104: 大群
グラストス達が学校に向かう少し前。
「お、おい。何だよ?」
「雲じゃ……ないよな?」
生徒達の間では、そんな言葉が交わされていた。
アーラを追いかけてきた教師達やリシャール達も、外の様子を見て皆言葉を失う。
こんな光景は誰も見た事がない。
真黒の、雲ではない何か。それが学校に近づいてきている。どう見ても、良いものには見えようがない。
「だ、大丈夫なのか?」
周囲の生徒の口から、そんな言葉が漏れた。
教師達にしても戸惑いは隠せないようだ。一箇所に集まって相談し始めた。
結局この場では結論は出ず、先ずは教員室に戻り他の教師達を含めて対応を協議する。
そういう話に落ち着いたようだった。
ただアーラ達のことがある。このまま放置する訳にもいかない。
なので監視役として、アーラ達と、騒動を起こした生徒達、それぞれ一人ずつ教師が付く事になった。
そうして残りの教師達は、教員室に向かって足早に去っていった。
「ともかく聴取は一時中断だ。大人しく中に入っていなさい」
アーラ達は残った教師によって、そう言い含められる。
この場は大人しく従う事にし、一行は教室の中で待機することにした。
見張りの教師は廊下に残し、アーラ達だけが中に入る。自然と全員の足は窓際に向かった。
そのまま黙然と空を眺めていると、どこからか騒々しい声が聞こえ始める。恐らく他の生徒達が、あの異様な空の様子に気付いたのだろう。徐々に騒ぎ声は大きくなっていく。
そして、数名の生徒が外に飛び出してくる。それら全員、空をじっと食い入るように眺め始める。
「……あの黒いの、一体何なんだろ?」
オレリアの呟きに答える者はいなかった。
その事に気分を害した様子もなく、オレリアは一旦空への視線を切った。努めて明るい声で話し出す。
「でも、これで話をしておく時間が出来たね」
オレリアの意図を察したベルナルドが乗っかる。
「ああ。そうだな。僕達が訊かれた事を今の内に話しておくよ。君達も似た事を訊かれる筈だから、質問の想定が出来ておくと返答もしやすいだろう」
オレリア達はアーラに先程の聴取の内容を説明してくれると言っているのだった。本来なら有り難い話である。
しかし、当のアーラは渋い表情を浮かべていた。
「それは卑怯な気がするのだが……」
不測の事態によって得られた好機だったが、本来ならばありえない機会である。それを利用して情報共有を計るのは、姑息な手段のように思えたのだ。
そんなアーラの発言には、リシャールが敏感に反応する。
「何を言ってるんですかアーラ様! 僕等は絶対に悪くないんです。オレリアさん達の為にも、何が何でも無実を証明しないと! その為なら何でもすべきですよ!」
リシャールは必死にアーラへの翻意を計る。
台詞も思慮深いが、視線は忙しなく動いて落ち着かない。どうやら言葉通りの想いからの発言ではないようだ。
ただし、リシャールの熱弁の正しさは、アーラも認めざるを得なかった。
「……お前の言いたい事も分かる」
問題には正面から立ち向かいたいアーラとしては、本音を言えば承服しかねた。
ただ、オレリア達の事を出されると弱い。彼女たちはアーラ達が去った後もここに残るのだ。こちらに全く非がない事をはっきりと教師達にも認識させておかないと、彼女等に悪い影響が出る可能性を否めない。
結局アーラは渋々了承することにした。
「あ、う、た、大変です。み、みんな!」
いざ説明を受けようとしていた時、突然悲鳴のような声が上がった。
声の主に視線が集まる。カリーヌだ。ただカリーヌは何かに驚いているように外を眺めたまま、叫んだ理由を説明しようとはしなかった。
アーラ達は話を中断し、カリーヌが凝視している場所に視線を移す。
そこには生徒達の姿があった。
先程、外に出ていた生徒達だ。
だが先程とは違い、もう誰も空を眺めていない。その代りに懸命に”何か”を振り払っていた。
高速で飛び回る”何か”。彼らはソレに襲われていた。
「何だあれは!?」
「こ、蝙蝠……のように見えるけど?」
途端に真剣な目つきに変わったアーラの問いに、オレリアが即座に返答する。ただ自分の回答への自信は感じられない。
