56: 森
「……んあ? ……どこだ、ここは……?」
裏路地の隅で、のっそり起き上がった影があった。
その影は頭を掻きながら周囲を見回し――――どうやら自分が食堂街にいることを把握する。
大きな欠伸をしながら、何故こんな場所に居るのかを考えて――――
「ああ、そうか」
不意に、事情が下りてきた。
恐らく昨夜、酒を飲んだ後そのまま寝入ってしまったのだ。
それで閉店の時間になっても目覚めない自分を、酒場の店主がここに放り出したのだろう。
と、推測を交えていたものの、それが真実だろうと直感的に悟っていた。
「疲れてたしなぁ……」
酒は強い筈だが、一昨日はよく寝れていなかったのが原因だろうと思い至った。
不意に閃いたように懐を探る。
しかし、財布代わりにしていた布袋が存在しなかった。
寝ているうちに盗まれたのに違いない。
ただどうせ中には殆ど入っていなかったので、気にしない事にした。
「……くぁ……そろそろ戻るか。坊主達ももう起きてるだろうしな……」
そう欠伸交じりで呟くと、ドレイクはとっとと宿に戻る事にした。
+++
空を見上げると、既に陽は昇っていた。
まだ夜が明けてから、それほど時間は経っていないような位置に、それはあった。
なら丁度良かった、とドレイクは思った。
宿に戻ったら、そのまま狩りに向おうと決める。
そして、ドレイクはのんびりと歩きながら街を横断し、借りている宿に戻った。
部屋に戻る前に、宿の庭先にある井戸に行き、水を汲んで顔を洗う。
そうすると、ようやく昨日の酒が抜けていくようだった。
心なしか軽くなった足取りで、ドレイクは部屋に向かう。
「おーーい、悪いな。今戻った」
部屋の扉を開け放ちながら、中にいる筈の人間に謝罪する。
遅くなったことを二人に詫びようと口を開こうとするが、中は蛻の空だった。
「ん? どこに行ったんだ?」
先に森に向かったとは考えにくい。
魔物の事を知っているのは、ドレイクだけだからだ。
「こんな朝っぱらから、一体どこに行ったんだ……?」
と呟くが、答えを返してくれる者はいない。
ただ少し考えて――――ドレイクは気付いた。
「……ああ。嬢ちゃん達の所に行ってるのか」
それならば、納得がいく。
ドレイクは再び暫し考え、領主の館に向かう事に決めた。
一度大きく毛伸びをすると、狩りの準備をし始める。
篭手を左腕に装着して、安物の上鎧を身に付ける。
大剣を担いで、小荷物を腰に付けていく。
最後に大きな荷物を肩に担いで、準備は終わった。
仰々しい装備だが、今回の相手にはこれほどの準備をしても、し過ぎるという事はない。
ドレイクがビリザドで最も優秀な騎士の一人に数えられるのは、こうした事前準備を怠らない、と言うのも理由の一つだった。
「――さて、行くか」
+++
領主の館に辿り着いたドレイクは、中に入るのは躊躇われたので、守衛に二人を連れ出してもらうように頼む事に決めた。
門の前に立つ、自分と同年代と思われる守衛に近づいていく。
「おはよう。申し訳ないが、少し尋ねたいんだが」
守衛のベンは、突然話しかけてきた自由騎士風の男に一瞬怪訝そうな視線を送ったものの、穏やかな返事を返してきた。
「おはよう。自由騎士の方とお見受けするが、どうかしましたか?」
「いや、ここに十代の少年二人が、訪ねて来てるだろう? すまないが呼び出してくれないか?」
ドレイクもなるべく爽やかを装って尋ねたのだが、ベンの視線の圧力が強さを増した。
「……誰だ? アンタは」
明らかにドレイクを不審者として、警戒し始めている。
「いやいや、違う。俺っちは、ビリザドのお嬢さんを、ここに護衛してきた人間の一人だ。聞いてないか?」
慌てて弁解するドレイクだったが、ベンの視線は一層強くなった。
「……そんな方はここには来ていない」
ベンは白を切る。
(『方』なんて言っちゃ駄目だな)
などと、ドレイクは心の中でベンの対応を採点しながらも、どうしようかと考える。
