57: 泉 ※地図
グラストス達が森に入った時より少し後。
そして、ドレイクよりは少し前。
アーラとマリッタ、そして自警団達は森に侵入していた。
グラストス達と異なり、アーラ達にはこの森に詳しい街の人間が居る。
迷う事なく目的の場所に進む事が出来ていた。
その場所とは、森の中央にあるという泉である。
アーラは一角を探しながらではあったが、子供達の捜索の方を優先していた。
子供達が向かいそうな場所を同行している団員達に尋ねた所、得られた回答が”泉”だった。
アーラは子供の頃からよくフォレスタを訪れていた。
しかし、北の森に入った事は一度もなかった。
ただフォレスタの街で生まれ育った子供は、皆この森で遊んできたのだと言う。
そして、その時に一番の遊び場としていたのが、森の中央の泉なのだと、自警団員達は昔を懐かしむようにそう語ったのだった。
「しかし、入り口で馬を見かけて以来、生き物と遭遇しないな。小動物は割と居ると言う話だったが……」
道中、不意にアーラが周囲を見回しながら呟いた。
魔物が居ないかをそれとなく探っていた為、気づいた事だった。
「そうですね……確かに遭遇しませんね……」
自警団員たちも、言われてみればそうだと気付いたのか、立ち止まって辺りを見回し始める。
「いつもなら、もっと色々見かけるのですが、今日は運が悪いようですね」
自警団員の一人がそう言って笑う。
他の団員たちも同じ意見なのか、大して気にした様子なく再び歩き始めた。
団員達が言うならそうなのだろう、とアーラも移動を再開する。
そうして、自警団員に先導されながら森の中を進んでいると、
「……………………っ!!」
どこからか叫び声が聞えてきた。
ただ森の中を反響し続けて微かに届いた、という声だった為、なんと言っていたのかは誰も聞き取れなかった。
「今の何だ?」
「大方、自由騎士の連中が森で騒いでいるんでしょう」
アーラの問いに、中年の団員が呆れたように話す。
「フォレスタには魔物は殆ど生息してませんから。奴らも鬱憤が堪ってるんでしょう」
続いて若い団員が、そう言って笑う。
その言葉に自警団員達は笑いに包まれた。
どうやら団員達はあまり自由騎士達を良くは思っていないらしい。
フォレスタもそうなのか、とアーラはビリザドと重ね合わせながら、新たな事実に気付いたように驚いていた。
自警団というのは性質上、騎士団に近い。
自由騎士を良く思わないというのは、その流れに沿っての事なのだろう。
ギルドの人間であるマリッタは、その笑いを不快に思っていたか、というとそうではなかった。
もちろんいい気はしていなかったが、そういう風に言われる事は慣れている。
今更どうこう言うような想いは持っていない。
今はそんなことよりも、直感とも言うべき勘が、警戒を怠るなと警鐘を上げているのだった。
なので、完全に油断している他の面々の中、ただ一人だけ気を張って歩いていた。
「~~~~~~よっ!」
再び、どこからか大声が聞えてくる。
はっきり聞き取る事は出来なかったが、先程よりは聞えてきた声は大きかった。
泉に向かって進んだ事で、声の主と近づいたらしい。
「今のは……悲鳴じゃなかったか?」
「そ、そうですね……」
アーラの呟きに、団員の一人がどもりながら言葉を返す。
「魔物に襲われたのか?」
「……まさか。一角は人を襲ったりはしませんよ」
続いてアーラの推測には、マリッタが否定する。
その言葉を聞いて、その場が沈黙した。
やがて、アーラがマリッタに尋ねる。
「では、何の悲鳴だ?」
「…………」
それにはマリッタも答えられなかった。
暫し黙った後、返答の代わりにマリッタは提案する。
「……ともかく先を急ぎましょう。泉に行って子供達が居なければ、声のした方に向かえばいいでしょう?」
それに異論のある人間はいなかったので、一行はそのまま足を進めることにした。
不安からか、心なしか皆の足は速くなっていたが、それを咎める人間は居なかった。
+++
「そろそろ泉に着きますよ」
それから少しして、団員がアーラ達に伝えた。
泉が近いということだったが、特に周囲に変化はない。
少なくともアーラに違いは分からなかった。
それより、子供達の事がある。
アーラは再び意識して、周囲の警戒を行い始めた。