ベルナルドが信じられないとでも言うように、首を左右に振りながら呟く。
「こ、蝙蝠って人を襲うのか?」
「そんなこと……」
聞いたことがない。と続けようとしたカリーヌの代わりに、リシャールが沈んだ声で答えた。
「あれは……蝙蝠じゃありません」
その言葉をアーラは聞き逃さなかった。
「私も蝙蝠に見えるが、お前はあれが何か知ってるのか?」
「……はい」
アーラに頷いて、リシャールは一旦息を吸う。
何とか自分を落ち着かせようとしているが、リシャールの表情には怯えと恐れ、ともかく負の感情しか見当たらない。
そのままに云った。
「あれは魔物です」
リシャールは断言する。
「魔物? あれが?」
「はい。『ウォーバット』って名前の魔物です」
確信が込められた言葉だったが、アーラ達の反応は鈍い。皆困惑気な表情である。
誰も『ウォーバット』の事は知らないようだ。
それも無理はなかった。実はこの魔物は、パウルース全土を考えると生息数はかなりの数に登る。
だが夜行性の為、また蝙蝠と似ている事からと見間違う事も多く、ギルドでさえ目撃報告が挙がることは滅多にない。
魔物に詳しい自由騎士であろうと、見分けるにはそれなりの経験と知識が要るのだ。素人が知らないのも当然だった。
リシャールは注目を集めながらも、一人外を凝視する。
窓の外では魔物に襲われていた生徒達が必死に抵抗していた。
が、振り払っても振り払っても纏わりつかれ、魔物はその鋭利な牙で噛み付いてくる。そんな状況が堪えたのだろう。遂に生徒の一人が魔法を使った。
その魔法は、動き回る『ウォーバット』に運良く命中し、その活動を止めた。
他の生徒達はそれに勇気付けられたのか、呼応するように次々に魔法を放ち始めた。
魔物の動きは素早い。中々命中しないものの、それでも徐々に数を減らしていった。断末魔を最後に残して。
リシャールは青ざめた顔で後ずさった。
「……だ、駄目です。き、危険です。直ぐに、ここから逃げましょうアーラ様!」
リシャールは涙目になりながら、アーラに懇願する。
しかし、アーラは首を振りながら嘆息した。呆れかえった表情で言い放つ。
「全く、お前の臆病にも困ったものだ。よく見ろ。魔物はもう直ぐ殲滅できそうではないか」
アーラの言葉に、オレリアとベルナルドが大きく頷く。
「そ、そうだよ。それにここにはメイジしかいないんだから。あんな魔物だったら、直ぐにやっつけちゃうよ」
「ああ。中に入って来たら、僕が追い払ってやるさ」
カリーヌは不安そうな顔であるものの、怯えてはいない。
リシャール以外の誰もが、大した事がない相手だと思っているようだ。
その発言を証明するかのように、外の魔物は生徒達によって次々に仕留められている。殲滅も時間の問題だと思われた。
「ほらね」
そう言って微笑むオレリアだったが、リシャールがそれに釣られることはなかった。というより、寧ろ益々表情が強張っていく。
「だ、だ、駄目です。駄目。絶対駄目なんです! あ、あの魔物に攻撃したら大変な事になるんですっ!」
「どうしたと言うのだ? お前は何か知っているようだが、詳しい説明がなくば分からん。遭遇した事があるのか?」
アーラの問いに、リシャールは小さく首を振る。
「いえ、僕はありません。で、でも父上から話はよく聞かされてました!」
「お前のお父上に? 何と言っていた?」
「数え切れない程沢山居る魔物の中で、『ウォーバット』は絶対に相手をしちゃいけない魔物の内の一匹だって」
「ふむ……」
「だから駄目なんですよ! 直ぐに逃げないと! もう警戒色だから、危険なんです!」
リシャールはどんどん興奮していく。挙句、アーラの手を引き強引に連れ出そうとする。
警戒色が何なのかは不明だったが、この怖がりようからすると、リシャールが本気で危険を伝えようとしているようだという事はアーラも察していた。
加えてリシャールの父親が警戒していた相手だとすれば、その危険性について疑う余地はない。
しかし、だからといってまだ医師の娘についての手掛かりを得ていない内に、理由も分からず逃げる事など出来なかった。
そんな内心を知らずに、リシャールは必死にアーラの手を引こうとしている。が、アーラもその場に踏み止まって動こうとしない。
