103: 蝙蝠
コンラッドと別れた後、グラストス達は彼の要望に従って山裾の村を発つことにした。
アーラの頼みという目的を果たしたので、長居をする理由もなかったのだ。
そして、再び半刻ほどの時間を掛けて、学校近くの村の傍まで戻ってきていた。
「やっど戻って来れだなぁ」
御者役のサルバが村の方を見ながら、ホッとしたように呟く。
ここまで来れば学校は目と鼻の先で、そこには敬愛すべき少女が居る。それ故の安心なのだろう。
「サルバさん。お疲れ様でした」
御者台の直ぐ後ろの位置で腰掛けていたオーベールは、サルバの言葉を拾い、労いの言葉を掛けている。
そんな二人の様子を眺めながら、
「で、この後はどうするんだ?」
もはや定位置となった荷馬車の後部から、グラストスが質問を投げかける。オーベールとヴェラに向けて。サルバは敢えて無視していた。間違いなく有益な回答は得られないからだ。
その当人は今の言葉が聞えなかったのか、開いているのか分からない糸目で、前方をジッと眺めていた。それなら幸いと、グラストスは二人に返答を促す。
ヴェラは横目でグラストスを一瞥する。特に意見を言うつもりはないようで、姿勢良く座ったまま口を開こうとしない。行動の決定権はオーベールに委ねているのだろう。
アーラの家とオーベールの家の関係上、ヴェラとオーベールの間柄は主従関係に近いものがあるからだ。この場にアーラが居ない今は特に。
オーベールは、困った顔で考え込む。
「そうですねぇ……」
正直この村で出来ることは、もう殆ど無いと感じていた。
だが今、学校ではアーラ達が自分の母親のことで頑張ってくれている。そんな時に肝心の自分が何もせずに、ただ帰りを待つだけというのは耐えがたかった。申し訳ない気持ちが何より勝る。
結局オーベールは情報収集を再開することを決めた。
「では、情報を得られるかは分かりませんが、先程の続きを……」
他にする事もない。
グラストスが同意を示そうとした時。
「んなっ? あれは何だぁ?」
サルバが突然御者台の上で立ち上がり、素っ頓狂な声を上げる。手を翳して空の彼方に視線を送っていた。
流石のヴェラも注意を引かれたのか、サルバをジッと見つめる。
「どうした?」
グラストスが後方から尋ねる。
サルバは前方の空を見上げたまま答えた。
「何が、空の端っこが夜だぁ」
昼は大分過ぎているが、夜の帳が掛かるにはまだ早すぎる。
サルバが何を言っているのか分からず、他の三人の顔に困惑の色が浮かぶ。
「だがら、こっぢ来てみろ。端だぁ。真っ黒だ!」
興奮しながらサルバは両手で手招きを繰り返す。
グラストスは仕方なく身を起こし、荷馬車の前に移り御者台に顔を出した。
「一体何言ってるんだ、お……まえ…………は……」
呆れた調子の言葉は、直ぐに尻切れる。
空と地上の切れ目。或いは境には、黒色の雲が浮かんでいた。
雷雲だろうか。グラストスは判断に困り、呆然としたまま空の彼方に視線を送り続けた。
グラストスの脇から顔を出したオーベールは、不思議そうに黒雲を眺める。
「おかしな雲ですね……」
その言葉に頷きながら、サルバも呟く。
「不吉だなぁ」
どこかのんびりしている二人とは対照的に、ヴェラは少し険しい表情だった。
「…………」
眉間に皺を寄せ、空を凝視している。
一足先に我に返ったグラストスは、
「一雨来るのかもしれないな。早く宿に戻って馬を休ませよう」
と提案し、三人の賛同を受けた。
+++
村の中に入ると、村人達の多くが外に出ていた。
空の異常に気付いたのだろう。皆家の前に立ち尽くして、空の彼方を眺めている。
この場では微風だが上空の風は強いのか、雲の進行は思いのほか速いようだ。先程見た時よりも黒雲は大分近づいて来ていた。
恐らくこの速度であれば、半刻もすればこの辺りまで達するかもしれない。
「村の皆さんも、気になられているようですね」
「あんなに特徴的な雲だからな」
オーベールとグラストスは村人の様子を気にしながらも、空から視線を外さない。
「だけんど、あの下はどうなってんのがなぁ? すんげぇ雷とか落ちてんのがなぁ」
サルバは好奇心に満ちた目で、相変らずのん気に妄想を垂れ流している。
「稲光は見えません。気温も本日はずっと安定しておりましたので、雷雲とは考えにくいでえすが……」
ヴェラが隣で指摘をしていたが、サルバの耳には入っていなかった。