そんなアーラに釣られる様に、他の面々も表情を引き締め、周囲を見回しながら進んでいた。
それが幸いした。
「あ、あ、あ、あ、ああああ!!」
突然、団員の一人が一方を指差しながら、声を震わせて意味の通らない言葉を発する。
何故そんな声を? という疑問は誰の口からも出なかった。
皆、彼が何を見て驚愕していたのかに、直ぐ気づいた為である。
「そ、そんな!? リザードドラゴン!?」
叫んだのはマリッタだった。
アーラ達から見て、右手の方角。
そちらから巨大なトカゲが長い舌を出しながら、ゆっくりと近づいて来ていた。
更にマリッタが叫ぶ。
「逃げて!! 逃げなさい! とても敵う相手じゃないわっ!!」
だが団員達の足は動かない。
恐怖に足が竦んでしまったのだ。
マリッタは鋭く舌打ちして、彼らの身体を拳で殴りつけながら退避を促す。
その隣で、シュラン、と音がした。
ハッとして、マリッタは視線をやる。
見ると、アーラが小さく震えながら剣を抜いていた。
思わずカッとしたマリッタは、敬語も忘れてアーラを怒鳴りつける。
「何やってるの!! 逃げなさいって言ってるでしょう!! 死にたいのっ!?」
マリッタは絶叫すると、アーラの腕を乱暴に引っ張りながら、西に向かって走り始めた。
「貴方たちも!! 食い殺されるわよっ!?」
団員達はマリッタの言葉を聞いて。
間近に迫ったリザードドラゴンの大きな口から覗く、鋭利で巨大な牙を見て――――ようやく足を縺れさせるようにして走り始めた。
一度逃げ始めれば、もう抑えるものは何もない。
団員達はもはや恥も外聞もなく悲鳴を上げながら、マリッタの後に続くように我先にと必死に逃げていた。
最初こそ腕を引っ張られていたアーラも、やがて抜いた剣を収めることも忘れて、固く握り締めたまま走り続けた。
マリッタは守るようにアーラの後ろを走り、追って来るリザードドラゴンを警戒しながらも、脳裏にはずっと同じ疑問が浮かび続けていた。
(何でこんな場所に!?)
という疑問が。
***
「あっちか……」
ドレイクは一人、のんびりと森の中を歩いていた。
特に目的地を決めている訳ではなく、魔物の気配がする方向に都度修正を加えながら、向かっているのだった。
”魔物の気配”と言っても、その内容は一言で言い表す事は出来ない。
魔物の足跡、声、鼓動、息遣い、糞、食べ残し――――そういった魔物に関する事柄全てが”気配”だと言えるからだ。
そして、それは人間も同様である。
ドレイクは、以前グラストスに非常識な能力を持っていると内心称されていたが、実はそれもこういった事を突き詰めていった、という結果に過ぎない。
観察眼さえ養えば、同じような事は誰にでも可能な能力なのである。
もっともそれは、並大抵の事で得られる能力ではなかったが。
ともあれ、ドレイクが今魔物の”気配”を何を持って感じているのかと言うと、地面に残る足跡や体液からだった。
そういったドレイクの”気配”察知から、魔物は今活発に移動をしている事が分かった。
その為、南東から森に入ったドレイクは、魔物が動き回っているのを追って、北西に移動していた。
そうして、今のこの森の人間で唯一リザードドランゴンの存在を予め知っていたドレイクは、とてもそうとは思えないほどのんびりと歩いていた――――のだが。
突然、目の前の茂みがゴソゴソと動き始めた。
”小動物か?”と思ったドレイクは、左程気にせず通り過ぎようとする。
その眼前に――――
「あとは泉だけだ。いそげ。はやくしないとルーが悪いやつにやられちゃうぞ!」
「わかってる!」
「…………うん」
真剣な表情で飛び出してきたのは、ある意味では小動物とも言える、幼い子供達だった。
イーナ達である。
「うおっ!?」
流石にドレイクは、足を止めて驚いた。
その声でドレイクの存在に気付いた子供達は、ドレイクの格好を見て一様に小さな目を大きく見開く。
「おい。こんな所で何をしてるんだ? ここは危ないから早くお家に帰りな」
まだ内心では驚きながらも、ドレイクは子供達に声をかける。
子供達に付き添って一旦外に出ようか、などと考えていた矢先。
「おまえもあいつらの仲間か!」
「ルーはわたさないわ!!」
ドレイクが肩に担ぐ大剣に気付いた子供の内の二人、コリンとエイミーがドレイクに掴みかかった。