「……そうだ。マリッタを呼んでくれ。お嬢さんと一緒にいる娘がいるだろう? その娘に判断してもらえば、俺っちがお嬢さんの護衛かどうか分かる筈だ」
「…………」
ベンは考えた。
確かに、アーラに護衛は数名いると聞いていた。
目の前の男なら、その護衛には相応しいようにも見える。
とは言え、素性のハッキリしない男に、アーラやその従者のマリッタを会わせる訳にはいかない。
少し考え込んで、ベンはドレイクの疑問だけに答える事に決めた。
「少年二人だったか、そんな二人はここには来ていないぞ」
それは事実だったし、それを答える事でアーラ自身には何ら不利益はない、と考えたのだ。
「何? 本当か?」
ドレイクは再度念押しで確認する。
「ああ。主神アマニに誓って、そんな二人は来ていない」
「そうか……」
アマニに誓う、とはこの国の人間の多くが、真実を語る時に用いる文句である。
もし嘘を言ったなら、アマニによって命を奪われても構わない、という己の決意を示しているのである。
ドレイクにとっては微妙な言い様だったが、その言葉を発した人間が嘘を言っていないことは疑う余地はない。
ましてや、門衛と言えど領主の関係者である。その言葉は重い。
ドレイクはベンの言葉を信じた上で、困っていた。
グラストス達はここに来ている筈だと思い込んでいたからだ。
宿に戻ろうか、とも一瞬脳裏を掠めたが、またわざわざ戻るのも面倒だった。
(仕方ねえ。一人で向かうか……)
そう決めると、「分かった。ありがとな」とベンに礼を言った。
そして、もし少年たちが訪ねて来たら先に森に行ったと伝えてくれ、と頼んでから、ドレイクは北門に向かってとぼとぼと歩き始めた。
まだ人通りの少ない北門を抜けて、そのまま真っ直ぐ半刻ほど歩く。
道は整備されており、迷う事無くその森に辿り着く事ができた。
「狭めぇな」
噂通り小さな森のようだった。
両端の終わりを視界内に納めることが出来る。
本当にこんな場所に『リザードドラゴン』が居るのか。ドレイクは疑うように森を見据える。
「まぁ、入ってみりゃ分かるか」
ドレイクはそう呟くと、魔物の気配を探りながら森の周囲をゆっくり沿うようにして歩き出した。
「ん。ここだな」
ある地点で足を止める。
躊躇う事無く、そこから中に入ろうとする。
だが、不意に何者かからの視線を感じて、ドレイクは首を巡らせた。
やがて、一点で止まる。
ドレイクの視線の先には、一頭の黒馬が居た。
少し離れた位置で、まるでドレイクを値踏みするようにジッと見つめている。
「お前さんは……」
ドレイクは何かに気付いたように、目を見開いた。
そのまま馬の姿を眺めていたが、間もなくふっと笑う。
「今日ここには人間が多く現れる。見つからないように気をつけな」
まるでその馬は人語を解すると分かっているかのようにそう言い残すと、ドレイクは森の中に足を踏み入れていった。
そのドレイクの後姿を、残された馬は澄んだ瞳で見つめて――――どこかに走り去っていった。
***
「……グラストスさん。まさかとは思うんですか……」
「…………何だ?」
慎重に、警戒するように、疑うように、リシャールが前を歩くグラストスに尋ねる。
「まさか、迷っていませんか?」
そんな訳はない。
この森には今魔物が居て、子供達が襲われるかもしれないのだ。
それを心配するグラストスが、まさかそんな事で停滞している訳がない。
「…………」
――――のだが、グラストスは返答できなかった。
ドレイクが森に入る、少し前に遡る。
神父と別れてから急いで森に走った二人は、結局それまでには誰にも遭遇することなく森に辿り着いた。
小さな森なので端から廻っていけば直ぐに見つかるだろうと、森の端の方から入って子供達を探し始めた。
そうして半刻が経過する。
が、未だ子供達の気配を感じる事すら出来ていなかった。
慣れない森で、グラストスは方向感覚を完全に見失っていたのだ。
