102: 愛憎
魔物はキィキィと、狂ったように鳴き続けている。コニーが倒れた際に、檻が床に叩きつけられてしまったのが原因だろう。
巻きつけていた布も、その時の衝撃により一部はだけてしまっている。暗さでくっきりとは見えないが、魔物は狭い檻の中を忙しなく動き回っているようだ。興奮しているのがはっきりと分かる。
コニーも目を覚ます気配を見せない。
マリッタはそのどちらも気になって仕方なかったが、今は近づけないでいた。
「大丈夫だった?」
と、コニーを背後から襲って気絶させた人物だとは思えない程、明るい笑顔を浮かべた人物が気安く話しかけてくる。
その表面上に浮かぶ温和な笑顔とは裏腹に、その右手には金槌のような物が握られている。それでコニーの後頭部を殴ったのだろう。
相手の思惑が分からず、マリッタは金槌を視界に入れながら慎重に聞き返す。
「……何が?」
「こんな所に連れ込まれて、何か変な事されなかった?」
「される訳無いでしょ」
「そう。良かった。貴女の声が聞こえた気がして、奥に隠れていて正解だったわ!」
にっこりと微笑むその無垢な花のような笑顔を見れば、どんな人でも悪感情を抱く事は出来ないだろう。
――――自分の恩師を殴り倒した直後の表情だという事を知らなければ、だが。
オレリア達の信頼も篤く、成績優秀で貴族からも一目置かれる少女。ディアナがマリッタの前に、たおやかに佇んでいた。
「ディアナ、どういうつもり? どうしてコニー先生を」
「…………」
「アンタの担当教員じゃなかったの?」
「……………………」
マリッタはオレリアの話を思い出しながらそう咎めるが、ディアナはジッとマリッタを注視するだけで、何も答えようとしない。
流石に相手の様子が気になり、マリッタは片眉を上げる。
「ディアナ?」
「……………………やっぱり」
ディアナはポツリとそう一言呟く。や否や、満面の笑みを浮かべて両手をキュッと握り合わせた。
「良いわ。やっぱり、良い! 良いわマリッタ。やっぱり良いっ!!」
恍惚の表情を浮かべて、マリッタに熱い視線を送りながら、興奮したように何度も同じ台詞を繰り返す。
マリッタの視線が不明の色を帯びているのに気付いたのか、ディアナは言葉を切り、照れたように微笑した。
「あ、ごめんなさい。マリッタに私の名前を呼んで貰えたのが嬉しくて、つい興奮してしまったみたい」
「…………」
「昨日も堪えるのが大変だったのよ? でも皆の前で取り乱すわけにはいかないでしょう? 本当に辛かったわ」
ディアナはマリッタへの親愛を隠そうともしない。
精巧な人形のように整った顔立ちながら、表情は目まぐるしく変わる。恐らくこのディアナの様子は、他の生徒は誰一人知らないであろう。
しかし、マリッタにとっては懐かしく感じられるほど、見慣れていたものでもあった。
喜びの言葉を吐き続けているディアナを、マリッタは眉一つ動かさず制する。
そして、再び問いかける。
「……質問に答えな。何で先生を襲った?」
ディアナは途端につまらなそうに表情を変える。
「邪魔だったのよ」
躊躇いもなくはっきりとそう言うと、倒れこんだコニーを跨いで、マリッタに近づいてくる。
再び笑顔を浮かべながら。ただし、手に持った金槌は握り締めたままで。
「昨日は邪魔が居たから無理だったけれど……本心ではこうして二人きりで話したかったの」
「…………」
「正直、半分諦めてたわ。でも、こんな機会が巡ってくるなんて……。やっぱり私達、運命を司る神に祝福されているのかしら」
そう言うなり、ディアナはマリッタの反応お構いなしに、矢次にまくし立てる。
「マリッタは今までどうしていたの?」
「手紙を一通もくれなかったのはどうして?」
「相変らず綺麗な黒髪ね。見て? もう気付いてるとは思うけど、私もマリッタに倣って伸ばしてみたの。どう? 似合ってるかしら?」
またも興奮し出したディアナを、マリッタは冷めた眼で見つめていた。