と言っても身長差があるため、足に取り付く事しか出来なかったが。
「お、おい。こら、やめろ!」
子供に纏わり付かれた程度で、どうにかなるドレイクではない。
ただ、とりあえずその場を逃れる為に、一芝居うつ事にした。
「うわぁ。やられた!!」
そう言って、ドレイクは背後に大の字で倒れ込んだ。
「やったぁ!」
喜ぶコリンだったが、エイミーは首を振る。
「まだよ! 大人がこれ位でやられるわけないじゃない!!」
ギクリ、とドレイクは身を竦ませる。
「くそ、だましたのか!! じゃあとどめだ! イーナもこい! いっしょにルーを守るんだ!」
「…………」
イーナは何も言わなかったがコクリと頷くと、子供達は三人で倒れたドレイクの体の上で、ピョンピョン飛び跳ね始めた。
「ぐはっ! ま、まいった! 許してくれ! 降参だ!!」
子供達に踏み付けられながら、ドレイクは必死に許しを請う。
ドレイクは上鎧を着ているので上半身は大丈夫だったのだが、子供の内の誰かが下腹部で飛び跳ねているのは、素直に辛かった。
やがて、子供達はぐったりしたドレイクを満足気に見つめると、
「もうルーにちかよるな! じゃないと、またやっつけてやるからな!」
「もういいわ。行こう! ルーをアタシたちで守るのよ!」
「……うん」
三人は決意に燃える瞳で誓い合い、再び茂みの中に消えていった。
どうやら森の中で、子供達だけが通れるような小さな抜け道を知っているらしい。
子供達が消えるなり、むっくり起き上がったドレイクは、その姿を見失ってしまった。
「まじいなぁ」
ドレイクは子供達の消えた茂みの方を見つめながら、頭を掻く。
リザードドラゴンは足が遅いので、大人ならば走れば逃げ切れるが、子供ではそうはいかないだろう。
「さて、どうしようか……」
子供達を先回りして強引に身柄を確保し、外に連れ出す事は出来る。
ドレイクは考えて――――
「やっぱ、先にトカゲを倒すか」
そう結論付けた。
仮に子供達を捕まえて外に連れ出せたとしても、先程の彼らの様子からすると、また再び森に侵入するだろう事は想像に固かったからだ。
ならば先に危険を取り除いた方が良い。
ドレイクはそう考えたのだ。
「しかし、一体何を守ろうとしてたんだ……?」
まさか、子供達が魔物を守ろうとしているとは夢にも思わないドレイクは、痛む下腹部を手で擦りながら再び気配を追って歩き出した。
***
「はぁはぁ……」
「ごっ、ごほっ!」
「……何なんだ……あいつは」
森の外で、四人の男女が思い思いの格好で地面にへたれこんでいる。
そんな彼らを同じく疲れ果てた表情で見つめながら、グラストスは痛む頭を振り払うようにして、仰向けに倒れているリシャールに問いかけた。
「……リザードドラゴン、とか言ってたな。今日の魔物は、命の危険がある相手じゃないんじゃなかったのか?」
その言葉に呼吸すら止まっているのではないのか、という風に力尽きていたリシャールが、突然ガバッと起き上がる。
思わず身を引いたグラストスを他所に、リシャールは大声で何かを罵り始めた。
あまりに聞くに堪えないそれに、グラストスは顔を顰める。
単語を拾うと、ドレイク、クソ中年、騙しやがって……そんな所である。
ひとしきり悪態を漏らし続けると、ようやくリシャールは落ち着いた。
肩で息をしながら、グラストスを振り返る。
「はぁはぁ……すいません。もう落ちつきました……」
「ああ……で、どうなんだ?」
「はい、っていうか、グラストスさんが感じたままです。命の危険がある、とかじゃなくて命の危険しかない相手です」
リシャールはやけにきっぱりと断言する。
「グラストスさんにも分かりやすく言いますと、あれはあのグレーターベアを、捕食しちゃうような魔物です」
「…………」
非常に分かりやすかった。
グラストスは声もでない。
グレーターベアを数名で死ぬ思いをして何とか倒せた自分達の敵う相手ではないという事が、十二分に分かったからだ。
だがここで、グラストスは思い出した。
「待て。そんな魔物が居る森に子供達は入ったのか!?」
今までは焦りながらも、大した危険のない魔物と聞いていて、少しだけ安心していた部分が確かにあった。
が、あんな魔物が居ると分かれば、そんな甘い思いは吹き飛んでしまう。