日頃は冷静で注意深いヴェラまでも、意識は空に向いている。他の面々であれば尚更である。
周囲の通行人も同様の様子だったので、それが起こるのはある意味必然だった。
「うわあぁぁっ!」
誰かの悲鳴が聞えてきたのとほぼ同時に、馬車が大きくグラつく。不意の衝撃にグラストス達は全員体勢を崩すことになった。
荷馬車の前方に固まっていた事が悪い方に働き、グラストスとオーベールは縺れ合う様にしてその場に倒れこむ。御者台にいたサルバは路上に弾き出されていた。
そんな中、一人転倒を免れたヴェラは体勢を立て直しつつも瞬時に状況を把握した。馬達に視線を向けながら淡々と説明する。
「前方に居た馬と衝突しそうになり、驚いて急停止したようですね」
「な、馬と?」
「悲鳴が聞えたという事は……!? た、大変です! もしかして、どなたか巻き添いになったのでは!?」
オーベールは顔を青ざめさせながら身を起こした。
同じく立ち上がったグラストスとオーベールは互いに目を合わせると、慌てて外に飛び出した。急いで前に回りこむ。
「あいだだだだだ」
落ちた際に地面にぶつけたのか、路上に倒れこんだまま頭をしきりに擦っているサルバを跨ぐようにして前方へ急ぐ。
二人の予想は正しかった。
前の馬の傍には路上に蹲っている人が居た。意識はあるようで「痛い痛い」と尻を擦っている。どうやら馬車とぶつかりそうになった反動で、落馬してしまったようだ。
ただ重傷ではなさそうである。痛そうにしているものの、目立った外傷は見当たらない。グラストス達は、先ずはその事にホッとする。
とはいえ、自分達の注意が散漫だった事は事実である。落馬させてしまった事を謝罪しようと、近づいていった。
「あの……大変申し訳ありませんでした。お怪我はありませんか?」
オーベールは地面に膝をついて、相手を介抱する為に手を伸ばそうとする。
しかし、相手はオーベールの謝罪を聞くなり顔を勢い良く上げると、差し出された手を乱暴に振り払った。
「ふざけるな! 一体何処を見ていた!? 騎士の俺を落馬させるなんてどういうつもりだっ! 公務執行妨害の罪で捕らえてやる! 謝罪しても遅いぞ! お前達はケーレス騎士団の騎士を落馬させたのだからな、騎士にとってこれ程の侮辱はない…………って! お前等は!?」
倒れていた人物は勢い良く立ち上がると、距離を取るように後方に跳び下がった。険しい表情でグラストス達を睨んでくる。
「ん? お前は……また会ったな」
「ああ、この間の」
二人の前で気炎を上げているのは、この前一悶着起こした相手。ケーレス騎士団の赤毛の少年のジョルジュだった。
ジョルジュは自分を落馬させた相手がグラストス達だと知ると、一層目を怒らせ腰の剣を抜き放った。切っ先をグラストスに向ける。
「ここで会ったのが運の尽きだ! 今度こそ貴様等を叩きのめしてやる! っと、先ずはこの前の奴だ。あの雑魚はどこだ!? 奴を出せ! この間の決着をつけてやる!」
ジョルジュの威勢の良い言葉に、二人は顔を見合わせる。恐らくリシャールの事だろう。
「あいつは居ないぞ」
「リシャール君は今、別の場所にいまして……」
「騙されないぞ! 早く奴を出せ!」
通りで凄むジョルジュの怒声は大きく、周囲の目を集めている。この間の事があり、あまり人の目に付きたくなかったグラストスは、困ったようにオーベールを見た。
ただ困っていたのはオーベールも同じだった。二人は同時に苦笑いを浮かべる。
「!? 今の笑いは何だっ!? やっぱり奴を匿ってるんだな! 正直に言えっ! さもないと……」
何か含みが有る様に見えてしまったのか、憤慨したジョルジュは剣先をグラストスの鼻先まで近づけた。
「だから、アイツは今ここには居ないって」
剣先を間近に向けられながらも、グラストスの声に焦りはない。
何だかんだ言って、ジョルジュは無抵抗の人に危害を加えるような悪い奴ではないと肌で感じているのだ。
そんな風に見られているとは夢にも思っていないだろうジョルジュは、声に凄みを効かせていく。
「早く奴の居場所を吐けっ! さもないと俺に恐れをなして逃げていると解釈するぞ? それでも良いのかっ!?」
「それでいいんじゃないか?」
「決闘は危険ですからね」
挑発したつもりが真顔で肯定されたジョルジュは、二の句が告げずに黙り込んだ。
