ぜんしん①
あの満月の日から数日が経ち、新月を迎え、月はまた満月に向かって満ちて行く。
今日は、下弦の月か。
段々と暗くなっていったカーテンの向こうに目をやった後、カレンダーを見ながらそんなことを考え、パソコンを閉じ、シンさんからもらったパーカーを羽織った。
――
あの日以降も、俺は毎日シンさんの家に遊びに行っていた。
最初は、『もし良ければ、明日も来てね』というシンさんの言葉に、彼が言う「架橋」の出番なのかと、ドキドキしながら足を運んだ。だが、彼は特段何をするでもなく、ただ、太陽が沈んでからの数時間を、『消えた側』の仲間たちを交えて、カードゲームや他愛ない話をして過ごすだけだった。
「沢山の人間に囲まれる」と言う体験に、最初は戸惑ったし、シンさんの仲間たちも、長年築き上げてきたコミュニティに新しい顔がいることに違和感を抱いていたようだ。
だが、話す中で初めて感じた『分かり合える』と言う喜び、そして今まで負ってきた苦労の数々。
俺達が分かちあい、お互いを仲間のように感じ、「共に楽しい時間を過ごしたい」と思うようになるのに、時間はかからなかった。
シンさんは、優しいだけでなく、色々なことを教えてくれた。
星の名前、古典に出てくる月、海外の絵画から、ゲームの裏技、風呂場のピンクカビの落とし方、作り置きの出来る料理のレシピなんかまで、本当に色々。
アヤノがいなくなって以降、家事代行サービスの派遣が止まってしまい、問い合わせるのもなんとなく気が引けて、俺は荒廃した家の中で時間を過ごしていたが、それを聞きかねたシンさんが、色々な知識や『秘密道具』と称した便利グッズを持たせてくれた。
「観葉植物の元気がないときは、これ、かけてみて」
「ハルト君、ちゃんとご飯は食べている?お米炊いて、その上にこれ、かけるだけでずっと違うから」
あまり多くはない言葉と一緒に取り出されるグッズ達は面白くて、だけど、確実に自分が「きちんと生きなくては」という道しるべとなった。
今までだったらエラーで外に出られなかった満月以外の日に、外に出られるようになったのも、シンさんのお陰だ。
満月のあの日、『もし良ければ、明日も来てね』と言う言葉に、自分は何を返すこともできなかった。身体が満ち欠けする間に外に出た経験は、あのアヤノと共にピクニックに出かけた日が、自分にとって最初で最後の物だった。
あのジャージを着て、あのマスクをつけて、サングラスをかければ、人感AIのエラーには対応できるかもしれない。だが、それは本当にうまくいくのか?俺なんかが、外に出ていいのか?
そんな思いを知ってか知らずか、『そうそう』と言うと、シンさんは来ていたパーカーを脱いでこちらに差し出した。
肌寒さのある秋空の下、薄手のTシャツ一枚になった彼を、何事かと思い見つめていると、シンさんはふふっと笑顔を浮かべた後、手繰り寄せた俺の手の上にそっとパーカーを置いた。
『外に出る時は、これ。良かったら着てみて』
そんな言葉と一緒に受け取ったパーカーは、シンさんが着ると腰まで程の長さだったのに、自分の背丈よりもずっと大きくて、羽織ってみると、肩から膝のあたりまですっぽりと隠れてしまった。
『政府が敷いている認証システムに認証されない方法、それは『消えた側』の人間になること。とは言っても、完全に身体を消すのは難しいから、『消えた側』の人間の服で体を覆ってしまえばいいんだよ。パーカーと、サングラスと、マスクみたいにね』
そう言ってふっと笑いかけるシンさんに、あの日のあいつが重なった。
「じゃあ、あいつは……」
呟いたそんな小さな声は、乾いた空気に溶けることはなく、確実にシンさんの耳にも届いたみたいだ。
『どうしたの?』
そう言ってこちらを覗き込むシンさんに、「あのっ」と思い切って心の内を明かす。
「実は、数か月前まで、俺と一緒に暮らしてた人間がいて。
でも、ある日謎のロボットみたいなのが家に来て、そこから家に帰って来なくなったんです。
『一か月後には戻るから』とだけ言い残して、もう半年近く。