そもそもマリッタが学校を去らなければいけなかった原因の一つには、ディアナが絡んでいた。
今のディアナの言動は、そういった過去の経緯を完全に無視していたものだったからである。
マリッタには彼女が一体どういったつもりなのかが、まるで分からなかった。
ただ、その事は一旦考えない事にして、自分の元に近づいて来ようとしているのを、それ以上近づくな、という意を込めて右手で制した。ディアナが立ち止まったのを見て、立てた親指で廊下を指しながら勧告する。
「分かったから、とりあえず外に出てな」
「……どうしてそんなこと言うの?」
ディアナは途端に表情の一切を消す。無機質な目がマリッタを捉えていた。
「先生の様子が気になる。それにその魔物は急いで処置しないと危険なんだよ」
「別にいいじゃない。そんな事どうだって。それより私と――――」
再度ディアナの表情が綻びかけるが、マリッタの厳しい目を見て、そのまま固まってしまった。
「アンタと悠長に話してる時間はアタシにはない」
更に追い討ちをかけるようなマリッタの言葉に、ディアナは声を失う。そのまま微動だにしなくなる。
マリッタは警戒は続けながら、ディアナに向かって一歩近づいた。
反応は無い。そのまま歩き続け、マリッタはディアナの隣を素通りした。ディアナは前を向いて俯いたまま動かなかった。
そして、マリッタは倒れていたコニーの傍にしゃがみ込む。傷口を確かめるようにコニーの後頭部にそっと手を廻し、再び抜いた手を検めた。
血は付着していない。出血はないようだ。
だが、まだ安心は出来ない。頭の怪我は、出血が無いことの方が重傷となる場合もある。マリッタは呼吸、脈拍などを慎重に探った。
(多分、大丈夫そうね……)
恐らく不意をつかれたことで、脳が揺さぶられたのだろう。そういう場合、マリッタの経験からすると、大した怪我は無くとも一撃で意識が落ちることは有り得る話だった。
医者ではないので確実な事は言えないが、コニーの反応を見る限りは、そこまで深刻な事態にはなっていないのではないかと、マリッタは診断した。
一先ず安心し、マリッタはふぅと息を漏らす。
「次は…………」
魔物の様子が気になったマリッタは、鳴き声の止まない檻に視線を向けた。下ろしていた腰を上げ、檻の元に向かう。
「ああああああああああああああああああっ!!」
突如、横合いから何かを堪えるような、唸りにも似た叫び声が上がった。
警戒は続けていたマリッタは、直ぐに身体をそちらに向け、対処出来る様に身構える。
奇声を上げながら、金槌を振り上げて猛然と突っ込んできたディアナに対し、仁王立ちで相対した。背後にはコニーが居る為、下手に距離を取れなかったのだ。
とはいえ、マリッタは魔法を使わず素手で相手をしたとしても、ディアナ程度ならどうにでも対処出来ると思っていた。
凶暴な魔物と対峙した経験のあるマリッタからすると、戦闘経験が浅い人間など恐るるにも足らなかった。
しかし、ディアナの目的はマリッタ自身ではなかった。
ディアナは勢いそのままに、飛びつくようにして魔物の檻に縋りついた。その細い両腕で檻を抱きしめると、奇声を止め不敵な笑みを溢した。
マリッタは厳しい眼差しを向ける。
「何のつもり?」
「ふふ。これは渡さないわ」
ディアナはそう言うと、檻を覆っていた布を剥ぎ取った。
「何を!?」
焦るマリッタに目もくれず、檻の鍵を開け、中に手を入れて魔物を掴み出した。
魔物はディアナの手から逃れようと暴れるが、通常の蝙蝠程度の体躯では胴体を羽ごと掴まれると、もう抗う事は敵わない。出来ることといえば鳴く事だけだった。
キィキィと鳴く魔物の声の大きさが徐々に増して行く中、マリッタの焦燥感も強まっていく。
「馬鹿なことを! 止めな! 今すぐ檻に戻して布を……っ!」
「嫌」
ディアナは笑顔で即答する。
その代わり、まるでマリッタの焦りを煽るように、魔物を掴んでいる手を伸ばした。
