8: 魔物
『ネムース大森林』と呼ばれるこの大森林は、ビリザドの領土の約三割を占めている。大陸でも随一の森林地帯であった。
森の中は湿気が凄く、じめじめとした空気が衣服を肌に貼り付け、森で行動する際には不快感に包まれたまま行軍する事になる。
そして、森の奥に進めば進むほど方向感覚が狂わされていき、そのまま迷子になって魔物の餌食になる者、さまよい歩き力尽き倒れてしまう者も、決して少なくない。
入り口近くは、比較的穏やかな魔物や、野生の動物の姿しか見受けられない。
だが、奥に入るにつれ凶暴な魔物達が、牙を剥いてくる。
昼間でも日が差さずに暗い闇に覆われており、そこはもはや別世界の異名が相応しい。
深い森の奥には、未だ何人も訪れた事のない未知の場所も数多く存在する。
森の外にはまず出てこない強力な魔物の存在も、ギルドの一部の自由騎士達の間で噂されていた。
グラストスはそんな話を、アーラの口から聞かされた。
と言っても、アーラ自身は森の入り口付近までしか入った事が無く、後は全て伝え聞いた話らしい。
その時の、どこか誇らしげにそれを教えてくれたアーラの姿を思い出し、グラストスは納得した。
(確かに、この森の威容は土地の人間として誇れるものだ)
左右共に、地平の向こうまで森は続いている。
一本一本の木が、成人男性三人が手を繋いでギリギリ回りきるほどの太さで、高さも二階建ての屋敷程もある。それがどこまで奥に続いているのかは、グラストスには想像もつかない。
この大自然の光景の前には、どんな気丈な人間でも初見では圧倒されることだろう。
と、グラストスが先程から森の奥を睨みつけるように見つめているのは、そんな森への恐れからではなく。自分の記憶を刺激するものがあるかどうかを、見定めていた為だった。
だが、結局何も思い出すことはなかった。
三人共その意図を察しているのか、森に着くなり固まったグラストスに声を掛けることなく、遠巻きに眺めているだけだった。
やがて頭を振って三人の下に戻ってきたグラストスに、アーラが声を掛ける。
「駄目だったのか?」
「ああ。まあ、仕方ない」
グラストスが気落ちしていない様子なのをアーラは意外に思っていたが、特に何も言う事は無かった。
気を取り直すように、グラストスが話題を代える。
「目的の魔物が生息する場所は、この間道の奥なのか?」
間道の終着点の先に広がる森を一度眺めてから、マリッタに振り返った。
「ええ、そうよ。簡単な依頼だしね。ここから少し入った所にある泉が目的の場所よ」
「なるほど……そこに居るのだな。『スライムハウンド』が」
アーラが不適に笑う。
今回の目的の魔物は『スライムハウンド』という、スライム科に分類される魔物だった。
粘液状の体で、まるで犬の様に四つの足が伸びている為、そう呼ばれている。
小さいもので猫程度。
大きいものでは大型犬程の全長を持ち、四肢の様なものがあるとはいえ、大人はおろか、幼い子供にすら負ける程動作は鈍い。
基本的に雑食で、食物を体全体で取り込んで、溶かしながら体に吸収するという独特の食事方法をとる。
ただ、自分からは人は襲わないので一般的な旅人や自由騎士達には、無害な存在と思われている。
しかし、この地の農民にとっては天敵ともいえる存在だった。
と言うのも、この『スライムハウンド』という種は、麦を好んで食すという食癖があり、森近くの畑に出没しては麦を食い荒らすことが度々起こる為だ。
その被害は決して馬鹿に出来ず、放って置くと深刻な被害がもたらされる事もある。
なので、見つけ次第駆除するというのが、この土地では常識だった。
そして、最近この辺りでその姿を確認したという報告がギルドに寄せられた為、今回の討伐依頼がギルドに出されたのだった。
「今はこの辺りの畑は休閑地に入ってるから、麦は作ってないんで緊急性は低いけど、場合によってはギルドの自由騎士総出で、駆除に赴く事もあるんだ」
マリッタがグラストスに説明する。
「なるほど……しかし、液体状の敵をどうやって倒せばいいんだ? 斬ったら倒せるのか?」
「いや、ただ斬っただけでは駄目よ。アイツの倒し方は二通りだけ。炎で蒸発させるか、体の中心にある『核』を破壊するか、よ」