「非常に危ないですよ。僕らなら走れば逃げれますけど、子供の足じゃあ……」
「ちっ!」
グラストスは、慌てて立ち上がる。
そして、疲れ果てた表情で地面に座っていた自由騎士達に近づいていく。
彼女らは俯いていた視線を上げて、グラストスを見つめた。
「アンタら、すまないが力を貸してくれないか!?」
グラストスは、一方的に事情を説明する。
話し終えると、再度同じ頼みを繰り返した。
「……こんな朝早くに子供達が森に? 間違いないのか?」
自由騎士達の中のリーダーらしき女騎士が、まず返してきたのはその疑問だった。
グラストスは「確信はない」と答えた後で、「ただ、居ると思っている」とだけ話した。
神父との約束からルーの話は出来ないので、そう言うしかなかった。
暫し考えて、女騎士は力なく首を振った。
「子供達は心配だし、力になってやりたいが……アタイ達では足手まといになる。情けないけど足が震えて動かないんだ……」
「悪い……」「申し訳ない」「ごめんなさい」
他の騎士も口々に謝罪する。
それらに対して、何かを言いかけたグラストスだったが、結局は何も言わなかった。
「すまない。こいつらを死なせるわけにはいかない。アタイ達はただここで一角を見たって話を聞いて、それを狩りにきただけなんだ。ただ、あんな奴が居ると分かったら、とてもそれを続けられないが……」
「そうか」
「……アンタ達は、探しに行くのか? あんなのが居る中に」
「ああ」
女騎士の問いに、グラストスは即答する。
それを聞いて、リシャールは悲鳴を上げた。
「む、無理。無理ですよ!! 死ぬます。間違いなく死にます!!」
「何も戦おうって言うんじゃない。こちらの方が足が速いのなら、ずっと逃げ回ればいい」
リシャールの方を振り向いて言葉を返してから、グラストスはもう一度女騎士を振り返った。
「分かった。命をかけてくれとは言えない。ただ、一つ頼まれてくれないか?」
「何だい? アタイ達に出来ることならしてやりたいが……」
「俺達……俺が森から子供達を連れ出す前に、また誰かが森に入らないとも限らない。アンタらでそれを防いでいてくれないか? 後、自警団にも連絡をしてほしい」
複数形から単数形に言い直したのは、リシャールが青ざめて震えているのが視界の隅に入ったからだ。
子供達が中に居る確証もなく、命に関わる事なので無理強いはできない、とグラストスは考え直したのである。
グラストスの頼みに対して、女騎士は仲間と顔を見合わせて目で語り合うと、今度ははっきりと頷いた。
「分かった。それに森の周囲を見回ってみるよ。森の中には入れないけど、周囲を見回って子供達が居ないかを調べることなら出来る」
「そうか、助かる」
その後、互いに簡単に自己紹介と森の情報収集をし終えると、グラストスは森に向き直った。
なお、女騎士の名はイザベラというらしい。
グラストスよりも身体が大きく、逆立った真っ赤な髪が特徴の、気のいい女自由騎士だった。
話をしていて、アーラとは気が合うかもしれない、と何となくグラストスは感じていた。
「リシャール。お前もイザベラ達を手伝っててくれ」
グラストスは、まだ青い顔のリシャールに言葉を残す。
リシャールは恐怖と申し訳なさが同居したような、何とも言えない顔でただコクリと頷いた。
それを笑って見届けると、グラストスは森の周囲に沿って歩き始めた。
街道の位置から判断すると、グラストス達はどうやら森の北西から外に出たらしい、という事が分かった。
なので森の北部までぐるりと回り込む。
流石に同じ場所から入り直すのは憚られた故の行動だった。
そして、突入位置を決めると、グラストスは眼前に広がる森をジッと見回した。
最初に入った時は何て事のない森だと思っていたが、今は異様な雰囲気を発している様に感じられる。
それもこれも『リザードドラゴン』の存在故である。
(無事で居てくれ……)
グラストスは一度願うように目を閉じると、再び森の中に足を踏み入れていった。
+++
意を決して森に入ったグラストスを、静寂の森が迎え入れる。
閑静なその様子からは、とてもあんな危険な魔物が生息しているようには思えない。
そう考えて――――グラストスは気付いた。
(……そうだ。静か過ぎる)
神父の話だと、この森には魔物は生息していないが、小動物は居るという話だった。
