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満ちゆく月と孤独な天の川  作者: 月岡 結
月が、美しく『そこ』に居るということ
7/11

であい

新月を迎えて、満月が来て。また新月が来て、満月を迎える。

そんな当たり前を、俺は何度繰り返しただろうか。



 アヤノがこの家を出て行ってから、1ヶ月が経ち、2か月が経ち、季節はついに秋を迎えようとしてた。

昨晩の肌寒さを取り残したままの少し暗い朝の中、俺は今までと同じようにアイちゃんのアラームを止め、身体を起こし、パウチゼリーを食べるためにキッチンへと向かう。



最初は、不安や焦りに似た感情を抱いた。約束の1か月を過ぎ、2か月が過ぎ。あいつは、一体どこへ行ったのか、あの男は一体誰なのか。そんなことばかりを考え、眠れない夜を過ごした。家事代行サービスのホームページも穴が開くほど読み込んだし、あの男につながるヒントはないかと、メールのアドレスを解析しようともした。

だが、俺ごときに得られる情報なんて一つもなかった。


そして、もう、いつかさえ覚えていない、あの日。俺はふと思い出した。


あぁ、そうだ。今までの、この数日間が特別だったのだ。今ある現実、一人で孤独に耐えるこの現状こそが、俺にとっての「当たり前」なのだ。

忘れていた感情を思い出してからは早かった。そうだ、俺は俺の「やるべきこと」をやろう。毎日決まった時間に起きて、適当に飯を食って、ゲームに没する。それが俺の、使命なのだ。今までの夢物語は、自分の都合が作り出した幻想なのだ。


早く、元の生活に戻らねば。


そうゲームを起動すると、やはりいつものように何も考えず、ただ手を動かすことができた。やっぱり。喜びも悲しみも覚える前に、こうしておけばよかったのだ。そこから、時間をやり過ごすのは簡単なことだった。このステージをクリアしたのが、昨日なのか、一昨日なのか、それともそれよりもずっと前なのか。

俺には分からない、分かる必要もない。

ただ、今与えられた「やるべきミッション」に向き合えば、それだけでいいのだから。


そうして、痛みすらも忘れかけたある夜の日。通常を取り戻していたはずのパソコンが、聞きなれない音を立てた。通知を知らせるポップアップをクリックすると、文字が浮かび上がる。


『これが、最後のチャンス。秘密を知りたければ、ここまで』


家からほど近い公園の住所を見て、大人しくポップアップを閉じる。何かを知ろうという気持ちが行動原理になるのは、よっぽど素敵な人間様に限ったことだ。それは俺がやるべきことじゃない。そう落ち着いてゲームを開こうとして、不意に奥底の方から何かが湧き上がってきた。


そうだ、人間は、いずれ朽ちていく生き物なのだ。だったら、最後に選ぶべきは後悔の無い方だ。ただ与えられた死を待つよりも。何かを知って、成して、自分たらしめる『何か』を掴みとって死んでいきたい。


なんだよ、それ。ずいぶん素晴らしいお考え方だな。


馬鹿にしようとして、馬鹿にされたことに対する怒りが湧き上がってきた。


あれ、なぜだろうか。ただ、安寧を求めて、朽ちるのを待つ。それが人間である、『俺』の生き方だというのは、ずっとずっと前から知っていたことではないか。


いや、そうじゃない、人間は、俺は、きっと。


対立する意見に挟まれて、まるで、自分の中で自分ではない何かと戦っている感覚に陥る。




俺は。俺は、俺は……。





あれ?俺は、一体。













……誰だ?