「今回はどちらでいくんだ?」
「正直、火で一掃してもらう方が楽なんだけど、森で炎を使うわけにはいかないからね」
至極当たり前の事をマリッタは告げる。
確かに火事になっては大変だ、とグラストスは納得する。
グラストスが理解した様子を見ながら、更にマリッタは念押しした。
「気をつけなさい。もしこの森で不用意に『火』を使ったのが分かったら、ビリザドのギルド員なら即刻除名。そうでない人間なら、ビリザドのギルドには決して入れなくなるわよ」
自由騎士の道を考えていることもあり、グラストスは気をつけようと胸に留めた。
「という訳で、核破壊よ。リシャール」
「わ、分かってますよ……」
森に近づくにつれ次第に口数が少なくなり、今は額から汗を垂らしながら森を見つめていたリシャールは、突然水を振られた所為か、どもりながら自信無げに頷いた。
「うむ。では、いざ出発だ!!」
話が終わった事を悟るや否や、威勢の良い掛け声と共に先陣を切ってアーラが森に駆け込んでいく。
初めての魔物討伐の興奮で、自分の役割はすっかり頭から飛んでしまっているようだ。
「あ、お嬢さんは殿ですって!!」
マリッタは勝手に突撃していったアーラを慌てて追いかけて、森の中に消える。
「……では、俺たちも行くか」
「は、はい」
緊張感を削がれたが、あまり離れる訳にはいかない。
グラストスはリシャールに声を掛けると、二人で森の中に入っていった。
***
森の中は、外から想像していたよりもずっと暗かった。
入り口から左程離れていないということもあり、灯りが必要という程ではなかったが。
リシャールを先頭に、マリッタ、グラストスとそれにほぼ並んでアーラという順番で、森の中を往く。
だが、リシャールがあまりに恐る恐る進むため、遅々として先に進まなかった。
なので、速度が落ちる度に背後のマリッタに怒鳴られていた。
道無き道を進んで半刻も経過しただろうか、少し広がりのある場所に出た。
その場所から慎重に奥に向かうと、ようやく泉らしきものが視界に入ってくる。
「あそこよ」
マリッタが目的地に到着した事を告げる。
にわかに緊張がグラストス達を襲う。
特にリシャールの顔は引きつる程歪んでいた。
その顔に、周りも緊張を誘発されてしまったようで、一様に固い表情になった。
ただ、マリッタだけはそんな三人を困った顔で眺めており、一人落ち着いていた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。それにリシャール。アンタは小父さんともっと強い魔物と戦った経験あるでしょ!? この程度の魔物に何怯えてるのよ!!」
「そ、そうだけど、それは父上が相手してたし、僕が一人で相手した事なんて……」
特に、前衛に立って敵を相手取るのは、リシャールにとって初めての経験だった。
「ふむ。ならば私が代わりに……」
「駄目です」
横手からアーラが口を挟むが、マリッタににべもなく却下される。
緊張しているだろうに、どこまでも好戦的なお嬢様だった。
「ほら! アンタがトロトロしてるから、お嬢さんが馬鹿な事を言い出したじゃない!」
「そ、そんなぁ……」
「……馬鹿な事」
そんなやり取りを見ていたグラストスは、泉の方で何か動いた気配を感じそちらを注視する。
すると、まるで泉が意思を持ったかの様に盛り上がっていき、一つの命を形成した。
「出たぞ! 『スライムハウンド』だ!」
グラストスはスライムハウンドの姿を知らなかった。
だが、見た瞬間にあれがソレだということを直感的に悟った。
グラストスの警告に、何やら言い合っていた三人がハッと我に返り、それぞれ武器を手に取る。
どうやら、この泉にいるスライムハウンドは一体だけのようだ。
慎重にいけば問題ないだろう。マリッタはそう判断し、リシャールに先制の指示を出す。
あれほど怖がっていたリシャールも、いざ敵を前にしたら体が動いたのか、僅かに呼吸を整えた後にゆっくりと間合いを詰めていった。
マリッタは短剣を構えいつでも魔法を唱えられる体勢で、その後に間をあけて続いた。
