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The Left Arm Wars  作者: 過酸化水素水
【5章 偽りの想念】
120/121

115: 旧友

 

 グラストスの考えた策、というより思いつきを一言で表すと、”死んだふり”だった。


 言うまでも無く、無謀な策である。

 が、それを提案した根拠はあった。

 これまで戦っていた感じから、ウォーバット達の統率が執れている事は分かっている。標的に向かっての乱れぬ集団行動は、この学校の人間達のものとは比較にもならない。

 恐らく敵の”長”の知能が高いのだろう。そうグラストスは推測していた。

 そして、”長”が人間並みの知能を持つと仮定して考えると、色々見えてくる。


 ”長”は例外として、通常のウォーバット一匹一匹の知能は、決して高くないという事がその一つである。

 そう感じた理由として、状況に応じて行動するなどという融通が利く行動をしていない事が挙げられる。”長”の命令が何より優先されているのだろう。

 集団行動としては、その行動原理は正しい。

 だがもし個体それぞれが自分で考えた行動を取っていたのだとすれば、既にこの学校内の人間は全滅していてもおかしくない。

 今、圧倒的物量差がありながらも何とか持ちこたえられているのは、敵の行動が画一化されているからに他ならない。

 個体がそれぞれ個別に襲ってくれば、集団として迎え撃つのが難しくなり、各個撃破されてしまっていた事だろう。

 自由な行動を取らない、という事はつまり個々の個体の知能の低さの証明とも言える。


 そして、魔物達の立場で考えた時に、最も警戒すべき相手はたった三人の人間などではない。妖しげな建造物()を作り上げた、集団の方にこそ注意が向いている筈である。

 だからこそ”長”は三人を全体で襲うことをせず、一部を差し向けるに留めている。

 しかし、完全に捨て置く事はできない為、様子をあの巨大なウォーバットに探らせているという所だろう。

 そんな状況の中で、仮に一人が倒れ、残り二人が暴れ続けていれば、”長”としてはどちらへの対処を優先するか。ここも人間として考えると、答えは明瞭だ。

 こちらはあくまで些事であり、本命は『檻』なのである。当然、倒れて動けない相手ではなく、動いている二人の処分を優先させるだろう。


 だとすれば、二人が奮闘し続けている間は、自分が止めを刺される事はないのではないか。グラストスはそう考えたのである。

 薬のお陰か、通常のウォーバットに取り付かれないグラストスだからこそ採れる策であった。

 噛み付かれる事による失血死がなければ、”鳴き声”にさえ耐えれば生き抜ける。

 全て、あくまでグラストスの希望的推測である。

 しかし、運命を司る神(アルプト)が微笑めば、巨大なウォーバットがグラストスに肉薄する事もあるかもしれない。

 そこまで旨くいかなくとも、”死んだふり”をしている間に、剣の届く範囲に入ってくれれば良いのだ。

 じり貧で追い込まれるより、その可能性に賭けたのだった。


 少年二人は半信半疑だった。

 とはいえ他に策も思いつかない。とりあえず博打に乗っていた。

 二人は一層派手に魔法を乱射し、ウォーバット達を引きつけながら、少しずつグラストスと距離を取った。


 グラストスは息を殺して徐々に離れていく二人を感じていた。

 薄目を開けて確認するのは、ただ巨大なウォーバットの動向のみ。

 上手くいく保証などない。

 上手くいかない保証は有り余っている。