そいつが貸してくれた服を着たとき、俺は初めて人感AIのエラーに引っ掛かることなく外に出られて。
だから、あいつは『消えた側』の人間なのかなって。シンさん、何か知りませんか」
もう、忘れようと思っていたことなのに、頭の片隅に押しつぶしていたはずの記憶なのに。口にしてから、やっぱり自分は「もう一度あいつと話がしたい」という思いを抱いていたことに気が付いた。
なんで俺の前から姿を消したのか、あのロボットは一体何者なのか。そんなことを知りたい気持ちがなかったと言えば嘘になる。だが、それ以上に俺は、あいつに戻ってきて欲しかった。あの、他愛なくて、でも確かに特別な日々を、もう一度送りたかった。
頭の中に、あいつと過ごした時間が思い出される中、シンさんはこちらの目線をじっと見返すと、ゆっくりと口を開いた。
『うーん、『消えた側』の人間の知り合いは、誰も欠けることなく毎晩ここで集まっているしなぁ……』
そう言って顎をさするシンさんに、感じたのは、落胆なんかではなく、心の底からの感謝だった。
「ありがとうございます」
それだけ言って、向けた笑顔にシンさんは心の底から申し訳なさそうな顔を向けたが、驚くほどに俺の気持ちは前を向いていた。
そうだ、俺はあいつに会いたい、もう一度。
シンさんに向けて放った言葉は、シンさんに届いたであろう以上に自分の心に触れ、感情を形づくり、生きる理由を教えてくれたような気がした。
――
そんなことを思い返しながら、作り置きしていた冷凍ご飯を食べ終え、今日もシンさんの家に行く準備をする。
そうだ、パーカーのお礼に、今日はこの前の満月の時に行った、いつもの高原の星の写真でもプレゼントしよう。
スマホを取り出して、プリンタにつないで、何枚か撮っていた写真を見返し、シンさんが一番好きだと言っていたみずがめ座が一番きれいに映っているものを選んで印刷した。
「秋の一つ星」と名高いフォーマルハウトを、南に上った先にある、水瓶のような三角形の星。それから派生する横に連なる星々を、水瓶をもつ男性や零れ落ちる水に見立てたものがみずがめ座なのだと、シンさんは教えてくれた。
みずがめ座は、大きく広がっており、また明るい星がない為見つけるのに少し時間がかかるとシンさんは言っていたが、「シンさんが教えてくれた星」だというだけで、俺にとっては輝いて見えて、案外すぐに見つけることができた。
プリンターから少しずつ吐き出され、見えて来た星座の全貌を確認して、保護用のOPPに入れてマスキングテープで止める。これでよし、後はマスクをつけて、フードを目深に被れば、今日もいつも通りの『外出』の準備は完了だ。
ゆっくりと玄関を開け、敷いてある重量センサーのマットを飛び越えて、もう、何回も通った道を、ゆっくりと歩く。
星の見えない夜空を見上げたのは、いつぶりのことであろうか。
高く連なったビルから見える光の輝きが、『忌々しい人間たちの生きる証』が、俺にとって、脅威ではなく、憂鬱を駆り立てるものではなく、ただの「日常の一つ」になったのは、いつの事であろうか。
そんなことを思いながら、パーカーの袖を内側に丸めこんで握りながら歩く。
俺が、人間の「悪くない一面」を見られるようになったのは、確実にアヤノのお陰だ。
そして、それを思い出させてくれたのは、紛れもなくシンさんだ。
大嫌いだったはずの人間が、疎ましくて仕方がなかったはずの人間が。
俺の中で一人の名前を持った「人間」となり、俺が人間らしく生きるために、必要な存在となって行ったことに気が付けた喜びは、1ヶ月近くの時間を経ても衰退することはなく、ただ確かに自分の中に根を張っていた。
いつか、またアヤノに会えるだろうか。
そんな思いが一瞬頭をよぎるが、振り払うように首を振る。
『ハルト君の話を聞く限り、その子はハルト君に対する思い入れがあるように感じる。
きっと、戻ってくることのできない事情があるんじゃないかな。
「待っていて」と言われたのなら、きっと待っているのが一番なんじゃないかと、僕は思うよ』
そんなシンさんの言葉を、俺は信じることにした。
