10: 死闘
グレーターベアの雄叫びが響き、直後に木や地面を抉る破砕音が続く。
グラストスは、馬鹿正直に攻撃を受けては剣も体ももたないと判断し、森の中の木を盾にするように立ち回り、何とか猛攻を防いでいた。
(動きが速すぎる!!)
その身体が木に隠れた数瞬後には、全く別の方向から迫ってくる。
もし地面に小枝や地上に露になった木の根がなかったら、音で居場所を察知する事ができず、とっくに殺されてしまっていただろう。
移動すら困難な森の中だが、それだけは利点だった。
もちろん、魔物を倒そうとした場合には、逆にそれが難点となったのだろうが、今はとにかく時間を稼ぐだけでいい。
グラストスの位置からは、マリッタの状況は確認できない。
マリッタの邪魔にならない様に、先程の場所からは少し離れて魔物とやり合っていた為だ。
(まだか……まだか!?)
心が急きたてる。
準備が出来次第、何かしらの合図がある筈だ。そう思って、騒ぐ心を落ち着かせながら必死に逃げ回っていた。
だが、心の深い部分では、このままいけば何とか凌ぎきれるかもしれない、とも思い始めていた。
そんな矢先――――唐突に、攻撃が止んだ。
つい今まで聞こえていた魔物の唸り声や、若木を踏み折る音も聞こえない。
(ど……どうした?)
諦めたのか、とも思った。期待した。
しかし、頭の奥では理性が警鐘を鳴らしていた。
そんな訳はない。奴は自分達を餌として捉え、逃がす気はなかった筈だ。
日和そうになる己の甘さを叱咤し、グラストスは必死に思考を巡らせる。
(何だ、何を企んでいる?)
必死に耳を済ませるが、やはりどこからか聞こえてくる虫の声と、自分の乱れた呼吸音以外の音は聞こえない。
グラストスは必死に周囲を見回す。
あの巨体を見損なう筈はない。が、どこにも見当たらない。
予想外の出来事に、鼓動が狂ったように跳ねまわる。
あまりの緊張に、腹の中にある内容物を吐瀉してしまいそうだった。
(…………まさか!!?)
ある考えが天啓の様に閃く。
グラストスはそれまで隠れていた木を飛び出すと、急いでマリッタの元に向かおうとした。
あの魔物は一向に掴まえることが出来ない自分を諦めて、対象をマリッタに替えたと思ったのだ。
「マリッタ!! 気をつけろ!!」
グラストスはマリッタに大声で警告しながら、樹の間を駆け抜けるようにして走る。
そして、丁度樹々の隙間からマリッタの姿を捉える事が出来た。
マリッタは未だ集中しているようで、微動だにしない。
今襲われたら、逃げる事も出来ないだろう。
より一層両足に力を込めて、地面を蹴る。
「マリッタ!! 奴はお前を……」
狙っている、と続けようとしたが、おかしい事に気づく。
魔物の速度なら、もうとっくにマリッタと接触している筈である。
グラストスは呆然とその場に立ち尽くした。
その時――――
どこからか低い唸り声が聞こえてきた気がした。
背中に氷を差し込まれたように、グラストスの背筋に冷たいものが走る。
慌てて周囲を見回すが、あの巨体は見当たらない。
地上には居ない。だとすれば――――
グラストスはカラカラになった喉に無理やり唾液を押し流すと、ゆっくり視線を上げていった。
そしてある程度上がったところで、首の傾きは糊で固めたように動かなくなる。
魔物がトカゲの様に器用に樹の上方に張り付いており、その赤い目がグラストスを貫くように見下ろしていた。
大きく開けた口から覗く牙から唾液が垂れて、グラストスの脇の地面を叩く。
グラストスは蛇に睨まれた蛙のように、その場の地面に貼り付けられ動けなかった。
「グラストス!!」
マリッタの悲鳴が響くと同時に、グレーターベアは弾かれた様にグラストスに飛び掛った。
そして、鋭利な爪がグラストスの頭上に振り下ろされる。
グラストスに、これを防ぐ術は無かった。
マリッタは思わず目を背ける。
敵を前にして意味も無く視線を外すなど、軽率な行動以外の何ものでもない。
だが、マリッタは街一番の魔法の使い手とは言え、自由騎士ではない。
知人が魔物に喰い殺される場面などに、立ち会った事は無かった。
ただ、いくら待っても、聴こえる筈の絶叫が聴こえない。
マリッタはゆっくりと視線を戻す。
グラストスが初撃を躱せたのは偶然だった。
差し迫った死の恐怖からか、自分の意志とは関係なく体が反応し、一歩だけ後ろに下がった。
すると地表に露になっていた木の根に足を取られ、そのまま後ろ向きに倒れこんだ。
そのお陰で魔物の攻撃が僅かに逸れ、グラストスの頬に一線赤い印を付けるだけに終わったのだった。
ただ、初撃をかわせたとはいえ、今の絶望的状況に変わりは無い。
魔物はすぐさま倒れたグラストスに圧し掛かり、鋭い牙を喉元にたてようと迫ってきた。
グラストスは剣を盾代わりにしながら、その牙を必死に防ぐ。
体を丸めるようにして、使えない左手の代わりに、左足の裏で剣の刃を押しやる。
獲物の抵抗に苛立っているのか、魔物は狂ったような唸り声を上げている。唾液が幾度と無くグラストスに降りかかっていた。
ここで押し負けた場合、グラストスのその後は決まっている。
魔物の力は物凄いが、グラストスも命を振り絞るように懸命に抵抗した。
マリッタは少し離れた場所から、その様子を捉えていた。
先程叫んだ所為で集中が途切れ、今魔法を放ったところであの魔物を仕留められるほどの威力は出せないことは感じている。
だが魔物の唸り声とグラストスの呻き声が、これ以上の集中を許さなかった。
落ち着かないと、と焦るほど、魔法の完成は遠のいていく。
このままでは拙いと思ったマリッタは、一度深く深呼吸をした。荒ぶる動悸を感じながら、必死に集中を高めようとする。
自分では意識していなかったが、先程までとは違い瞳は大きく見開かれていた。
集中しきれていない事の表れであった。
魔物の声とグラストスの声が共に一瞬だけ収まった間隙に、異質な音が周囲に響く。
その音はグラストスにとって絶望的な音色をもっていた。
それは、グラストスの剣が発した音だった。
グラストスの位置からは、剣の根元から剣先に向かって僅かに細い線が走っているのが見える。
魔物が跳ねる度に、その線は深く長くなっていく。
この線が最後まで伸びきった時が、グラストスの最後の時である。
その時は、刻一刻と迫ってきていた。
そして、遂に剣は絶望の音を奏でた。
グレーターベアは折れた剣を咥えると、それを後ろに放った。
もう、グラストスに身を護る手段が無い事を知っているのだろう。
嬉しそうに一啼きすると、大きく顎を開き、その鋭い牙をグラストスの身に沈み込ませる――――
『竜巻!』
その前に、マリッタのよく通る声が、森の中に響き渡った。