28: 襲撃
2010/08/15 街門の方角修正=>西
この地方の農家の人間の朝は早い。
まだ外は薄暗い中畑に出かけ、日が傾き始めたら家に帰る。そんな生活を送っている為だ。
畑で育てている作物次第で微妙に差異はあるが、基本的には何処の農家も同じだった。
そして、街からネムース大森林まで伸びる間道の沿道にも、多くの農家が点在している。
その家々の者も、早朝に起きて軽めの朝食を摂ると畑に向かい、同じように自分の畑に向かう農民仲間と挨拶を交わしながらすれ違う。
お昼には、仲間皆で集まって談笑しながら昼食を摂る。
そんな穏やかな日々を、今日も送る――――筈だった。
だが、その日の始まりは、突然彼等に訪れた。
早朝の、まだいつもなら皆寝静まっている。そんな時間に突然外から物凄い轟音と、そして耳を劈くような咆哮が聞えてきたのだ。
比較的森に近い家の者は、何事かと、飛び起きながら家の外に出た。
外は朝霧に大地が覆い隠されており、少し先の地面も鮮明には見えない。
しかし、霧の向こうから、何か巨大なものが近づいてきている。そんな影だけは、見てとる事が出来た。
ズシンズシンと、間道中に聞えるような爆音を響かせながら。
ようやく視認できる距離までソレが近づいて――――農民達は、ある者は腰を抜かし、ある者は悲鳴を上げた。
影の正体は、森の背の高い樹ほどにも大きな体躯を持つ、巨大な四つ足の魔物だった。
自重からか、動きこそ遅かったがその魔物が明らかに怒り狂っているというのは、誰の目にも明らかだった。
加えて、その怒りが誰に向けられているのか、という事も――――
***
一報は、それから半刻後にアーラの元に届けられた。
まだ太陽ではなく、月が大地を支配している時間帯である。
当然、アーラもグラストスも、睡魔の中に浸かっていた。
そんな時間に、屋敷の扉をドンドンと、叩き壊すかのような勢いで打ち鳴らす者が居た。
本来なら、侯爵家に対してその様な振る舞いをするのは、礼儀知らず所ではない。
自警団に捕縛されても仕方の無い振る舞いだったが、今その扉を打ち鳴らしていたのはその自警団の人間であった。
応対したのは、就寝中であったものの、素早く起き出して来た小間使いのヴェラだった。
事情を聞き流石にヴェラも驚いたが、直ぐに持ち直し、その問題への対応を自警団員に指示した。
ヴェラは侯爵家に仕えている人間であって、別に貴族ではない。平民である。
本来ならそのような人間が、自警団の人間に指示を与えるなどあり得ない。
ただ、侯爵不在の現状、もちろん名目上はアーラが領主の代行を務めている事になっているが、この街を実質的に取り仕切っているのは、この小間使いであることは周知の事だった。
なので、指示を出された自警団員も不快に思うことすらなく、素直にその指示に従った。
団員が走り去るを見て、ヴェラは素早くアーラの私室に向かった。
一度扉の前で声をかけたが、主の少女はまだ夢の最中といった有様だった。答えは当然返ってこない。
だが、それは分かっていたことなのだろう。
ヴェラは返事を待たずに、主人の私室に押し入った。
一応、律儀にも、「失礼します」の声は掛けていたが。
少女は騎士を目指している筈だったが、突然の侵入者に身じろぎなどの反応すらしない。
幸せそうに眠っていた。
思わず溜息を吐くヴェラだったが、今はそんな事に構ってはいられない。事態は切迫しているのだ。
なので、耳元で何度も呼びかけて、無理やり叩き起こす事になった。
+++
居間には、既に服装を整えた三人がいる。
グラストスは何かいつもと違う気配を感じたのか、一人で起き上がってきた。
アーラとは違い、騎士の資質は十分なようである。
二人は流石に起きぬけは眠たげだったが、ヴェラから事情を聞くと完全に眠気が失せたのか、今は真剣な表情を貼り付かせていた。
「自警団には、逃げてきた農民の保護を最優先に行って頂くよう、お願いしておきました」
「そうだな。避難場所はここの前庭が良いだろう。好きに使ってくれと伝えておいてくれ」
「かしこまりました」
アーラの言葉にヴェラが頷く。
「では、街の住民の避難は、如何いたしましょう?」
「伝えたらかえって大騒ぎになってしまうんじゃないか?」
ヴェラの問いに、グラストスは懸念を示したが、