アーラは、これほど間近で見たことは初めてである魔物の姿に目を奪われ、完全に周囲の警戒を怠っている。
そんなアーラに苦笑しながら、アーラの役どころをグラストスが引き受け、左右から後ろにかけての周囲の警戒を行った。
スライムハウンドは、接近する敵の姿に気づいているのかいないのか、全く分からない。その場で微動だにせず、ただ立ち尽くしていた。
そんな姿を真正面で捉え、リシャールが慎重に歩を進めていく。
そして、一足飛びで斬りつけられる距離まで近づくと、一旦足を止めた。
リシャールはそこで、眼前のスライムハウンドに警戒を続けながらも、背後の三人に視線を送った。
仕掛けるという合図だった。
その視線を受けて、それぞれがギュッと武器を握り締める。
そして――――
リシャールは深い息を吐いた後呼吸を止めると、一瞬で間合いを詰め、上段から一気に剣を振り下ろした。
軌跡が虚空に鋭く残る。
スライムハウンドはその間全く動くことなく、核を斬り払われ消滅していった。
静寂が周囲を覆う。
その静けさは暫しの間続いたが、
「…………え? もう終わりか?」
アーラの口から漏れた間の抜けた声によって、終わりを告げた。
「ふはぁぁぁぁ」
あっけない幕切れだった。
それでも緊張していたのか、リシャールがドッと地面に座り込む。
「だから、余裕だって言ったでしょ?」
マリッタはあほらしいと言わんばかりに、座りこんだリシャールを小突いていた。
「なるほど。確かにこれが区分Dなのは、よく分からないな」
グラストスも呆れた様子で、緊張を解いた。
これが区分Dならば、区分Eは一体どれほど簡単なのか、と思いやっていた。
その中で、最も不満そうなのがアーラだった。
自分が剣を使う機会がなかったのが、余程悔しかったらしい。
「むう……」
と唸って、その辺で剣の素振りを始めた。
その時だった。
突然、再び泉が盛り上がったかと思うと、次々に形を作り始めた。
直後、数体……いや、十数体のスライムハウンドが泉の脇に出現していた。
そして、それらは明らかにグラストス達を敵と認識しており、緩慢な動きだったが、一斉に襲い掛かってきた。
彼らの狙いは、最も泉の近くに居たリシャールのようだ。
わらわらと群がっていく。
完全に意表をつかれた形となったリシャールは、突然の事に全く反応できず、ただ呆然と近づいてくるスライムハウンド達を見つめていた。
「馬鹿! 逃げろ!」
いち早く我に返ったマリッタが叫ぶ。
だが、リシャールは動こうとしない。どうやら腰が抜けてしまっているようだ。
「うわあああああああああああ」
押し寄せてくる大群に、リシャールはただ悲鳴を上げる。
マリッタは、チッと舌打ちすると同時に、リシャールに群がろうとする魔物に向かって魔法を解き放った。
それは間道でグラストスに見せた、風を巻き起こすだけの魔法だった。
だが、その威力には明確な違いがある。
間道ではそよ風程度だったが、今は正に突風という表現が相応しい威力だった。
それが、リシャールとスライムハウンド達の丁度間を基点として巻き起こった為、体積の少ない魔物達は、泉から遥か後方に吹き飛んでいった。
当然、その影響は小柄なリシャールも受け、悲鳴を上げながら魔物達とは反対方向に転がっていった。
マリッタはそんなリシャールには全く意に介さず、吹き飛んでいった魔物達を目で追う。
吹き飛ぶ過程で木にぶつかり四散した者も居たが、元々が液体の存在の為かグネグネと再び元の形に戻っている。
「ちっ、やっぱり核を破壊しないと駄目か……」
風で吹き飛ばし、衝撃を与えるだけではこの魔物には効果は薄い。
『風』の魔法とは相性の悪い敵だった。
とはいえ、マリッタも自由騎士を除けば、ビリザド一の魔法の使い手とも噂される魔法使いである。
当然、この程度の魔物達を全部纏めて一掃するだけの魔法は習得している。
ただ、それを使用すると多大な体力を持っていかれるため、なるべくなら温存しておきたいと考えていた。
その考える時間が拙かったのか、対応を迷ったマリッタの脇をアーラが颯爽と駆け抜けていった。
「私に任せるがいい!!」