到着した公園の丘を登った先にあるテントから漏れる光と、豪快な笑い声に、「今日はもうみんな来ているのか」とペロンとシートをめくった。
『おぉ、来たか!ハルト!今日はいいアテが手に入ったんだよ。ちょっと食うか?』
中に入るや否や、ごつごつの太い声でそんな言葉をかけ、ジョッキに注いだビールを持ち上げて上機嫌にこちらに赤い顔を向けるのは、ねじり鉢巻きがトレンドマークの『ジョー』さんである。
もともと漁師をしていたらしいが、『消える側』になってからは、もちろん船に乗ることも網に触れることもできず、漁ができなくなってしまったらしい。
幼い頃から海に触れて育ち、漁が人生の全てだったと語るジョーさんが、海を見ると、悔し涙が溢れて止まらないからと、内陸へ内陸へと足を進めるうちに出会ったのが、シンさん。
最初は自暴自棄になっていたジョーさんも、心の内を話すうちにシンさんと打ち解け、次第に毎日顔を合わせるまでの仲に発展したそうだ。
ジョーさんだけではない。このテントの中には、そんな人間が沢山いる。
突如として訪れた、世界の変化、失われた尊い日常。
後ろを向いて、立ち止まってしまった人たちに、再び生きる理由を、人と関わる楽しさを思い出させたのが、シンさんなのだ。
シンさんは、優しく、でも、確かに、生きる道を見失った俺達に、『生きる理由』を与えてくれた。過去のつらい経験を受け止めてくれる皆と、ワイワイと話している時間が、楽しくて、心の底から笑うことができて。
だから、俺たちは今、こうしてここに集まることができているのだ。
「いや、俺は大丈夫です。ご飯食べて来たんで」
「ありがとうございます」と首をすくめた俺に、ジョーさんは『がはは』と笑顔を返すと、またゴクゴクとビールを一気に飲み始めた。
ジョーさんや大人たちにとって、「酒を飲む」と言うのは、これ以上ない快楽の源らしいが、俺にはまだその権利はない。ジョーさんの言う『アテ』も、酒を飲むことを前提とした味が濃く、塩辛いものが多かったので、俺は一度食べてからはご飯を口実に断ることにしていた。
辺りを見渡すと、今日はいつもと比べてメンバーが2人足りなかった。
あれ、どこにいるのだろうか。いつもなら絶対あの場所にいるのに……。
そんなことを思いながら辺りを見渡していると、見計らったかのように入り口のシートがばさりとめくられ、静まり返った夜の冷たい空気が流れて来た。
「シンさん!こんばんは!」
内側から溢れて来た高揚感を、そのまま言葉にして声に乗せる。
そんな俺を見てシンさんはニッコリと笑顔を向けると、ゆっくりと俺の頭をポンポンと撫でてくれた。
「いらっしゃい、ハルト君。今日は星がきれいだね」
そんな言葉と共に向けられた優しい視線に、心がいっぱいになって、溢れる感情と共に頬が上がって口から息が漏れ出た。
やっぱり、俺はこの人と出会えてよかった。
そんなことを思っていると、シンさんの後ろの方から若い男の声が聞こえて来る。
「シンさん、そろそろ」
「あぁ、もうみんな揃っちゃってたか、ごめんごめん」
そんなことを言って、俺の頭から手を避け、いつもの場所へと向かって行ったシンさんの背後に隠れていたのは、やっぱり『タカさん』だった。
俺より数センチは高いものの、周りの大人達よりはずっと低い身長に、高い声。だが、誰よりも落ち着いていて、シンさんも頼りにしている、この集まりのナンバー2みたいな存在だ。
ペコリとだけ下げられた目線に、俺も少しだけ視線を下げて応じる。
ジョーさん達から『年齢も近そうなんだから仲良くしろよ』と言われたこともあるが、お互いに何か話せることがあった訳でもなかったし、タカさんも俺も基本的に自分から何かを積極的にするタイプではなかったので、距離感を図っている間に、この距離感がちょうどよくなってしまった節はあった。
『みんな、今日はどんな感じ?』
いつもの場所から発されたそんな言葉に、ワイワイとしていた空気が自然とシンさんの方に集まる。
『ダメだぜ、シンさん。やっぱり何にも触れられないし、『あいつら』の情報も何にも手に入らねぇ』