「でも、私のお願いを聞いてくれたら考えてもいいわ」
教室に差し込む光で朧気に見えるディアナの瞳には、一寸の曇りもない。
恐らく、その言葉は信じるに値する。願いを聞けば言う通りにしてくれるだろう。マリッタはそう悟った。
相手の譲歩を更に引き出す為には、ここは乗っておくべきたと思ったマリッタは、その願いを尋ねる。
「お願い? ふふっ。誤魔化さないで。貴女は分かってるでしょう? 私のお願いは昔と同じよ」
「…………」
「ふふふふふふっ。仕方ないわね。もう一度だけ言ってあげる」
ディアナはまるでマリッタを向かい入れるかの如く両腕を大きく開く。右手に金槌を。左手に魔物を掴んだまま。
そして、マリッタを熱っぽく見つめながら、優しく囁いた。
「マリッタが私の言う事を黙って聞いてくれればいいの。私の言う事を何でも。そう、何でも……」
ある種澄んでいた瞳は、徐々に濁りを増していく。
それと分かる邪な感情は、マリッタの全身に遠慮なく注がれていた。
マリッタは自分の身体に向けられる視線から逃れるように、それとなく両腕を体の前で組んだ。
心底不快気な表情でディアナを一瞥する。
口にするまでもなく返答は決まっていた。
真面目に答えるのも馬鹿らしかったのに加え、そうはっきりと拒絶するとディアナがどう反応するか分からない。
なので、マリッタは願い云々には触れない事にした。
「いい? アンタは知らないのかもしれないけど、その魔物は危険なのよ。悪い事は言わないから、急いで檻に入れ直しな。後はアタシが処理するから…………」
「そんな返答は求めてないっ!」
マリッタの言葉を遮って、ディアナは絶叫した。
同時に右手に持っていた金槌を渾身の力で放り投げる。マリッタの頭の少し上を飛んでいったそれは、部屋の壁に当たると、小さな傷を残して床に落ちた。落下音が響く。
ディアナは開いた右手で、髪の毛を掻き毟り出した。流れるような綺麗な髪が、ぐしゃぐしゃに乱れていく。
「ああああああああああああああ」
まるで呪詛を紡ぎ出すように、腹の底からうなり声を上げ続けた。
ただ徐々にその声は小さくなっていき、やがて教室内に静寂さが戻った。
髪をボサボサに乱したディアナは、中腰の姿勢で俯いたまま低い声で呟く。
「……また、私を拒絶するの?」
マリッタは少しだけ感情の篭った目で、何も言わずにディアナを見つめていた。
ただ無言の内に答えを察したのか、ディアナは低く笑い始める。
そのまま笑い続け、いつからか哂いに変わる。
「よぉく、分かったわ」
哂いを収めた時には、その雰囲気は一変していた。
先程までの狂人のような様子はなく、あるのはただ冷たい気配だけ。
「貴女はやっぱり、私を馬鹿にしてるんでしょう?」
「……そんなことはない」
「いいえ、馬鹿にしてる。侮ってるわ」
ディアナは言い切る。
「だからこの魔物の事、私が何も知らないとでも思ってるんでしょう?」
その言葉に、初めてマリッタの表情に戸惑いが浮かぶ。
それを満足気に見つめて、ディアナは魔物を掴んでいる左手に、右手をそっと重ねた。両手で包み込むように魔物を掴んだまま、話を続ける。
「この魔物の名前は『ウォーバット』。基本的に母子以外では群れる事はなくて、大体一匹で活動してる。成体でもこの通り私の片手で掴める程度の大きさしかないから、総じて小柄。蝙蝠によく似ているから、普通の人は見分けが付かないでしょうね。一応魔物だけあって肉食だけれど、主食は昆虫。人を襲うことなんてまず考えられない。一般的にはあまり危険はない、って言われている。だから、こうして研究対象にしても咎められない」
「…………」
「そこの教師の取り寄せた王都の書籍を読んでも、危険性については何も書かれていないから、きっと偉い人達にはその程度の認識なんでしょうね」
ディアナは一旦そこで言葉を切ると、マリッタを見やった。
「ここまでで、何か間違っていた所はあった?」
薄く笑いながら解答を求めるディアナに、マリッタは何も答えなかった。