 早鐘のようになる心臓を必死に落ちつかせた。時間にして一刻にも感じられた。

 その間にも時折他のウォーバット達の執拗な”鳴き声”は受けていた。先程から眩暈がする程の頭痛を感じている。

 時折取り付かれる事もあったが、薬の効果かどれも直ぐに離れていった。それだけは幸いだった。


 不意にグラストスの顔に影が掛かった。薄目を開き、光の遮蔽物を確認する。

 どうやら神は微笑んでくれたようだ。

 一呼吸、二呼吸、三呼吸置いてから、

「はあぁっ!!」

 グラストスはその場で跳ねるようにして飛び起きた。躊躇うことなく跳躍する。

 獲物の生存状態の確認に来ていたのだろうか。

 突然の行動に驚いたのか、巨大なウォーバットは飛び去ることなく固まっていた。


 好機は一度だけ。ここを逃せば警戒され、もう同じ手は使えない。のみならず、剣の届く位置には二度と降りてこないかもしれない。

「…………っ!」

 自然と腕に力が入った。別に一撃で仕留める必要は無い。片翼のいずれかを斬り裂き、飛行できないようにするだけで、事は大分容易になる。

 果たして渾身の力を込めたグラストスの一撃は、巨大なウォーバットの羽を切り裂いた。


 しかし、浅い。

 戦果は左翼の表面を多少削っただけだった。

 受け続けた”鳴き声”の影響で、足に十分な力が入らず、十分な高さを確保できなかったのだ。

 追撃も出来ず、落下と共に間合いから外れてしまった。

「く、そっ」

 自然と苦渋の呟きが漏れる。


 再びグラストスが跳躍する前に、警戒を強めたウォーバットは更に高く上がった。これではもう剣は届かない。

 その代り、相手の攻撃は届く。

 ウォーバットは怒りに満ちた双眸でグラストスを見下ろすと、”咆哮”を放った。

「ぐうぅぅっ!」

 グラストスは急いで効果範囲から逃れようとしたが、間に合わなかった。衝撃を受け、堪らずその場に膝を付いた。

 が、直ぐに立ち上がる。この場に蹲っていては、一方的にやられるだけだからだ。割れるような頭の痛みに必死に耐えながら這うようにして歩き出した。

 そこへウォーバットの”咆哮”が襲う。


 ウォーバットがそれを放つ際には、僅かな溜めの時間がある。それを正確に見極められれば、何とか直撃は回避出来る。

 ただ直撃ではないとしても、影響は零ではない。余波もあり、徐々に痛みは蓄積されていく。

 グラストスはそれでも何とか踏み止まり、足を動かし続けた。


 巨大なウォーバットは獲物がしぶとく逃げ廻り続けることに対して、明らかに苛立ち始めていた。  

 立て続けに”咆哮”を繰り出し始める。

 グラストスも群れの中を掻き分けるようにして動き回り、何とか直撃は免れ続けていたが、影響は確実に脳に爪痕を残していく。

 その痛みは知らずの内に身体を支配し、グラストスの足を重くしていった。

 更に通常のウォーバット達が群がる。取り付かれはしないが、”鳴き声”の集中放火で遂に動きが止まってしまう。

 そこへ”咆哮”が襲いかかる。

 直撃を受けてしまえば、人には耐えられない。間を置かず、グラストスはその場に倒れ込んだ。


 予想外の産物とも言うべきか。

 ”咆哮”影響を受けたのは、グラストスだけではなかった。

 興奮していた巨大なウォーバットは、”咆哮”の連射の中で、飛び交う仲間のウォーバットを考慮から外していたようだ。

 多くの固体が地上に落下し、寿命の終えた蝉のようにもがいている。

 その影響か、この場のウォーバット達の統制が一時的にだろうが、乱れ始めていた。


+++


「あ、勢いが……?」