だが、森に入ってから、グラストスは全くその姿を見ていない。
人の気配を感じて隠れている可能性や、偶々見つけられなかったという可能性もあるが、あの魔物を見た後だと、グラストスは別の解答も思いつく。
あの魔物に食されてしまった可能性や、森から小動物が逃げ出してしまった可能性である。
この森は小さな森である。
正解がどれであるにせよ、小動物はいずれ居なくなってしまうだろう。
もしそうなったら、あの魔物の向く矛先は――――
以前、フォレスタギルド支部長アドルファスがドレイクに語った内容と全く同じことを、グラストスは想像していた。
あの魔物は狩らなくてはいけない。
それは間違いないが、グラストスは自分ではそれができない事は重々承知していた。
(それはドレイクに任せるしかない)
ドレイクはあの魔物を狩ろうとしていたらしい。
リシャール曰く、獲物が何かも分かっていたようだった、との事だ。
リシャールが知っている魔物の情報をドレイクが知らないとは思えないので、ドレイクはあの魔物の事を良く知った上で依頼を受けたに違いない。
(何ておっさんだ……)
グラストスはただただ呆れていた。
リシャールが居ない為、グラストスは間違えていない自信は無かったが、今は森の中央に向かっていた。
イザベラから中央に泉があると聞いた為である。
子供達がどこに居るのかは全く想像がつかないので、探すとすればルーの方である。
あの魔物の生態を馬だとすると、必ずどこかで水分は補給している筈だ。
だとするならば、ルーは水場の近くを寝床にしているのではないか、とグラストスは考えたのだ。
(しかし……疲れるな)
森に入り直してからまだ少ししか経っていないが、常に周囲を警戒し続けるという事の大変さを、グラストスは改めて感じていた。
しかも、今は一人である。
警戒を分担する事はできない為、一人で全方位を警戒する必要があるのだ。
ビリザドの森では大抵リシャールかサルバが居たので、一人きりの辛さを知ったのは初めてだった。
そうして、いつもよりずっと早く消耗しながらも、懸命に歩き続けていたグラストスだったが……。
懸念が現実のものとなってしまった。
再び自分の現在位置が分からなくなったのである。
(くっ、まずいな……)
今度は森を侮ってはいなかったが、周囲を警戒してずっと見回していた為、少し気が緩んだ際に位置を見失ってしまったのだった。
ただそのグラストスの動揺は、別の形で拭われる事になった。
グラストスから見て右手方向の斜め前、森からすると南南西の方向から、何者かの大声が響いてきたのである。
明瞭ではなかったものの、その声は女性のものだったように聴こえていた。
(何だ!?)
子供達ではないようだが、無視するわけにもいかない。
もしあの魔物に襲われたのであれば、グラストスに何が出来るわけでもなかったが――――
囮くらいにはなれる筈だ、グラストスはそう考えてその声の方向に向かって走り出した。
***
一方、大声の主であったアーラ達はひとしきり走った後、逃げるのを止めていた。
観念した訳ではない。
魔物が追って来る気配が感じられなかったからである。
団員の一人が転んでしまいそれを助け起こしている時に、アーラ達はようやくそれに気付けたのだった。
「ま、撒いたか?」
「……分かりませんが……追ってきてはいないようです」
アーラもマリッタも逃げてきた方向を見つめたまま、言葉を交し合う。
一度立ち止まると、走った疲れと、必死に逃げていた為に忘れる事が出来ていた恐怖がぶり返してきたのか、団員達は次々に地面にへたり込んだ。
アーラも剣を抜きっぱなしである事を思い出したのか、それを鞘に収めなおすと同様にしゃがみこんだ。
そんなアーラ達の様子を横目で見ながら、マリッタは一人、立ったまま警戒を続ける。
「お嬢さん。森から出ましょう」
不意にマリッタ告げる。
それは当然、アーラが心配だったからだ。
この森に居るという子供達も心配ではあったが、マリッタにとって重要なのはアーラを守ることだった。
一体自分が何を言われたのか分からない顔をしていたアーラだったが、言葉の認識に至ったのか、険しい顔をして立ち上がった。
「それはならん。子供達も心配だ!」
「しかし……」