「大勢の農民たちが逃げてきた事は、何れ知れる。伝えない方が混乱を招くだろう。そうだな…………森に近い街の南側の住民達の避難を、自警団にお願いしておいてくれ」
アーラはそう判断する。
領主の居ない今、この街の行政を実質的に仕切っているのはヴェラである。
しかし、アーラは決してお飾りという訳ではない。
いつもはヴェラの方が巧く処理できると任せているが、緊急時にこそは領主代行としての責はこなせるだけの度量は持っていた。
この二人が居るからこそ、侯爵は憂い無く、この地を離れる事が出来るのである。
「後は、街の見回りを強化した方が良いんじゃないか? こんな時だからこそ、不正を働く人間も現れるかもしれない」
「私としては、そんな人間がこの街に居るとは思いたくないが…………」
「いえ、ここ数日、外からの人間も多数集まってきております。確かに疑いたくはありませんが、対処しておくことに越した事はないでしょう。それに、住民の方々が、不安から諍いを起してしまう事も考えられます」
グラストスの提案にはアーラは難色を示したが、ヴェラの助言により渋々頷く。
「……なるほど、分かった。それはヴェラに任せる。お前の思うようにしてくれ」
「はい。分かりました」
「では、私達はその魔物の所に往ってみる。まずは、この目で確認しない事には、対策も取れん。お前は自警団への指示と、住民の誘導。それと、ギルドへの連絡を頼むぞ」
ギルドへの連絡は、万が一の時の戦力を確保する為である。
自警団も居るが、この街で最も腕が立つのは、やはり自由騎士達であるからだ。
「かしこまりました。お嬢様もお気をつけ下さい」
アーラは頷いて、手に持っていた『エリザベス』を腰に差し込む。
グラストスと目配せを交わすと、連れ立って屋敷の外に駆け出していった。
***
まだ街には話が伝わっていないのだろう。
自警団の人間が慌しく走っているだけで、静かなものだった。
だが、恐らく一刻後には、その静けさが一変するのは容易に想像できた。
走り回っている自警団員は、アーラの姿を見つけると立ち止まり敬礼をしてくるが、アーラは今はそんなことは良いと、任務を優先させていた。
二人は大通りをまっすぐ抜け、西の街門まで走った。
ギルドの前を通った際に、どこで情報を聞いたのか、マリッタが合流してきた。
ギルド職員服の黒衣の脇に、愛用の短剣を差しており、準備は万端のようだ。
流石のマリッタも、今は厳しい表情をしており、緊張が伝わってくる。
アーラ達より魔物に詳しい分、この問題への危機意識が高いのだろう。
そうして三人は、門を抜け間道に入った。
間道には、森の方から逃げてくる農民達が、長くまばらな列を作っていた。
三人はそんな彼らの流れに逆走し、森に向かって走る。
「侯爵屋敷に避難しろ!」
すれ違い様に、そう呼びかけながらも、足は止めずに走り続けた。
アーラの姿を確認すると、助けを求めに縋り付いてくる男達も居たが、
「アーラ様の邪魔をすんじゃねぇ!!」
と、その妻や母親に殴られ諌められている光景が度々見られた。
このビリザドの気風として、男よりも女の方が強い傾向にある。
その事を示すかのように、男衆が泡食って逃げようとしている中。
女衆は一致団結して、年老いた者や、幼い者達を優先して逃がそうとしていた。
グラストスはそれを見ながら、この地の女性の逞しさに恐れ入ると共に、素直な尊敬の念を抱き始めていた。
三人は逃げる人々の邪魔にならぬよう、沿道のあぜ道を通って走り続けた。
間道に入り一刻近く過ぎただろうか、三人は前方におかしな影を見出した。
「あれか!?」
その影は近づくにつれ、その威容を明らかにしていった。
この田園風景の中では、明らかに浮いている。
剣も通らぬような硬そうな皮膚に、怒りに燃える紅い瞳が見える。
四肢の一本一本は、大人十人が手を繋いで作った輪ほどに太く、農家の家がまるで子供の玩具のように見える程、巨大な体躯を有していた。
前足を大きく上げて振り下ろす度に、轟音と、そして、家屋が倒壊する音が聞えてくる。
その巨大な魔物は、目に映った農家の家を次々に壊して回っているのだろう。
無残にも破壊された家々が、森の方まで続いているのが見える。
徐々に街に近づいており、このままでは街を発見されるもの時間の問題かもしれない。