次第にアーラの腕の引っ張り合いの様相を呈し始めていた。
それを見かねたオレリアが割って入る。
「二人とも落ち着いて――――」
「そ、外を見ろ! オレリア!」
オレリアが二人を宥めるようとしたのと同時に、ベルナルドの声が教室に響いた。
その顔はほんの少し前までとはうって変わって、厳しいものになっている。
全員窓の外に視線を向ける。
すると、そこには想像だにしない光景が広がっていた。
ついさっき見た時には、『ウォーバット』は殲滅目前だった。
それがいつの間にか、ざっと見ても二十~三十程度数が増えている。
全員の目が見開かれる。
「さっきの奴等が、仲間を呼んだのか!?」
「いかん! あの数では危険だ! 我々も加勢しよう!」
「そ、そうだね!」
急いで教室を出ようとするアーラ達の前を、リシャールが通せんぼする。
「何をしている!? そこをどけっ、リシャール!」
憤るアーラに対し、まるで怒鳴り返すようにリシャールは大声を返す。
「駄目です! 行っちゃいけません!」
その目は真剣だった。
「『ウォーバット』には、自分がやられそうになった時、仲間を呼んで立ち向かうっていう習性があるんです! 一匹が仲間を呼べば十匹、十匹が呼べば百匹、百匹なら千匹って具合に!」
リシャールは一度息継ぎをしてから、再び烈火の勢いで話を続ける。
「ちなみに今のはあくまで例です! 運が悪ければ、一匹で千匹集まるかもしれません! だから絶対にこの魔物は相手にしちゃいけないんです! もし間違って敵対したら最後。どちらかが全滅するまで戦いは終わりません!」
「な、ならば、どうすれば良いのだ!?」
「だから逃げるしかないんですって! あの人達の仲間だと思われないように!」
リシャールの言葉に、アーラは眉を顰める。
外の生徒達を見据えながら言った。
「彼らを見殺しにしろというのか?」
「そうです! 彼らはもう手遅れですが、僕達は違います! それに、もし彼らを助けにいって『ウォーバット』を倒しても、それは悪循環への始まりでしかないんです! 倒せば倒すほど数が増えるんですから!」
「なら全部倒せばいいだろう!」
「無理ですよ! 雨の日に外を歩いて体が水滴一粒も濡れないようにするなんて、どうやったって不可能でしょう? それと同じです! 次から次に湧く魔物をしのぎ切る事なんて出来ません! 何せパウルース中の……いえ、もしかしたら大陸中の『ウォーバット』が押し寄せてくるんですから! だからまだ数が大して多くない今の内に逃げないといけないんです!」
自分でその光景を見た経験が無いにも関わらず、リシャールは確信を持って話している。父親の教えに間違いなど無い事を信じきっているからである。
だからこそリシャールの訴えは真実味を帯びており、突拍子の無い話だと、真っ向から笑い飛ばす事は誰も出来なかった。
全員その場に立ち尽くし、リシャールを呆然と眺める。
その中で何かに気付いた風なベルナルドが、窓にゆっくりと近づいていく。空を見つめながら、戸惑いを隠さず、呟きを漏らした。
「……お、おい。も、もしかして、あれって……」
ベルナルドは引き攣った顔で一同を振り返った。
「え?」
「どうしたのベル?」
一度唾を飲み込むと、ベルナルドは震える声のまま恐る恐る言った。
「あ、あの空の黒い塊……って、も、もしかして、その『ウォーバット』の大群……じゃないのか?」
「なっ!?」
全員が絶句する。皆驚愕で固まり、微動だにしない。
オレリアが最初に我を取り戻し、必死に作り笑いをしながら取り繕う。
「そ、そんなまさか! だ、だってもしそうだったら、雲と間違える位の数が居る事になるよ? 何千どころか何万匹だよ? そ、そんなの聞いた事ない!」
その言葉にベルナルドは空笑いする。
「そ、そうだよな。わ、悪い。驚かせるような事を……」
「に、逃げましょう! アーラ様!」
リシャールの大声が教室中に響き渡った。叫ぶなり、先程以上の力でアーラを引っ張る。
今度は本気なのか、流石にアーラも持ち堪えられないようで、入り口に向かってズルズルと引きずられていく。
