めて、双眸を光らせている少女に対し、マリッタ、オーベール、執事は戸惑った表情を向けた。
「お嬢さん、落ち着いて……」
困ったような表情でアーラをとりなそうとしているのは、マリッタだった。
平素は若干釣り上がり、勝気そうに見える柳眉も、今は”ハ”の字に歪められていた。
「これが落ち着いていられるかっ!」
アーラは更に怒声を強くして言い放つ。
マリッタの言葉を、まるで聞き入れようとしない。
マリッタはどうにも出来ないと諦めたのか、小さく肩を竦めて、役者交代の視線を自分の左隣に立つ執事に向けた。
執事もその視線を受けて、困ったように苦笑いをする。
そもそも、何故アーラはこんなにも憤っているのか。
それは前日館に帰ってきた、オーベールの話が発端であった。
『母親を助けられる可能性』について言及したオーベールの真意を最初に問い質したのは、他の誰でもないアーラだった。
アーラは自分が来ている事を知らなかったオーベールの驚きを全く意に介さず、掴みかかるようにして事情の説明を促した。
それにより、アーラが事情を知っているらしいことを悟ったオーベールは、戸惑いながらも全てを話したのである。
***
先ず、オーベールが病気の母親を残して今までどこに行っていたのか。
館の誰しもが疑問に思っていた事であるが、その疑問に対してオーベールの回答はあっさりとしたものだった。
『王都に行ってたんだ』と。
それを聞いて思った事も、皆同じである。
何故そんな場所に居たのか? という疑問だ。
アーラがいる事は想定外だったものの、元々家の者には全てを話す予定だったオーベールは、詰まることなく話を続けた。
夫人の病気が『安死病』だと診断され、バレーヌ侯爵、オーベール共に手を尽くして薬を探したものの、効果のある薬はどこにもなかった。
昨年襲った流行病の時に出回った薬も手に入れたが、残念ながら特効薬にはなりえなかったのだ。
金はあっても、薬が無い。そんな状況だった。
なので、パウルースだけに止まらず、更に捜査範囲を広げて、パウルースよりも医学が発達している南の大国ソルベニアにも人を派遣して、薬を探させた。
しかし、それでも薬は見つからなかった。
多少症状を和らげる程度の効果はあるものの、治療薬には程遠い。
そんな薬を見つけるのが精々だった。
ただ、それでもバレーヌ侯爵は諦めず、薬を探し続けた。
そんな中、オーベールはこのままでは埒が明かないと、少し発想を変える事にした。
王都に行って、昨年の病の事について調べようと考えたのだ。
昨年の流行病は、パウルース国民にとってあまりにも身近に起こった出来事である。
その為、今更何を調べる事もないだろう、というのが大方の意見だった。
ただオーベールは、よくよく考えてみると昨年の流行病について、自分が知らない事の方が多い事に気付いたのだ。
安死病は昨年、パウルース全土で猛威を振るった。
しかし、それ以前に同じ症例が起こったという話はない。
つまり、昨年の病は今までに発生した事のない、新しい病だったのだ。
今でも病は、何時、何故、突然流行したのか、その原因すら分かっていない。
ただ、それでも王都の研究者達は、運が良ければ助かるという薬を何とか開発した。
という事は、研究者達には一般に出回っている情報より、より詳細な情報を掴んでいる筈に違いない。
オーベールはそこに着目し、というより最後の望みをかけて王都に向かったのだった。
しかし、実際王都に着いて研究者達に話を聞こうにも、その研究棟に入るには国王の許可が必要である事を知る。
なので、研究棟に入る事は叶わなかった。
幾らバレーヌ侯爵が、王都の貴族達に一目置かれる有力侯爵だったとしても、オーベールにそれは何の関係もない。
父の伝令でもなくば、お目通りを願うなどありえないことだった。
そして、オーベールは思い立ったが吉日と勝手に家を出てきた為、そんなものがあろう筈もなかった。
そのまま、手立てなく無為に数日の時を過ごしたが、オーベールは再び発想を変えてみる事にした。
研究棟への侵入は無理でも、文官の記した資料の閲覧は可能だと思い至ったのだ。
王都ではここ百年以上に渡り、パウルースで起こった出来事が記録され続けている。
それは歴史書という形で、王宮の資料室に収められており、その資料の閲覧は研究棟への侵入ほど厳しくない。
そこの資料を読めば、何か情報が得られるかもしれない。オーベールはそう考えた。
もちろん、それでも市井の民に閲覧が認められる事はない。
あくまで貴族、それも有力貴族のみが認められる権利であった。
オーベールは有力貴族の家柄の者、などと自分を捉えた事はない。
なので、そんな立場の者として振舞う事は、正直毛嫌いしていた。
有力侯爵の一人息子という立場上、公の場に立つ事もあったが、極力そう言った機会は避けるように努めてきた。
しかし、今回はそのような事は言っていられない。