「何やってんだぁ? ヴェラさんがそろそろ行ごうって」
一瞬の間隙を縫うように、サルバの声が入り込む。
本人もこちらに近づいて来ている。まだ頭を擦っているところを見ると、ぶつけた痛みは案外大きかったらしい。
「ああ、そうだな」
頷いたグラストスを押しのけるようにして、ジョルジュはサルバの前に立ちはだかった。品定めするようにサルバをジロジロ眺める。やがて胡乱気な目で振り返った。
「誰だコイツは? 初めて見る顔だが、このデカぶつも貴様等の仲間か? 他の奴はどうした!? あの乱暴な女と金髪の小煩い女は?」
「二人も今はここに居ない」
「ふんっ! まあ別にあんな糞女供は、居なくて清々するがな!」
そう言い張るジョルジュは、どこかホッとしているように見える。
もしかしたら、この前の事で苦手意識を持ったのかもしれない。特にマリッタに。
「女というものは、物静かで清楚で清らかじゃないと駄目だ! あんな奴らは女の風上にも置けん!」
二人が居ないと分かった途端に、ジョルジュは言いたい放題にこき下ろす。
グラストスやオーベールは苦笑いするだけだったが、一人目を光らせた男が居た。
「……もしがして、今、お姫様の悪口言っだのか?」
アーラに関する事には抜群の理解力を示すサルバは、”金髪の女”が誰を指しているのかを、漠然と把握したようだ。険しい顔でグラストスに確認を取る。
サルバの滲み出るような気迫に圧されたグラストスは、「あ、ああ」と、どもりながら頷き返す。
するとサルバは眉間に皺を寄せ、糸目を吊り上げて、威嚇するようにジョルジュに接近する。目の前まで来ると、憤怒の表情で見下ろした。
明らかな敵対心を自分に向けてくるサルバに対して、ジョルジュは警戒態勢を取った。口を噤むと、キッとサルバを睨み上げる。自分より一回りも二回りも体格の大きいサルバと相対しても、ジョルジュは全く怯みを見せていない。
そうして二人は睨みあったまま対峙を続けた。
「おい、二人とも落ち着け」
グラストスが二人を宥めようと声を掛ける。
が、
「黙っでろ!」
「そうだ。外野はすっこんでいろ!」
二人は余計な干渉はするなと言わんばかりに、グラストスに吐き捨てる。そして、両者は一歩だけ距離を詰めた。
「くそっ、コイツら」
「お、落ち着いて下さい」
苛立つグラストスを、オーベールは必死に宥めた。
「お姫様の事を悪ぐ言うやづは許せねぇ!」
「うるさいっ! 早く奴を出せ!」
「何だど!? お姫様に何の用だ!? お姫様はオレが護る!」
「あくまで庇い立てする気か!? ならば、先ずはお前から相手してやる!」
「おおぉ! 望むどごろだ!」
グラストスは一触即発の二人の間に強引に入り込む。互いを押しのけるようにして引き離そうとする。
「落ち着けって! 離れろ! お前達の話は噛み合ってるようで噛み合ってないから!」
「知った事か!」
「そうだぁ!」
グラストスの取り成しにも、全く耳を貸そうとしない。どころか、二人してグラストスを乱暴に押しのける。弾き出されたグラストスに視線を向けることもない。
ただそれが切欠となったのか、それぞれ相手に掴みかかっていった。
巨漢のサルバの方が腕は長い。取っ組み合いであれば断然有利だったが、ジョルジュも腐っても騎士団員だった。
見るからに力の強そうなサルバと力比べをするつもりはないのか、組み合わないように上手く立ち回り、背後に回り込もうとしている。抜いていた剣はいつの間にか地面に放られている。丸腰のサルバ相手に武器を持つのは卑怯だと思ったのだろう。
サルバが両腕を振り回して強引に攻撃を加えたと思えば、ジョルジュも怯む事無く背後に回りこみ、がら空きの背中目掛けて拳を叩き込む。
二人は互角の様相だった。
突然始まった二人の喧嘩を、周囲に居た人々は始めこそ驚いていたが、次第に無遠慮な歓声を送り始めた。
「やれぇ! でッかい兄ちゃん! そんな餓鬼に負けんなよ!」
「いやいや、体格差があるのに良くやってる。坊主! やっちまえ!」
主に男性だったが、次第に人の輪が出来ていく。皆適当に二人の喧嘩を煽っていた。
ジョルジュは貴族である。本来、平民が貴族を煽るなんて事はそうそうあるものではない。
どうやら村人達は気付いていないようだ。ジョルジュの無駄にギラギラした目が、貴族のソレっぽく見えない所為かもしれない。