「あ、あれは…………多分、『ドーモン』です。アタシも見るのは初めてなんですが…………何であんな魔物が」
マリッタが緊張した声で、魔物の名をアーラに告げた。
それを聞き、アーラはマリッタに向き直る。
「大きさの割には可愛らしい名前だが、何故あの魔物は森から出てきた? 何故家屋を襲うのだ?」
「分かりません…………ただ、恐らくですが……」
マリッタは一旦言葉を切って、憶測を述べる。
「誰かが、あの『ドーモン』の子供を襲ったのではないでしょうか」
そして、あの魔物について知りうる事を、全てアーラに伝えた。
魔物の名前は『ドーモン』。
本当の名前はもっと長くて複雑なものだが、マリッタは覚えていなかった。
『ドーモン』という名は、この地の自由騎士の間で短縮された名前である。
今の怒り狂っている様子からは、とてもそうは思えないが、この魔物は元来、人を襲うような魔物ではない。
比較的森の浅い部分に住み着き、森の樹を食物とする草食の魔物だった。
このような大きさの魔物が動き回れば、森の景観も著しく破壊されるのだろうが、普段は全く動く事は無い。
日がな一日寝て過ごす、そんな魔物なのである。
その為か、巨体の割りに食欲も旺盛という訳ではないらしく、森が食い荒らされる心配もなかった。
そんな基本的に大人しい魔物の筈なのだが、ある時だけは、普段の姿からは想像できないほど凶暴になる。
それは、自分の子供を、外敵から護ろうとする時である。
何故それをマリッタが知っているのかというと、それはまだマリッタがビリザドに来て間もない頃。
『ドーモン』の生態を調べる為に、王都の魔物の研究者から、ドーモンの子供を捕獲する、という依頼を出された事があったからだ。
王都の研究者から出される依頼だけあって、その報酬金はかなりの高額で、金に目が眩んだ多くの自由騎士達が、その依頼に挑んだ。
しかし、結局、その依頼を達成する事が出来た者は居なかった。
怒り狂った親ドーモンによって、自由騎士達は重傷を負わされ、遂には死人も出たという。
それにより、この魔物の子供を連れ去るのは危険だと判断され、この地の禁忌とされたという経緯があったのだった。
「……親があの体躯という事は、子供でもかなり大きいんじゃないのか? 連れ去ろうとして、連れて行けるもの……なのか?」
マリッタの話を聞き終わり、グラストスが素朴な疑問を投げかけた。
言われてみてアーラもそうだと思ったのか、マリッタに視線を向ける。
「確か、生まれたばかりの子供は、アタシでも抱えられるくらいの大きさだそうよ。まあ、一年もすれば人間の大人ほどの大きさになって、数年もすれば……あんな感じになるらしいけど」
マリッタは魔物を見ながら答える。
二人はマリッタの視線に釣られる様に、ドーモンを眺めた。
やがて、アーラが嘆息する。
「それは何というか、出鱈目な魔物だな」
「そうですね。まあだからこそ、研究者は調べてみたかったんじゃないでしょうか?」
アーラはそんなものかと頷いた。
「ともかく、推測が正しかったとして、問題は誰が子供を襲ったのか、ということです。そして、その子供をどうしたのか。早く突き止めないと、大変な事になります」
「……別の魔物が襲ったという……可能性は?」
「だったら人を襲おうとする訳は無いわ。ドーモンは賢い魔物だそうだから」
「……そうか……そうなら、ともかく事情を突き止めないとな」
グラストスは、眉を顰めながら言った。
「そうだな。ちなみに聞くが、マリッタはあの魔物はどうにかできないか?」
期待を込めて尋ねてくるアーラに、マリッタは首を振る。
「師匠なら出来るのかもしれませんが…………アタシじゃあ多分、痛みを感じさせることも出来ないでしょう」
「そうか……ならば仕方がない。ここに居ても始まらん。一度街まで下がるとしよう」
その判断が妥当だろうと納得した二人は、同時に頷いた。
この付近に人が居ないのを確認すると、農民の家を壊すのに夢中になっている魔物を残し、三人も撤退する事にした。
――――そしてこの時、声には出さなかったが、グラストスは頭痛に襲われていた。
以前、『一角』の魔物を見た時に感じた程ではなかったので、耐えることは出来た。
自分のこの頭痛と魔物との関係が気になったが――――
今は忘れる事にして、足を進めたのだった。