 必死で抵抗していたリシャールは周囲の圧力が減ったことを、肌で感じた。

 そして、それはジョルジュも。

 策が成功したのか、と期待を胸にグラストスの方を見る。が、直ぐに失望に変わった。

「くそったれ! アイツ失敗しやがった! こうなったら俺らも行くぞ!」

 ジョルジュは最後まで纏わり付いていた固体を斬り払うと、剣を握り締め直した。

 同時に駆け出し、落ち着かないウォーバット達の間を強引に抜ける。

「うおおおおおおおおおおおっ!!」

 雄叫びが自然と口から漏れ出でた。


「え、え? ええ?」

 リシャールは呆然としてジョルジュの背中を見送るが、このままでは孤立してしまう、ということに気付き、

「ひ、一人にしないでぇええええ!!」

 慌てて後を追って走り出した。


 ジョルジュは巨大なウォーバットとの距離を一気に詰めた。

 倒れたグラストスの上を跨ぐようにして、走る勢いそのままに跳躍する。

 半ば下から突き上げるようにして斬りかかる。

 が、高度が高く当たらない。

「くそっ!」

 精一杯腕を伸ばしてみたが、剣先が掠りもしなかった。

 巨大なウォーバットは勝ち誇ったように口を開け、ジョルジュに向けて”咆哮”を放つ素振りを見せる。


 そこへ、リシャールが駆け込んでくる。

 それに気付いたグラストスは気絶しそうな痛みに耐えながら起き上がった。

「こ、来い、リシャール! お、俺を踏み台に、しろ!」

 言いながら、両手で膝を支えるようにして中腰の姿勢を取った。


 突然の提案に、リシャールは走りながら驚愕する。

「うえええ!?」

「来いっ!」

 そんなリシャールの動揺を無視して、グラストスは再度強く要求した。

 リシャールは泣きそうな表情のまま、グラストスと巨大なウォーバットとを交互に視線を移す。やがて諦観の表情を浮かべた。

「も、もう、どうにでもなれぇぇ!!」

 意を決すると、グラストス目掛けて跳躍する。

「ぐっ!」

 一度グラストスの背中を踏み台にすると、そこから更にもう一度跳んだ。

 少年は空高く跳躍し、巨大なウォーバットを自分の間合いに収める。

「た、たかいぃぃぃっ!」

 泣き叫びながらも、リシャールは昇る勢いを利用して斬り上げた。

 不意を付いた形だったが、宙での行動はウォーバットの本領だった。

 リシャールの剣はあえなく何も無い宙を刈った。


「この役立たずがっ!」

 ジョルジュが失望を隠さずに吐き捨てた。

 直ぐさま止めのつもりで用意していた『火弾』を放つ。

 直撃はしなかった。

 だが、更に上昇しようとしていたウォーバットの真上を通過した為、魔物は宙の一点で静止する。

 そこは丁度、勢いの頂点に達していたリシャールの目の前だった。

「うわあああああっ!!」

 思いがけず肉迫し、リシャールは怯えた顔で悲鳴を上げた。

 声に反応したのか、ウォーバットは大きく口を開ける。

 目の前の魔物が何をするつもりなのか。それを理解すると同時に、リシャールの身体は動いた。

 足場の効かない宙で器用に体を捻って溜めを作ると、反動で横に高速回転し始め、勢いそのままにウォーバットを横薙ぎにした。一度斬っただけでは止まらず、二度三度と繰り返す。

 横切りに何度も斬りつけられ、ウォーバットは苦痛で、もがき苦しむ。羽ばたきの力も弱まり、徐々に高度が落ちていく。

 リシャールは今度は身体を小さく折り畳むと身体を縦に回転させ、その勢いに乗せて斬り下ろした。その剣は確実にウォーバットの頭を捉え、両者は縺れるようにして地面に落下した。