加えて今日、ジョルジュは軽装で、ケーレス騎士団の紋様の入った装備は身に付けていなかった。強いて上げると剣の鞘に描かれていたが、生憎地面に放っていた為、誰の目も留まらなかったのだ。
なので、無責任な囃し立ては収まるどころか熱を帯びていく。
その中でただ一人オーベールだけは、健気に二人を止めようと声を張っていた。
しかし、二人の耳に届く気配はなく、寧ろ益々喧嘩は激しさを増していた。
「……何を為さっておられるのですか?」
「あ、ああ、待たせたか。悪いな」
ずっと戻ってこないグラストス達に痺れを切らしたのだろう。二人を仲裁するのを放棄し、一人離れていたグラストスの傍に、ヴェラが近づいて来る。
ヴェラは乱闘しているサルバ達を冷静に見つめると、グラストスに尋ねた。
「……一体、何が?」
「いや何というか……ずっと傍に居た俺も、アイツらが何で殴り合ってるのかよく分からん」
「…………?」
ヴェラは互いに咬みつき合い始めたサルバ達を、冷たい目で一瞥する。
「では宿に向かいましょう。あの様子では大事になることもないでしょうし、放っておいても支障はないでしょう」
「……そうだな」
喧嘩の仲裁をしようという素振りも見せないヴェラに底知れぬものを感じて、グラストスは冷たい汗を垂らした。
とは言え、提案には一も二もなく賛成だった。
ずっと二人の喧嘩を止めようとしているオーベールに目を向ける。サルバ達を放置することに反対するかもしれないが、ここに残しておく訳にもいかない。
ともかく先ずはオーベールを呼ぼうとして、
「た、た、大変だぁっ!」
突然の奇声が割り込んできた。
この場に居るサルバとジョルジュ以外全員の注目が集まる。
その声の主は中年の男で、ここまでずっと走ってきていたのか、一度立ち止まるとドッと滝のような汗を流し始めた。必死に何かを告げようとしているが、呼吸も荒く声にならない。
「どうした? そんなに慌てて」
知り合いだろうか。一人の村人が寄り添うように近づくと男の背中を擦った。
グラストス達を含む周囲の視線を集めていた男は、一度激しく咳き込んだ後、ようやく息を整えた。
自分を見つめる村人達をグルリと見回しながら、真剣な表情で言った。
「が、学校が、こ、蝙蝠に襲撃されてる! そ、それも沢山の蝙蝠に!」
***
学校には食物を育てている畑が存在する。
ただあくまで研究の為の個人菜園程度の規模でしかなく、学校の食を保証するには全く足りない。従って、食料は外から仕入れる必要があった。
男の家は祖父の代から、学校専属の食料配達業を行っていた。
農家から買い付けた食物を学校に届ける、という仕入れから配達までの流れは、男にとっては子供の頃からの日課だった。
必然的に農家の人間とも、学校側の人間とも親しく、関係性は良好だった。
学校がある限り、職にあぶれる事も無い。
男の届ける食料で、この国の未来を担う若者達が生活できている、とも言える。その事に男は誇りすら感じながら日々勤しんでいた。
配達はいつもは朝方に行われている。
ただ今日は学校側の都合で昼過ぎに配達するように求められた。
これは頻繁にあることではないが、かと言って初めてのことでもない。試験などで忙しくなると人手が足りなくなるからか、ままある事だった。
男はいつもの事だと大して気にせず、指示通りの時刻に食料を配達した。
荷馬車ごと正門を抜け、食堂の前につける。
男が来るのを見ていたのか、着くなり表に出てきた食堂職員と協力して、食材を全て荷馬車から運び出す。全て卸し終えると、後は料金を頂いて村に戻るだけだ。
職員に別れを告げて、男は再び馬車に乗り込み正門へと向かった。そして、正門への道の中腹まで辿り着いた時だった。
ふと男の耳に悲鳴のような声が入ってきた。気のせいだと思ったが、次第にその声は大きくなっていく。
男は気になって馬車を止め、御者台を降りて後方に回り、悲鳴のする校舎の方へ視線を送った。
恐らく生徒だろう。数名の生徒達が校舎の前で集っているのが見えた。それだけならごく当たり前の風景と言えるが、様子がおかしい。
彼らは宙を振り払うように手を回していた。まるで鬱陶しい蠅から逃れるように。
それを証明するように彼らの周りに黒っぽい”何か”が飛び回っていた。無論、蠅ではない。男の場所からはかなりの距離がある。蠅では小さすぎて目で捉えられない。では何か?