その沈黙が間違っていない事を示していると認識したのか、一つ頷くと再び話し始める。
「まぁ、という所までが公式な見解なのだけれど、やっぱり知識だけで実際を知らない人間の書いた資料なんて、何の意味もないわね。この魔物を語る中で、絶対に外してはいけない特性を除いているのだから」
「アンタ……」
マリッタの困惑した顔を見て、ディアナは嬉しそうな声を上げた。
ただし、その目だけは笑っていない。
「でも流石。マリッタはその事を知ってるのね。そこの俄か教師なんか比べ物にならないわ。よく考えれば当然よね。マリッタはここでずっと魔物の研究をしてたのだから」
ディアナは倒れたコニーを見る事もなく、突き出している両手の輪を少しだけ小さくした。
当然、掴まれたままの魔物は苦しみ悶える。先程以上に鳴き声は大きくなる。
その声に誘発されるように、対峙しているマリッタはこめかみに痛みを感じ始めた。縄で締められているような頭痛に顔を顰める。
魔物の鳴き声に、特殊な音波が混じり出した証である。
それこそが『ウォーバット』の特性だった。
「ディアナ! 分かったから魔物を放しな! それ以上は危険よ!」
マリッタは痛みに耐えながら、必死にディアナに呼びかける。
だが、ディアナはその諫言に従うどころか、苦しむマリッタに愉悦の笑みを向けた。
まるでマリッタの苦しむ様が、心底楽しいとでもいうように。
「この魔物は単体では大した力は持たないけれど、外敵によって死に瀕した時、他の仲間を呼び集めるっていう習性がある。一匹の呼び声には大体十匹が応え、十匹の呼び声には百匹が……って具合に倍々になっていく。呼ばれた魔物は仲間を護る為に我が身を張って一丸となって外敵に立ち向かうそうよ。そうなったら悪循環。外敵にとっては悪夢でしかない。仮に増援を退けても、今度は更に倍の数になった相手に襲われるんだから。ふふっ。とっても怖いわ」
「……どこでその事を」
「知りたい? なら教えてあげる。でもそんなに複雑な理由じゃないわ。私の出身村の近くの山にあった集落が、その昔『ウォーバット』によって滅ぼされたらしいの。と言ってもこの魔物の性質上、先にちょっかいを出したのはその集落の人間だったに違いないから、同情の余地はないわ。まぁだから、私の村ではこの魔物の危険性は子供の頃から教わるのよ。絶対に危害を加えないようにって。伝え聞いているだけで、実際は誰もそんな光景を見たことはない筈なのにね」
「だったら、直ぐに檻に戻しな!? 分かってるんだろ? 本当にソイツは危険なのよ!」
マリッタが叫ぶ最中にも、魔物の絶叫は収まらない。
瞳の色は既に先程までの黄色ではなく、赤い輝きを放ち始めている。警戒色だ。
魔物の中には危険が迫ったり、興奮が高まると瞳の色が赤く変色するものがいる。『ウォーバット』も、その中に含まれる。
仲間を呼ぶ兆候だった。
「だから、そこの教師が何も知らずにこの魔物を捕まえてきた時には唖然としてしまったわ。ふふっ。正直、あんなに驚いたのは…………そうね。マリッタ、貴女に騙されていた事を知った時以来だったわ」
と、面白そうに笑ってから、ディアナは思い出したように言った。
「ああ。そう言えば気をつけてね。貴女が魔法を使う素振りなんて見せたら、私、怖くて思わず両手に力が入ってしまうかもしれないから」
今まさに強行手段をとろうかと、画策し始めていたマリッタの機先を封じるように、ディアナは怯えた振りしながら忠告する。
マリッタは小さく舌打ちをした。
「この魔物の事について復習出来たなら、いいかしら?」
見つめるマリッタの目からは、ディアナへの好意的な感情はまるで感じられない。
「怖い目……でも、いいわ。そんなマリッタも素敵よ。だから、もう一度だけ訊いてあげる」
ディアナは薄く笑った。
「マリッタ。私のモノになって」
「…………」
マリッタは何も答えない。