アーラがそう答えるのは分かっていたものの、マリッタは少し意外にも感じていた。
恐らく自身では意識しての言葉ではなかったのだろう。
今、アーラは『子供達も』と言った。
つまり他にも同じくらい心配している存在が居るという事である。
そして、それは自分達を指した言葉ではないことも、マリッタは分かっている。
アーラは『一角』を心配しているのである。
リザードドラゴンによって一角が食されてしまっていたら、角を得る事も出来ずに、夫人の治癒への希望は失われる。
その事を不安に思っているのだ。
そんな想いが口を吐いて出たのだろう。
――――普段のアーラであれば、子供達の心配を一番に考えるに違いなかったが……。
マリッタは、アーラの夫人への想いの強さを再認識していた。
「はぁ……分かりました。ただ約束してください」
「何だ?」
「アイツとは絶対に戦おうとはしない事。それが呑めないなら、無理やりにでも連れて帰ります」
目を細めるようにして、マリッタはアーラに告げた。
アーラは馬鹿にするな、と言うように頷く。
「分かっている。私でもあれには敵わないこと位は分かる」
さっきは剣を抜いた癖に、と思ったマリッタだったが、何も言わずに頷き返した。
「なら、そろそろ行きましょう。同じ場所にずっと居るのも拙いですし」
団員達は二人の会話を何となく聞いていたが、再び探索を開始するらしい事を聞いて、内心は激しく混乱していた。
ただ、アーラが行こうとしている事と、子供達が森に居る事。
それらの事実が葛藤となって、逃げたいと思う気持ちが溢れるのを圧し止めているのだった。
その堤防は脆く、今再び恐怖心を突付かれたら、確実に逃げ出してしまうに違いなかった。
――――だが。
「行くぞ!」
と、アーラに強く促されると、自然と体が動いてしまう。
命令系統が比較的確立されているフォレスタの自警団員の身体に染み付いた、習性のようなものなのかも知れなかった。
ただ団員達は、有力な貴族とは思えない少女の魅力によって、そうなってしまっている気もしていた。
まあ自分達より小さく、かつ女性のアーラが恐怖を圧して行動しようとしているのだ。
団員達が再び立ち上がった理由は、それだけで十分なのかもしれない。
+++
「なるべくそれぞれが違う方向を警戒して」
この場を実質取り仕切っているのは、この森に最も疎い筈のマリッタであった。
貴族でない上、明らかに団員達より年少だが、不思議と団員達は異論なく従っていた。
アーラ同様、逆らおうと思わない雰囲気がマリッタにはあった。
そんなマリッタの指示によって、一行はそれぞれが別の方向を監視しながら、再び森の中央に向かって歩き続ける。
警戒は十分なものではあった。
誰も気を緩めてはいないし、不必要に怯えてもいない。
しかし、一点だけ。
一度リザードドラゴンの大きさを目の当たりにしている為だろう。
マリッタを含めた全員の意識は、自然とあの巨体を捉える事に向いてしまっていた。視線は地面よりずっと高い宙へと送られている。
その為、突然樹々の間から飛び出してきたモノへの反応が僅かに遅れてしまった。
最初に反応したのは、やはりマリッタであった。
咄嗟に掌を向けて魔法を放とうとする。
「ま、待て!! 俺だ!!」
緑色の光に身体を包んだマリッタに、必死に弁解したのはグラストスだった。
「「グラストス!?」」
二人の驚きが、同時に森に木霊する。
何でここに、と三者は同じ事を思いながら見つめ合う。
と、その叫びから僅かに遅れて、
「お、やっと追いついたか……。ん? なんだ兄ちゃんも居るのか」
別の方向から、のっそりと別の影が姿を現した。
再び、今度は三人の声が重なり合う。
「「「ドレイク!?」」」
+++
三組は集い、簡単に事情を説明し合った。
中央に向かうのには全員異論はなかったので、歩きながらの話である。
ただ進軍速度は遥かに向上していた。
ドレイクが合流した為だ。
「アンタが居てくれて助かったわ」
マリッはホッと胸を撫で下ろすように言った。
ドレイクが居れば、もうリザードドラゴンから逃げ惑う必要はない。
というより倒す事さえ可能なのである。
ドレイク自身も狩りを目的として森に居ることを皆に説明した。
「あれを倒せるのか……」
アーラと、そして団員達は驚愕していた。