男はそのまま校舎に向かって近づいていった。彼らの方をジッと凝視しながら。
だが、男の足は止まる。
数名の生徒の中の一人が、地面に倒れ付した為だ。
それを見たのだろう他の生徒が、空に向かって魔法を放った。火の玉が勢い良く昇っていく。ただどうやら”何か”は仕留められなかったようだ。
生徒達は次々に魔法を放ち始めた。
一体彼らは何と戦っているのか。男は怯えていたが好奇心に突き動かされ、再び校舎へと歩き出した。
その時である。
男の視界を何かが遮った。そのまま纏わりついてくる。
必死にそれを引き剥がすが、剥がしても直ぐに纏わりつかれる。そして肩口に鋭い痛みが走った。咬まれたと理解するのに時間は掛からなかった。
男は我を忘れて叫びながら、抵抗しようと両手を激しく振り回した。すると強い衝撃が痛みと共に手に伝わる。
偶然だがその纏わりついていた”何か”に手が当たったようだ。”何か”を上手い具合に地面に叩きつけられたのか、死んではいないが今はぐったりと動かない。
男は恐る恐るそれを見下ろした。
特徴的なのは、両翼の肉感じみた翼と、赤い目。そして、口に生えている鋭い二本の牙。恐らく先程男を噛み付いた時に付いたのだろう。赤い血が滴っていた。
慌てて先程咬まれた場所に手をやると、確かに血が付着した。興奮している為か痛みは感じなかったが、それが逆に男の不安を煽った。
男の目にはそれは蝙蝠のように映った。ただ蝙蝠だとすると、とても体が大きい種類だ。しかも、人を襲う。
ふと男は校舎の方を見た。
すると、先程以上の数の蝙蝠が集まってきて居るのが分かった。
先程奮闘していた生徒達で、立っている者はいない。
逃げたのではない。
皆、地面に倒れ付していた。
まるで死体を漁る鴉のように、蝙蝠は生徒達の体に群がっている。
男は我慢できずに悲鳴を上げると、一目散に荷馬車へと急いだ。
が、振り返って気付いた。馬車が先程止めた場所に無かったのだ。慌てて周囲を見回し――直ぐに見つける事はできた。
馬車は通路の右手にある運動場にあった。
しかし、馬車はゆっくりと運動場の奥に向かって進んで行く。
男は様子がおかしい事を感じながら、長く可愛がっていた馬の名前を叫ぶと、馬車の元へと急いだ。
ある程度近づいて、馬に蝙蝠が纏わり付いているのが分かった。
馬も必死に抵抗しているが、上から攻められては馬にはどうしようもない。振りほどこうにも、荷が邪魔をして満足に走れないのだ。
やがて馬は横倒しになった。
男は愛馬の名を絶叫したが、馬の周囲に多くの蝙蝠が纏わり付いているのを見ると、足は動かなかった。
愛馬を護ろうとする勇気と、この場を立ち去りたいという恐怖が男の中でせめぎ合う。
行動を決めるのにそれほど時間は要しなかった。男はこの場を走り去った。
学校の異変には気付いていないのか、正門に居た門衛達の様子はいつも通りだった。
男は正門に辿り着くと、彼等に縋り馬を助けてくれるよう求めた。
男は気が動転していたため満足な説明はできなかったが、門衛達は何となく事情を把握してくれたようだ。馬の元に向かってくれることになった。
ただ、まだ信じてきってはいない。あくまで男が長く培ってきた信頼から、一応従ってくれたに過ぎない。
男は同行しなかった。正門の位置から彼らの動向を見守っていた。
門衛達はそのまま馬に近づいていき、やがて慌しく騒ぎ始めた。男の傍に居る残りの門衛達は不思議そうにしていたが、男には分かった。蝙蝠が彼らを襲い始めたに違いない、と。
剣を抜いて暴れ始めた門衛達を見て、正門に居た門衛達も血相を変えて慌しく出て行った。男だけが一人、その場に残った。
やがて門衛全員が宙を振り回し始めたのを見て、男はその場を走り去った。
一刻も早くこの場を離れて、自宅の寝室に閉じこもりたい。それ一心で。