アーラは抜き身の長剣を片手に、咆哮を上げながら魔物の群れに向かって突進していく。
「あのお嬢様はっ!!」
マリッタの胸に、アーラに対しての憤りが湧き上がった。
しかし、今はそんな場合ではない。
接近戦は不得意だったが、仕方なく短剣を構えてアーラの後に続く。
奴らを倒せる程の魔法を使ってはアーラを巻き込んでしまう危険性がある為、そうする他なかったのだ。
僅かに遅れて、グラストスも長剣を右手に持ち、魔物の群れに向かっていった。
***
四半刻後、泉の辺にはボロボロの服装をした三人と、綺麗な服装の一人の姿があった。
ボロボロの三人に、傷らしい傷はない。
ただ、所々着ている服に虫が食ったような穴があけられており、その下の地肌が外気に晒されていた。スライムハウンドに取り付かれ、衣類を融かされたのだ。
ある意味、どこか官能的な様相だとも言える。
少なくともグラストスは残りの二人に対し、目のやり場に困っていた。
それによる二人の反応は対照的で、自分の姿を全く意に介していないのはアーラだった。
二の腕やへその辺りや、太ももなどが露になっていたが、そんなことよりも先程の戦いの興奮が冷めやらぬ様子で、グラストスに向かって自分の戦果を熱く語っている。
もう一人は意外にも女性としては当然の反応をしており、しきりに肌を隠そうと足掻いていた。
その胸には鉄製の胸当てが輝きを放っている。
マリッタは獲物が短剣な為取り付かれることが多く、胸をからへその下辺りまで大きく穴をあけられていた。
なので、急遽リシャールから防具を取り上げたのだ。それで露になった胸元を隠していた。
そして、そんな三人の前には、正座をさせられたリシャールが居た。
自分の依頼でありながら、怯えて最後まで戦闘に参加せずのうのうとやり過ごした為、その事を叱られているのだ。
グラストスやアーラは別に気にしてはいなかった。
だが、マリッタの怒りは頂点に達していた。
グラストスが止めるのを躊躇うほど、執拗にリシャールに怒声を浴びせている。
唯一マリッタを止める事の出来るアーラは自分の話に夢中だったので、マリッタの説教は止まること知らなかった。
「依頼は達成したけど、この事は絶対小父さんに報告するからな!!」
「ううぅぅ」
リシャールは、叱られる度どんどん身が小さくなっていく。
涙目でひたすら「ごめんなさい」を連呼する様は、少年とは言え愛らしい姿である。
ただ、その事が余計にマリッタの怒りを煽っている事になっているとは、本人は全く気づいていなかった。
声を掛けるのは怖かったが、グラストスはとりあえず一旦説教は止めて、先に森から出ようと提案する。
マリッタは何か言いたげだった。
しかし、グラストスの言葉が正しいと思えるだけの冷静さはあった様だ。
森から出る事を了承し、早速引き上げ準備に取り掛かった。
そうして、各自装備を整え直すと、泉にもうこれ以上敵が居ない事を確認した後、その場を発った。
泉まで歩いてきた道を、逆から戻る。
隊列はアーラを先頭として、マリッタ、リシャール、グラストスと続いている。
剣を振るえた事が余程嬉しかったのだろう。アーラは鼻歌を口ずさみながら歩いていた。
時折道を間違えるので、その度にマリッタに指摘されていたが。
その後にアーラの動向に目を光らせるマリッタ、ため息を吐きながら沈んだリシャールと続き、グラストスは何となく周囲を観察しながら最後尾を歩いていた。
――――だからこそ、グラストスは最初にそれに気づく事が出来たのだろう。
視界の隅で何かが蠢いたような気がして、グラストスはその方向を見つめた。
もう森の入り口は目と鼻の先の為、小動物でも居たのだろうと、グラストスは思った。
(特に何もいな――――)
『いな』と続ける筈だった心の声は、絶叫となって口から放たれた。
「魔物だ!! 走れ! 全力で逃げろっ!!」
その視線の先には、グラストスよりも二回り以上も大きい大型の魔物が、獰猛な瞳を向けて低い唸り声を上げながら立っている。
グラストスの本能が、その魔物が自分たちの手に余る存在という事を。
先程とは違い、今度は自分達が狩られる側である事を、湧き上がる恐怖と共に感じさせていた……。