マリッタが確信している事もあったが、ドレイクが全く気負っていない態度からも虚勢でない事が分かったのである。
「しかし、兄ちゃん達がどこに行ったのかと思えば、こんな所に居たとはな」
ドレイクの言葉に、ジト目でグラストスが指摘する。
「……アンタがちゃんと宿に帰ってくれれば、こんな事態にはならなかったんだが?」
ドレイクは苦笑いで誤魔化したが、更に別口で追い討ちが掛かる。
「……そもそも、お前達が侯爵家から逃げ出さなければ、こんな事にはならなかった筈だ」
しかめっ面でそう告げたのは、アーラだった。
今度はグラストスも含めて、男二人で笑って誤魔化す。
そのままアーラの視線は二人を刺し続けていたが、
「まぁまぁ。ともかく急ぎましょう。ドレイクが子供達を見た場所からすると、子供達が泉に向かっているのに間違いないようですし」
マリッタがアーラを宥めた事によって収まった。
その言葉に団員達が頷く。
ドレイクの話を聞いて、子供達の進路を特定したのは彼らだった。
安堵からか、少し緩んでいたグラストスは、子供達の事を思い出すと改めて気を引き締め直した。
その時だった。
ヒヒン、と。
馬の嘶きが、全員の耳に入ってきた。
襲われた悲鳴、と言うより何かを森に伝えようとしてるような、そんな嘶きが。
「馬?」
「入り口で見た奴か」
マリッタとドレイクが呟く。
耳をそばだてる様にして、全員が立ち止まる中。
グラストスは一人。この場から弾かれたように駆け出した。
突然の行動に、アーラが慌てて問いかける。
「どうしたのだ!?」
「子供達が危ない!!」
振り返らず、グラストスは怒鳴り返した。
グラストスはその馬が、ルーであることを確信していた。
そして、その嘶きによって何を伝えようとしているのかも……。
なので、今は一瞬でも早くその場に辿り着けるように、嘶きの聴こえた方向へ一心不乱に駆け続けたのだった。
***
「……またきこえた」
イーナが小さな身体を、更に小さくしながら震えながら呟いた。
ドレイクと別れてから、ようやく森の泉に到着した子供達は、そこでルーが戻って来るのをずっと待っていた。
ここに来たのは今日二度目だった。
最初に来た時にはルーの姿はなかったので、他にルーがいる可能性のある場所を廻ることにしたのだ。
だが全て廻り終えて、未だ出会えていない。
こんな事は初めてである。
いつもならルーの方から自分達を見つけてくれる。もうとっくに出会えている筈だった。
子供達は途方にくれていた。
何より早朝からずっと歩き続けた事で皆疲れていた。
特に一番幼いイーナは限界だった。
なので休憩がてらこの場所で待つ事に決めたのである。
だが、そうして待っていると、先程から断続的に人の悲鳴が聞こえて来る。
イーナは言い様のない不安に襲われていた。
見知った森がまるで知らない違う世界に変わってしまった様に感じた。
「……ルー。だいじょうぶかな?」
イーナが泣きそうな顔で、年長の二人に問う。
そんなイーナを安心させようと、二人は必死に励ます。
「だいじょうぶよ。ルーは足がすっごくはやいもの。わるいやつらなんかに負けないわ」
「そうだ! きっと、もうすぐここに来るよ」
本人達も不安を感じているに違いないが、そうするのが年長者の務めだと、二人は思っていたのかもしれない。
そうして三人は身を寄せ合うようにして、泉の前でじっと座っていると、再び声が聞えてきた。
だが、今度は三人ともそれを不安に思わなかった。
何故ならそれは、家族の声だったからだ。
人の居る所では決して鳴き声を発さないルーだが、子供達の前だけは別だった。
神父ですら滅多に聞いた事のない声も、子供達には聞きなれたものなのであった。
「今の、ルーだ!」
「近くにきてるのよ! あとちょっとよイーナ」
「ルー……」
三人は喜んだ。
体の疲れもどこかにいったように、三人は立ち上がる。
ルーを出迎えようと三人は手を繋いで、少し拓けた所にある泉から再び森の中に戻っていった。
――――だが、三人を待っていたのは、凛々しい家族の姿ではなかった。
そこには何度も舌なめずりを繰り返す禍々しい存在が、異様な双眸を光らせて立ち塞がっていた。
子供達は声もなく逃げる事も忘れてただ呆然と、その巨大な姿がゆっくりと近づいてくるのを呆けた顔で見つめるのだった――――