 一瞬の神業とも言えるリシャールの剣技に、思わず目を見張っていたジョルジュだったが、地面に叩きつけられたウォーバットを見て我に返った。

 確実に傷は負わせた。だがまだ相手は死んではいない。起き上がろうと蠢いている。

 一方のリシャールは、落下の衝撃でまだ動けないようだ。

「止めだっ!!」

 ジョルジュは剣を構えたまま、ウォーバットに突貫した。

 ウォーバットもその動きに気付いたのか、弱々しく起き上がる。後方に逃げようとするが、それよりもジョルジュの方が速い。

 接近し、剣を振り下ろす――――前に他のウォーバットが塊となって押し寄せた。

「邪魔だ! どけっ!」

 次々に体当たりを受けて、ジョルジュは後退を余儀なくされた。


 入れ替わりに、グラストスが前に出る。

 後方へと飛び去ろうとしている巨大なウォーバットに肉薄すると、躊躇いなく突きを繰り出した。宙を切り裂き、ウォーバットの腹部の辺りを貫通する。

 魔物の絶叫が響き渡った。

 追撃を行おうと剣を抜くと、ウォーバットの傷口から赤黒い血が溢れ出た。返り血が降りかかるのも気にせず、グラストスは剣を振りかぶる。

 が、ウォーバットは両翼を大きく羽ばたかせ、強引に後方へと飛んだ。羽ばたきに巻き込まれ、グラストスは尻餅を付く。

 流石に傷を負って動きがままならなかったのか、ウォーバットはそれ程距離を取れずに地上に落ちた。

 堪らず頭を垂れるようにして、苦痛の鳴き声を上げる。


 その間にジョルジュは強引にウォーバットの群れを抜け出していた。

 グラストスを再び追い越し、

「今度こそっ! 死ねっ!!」

 大きく跳躍する。

 ウォーバット目掛け、上段の構えから一気に振り下ろす。

 ――――それより速く頭を上げた魔物の口は、大きく開かれていた。


「拙い! 来るぞ!」

 グラストスは言うなり、急いで駆け出すと地面に飛び込んだ。頭を抱えるようにしてその場に伏せる。

 ジョルジュも警告は聴こえたが、宙に或る体の方向は変えられない。

 ”咆哮”が空間を貫いた。

「いぐっ!」

 ジョルジュは攻撃は叶わず、着地にも失敗し地面を転がった。気絶したのか勢いが止まっても、そのまま動かない。

 その間にウォーバットは弱々しい羽ばたきで、校舎の方へと消えていった。


「……仕留めきれなかったか」

 グラストスは少し無念そうに目を細めた。

 三人は直接的な傷こそ負ってないが、”咆哮”の影響がある。直ぐに後を追うのは難しかった。

「でもあれだけ痛めつければ……もう」

 よろよろと起き上がってきたリシャールは喜ぶが、三人の目的は巨大なウォーバットを追い払うことではない。

 『檻』の方へ行かなかった事だけはよかったが、手負いの魔物が何をするか分からない。

 グラストスに出来るのは、このまま逃げ去ってくれるのを期待する事だけだった。



***



「ご機嫌よう。マリッタ」

 ディアナは微笑を浮かべて、マリッタを見つめる。正確に言うと、マリッタをだけを見つめている。

「貴女は……ディアナさん?」

 エルネスタはディアナとは同じ教室で学んだ事は無く、直接会話をした記憶も無い。ただそれでもその優秀さはエルネスタの耳にも入っており、顔と名前が一致する程度の認識はあった。

 ただディアナはエルネスタには応えず、逆にマリッタに問いかける。

「どうしてそんなに急いでいるの?」

 あくまで穏やかに。

 普段ならば淑女たる振る舞いである。いくら貴族ではないとしても、その所作の優雅さを認めずにはいられないだろう。普段ならば。

 だが、今は優雅さが求められる状況ではない。


 エルネスタは少し苛立ったように呼びかける。

「貴女こそ、こんな場所で一体何を為さっているの? 今は一人でも人手が欲しい時です。私達と校庭に向かいますわよ」

 生徒の中でエルネスタは女王のような存在となっている。マリッタが辞めてから、表向きに逆らおうとする生徒は一人としていない。

 そんな土台があったからこそ、エルネスタ自身も否定される事など考えてもいなかった。ましてや状況的にはエルネスタの話は正しい。


「……この樽は何かしら?」

 ディアナはエルネスタを無視して、マリッタに再度問いかけた。腰を屈めて足元に転がる樽を手で撫でるように触りながら、上目遣いでマリッタを見上げる。

「なっ!?」

 完全に無視されたことに、エルネスタは怒るというより、寧ろ驚きで目を見開いた。


「…………」

 マリッタは何も応えなかった。

 ただ無感情な目をディアナに向けている。

 ディアナは穏やかな微笑みを浮かべたまま、樽の蓋に手を掛けた。

「止めなっ!」

 何をする気なのかを悟ったマリッタは、鋭い制止の声を発した。険しい表情でディアナを睨みつける。

 ディアナは、樽、その中身がマリッタ達にとって大事な物であることを感じ取ったのだろう。

 自分の質問に答えなければ、全てを台無しにするという無言の脅迫であった。


 僅かに遅れてエルネスタも察したようだ。

 ただし、今回の騒動の原因を知るマリッタとは違い、”何故”そのような事をするのか、という事までは分からない。

 あくまで今の行動に関してだけ言及する。

「お止めなさい。それは私達に必要な物です。ディアナさん。直ぐにこの場を離れ、校庭の皆と合流すると言うのであれば、今の無礼は見過ごして差し上げます」

 人によっては恫喝とも聴こえるだろう。その言葉に対して、ディアナは怯えるどころか笑みを強くした。樽を見つめたまま口端だけで笑う。

 