父親の威光を利用して、資料室の閲覧を顔見知りの文官に求めた。
バレーヌ侯爵の名を出して、拒絶できる者などそうは居ない。
オーベールが接触した文官も、快く資料室に通してくれた。
バレーヌ侯爵への覚えを良くしたいとでも考えていたのか、その文官は資料について丁寧に説明してくれた。
その助力もあって、数日資料室に篭った末。オーベールは気になる資料を発見した。
それは、ある領地の人口調査結果の記述だった。
無論、正確な民の数などは調べようもないので、あくまで大凡の情報であろう。
が、それでもその情報は捨て置く事が出来ないと、オーベールは感じた。
それは、殆どの領地の街村において、流行病の発生以前の人口数が、流行病発生以後に減少しているのに対して、その領地のとある村の人口が、寧ろ増加していたという記述が目に留まったからであった。
ただ単に、その村では発症者がいなかったと考えるのが普通である。
しかし、何故か気になったオーベールは、この資料についての詳細を文官に尋ねた。
幸いにも、この事は文官もよく知っており、仔細を教えてくれた。
何でも、その領地には一人の腕の良い医師が住んでいるらしいという事。
そして、その医師が治療に当たった安死病患者の多くが、死の運命から逃れられているという事。
更に、その医師は土地の人間によって、こう呼ばれているという事を。
――――『神の医師』と。
文官はそこまでをオーベールに話して、田舎なので事実より大袈裟な話になっているに違いありません、と笑った。
ただ、そんな医者がいるという噂は聞いたことがなかったオーベールは、期待を胸に、その地を訪れる事に決めていた。
オーベールは文官に礼を言った後、急いで王都を後にした。
その村の場所はフォレスタから北に行った場所にある為、報告を兼ねて一度フォレスタに戻って――――アーラに捕まった。
このような経緯があって、『神の医師』のいる町のある領地、『モンスール』に向かおうとしていたオーベールに対して、アーラは同行を主張しているのであった。
***
「何と言われようと、私は絶対に行くぞっ!」
眉間に皺を寄せながら、アーラは叫ぶ。
フォレスタより北の領地は、治安の良い土地ではない。
辺境であり、盗賊などが横行している土地である。
そんな場所にアーラは連れて行けないと、オーベールを始めとする、マリッタ、執事らに翻意を促されていた。
だが、アーラは頑なに納得しようとしない。
夫人を助けられるかもしれないという話を聞いて、居ても立ってもいられなくなったのだ。
その気持ちは痛いほど分かったものの、オーベール達も同行を認める訳にはいかない。
そうして、互いの主張は平行線の様相を呈していた。
そのまま暫く対峙を続けていたが、やがて執事は、ほう、と息を吐き、苦りきった顔で言った。
「アーラ様。どうかご自重下さい。もし、アーラ様が北の土地に旅立ったという話が奥様のお耳に入りましたら、間違いなくご心配なされます。当然、お体にも良くない影響がありますでしょう」
嫌な言い方だとは自覚しつつも、執事は諫言する。
ただ、これがアーラに一番通じる言い方だと確信していた。
「そ、それは……」
事実、アーラは動揺を見せた。気勢が大幅に削がれている。
それを悟ったマリッタが、ここぞとばかりに畳み掛ける。
「それに、バレーヌ侯爵から侯爵夫人の事を頼まれたんじゃなかったでしたっけ? お嬢さんが行ってしまったら、誰が夫人の看病をするんですか?」
「む、む……しかしだな……」
「お嬢さん。もしかして、侯爵との約束を違えるつもりです?」
「あ、そ、そんなことは……」
意気消沈していくアーラだったが、苦し紛れに何かないかと周囲を見回して――――閃きを得たように声を張り上げる。
「っと、そうだっ! オーベール殿が居るではないか! 実の息子が居るのだ。夫人の事はオーベール殿に任せて、私が代わりにモンスールに行けばよい!」
アーラの視線の先にいるオーベールは、一瞬弱ったような顔をする。
ただ、直ぐに気を取り直し、穏やかに言った。
「自分の母親のことを頼みに行くのです。息子である僕が直接行くというのが筋というものです。それに、僕よりアーラさんが居たくれた方が、母さんも喜びます」
オーベールとて、本当は病気の母親に付いていてあげたかった。
ただ、その母親の病を治せる可能性があることを聞いては、行動せずにはいられなかった。
執事はオーベールが行くことも納得できないのか、眉を顰めているものの何も言う事は無かった。
何か言う事により、アーラが再び勢いづくことを恐れているのだろう。
「それは、しかし……」
オーベールの言葉の正しさを認めたのか、アーラも言葉が弱々しくなる。
他に主張できる材料はないのか、アーラはそのまま黙ってしまった。
それから、アーラは三人に矢次に諌められ、結局夫人の傍に居る事を了承することになった。