「そうしたらもうこんな所になんて用は無い。二人でどこかで静かに暮らしましょう? いえ、静かな暮らしが嫌なのだったら、王都で仕官の口を探す? 貴女の実力を見せ付ければ、きっと引く手数多よ? そう、他の人なんて関係ない。素晴らしい未来が待っているに違いないわ! だから私とずっと一緒に……」
熱っぽく語るディアナの言葉は、驚くほどマリッタの感情を揺さぶらなかった。
最後まで聞くに堪えないという風に、マリッタはバッサリと切る。
「下らない」
状況は分かっている。
恐らく一先ずはディアナの話に同調する素振りを見せた方が、この場を乗り切れる可能性があがるだろう。隙を見せたディアナから魔物を奪うことだって出来るかもしれない。マリッタもそれは分かっていた。
しかし、それが分かっていながら、マリッタは首を縦に振ることを拒んだ。自分の認めない相手におべっかを使うのは、どうしても嫌だったのだ。おぞましくもあった。
それをすることは、これまでそれなりに誇りを持って生きてきた自分への、自己否定にも繋がる。心の深い部分で、そう感じたのである。
対して、はっきりと拒絶されたディアナは、薄笑いの表情のまま固まっていた。
顔だけ見ると穏やかにも見えるが、その心中はそうではあるまい。まるで感情が見えなかった。
暫く、そうして固まっていた。
次に動いた時、ディアナは微笑を浮かべたままに――――両手で掴んでいた魔物を握り潰した。
魔物は断末魔の鳴き声を上げると、そのまま息絶える。
魔物の口から吐かれた血がディアナの両手にかかり、指に伝わって、ボタボタと落下して床に血だまりを作った。
「な……」
突然のことで、マリッタは反応は出来なかった。
ただ、もう遅い。魔物は恐らく最期の叫びで仲間を呼んだだろう。
教室は入り口の扉以外は締め切っている。それでどこまで魔物の声が外まで漏れたのかは分からない。運が良ければ仲間に伝わらなかったかもしれないが、それはあくまで希望的意見だ。
最大限の警戒を持って事に当たる必要があった。
マリッタはそんな事を考えながら、真剣な表情でディアナから視線を逸らさなかった。
「ふふ。どうなるかしら? 楽しみね」
心底楽しそうな表情で、ディアナは呟く。
「馬鹿な事を……こんな事をしてどうなるか分かってんの? アンタも罪に問われるわよ」
ディアナはわざとらしく溜息を吐く。
「管理責任者はそこの教師。この先何が起こっても罪に問われるのは私じゃないわ。それに貴女が真実を話したとしても、私の嘘と、貴女の真実、どちらが信用されるでしょうね?」
「ディアナ、アンタ……」
目を見開くマリッタに、ディアナは憎々しげな視線を向ける。
「マリッタ、この後何が起こってもそれは貴女の所為よ? これから起きるかもしれない惨劇は全て貴女の所為。貴女が私を拒んだ所為」
ディアナはそう言い放つと、両手に持っていた魔物の死骸を、用済みとばかりにポイっと床に放り捨てた。代わりに床に落ちていた布を拾い上げ、血に汚れた自分の手を拭いた。
大体拭き終わると、一度確かめるように鼻先に持っていく。流石に血の臭いは残ったのか、少し顔を顰めていた。
マリッタは反論はしなかった。
主張を認めたのではなく、相手にするのも面倒だったのだ。
それに責任追及は後でも出来る。今はそれよりしなくてはいけないことがある。
「……ともかく、急いでこの事を他の人に伝えな。この場所も離れないと危険よ」
「どうでもいいわ。そんな事」
つまらなそうにディアナは吐き捨てる。
マリッタはこれ以上問答する事への無意味さを悟ると、コニーの傍でしゃがみこんだ。依然意識がないのを確認すると、強引に身体を起こして背負うようにして担ぎ上げた。
そのまま教室の外に向かう。
「何処に行くの?」
その後ろ背に、ディアナが問いかけてきた。
「……だから、ここから離れんのよ」
「駄目よ。貴女はここに居て」
「ふざけるな」
構わず進もうとするマリッタに、ディアナは片手を差し向けた。