「それはお姫様に持ってごいって言われたんだぁ。返してぐれぇ」

 自分の負った傷と、目の前の少女の繋がりに気付かなかったサルバは、能天気な声でディアナに近づいていく。

 数歩歩いたところで、ディアナの制止が飛ぶ。

「どなたかは知りませんが、それ以上一歩でも近づいたら、これを壊します」

 言うなり、ディアナを緑色の魔法光が包み込んだ。

「うごっ!?」

 壊されたらアーラの依頼は果たせない。サルバはその場に杭で打たれたように、立ち尽くした。


「お止めなさい! それは必要な物だと言った筈です!」

 エルネスタが強い口調で非難する。

 が、ディアナの魔法光は収まらない。ここで今ようやくエルネスタの存在に気付いたように、大袈裟にエルネスタに向き直った。

 にっこりと微笑む。

「これはこれはエルネスタ様。鬱陶しいので壊されたくないのなら、貴女も黙っていて下さいな」

「何ですって…………ぐっ!」

 激発しそうになったエルネスタだったが、ディアナの緑色が更に強さを増したのを見て、かろうじて感情の発露を抑えた。


「ディ、ディアナさん、どうしたんですかぁ?」

 事態の帰趨を見守っていたエレーナは、不安そうな顔でディアナの変貌の理由を尋ねた。

 睨み付けるようにしてエレーナを見たディアナだったが、唐突に目を見開いた。

「……ああ、なるほど」

 魔物に襲われている現状。エレーナの研究。そして、足元に転がる樽。

 それらを材料として推測を練り上げ、ディアナは大凡の状況を察していた。

 マリッタ達が大事そうに運んでいた樽だったので、とりあえず奪ってみただけだったが、思わぬ機を手にしたのだという事に気付き、

「ふ、ふふ、ふふふふふっ」

 ディアナは笑いが止まらなくなった。顔を付して哂い続ける。


「ほ、ほえええ?」

「なんだぁ?」

「恐怖でどこかおかしくなったのでしょう」

 驚くサルバとエレーナに、侮蔑の目を向けるエルネスタ。

「…………」

 ただマリッタだけは警戒を強くし、ジッとディアナを凝視する。今のディアナは何をするか分からない。

 再び面を上げた時には、ディアナはいつもの穏やかさに満ちた表情に戻っていた。

「有難うございます。エレーナ先生。貴女には感謝しても感謝しきれませんわ」

「えへへ。よく分かりませんがぁ、どういたしましてですぅ」

「何を暢気に!」

 照れるエレーナに、呆れたエルネスタが叱責する。


 ディアナはその場で立ち上がった。

 緑色の光が徐々に収まっていく。

「マリッタ。もう一度だけ機会をあげる」

 そう言って一呼吸置くと、

「私のモノになって?」

 ディアナは妖しく微笑んで言った。

 最後に一言添える。

「もちろん良い返事が貰えると信じているけれど、もし断わられたら……」

 予想していたのか、マリッタの表情に驚きはなく、ただ強張っていた。

 代わりに驚きの声を上げたのはエルネスタである。


「な、な、何を馬鹿な!?」

 顔を赤らめたまま、ディアナの言動を非難する。

「モ、モノって……あ、貴女が何を考えているのか私には到底分かりかねますが、人の弱みを盾にして従わせようなんて――――」

「うるさいっ!! お前は黙っていろっ!」

 ディアナは吐き捨てるように絶叫した。

 もはや取り繕う気も無いのだろう。そこにはつい先程までは垣間見せていただけの狂気を、はっきりと宿したディアナが居た。

 というより姿を見せた時から既におかしかったのかもしれない。でなくば、普段のディアナであれば、人前で発言するような内容ではない。

「あ、貴女……?」

 マリッタを除く三人はただ呆然と少女の変貌を見つめた。


「マリッタ? 返事が聴こえないわ?」

 ディアナはもう一度確認をする。

 エルネスタに向けた狂気の表情から一変し、穏やかな淑女の顔に戻っていた。

 ただし、再び腰を落とし、樽の蓋に手を掛けている。

「…………くっ」

 マリッタは下唇を噛み締めた。

 意のままに従うのは絶対に嫌だった。

 ディアナが魔法で樽を壊そうとしても、マリッタはその前に無力化できる。

 だがその事はディアナも承知しているのだろう。蓋に手を掛けていることからもそれが分かる。


 一度地面に吸収された液体を再び取り出すのは、熟練の魔法使いでも難しい。高い水魔法の技術に加えて、土魔法にも精通していなくてはいけないからだ。複数属性の魔法を使える人間は殆どいないことも加味し、マリッタの師匠のような極稀な例外を除くと、不可能と言っても過言ではなかった。

 なので薬品が地面に零れてしまうと、もうどうしようもない。


 唯一この状況を打破できるとすれば、それは水魔法である。

 水魔法で中の薬品を操作できれば、樽を壊されようと関係は無い。溢れ出た薬品が地面に注がれる前に、空中へと浮かばせれば良いからだ。

 マリッタは水魔法を使う事が出来る。

 ただし、マリッタは”水”でないと上手く操れなかった。少なくとも、水ほど上手く操れる自信は無かった。どう考えてもこの薬品はさまざまな材料で調合されている。水とは及びも似つかないものだ。