***
話し終えた男はそのままがっくりと項垂れた。置き去りにしてきた愛馬の事が今更悔やまれたのだ。
村人は騒然とし始めた。
男の話は半ば信じがたい内容である。
事態を深刻に捉え村長の下へ向かった人間も居れば、笑い飛ばしてこの場を去った者も居る。いずれにせよ、村中に広がるのも時間の問題だと思われた。
一気に慌しくなった村の中で、グラストス達は真剣な顔で協議する。
「どう思う?」
「……嘘を言われているようには見えませんでしたね」
グラストスの問いに、オーベールが返答する。その表情は険しい。学校に居るアーラ達の事が心配なのだろう。
「とりあえず学校まで行ってみるか」
「そうですね。先ずは状況を把握しませんと!」
グラストスの提案に、オーベールは一も二もなく頷いた。
そうと決まると、二人は急いで荷馬車に戻ろうとする。
「ごのやろぉ!」
「デカブツがっ!」
そんなやり取りが聞えてきて、足が止まった。
周囲の騒動が目に入ってないのか、サルバとジョルジュの喧嘩は益々激しさを増していた。
グラストスとオーベールはどうするべきか、目を見合わせる。
グラストスは一息溜息を吐くと、
「俺が止めてくる」
と言い残し、二人の元に向かおうとした。
「あ、待って下さい!」
突如背中の服を引っ張られ、グラストスは背中から倒れそうになる。
「何だ!? 急にどうし……」
グラストスが背後を振り返ろうとした直後に、目の前を見覚えのあるものが掠めて行った。
「うおっ!」
「グラストスさん!?」
身を逸らした反動で、グラストスは尻餅を付く。
慌てて眼前を通過していったものを見て、それがアーラの荷馬車だったという事が分かった。
「盗まれた!?」
「い、いえ、操っているのはヴェラさんでした」
「何!?」
立ち上がったグラストスが周囲を見渡すと、確かにヴェラの姿はどこにもなかった。
恐らく男の話を聞いてアーラの事が心配になり、居ても立ってもいられなくなったのだろう。
アーラのことで我を忘れるのは、サルバだけの専売特許ではなかったようだ。
「気持ちは分かるが、俺達を置いていくなよ!」
グラストスは毒吐きながらも、急いで後を追って走り始めた。
「危ねえぞぅ!?」
「くそっ! どこを見ている!?」
少し先では、同じくヴェラの馬車に轢かれそうになったのだと思われるサルバとジョルジュが、通りの脇でへたり込んだまま不満そうに罵っていた。
ただそのお陰で、喧嘩は一時中断したらしい。
そんな彼らの前を、グラストス達は走り抜ける。
「おんや? どご行くんだぁ?」
間が空いた事で、少し冷静になったサルバはのっそり立ち上がると、離れていく二人の背中に向かって問いかけた。
「が、学校です」
「アーラ達が危ないかもしれないんだ!」
二人は振り向き様にそう答えると、再び前を走る馬車を追って走り始めた。
「何だとぉ!? お姫様が!? ごうしちゃおれねえ!」
サルバは躊躇う事無く、二人の後を追って走り始めた。
もう頭の中はアーラの事で一杯で、先程までの喧嘩相手の事はどうでもよくなったようだ。
だが、相手の方はそうはいかない。
「お、おいっ! 待てっ! 逃げる気か!?」
ジョルジュは滲んだ血を拭うと、そのままサルバを追いかける。
ただ途中で、ハッと何かを思い出したように立ち止まると、急いで元の場所まで戻った。
地面を見回して、目的の物。放っていた剣を拾い上げると、道端の草をムシャムシャと頬張っていた自分の馬に跨った。
「行くぞ! あいつ等の後を追うんだ!」
そう叫ぶなり馬の腹を蹴る。最初は反応が無かったが、馬は徐々に歩き出し、やがて早足で走りだした。
ジョルジュは必ずしも馬が思い通りの反応ではなかったことに不満そうだったものの、
「アイツめ、逃がさんぞ!」
そちらの事で頭が占められたようだ。
後は黙って、大分先に見えるサルバ達の後ろ姿を追うのだった。