薄暗い教室の中に、緑色の光が浮かぶ。
「止まりなさい」
「…………」
マリッタは気にせず教室の扉の敷居を跨ごうとしたのと、ディアナが『風刃』を放とうとしたのは、ほぼ同時だった。
しかし、その前に突然の介入者によって、二人は違う対応を迫られる事になった。
「『ウォーバット』!? やっぱり駄目だったか!」
思わずコニーに覆い被さるようにしてしゃがみ込んだマリッタの頭上を、数匹の『ウォーバット』が通過し、教室内に入り込んできた。
仲間の仇討ちに集まってきたのだろう。既にどの個体も目は赤く、興奮しているのは明らかだった。
魔物はどこからか現れて次々と数を増していき、既に十数匹となっている。それらが、他には目もくれずに、ディアナに襲い掛かっていく。マリッタたちに見向きもしないのは、恐らくディアナの両手にこびり付いて消えない血の臭いを嗅いでいるからだろう。
狙われたディアナは、魔物達の放つ鳴き声に顔を歪めながらも、その声にはまだ余裕が感じられる。
「何よ! この程度の相手!」
強風で魔物達を壁に追いやり、魔物の攻撃を受けずにいる。
ただ教室の中は荒れ、机は倒れ、小物は教室の隅に追いやられていた。教室の窓を覆っていた布も、殆どが風の影響で外れてしまっていた。
風に煽られないように、覆い被ってコニーを護っていたマリッタが何かに気付いたように叫ぶ。
「ディアナ! 止めろっ! 攻撃はするんじゃない!」
ディアナは強風で魔物を退ける傍ら、『風刃』を放とうとしていた。それをマリッタは咎めたのである。
これ以上の魔物への攻撃は、悪循環への契機になる。
ディアナもそれが分かったのだろう。それ以上の行動を止めた。
マリッタの方を見る。
「ディアナ……!?」
その目から感じる感情を一言で表すならば、愉悦。
自分の行動からもたらされるだろうマリッタの動揺を思い、ディアナは喜び震えていた。
何の躊躇いもなく、ディアナは次々と『風刃』を振るった。
教室の中にいた『ウォーバット』が始末されていく。断末魔の鳴き声を残しながら。
そして、遂に限界に達した教室の窓が吹き飛んだ。
行き場を得た風の本流が、惨殺された魔物の死骸を伴って勢い良く窓の外に流れていく。
「なんて事を!」
風に流された魔物の遺体は、やがて地上に落ちる。
ただそうすると、死んだ仲間の元に集まるだろう魔物達には、仇が分からない。
『ウォーバット』の嗅覚は人よりは優れているが、犬等と比べると大した事はないからだ。なので、地上からはディアナの身体に付いた血の臭いを嗅ぎ取ることはできないに違いない。
そこで諦めて帰ってくれれば良いが、恐らくはそうはならない。
この棟には、生徒の実習室群がある。
地上に落ちた魔物の死骸の近くである下の教室にいる生徒達に、怒りの矛先が向けられる可能性は十分にあった。
一通りの魔物を始末したディアナは、荒れた教室の中央に妖艶に佇んでいた。教室内に篭った風が、鳶色の髪を無造作に持ち上げている。
そんな旧友の姿を険しい顔で見つめていたマリッタは、視線を切ると直ぐに行動を再開した。
コニーを背負い直すと、可能な限り早足で歩き始める。
教室から出て行こうとしたマリッタを、ディアナはもう止めようとはしなかった。
自分の犯した罪を悔いていた訳ではなく、マリッタへの興味を失った訳でもない。
ディアナは普段人に関心がなさそうなマリッタが、実は心根は良く言えば優しく、心情に沿って言えば甘い事を知っている。ここ数年会っていなかったが、先程のやりとりからその点は昔と何も変わってない事を感じていた。
つまりディアナが止めなかったのは、自分の犯した罪への後始末をつけようとしているマリッタの姿が見たかったからである。
思いはどうであれ、結果的に自分の為に奮闘するマリッタの姿が。
「ふふふふっ。いいわマリッタ。頑張って、私の為に!」
そんなどこまでも歪んだ愛情で心を満たしながら、ディアナは一人残された教室の中で笑い続けるのだった。