 幾ら複数属性の魔法を使えると言っても、状況に余裕があればまだしも、咄嗟に対応できる程の技術はない。自分の属性ほどにはいかないのである。

 今出来るのは、ディアナを風魔法で吹き飛ばすこと。だが一瞬で実行しなければ、逆にディアナがその前に蓋を壊してしまうだろう。


 そんな事をマリッタが考えていると、思考を読んだのか、ディアナは樽に身を隠すように屈んだ。

 こうなるとディアナだけを狙うのは難しい。

 ――――吹き飛ばすのではなく、ディアナを殺す。もしくは相当の傷を負わせる。のであれば話は別だが。

 有無を言わさず、一撃で。

 ただし、マリッタはこれまで人を殺めたことはない。ましてや相手は旧友である。

 信条を譲るか、非道に手を染めるか。

 二者択一である。

 考えている時間もない。周囲から再びウォーバット達の鳴き声が聞こえ始めている。


「…………」

 マリッタは静かに息を吐いた。

 その厳しい表情からは何かの覚悟が感じられる。

 ゆっくりと口を開き――――

 様子から何かを察したのか、同時にディアナの表情が歓喜で覆われる――――


「お止めなさい」

 短い叱責が静寂を貫いた。


「……エルネスタ?」

 声の主、エルネスタは険しい表情でマリッタを見つめている。

「たかがこのような物の為に……。貴女はそんな女性ではありません」

 重ねて否定する。

 凛とした中に、気高さすら感じた。

エルネスタは一体どういう像を自分の中に描いているのかは不明だが、マリッタは嫌な感じは受けなかった。気が削がれたように目を丸くしてエルネスタを見つめる。


「黙れと言っただろエルネスタ! それ以上口を開くと本気で壊すわよ!?」

 普段の楚々とした表情は見る影も無い。ディアナは狂気の形相でエルネスタを恫喝する。

 緑色の魔法光を立ち昇らせ、強い光を放ち始めた。

 エルネスタは、そんな今にも激発しそうなディアナに、哀れな者を見るような視線を送る。

「どうぞお好きになされば宜しいですわ」

「黙れと――――」

 瞬間的に輝きを増したディアナの魔法光だったが、その前に。

 エルネスタの掲げた手から放たれた一迅の風が、エルネスタが盾にしていた樽を易々と貫いた。

 風穴が開いた樽の中から薬が溢れ出す。


 エルネスタを除く、この場の全員が驚き固まった。

 最もその感情が強かったのは、取引材料を失ったディアナであった。

 狼狽を隠しきれず、唖然とした様子でエルネスタを見つめる。

「こうしたかったのでしょう? 代わりにやって差し上げましたわ」

「な、何を? 貴女、何の……!? 何を考えているのっ!?」

「お黙りなさい」

 叱責と共に、今度はディアナに向けて『風刃』が放たれた。

「くっ!!」

 ディアナも生徒の中では優秀とされる魔法使いである。咄嗟に『風刃』を放ち相殺した。

 すぐさま距離を取ろうとするディアナに、

「お話になりませんわ」

 エルネスタはつまらなそうに、『風刃』『旋風』と、立て続けに二連射する。

 『風刃』は躱せたものの、『旋風』に囚われ動きを封じられたディアナは、直後に迫った強風に吹き飛ばされた。華奢な身体は宙を飛び、校舎の外壁に叩き付けられる。

「がっ……」

 ディアナは短い呻き声と共に意識を手放し、そのまま地面に倒れ込んだ。


「己の感情を律する事の出来ない者が、魔法使いである資格はありませんわ。運命を司る神(アルプト)も決して微笑むことは無いでしょう」