そんなジョーさんの言葉を歯切りに、少し酒が回ったみんなも口々に言葉を発したが、内容は皆同じで、要約すると『今日も昨日から何も変わらない一日だった』ということだった。
『あはは、そっかそっか』
勢いに若干押されて苦笑いを浮かべるシンさんを尻目に、収まることを知らないジョーさんはこちらに目を向けた。
『お前もだよなぁ、ハルト。早く友達に会いたいのに何の情報も得られなくて』
首を掴まれた子犬みたいな悲しそうな声と顔を向けたジョーさんに、『そう言えば』と、誰かが声を上げた。
『そう言えば、ハルトの友達ってなんて名前なんだ?』
『確かに聞いてなかったな』と顔を見合わせ合う皆に、あれ?っと拍子抜けてしまった。言っていなかっただろうか。
気まずそうにこちらに手を伸ばしたシンさんを一瞥してから口を開く。
「『アヤノ』です。俺の友達の名前。家政婦の『アヤノ』」
この場面に合致した、百パーセントの正解の答えを返したはずなのに、まるでそれが不正解だと言わんばかりに場の空気は固まってしまった。
一体何なのだろうか。
湧き上がってくる不安に辺りを見渡すと、開いた口から漏れ出るような声でジョーさんが応えた。
『『アヤノ』って言ったか。アヤノって……。シンさんとおんなじ苗字じゃねぇか』
そう言ってゆっくりとシンさんに視線を向けたジョーさんと一緒にシンさんの方を振り向く。
シンさんは、何を言うでもなく、ただ少し困ったように眉を下げて笑っているだけだった。
『シンさんの『見えなくなった』娘さんも、ちょうどハルトと同じ位の年だったって。
じゃあ、そのハルトが探してる友達って……」
困ったような、興奮したような、少し震えた声でこちらとシンさんに交互に目線を送るジョーさんに、シンさんはひとつため息をつくと、ふっと笑って答えた。
『それは、絶対にないよ』
力強くそれだけ言ったシンさんに、カッと血がのぼったかのようにジョーさんはガシャンと椅子を鳴らして立ち上がった。
『分かんねぇじゃねぇかよ、そんなの。可能性が1パーセントでもあるなら、ちゃんと最後まで足掻けって、教えてくれたのはシンさんだt……』
『亡くなってるんだ!
……僕の娘はもう亡くなっている』
初めて聞いた、叫ぶみたいなシンさんの言葉に、誰も、何も言える訳もなかった。
亡くなってるって、え?
娘さんって、あの娘さんだよな、あのシンさんが自分の身体を消してでも会いたいと願ったあの……。
テントの中には、人間が沢山いるのに、まるでその全員が孤独を演出する為に存在いているみたいに、ただ痛いぐらいに風がテントを殴る音だけが響いていた。
『えっと、ごめんごめん、えっと』
シンさんはまた少し困ったような笑顔を浮かべていたが、誰も何も言葉を返すことができなかった。シンさんが指を組んだり解いたりするのをみんなが眺めている中で、口を開いたのはタカさんだった。
『とりあえず、今日は解散にしましょう。
また、明日もみんなで楽しく時間を過ごすために』
そんな言葉に、ジョーさんをはじめとするみんなも『あ、あぁ』と納得したような声を上げると、逃げるように『じゃあ、また明日』と言ってテントのドアの方から出て行った。
最後取り残された自分に、二人分の視線が集まる。
えっと。
何か言える訳もない。俺なんかが何かを言って良い訳がなかった。
お辞儀をするように目線を下に向けてそのまま走って扉のシートを突進の勢いで押しのけて走り去った。
公園を出て、マンションを目に捉えた辺りで、ポケットに入れていた写真の存在を思い出した。
あぁ、渡しそびれてしまった。
取り出した右手に、ぐしゃっと力を入れ、地面に叩きつけようとした辺りで、いや、と我に返った。
写真に罪はない。もちろん星にも。
そうだ、今日はいったん気持ちを落ち着けて、明日誰よりも早く到着してこの写真を渡そう。
俺は、絶対にシンさんの味方だということを伝えるためにも。
そんなことを思うと、暴れてしまいたいような心の中の衝動も、自然と落ち着いて行った。
そうだ、また明日。
そんな言葉を支えに、俺は家へとつながる階段をゆっくりと登り始めた。