驕りであった。
実際に活動したのは十数日程だったが、ビリザドの深く広大な森で狩りを行なっていたグラストスは、正直この森を侮っていた。
半刻と経たずに端から端まで行ける様な、ネムース大森林よりは明らかに小さい森であった為、これなら直ぐに子供達も見つかるだろう、と多少気を抜いてしまったのだ。
幾ら子供達のことが心配だったとしても、どんなに小さく見えたとしても、森を侮るのは間違いだった。
歴戦の自由騎士であれば、まずしない失態である。
ともかく、グラストス達は森の西側でぐるぐると同じ所を廻ってしまっていた。
グラストスよりは森に慣れているリシャールは、最初は何か意味あってのことだろう、と空気を読んで口を挟まなかったのだが、流石に様子がおかしいと思い始めて、ようやくグラストスに尋ねたのだった。
それは丁度グラストス自身も”もしかして迷っているのではないか”と思い始めた時だったので、答えに窮してしまったのだ。
リシャールの問いによって固まっていたグラストスは、やがて気まずそうに口を開いた。
「……どうやら、そうらしい」
「やっぱり」
リシャールは、はぁ、と溜息を吐く。
この構図は珍しかったが、もちろんグラストスがそれを面白がれる訳はなかった。
「ここは一旦外に出て、自分達の居場所を把握しましょう」
これまた珍しくまともな、リシャールの提案だった。
というより、本来ならばこちらの方がリシャールの本性である。
いつもは生来の臆病さの為、力が発揮できていないだけだった。
物心つく頃からずっと父親と色々な場所を旅してきて、色々な場所や旅における知識を持っているリシャールは、ドレイクと比較してもそれほど遜色ない狩りの知識を身につけているのである。
グラストスよりも、遥かに歴戦の騎士に近いと言える。
リシャールの提案に、グラストスは渋々頷いた。
急がば回れ、という言葉を知っていた訳ではなかったものの、一旦体勢を立て直した方が子供達を早く見つけることに繋がる、という事を直感で悟ったのだ。
そうして、今度はリシャールの先導によって再び歩き出した。
二人は今、森の中央から少し西側の地点に居た。
そして、西の端を目指して進んでいる。
流石に方向を見失わないリシャールは真っ直ぐ進んでいたので、二人が森の端に出るのも時間の問題だろうと思われた。
だが突然、リシャールの足が止まる。
「どうした?」
「いえ……ここに足跡があるんですよ。まだ新しいから、恐らく今日ついたんだと思います。僕達はここは通ってないから、他にも誰か来ているのかもしれません」
「何!?」
グラストスの驚きには、まさか子供たちのものか、という喜びが込められていた。
慌ててグラストスも地面を見つめる。
残念ながら子供のものではないが、確かにうっすらと数名の足跡があるのが分かった。
ただそれはジッと注視してようやく分かる程度のものである。
「……凄いな、リシャール」
グラストスは驚きと、称賛を込めてリシャールを褒めた。
リシャールは普段の余計な言動や、頼りない振る舞いが原因なのか、人に褒められる事は滅多にない。
貶され、怒鳴られる事の方が圧倒的に多かった。
とは言え、まだリシャールは十五で、かつ根は素直な性格である。
人に褒められることは大好きなのであった。
「そ、そうですか? ま、まあ大した事じゃありませんよ」
などと必死に冷静を装って答えているが、顔はだらしなく緩んでいる。
「俺には大人の足跡に見えるが……」
「そうですね。大人が、一、二……四人程ですね」
足跡を見ながら尋ねるグラストスに、リシャールは頷いて正確な人数を探り出した。
「そんな事も分かるのか……」
グラストスの瞳には称賛の色がはっきりと彩られていた。
そんな視線を受けて、リシャールは完全に調子に乗ってしまう。
「ど、どうします? この足跡を追ってみますか? ……僕なら可能ですけど」