つまりベルナルドの指摘を、リシャールは認めたという事だ。
幾ら荒唐無稽な話だと思っていたとしても、本気で信じている人間が居れば、想いは揺らぐ。
オレリア達は動揺を抑えられなかった。
空の黒塊と、直ぐ外で生徒達に襲い掛かっている『ウォーバット』を交互に見つめる。
「わ、分かった! 話は分かったから、もう引っ張るな! どうやらお前の話は本当かもしれん!」
「そうです! だ、だから早く……」
入り口の扉付近まで引っ張られた所で、アーラが怒鳴るように言った。
「そうだ! だから一刻も早く、他の者達に危険が迫っていることを伝えねばならん! あの黒雲が魔物の大群だとは誰も思っていないだろうからな!」
アーラの目は真剣だった。
今自分達が、差し迫った脅威に晒されている事をはっきりと認識していた。
「そ、そんな危険ですよ!? 何人居ると思ってるんですか!?」
リシャールは怯えきった表情で、しきりに退避を促す。
しかし、アーラは頑として認めない。
「だからといって、見過ごせるか!」
その言葉を聞いて、オレリアとカリーヌはようやく落ち着きを取り戻したようだ。恐怖を瞳に宿しながらも賛同する。
「そ、そうだね! 早く皆に伝えなきゃ! 絶対外に出ないで、教室に閉じこもってるように!」
「う、うん! 手分けして連絡しよう!」
二人は頷き合うと、急いで教室の外に出て行こうとする。
「だ、駄目です! 教室の中じゃもっと危険です!」
それをリシャールは慌てて止めた。
アーラが怪訝そうに尋ねる。
「どうして止める?」
「『ウォーバット』の鳴き声には、特殊な音が含まれているらしいんです。平静時にはただの鳴き声にしか聞えませんが、警戒が高まると人間の脳を刺激する音が混じるそうなんですよ」
「ならば尚更、中に立て篭った方が良いではないか」
アーラの眉間の皺は、益々濃くなる。
対して、リシャールはゆっくりと首を左右に振った。
「いえ、音の波は密閉空間だと更に効果が高まります。反響しちゃいますからね。教室のような狭い所だったら、多分立っているのも辛くなる筈です」
「な、なら、中に入り込ませなきゃいいんじゃ? 閉め切ってたら入って来れないでしょ? 手とか無いみたいだし」
オレリアが期待を込めて尋ねた。
「……はい。入り込むのを防げるなら……」
だが、リシャールは沈んだ声で返答する。
どこか含みがある言いように、オレリアの表情の曇りは消えなかった。
ベルナルドは外を見つめながら、リシャールの言葉の裏の意図を読み取って呟いた。
「あの数じゃ……こんな扉や窓なんか、直ぐに突き破られそうだな」
「じゃ、じゃあ……外に出てた方がいいって言うの!?」
「は、はい。もちろん、逃げる為です! 急いで学校から離れないと」
そう言ってリシャールはアーラを見つめる。その目は直ぐにここから立ち去る事を訴えていた。
アーラは口をギュッと引き締め、小さく頷いた。
「……リシャールの言葉にも一理ある。仮に戦うにしても、学校の中では動きが取れない。ともかく、急いで他の者達に危険を伝えなくてはいけない事に変わりはない」
「そ、そうだね。じゃあ、私は先生達に連絡してくる!」
「わ、私も一緒に行く」
アーラに頷き返したオレリアは、カリーヌと一緒に教室を飛び出した。
「僕は他の生徒達に伝えてくるよ!」
ベルナルドもアーラにそう言い残すと、オレリア達に一足遅れて教室を出て行った。
それを見送った後、アーラも動き始める。
「我々も行くぞ! 伝達はオレリア達に任せて、外の生徒達に加勢するのだ!」
リシャールはあんぐりと口を開けると、両手を激しく振った。
「駄目駄目駄目駄目です! 駄目って言ったじゃないですか! そんなことしたらアイツらの標的にされちゃうんです! 早く逃げるのが得策ですよ!」
「うるさい! ごちゃごちゃ言っていないで行くぞ!」
アーラはリシャールの言葉には聞く耳持たず、代わりに肩をガッシリと掴んだ。そのまま教室の外に向かう。
「だ、あ、ひ、引っ張らないで下さい! わ、分かりました。行きます。行きますよ! で、でも僕は戦いませんからね!」
泣きそうな声で言い切ると、リシャールは肩をおとしてトボトボとアーラの後に付いて歩き始めた。