 倒れたディアナを見やって、エルネスタは吐き捨てるように言った。

「エルネスタ……」

 マリッタは呆然とエルネスタを見つめる。

 呟きには驚きだけではなく、様々な感情が込められていた。

 ディアナ、そしてエルネスタ。両者に視線が集中し、沈黙が場を支配する。


 そんな場を支配していた緊張の糸をすっぱりと断ったのは、サルバの間延びした嘆き声だった。

「お姫様の樽がぁぁ……」

 ハッと我に返ったエルネスタとマリッタは壊れた樽へと視線を戻した。

 とことこと樽に近づいたエレーナが、中身を見分しながら言った。

「大分漏れてますねぇ」

 言いながら横倒しになっていた樽を起こす。

 壊れた箇所は樽の上部であり、起こせばこれ以上の流出は防げそうだった。

 が、既にかなりの量の薬が失われているのも事実だった。


「そ、そうでしたわ! わ、私としたことがついかっとなって。これでは魔物を……」

 サルバもエレーナも攻める口調ではなかったが、気の強いエルネスタも流石に動揺を見せた。

「まぁ、そうだけど……」

 マリッタも事態の重さを認める。

 が、その表情に険はない。少なくともディアナに向けていた陰鬱な気配は微塵もなかった。

「アタシ的には助かったわ。…………ありがと」

 マリッタは照れくさそうに礼を言った。視線は合わせずそっぽを向いたままで。声も小さく、最後の方は更に消え入りそうだった。

 ただ、距離的にエルネスタには聴こえたようだ。

「べ、べ、別に、わ、わたくしはマリッタさんの為に、した、やったのではありませんわっ!」

 エルネスタは瞬時に顔を赤らめると、激しい動揺をみせ、違う違う、と首を左右に振りながら、しきりに言い訳始めた。


 そんなエルネスタの様子に少し表情を綻ばせたマリッタは、壊れた樽に近づいてく。

 白色の光で覆われると同時に、地面に撒かれた薬が宙に浮かび上がった。

 薬は宙を移動し樽の中に収まっていく。全ての薬が入ると、マリッタの魔法光も収まった。

「やっぱ駄目ね。アタシではこれが限界」

 マリッタが回収出来たのは、地面に触れていない部分だけ。試したものの微々たる量だった。

 中を見ると、水位は先程とそれ程変わっていない。

「仕方ありませんよぉ」

 エレーナがポンポンと励ますようにマリッタの背中を叩いた。

 水が使えるといっても本来は風使いのマリッタと、同じく風のエルネスタ。サルバは魔法が使えず、エレーナは土の魔法使いだった。この場の人間ではどうしようもない。

 そもそもここで水使いが必要になる局面など、誰であっても考えつかなかっただろう。


「う~~ん。半分くらい無くなっちゃいましたねぇ」

「何人分位になる?」

「分かりませぇん。でもぉ、多分学校のみんなの分は無い気がしますぅ」

 エレーナは困った顔で首を振った。

 動揺からようやく我に返ったエルネスタが尋ねる。

「他に貯蔵している分はありませんの?」

「ないですぅ」

「で、では作り直すのは……?」

「十日以上はかかりますぅ」

 沈黙が訪れる。

 三人ともどうすれば良いのかを必死に考えていた。


 そこに門外漢のサルバが口を挟む。

「マリッタぁ。魔法で増やせねえのかぁ?」

「上手くいけば体積は増やせるかもしれないけど、効能までは無理よ」

「た、たいせ?」

「……量は増やせるかもしれないけど、効き目が薄れるってこと」

「おお、そっがぁ」