***
翌朝。
「――――仕方ない。私の代わりに、奴らに同行を頼むが良い」
という、オーベールに対してのアーラの提案によって、グラストス達は領主の館に呼ばれていた。
領主の館に行くのを嫌がっていたドレイクも、今回はアーラの命を受けたマリッタによって、無理やり連れて来られていた。
居心地悪そうに、応接室の隅に立っている。
他の二人も、どこか緊張した面持ちで所在無げに控えており、そんな彼らにオーベールの自己紹介と共に、護衛の話が告げられた。
事情を聞いて、三人は特に躊躇わず頷いた。
グラストスは、それがアーラの助けになるなら、と考えているように見える。
ドレイクは、暇潰しになる、とでも思っているに違いない。
リシャールは――――恐らく一人残されるのが嫌だったのだろう。
そうして、三人は一度宿に戻り旅の準備をすると、再び領主の館に出向いた。
オーベールと合流すると、アーラの荷馬車に乗って、北の地へ旅立ったのだった。
+++
館の前で、一行の馬車が北門の先に消えたのを見送って。
オーベールが旅立つことを、最後まで不安そうにしていた執事を安心させるように、アーラが言葉をかける。
「大丈夫だ。奴らが一緒なら、オーベール殿に危険はあるまい」
「はい……」
執事は頷いた後、ゆっくりと顔を上げた。
「申し訳ありません。アーラ様にお気遣い頂くとは……」
「気にするな」
アーラは僅かに相好崩して言った後、夫人を見舞ってくる、と館の中に消えていった。
「…………少なくとも、ドレイクは腕の立つ男です。万が一にも盗賊なんかに遅れをとったりはしません。オーベール様が凶刃に曝される、なんて事はないでしょう」
ジッと、アーラの後姿を見ていた執事に、マリッタはそんな言葉をかける。
マリッタはあくまで自分はアーラの護衛であると主張して、この街に止まっていた。
その言葉通りでもある反面、モンスールまで足を運ぶのが面倒だと思ったのに違いない。
「有難うございます……。ええ、心配などしておりませんとも。ああ見えて、坊ちゃまは逞しいお方です。加えて、とても運が良い。災厄の方が避けていくでしょう。それに――――」
執事は一息で答えた後、一度間をおいて、一段としっかりした口調で告げた。
「坊ちゃまとアーラ様が一緒になる前に、何かあってもらっては困ります」
「なるほど……………………え?」
「ん? どうかなされましたか?」
目をまん丸と見開いて、自分を凝視してくるマリッタを、執事は不思議そうに見つめた。
マリッタは何かとても重大な事を聞いたような気がして、強引に心を落ち着かせる。
そして、気になった部分がどこだったかに気付くと、再度尋ねた。
「オーベール様と、お嬢さんが一緒になる、とはどういう事です?」
「おや? もしやマリッタ殿は、ご存知なかったのですかな?」
執事は皺だらけの顔を綻ばせる。
そして、どこか誇らしげに言った。
「坊ちゃまとアーラ様は、ご幼少のみぎりからの、許婚の間柄でございます」
「許婚!?」
マリッタの驚愕の叫びが、街の雑踏の中を突き抜けて響き渡った。
通行人が何事かと視線を向けていたが、マリッタにそれを気にする余裕はなかった。
確かに、アーラはビリザド領主、ベッケラート侯爵の次女であり、名門貴族である。
そうした存在が居てもおかしくはない。
「そ、それで、その……時期とかは決まってるのですか?」
喘ぐ様にマリッタは尋ねる。
「ご結婚される時期のことですかな? ええ。それはアーラ様が十八に成られるのを待って、という話になっております」
「十八……」
アーラは現在十六なので、二年後である。それほど先の話ではない。
マリッタはようやく、この館の人間がアーラを、まるで主人の様に敬っている理由が分かった気がした。
驚きからの動悸そのままに、マリッタは最後に一つだけ確認した。
「お嬢さんは、その事は知っているのですか?」
昨日からのアーラのオーベールに対する態度が、許婚のソレではなかったので、マリッタはどうしても気になったのだ。
一方、執事は静かに頷く。
「ええ。アーラ様もご存知です。と言いますか、齢十八に成ってから、という制限を設けられたのはアーラ様ご自身であると伺っております」
「そうですか……」
別にマリッタは反対している訳ではない。
オーベールの人柄はまだ良くは知らないが、昨日から接した感じからすると悪くはなかった。
貴族に有りがちな、驕り高ぶった所は微塵もなかったからだ。
容姿も端麗で、人柄も良い。生憎、剣は達者ではなさそうだが……それは大きな問題ではない。
しかし、それでも、アーラと許婚という単語が、マリッタの中で繋がらなかった。
マリッタは何となく館の方を見る。
もちろんアーラの姿が透けて見える訳もなく、ただ外壁を眺める事になった。
そして、釈然としない想いが、マリッタの中に微かに沈殿していった。