「そうだな……この先に誰か居るなら、子供達を見た人が居るかもしれないし、仮に見てなくても手伝ってもらえるかもしれない。他に当てもない。追ってみるか」
もし仮にこれがマリッタであったならば、当初の考え通り、まずは自分達の居場所を特定する事を重要視しただろう。
が、今のリシャールはもっと褒められたい一心で、冷静さを完全に見失っていた。
こういった所が、リシャールがいまいち信頼を置かれない事に繋がっているのだが、本人は気付いていなかった。
そうして二人は、今の位置から北東に向かって続いている足跡を追って移動し始めた。
+++
足跡を見ながら後を追っているため、どうしても行軍速度は低下する。
それを肌で感じていたグラストスは、ある事が心配になっていた。
それはこの足跡の持ち主達が立ち止まりでもしない限り追いつけないのでは? という事である。
もし仮に、このまま持ち主達が歩き続けて森を抜けていたら、グラストス達の尾行は徒労に終わる。
それはあまりに虚しい。子供達の事も心配だった。
なので当初の予定通り現在地点を把握する為に、一旦外に出る方が重要ではないのかと、今更ながらグラストスは思い始めていた。
だが、その考えも杞憂に終わる。
進行方向の奥から、数名の叫び声が聞えてきたのである。
「今の!?」
「あっちだ!」
グラストス達の耳には、その叫び声は悲鳴に聞えていた。
もしかしたら、一般人が件の魔物に襲われたのかもしれない。
二人はそう考えて、急いで声のした方に駆け出した。
方向を見失う事はなかった。
大声がずっと森の中に響いていたからだ。
間もなく二人は大声を出している人物の姿を視界に捉えた。
人数はリシャールの言う通り四名だった。
男女二名ずつの集団である。
が、距離が近づくいていくにつれ、二人の脳裏に疑問が過ぎった。
四人は明からに武装しており、とても一般人には見えなかったからだ。
自警団員の可能性もあるが、場所からして自由騎士と考えるのが妥当だろう。
その魔物に慣れている筈の自由騎士達が、悲鳴を上げているのである。
やがて二人は、四人の下に辿り着く。
四人は驚愕と怯えが入った表情で一点を見つめ、訳の分からない言葉を発している。
「おい! どうし……」
グラストスは声をかけようとして、同じく固まった。リシャールも同様だった。
少し先の森の樹々の影から、首が異様に長いトカゲの化け物が近づいていたからだ。
それも――――荷馬車程の体躯を持つトカゲだ。
ソレは雄叫びを上げるわけでもなく、ただ猛然と樹々の間をすり抜けるようにしてこちらに向かっている。
薄暗い森の中で、その蛇のような強烈な瞳だけが怪しく輝いていた。
捕食者の目だ。
間違いなく、自分達を餌と見ているのだとグラストスは気付いた。
だが応戦する気は全く起きなかった。
「リ、リ、リザートドラゴンですよっ!! に、逃げましょう!! 無理です!! やられますよっ!!」
真っ先に我に返ったのは、リシャールだった。
真っ青な顔で後ずさりしながら、叫んでいる。
その叫びに、その場に居た四人の中の一人が反応する。
「あ、あれが!?」
どうやら、四人は目の前の魔物がリザードドラゴンである事には気付いていなかったらしい。
ただ名前だけは知っていたようだ。
怯えた顔をいっそう歪め――――手に持っていた武器を放り投げて、一目散に後方に走り出した。
それに続くように、グラストスとリシャールも走り出す。
「リ、リザードドラゴンは、あ、足は遅い筈です!! 走り続ければ逃げ切れる筈です!!」
「逃げ切れる『筈』!?」
リシャールの頼りない言葉に、グラストスが反応する。
「ぼ、僕だって実際に見たのは初めてなんですよっ!!」
それに怒鳴り返しながらも、リシャールは決して後ろを振り返ろうとはしない。
少しでも速く、この場を離れたいからに他ならなかった。
そうして、二人と四人は一度も足を緩めることなく、森の出口に向かって走り続けた。