 サルバは納得したように笑った。

「今よりも薄まっちゃったら、効果は薄いですぅ」

「では……どういたしましょう?」

 再び沈黙するが、

「…………仕方ないわ」

 やがてマリッタがポツリと呟いた。

 期待を瞳に宿して、エルネスタが問いかける。

「何か策が?」

「敵の”長”を倒すのよ」

 そう告げる目には、迷いはない。

「な、何を仰るのかと思えば! あの大群の中からそのようなもの……」

 エルネスタは勢い良く否定するも、語尾は小さくなっていった。

 ”長”が居るとして、数十数百万の魔物の中から、それを見つけ出すなどは、現実的には不可能である。

 だがそれはあくまで一般的な人の場合の話。

 マリッタなら、何か手段を持っているかもしれない。そんな期待感があった。


「なぁ、こいづ、どうすんだぁ?」

 サルバがのんびりとした口調で他の三人に尋ねた。指差す先には、気絶したディアナの姿がある。

「そうでしたわ……」

 今存在を思い出したように、エルネスタはディアナを見やった。

 起こして再び暴れられても困る。

 残していくとウォーバットに襲われるかもしれない。幾ら敵対した相手だとしても、流石に目覚めは悪い。

 どうすべきかエルネスタも即断はできなかった。

 ――――今回の騒動の原因すらもディアナにある、ということをエルネスタが知っていれば、迷うことはなかったかもしれないが。

「…………」

 全てを知るマリッタは、憐憫に覆われた目で倒れたディアナを見つめるだけだった。

 

「ここに置いて行きましょう」

 言ったのはエレーナである。

 意外な人物の主張に、マリッタもエルネスタも目を丸くする。

「個人的にはどちらかと言えば賛成ですが……意外に随分、冷たいご意見ですわね」

「ここは原液がたくさん撒かれてますから安全ですよぉ」

 確かにこの場には薬の悪臭が漂っている。

 それを嫌ってかは分からないが、ウォーバットの鳴き声は聴こえるものの、近づいてくる気配は無い。

 更に念を押すように、エレーナは樽の中の薬を空になった手持ちの容器でくみ上げると、気絶しているディアナに近づいた。そして、躊躇うことなく中身を振り掛ける。

 気絶したディアナに容赦なく薬が降り注ぐ。


「ディア……この女を、お助けになるおつもり?」

「罪を憎んで、人を憎まずです」

 にっこりと言うエレーナの言葉には、一点の陰りもない。思わず毒気を抜かれてしまう、ような錯覚すら覚える笑顔である。

 マリッタは俄かに強張っていた表情が自然と緩み、ただ苦笑する。

 エルネスタも例外ではなかった。

「納得は致しかねますが……どの道どこかに運ぶ時間はありません。ここは従いましょう。それに……いくら敵が襲ってこないと言っても、この臭い。早くこの場を離れたいですわ」

 そう言って袖で鼻を覆った。


 マリッタは意識のないディアナを静かに一瞥した。

 微かに憐憫の表情が浮かぶ。が、何も言わずに、そのまま身を翻して歩き出した。

「ごれどうすんだぁ? お姫様、まだいるがなぁ?」

 サルバが中身が毀れないようにして樽を抱え上げて尋ねる。

 一瞬考えて、何かの役には立つと判断したのか、マリッタは頷く。

「そうね。一応持って行く。アンタ頼むわ」

「おう! わがっだ」

 そうして四人は再び校庭に向かい走り出した。


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