身体は、頭の中がまとまるのなんて待ってられなかった。ドアを開けて、廊下に転がるが、痛みなんて気にせずサンダルに足を突っ込む。

幸か不幸か、今日はあの日と同じ満月だ。

世界が初めて『俺』を認識する中、ただ肺が動くのを感じながら、我武者羅に足を進めた。






――



 満月が薄暗くあたりを照らす中、頼りない光をぽつぽつと放つ電灯の灯る公園にたどり着く。

ぜーぜーと乾いた空気を肺いっぱいに吸いながら辺りを見渡したが、誰がいるでも、何が書いてあるでもなかった。


『何の変哲もない、静かな公園』


何気なく、そんなことを思いながら一歩足を踏み入れると、その暗闇に自分も飲み込まれてしまいそうな感覚を覚えた。


「引き返すなら、今だ」


心の中で誰かがそう訴えたが、頭を振って前に進む。


「そうだ、ここまで来たら、もう引き返せない」


薄暗い道に沿って、どこを目指すでもなくただ足を進める。


なぜかは分からないが、ぼんやりとした気温に当てられて靄がかかったような頭とは反対に、身体はどこに向かえばいいのかを本能的に知っているかのように、足は自然と前へ進んでいった。3分ほど歩いた先にある、丘の入り口にあるベンチの前で、ふと立ち止まる。


なぜ、俺がここで止まったのかは、俺にも分からない。ただ、身体が勝手に動いていた。見渡すと、いくつか並んだベンチの上に、なにやら白い物が見えた。近づくと、石で抑えられたスケッチブックに、文字が書いてある


『ちょっと待ってね』


以前の手紙とは違い、読みやすく、整った文字に相手の思考を読もうとしていると、ザッと砂をける音が響いた。見ると、サングラスに、黒いマスクと、全身を黒色に包んだ何者かがこちらに近づいてくる。自動販売機程の身長にすこし怖気づきながらも、すぐに逃げられるよう、ひざを軽く曲げてじっと見ていると、そいつは俺をスルーして、横のスケッチブックを持ち上げ、持っていたペンで何かを書き始めた。


『ごめんね、来てくれてありがとう』


見せられた文字に、ただ首をゆっくりと横に振る。


『君の秘密について、僕は君に知って欲しいんだ』


俺は何も言えず、相手もこちらに何か反応を求めようとはしなかった。


『今、君からは僕が見えていないと思うけど。僕は、ここに居るし、僕には君のことが見えている』


「え?」


思わず声が出てしまった。見ると、相手も表情こそ読めないものの、驚いたようにこちらを向いている。


『もしかして、僕の声、聞こえる?』


かすかに聞こえたその声に、恐る恐る頷くしかできなかったが、相手からすれば、それで十分だったらしい。


『ここじゃなんだから、こっち。おいで』


か細いものの、優しいそんな声をかけて、相手はゆっくりと来た道を歩いて行った。

付いて行っていいのか。少しだけ悩んだが、ここまで来たのに引き下がるなんてことはできない。意を決して後ろをついていくと、そんな俺の足音を聞いてか、少しだけ後ろを振り返った後、その人はまたゆっくりと歩き始めた。



――


連れて来られたのは、公園の坂道を少し登った先にある丘の上だった。青いビニールが家のようになっているのを見て、なるべく近づきたくないなと足を止めると、


『こっち』


と、ぺろんとシートをめくった男が手招きをした。

やっぱりダメみたいだ。

少しだけ息をのんで、一歩一歩を踏みしめて歩く。


「おじゃまします!」


と覚悟を口にしてシートをめくると、明るい光が広がっているのはもちろんのこと、脚付きの椅子にテーブル、ヒーターにやかん、と意外と快適な居住環境が広がっていた。


『いらっしゃい、はると君』


そう言ってフードを脱ぎ、サングラスとマスクを取った男から優しい笑顔が覗く。

切りそろえられた短髪に、少しこけた頬。目じりに浮かんだ年相応の笑い皺に、何となく胸が締め付けられるような感覚を覚える。


『ここどうぞ』


と引かれた椅子にありがたく座らせて頂き、きょろきょろと周りを見渡す自分に、


『お家以外の場所、あんまり慣れないよね』


とふふっと笑いながら男はコーヒーを差し出してくれた。


「ありがとうございます」


そう言ってカップを手で包み込んで暖を取る俺を見て、またふっと笑うと、男は向かいの椅子に座って話し始めた


『僕は『シン』だよ。ごめんね、不安な思いをさせてしまって』


そう言ってこちらを覗く目の温かさを、俺は知っていた。


『それじゃあ、時間もないし、早速本題に入るね』


そう言って浮かべられた真面目な顔に、思わず唾を飲み込む。


『君と、世界の秘密について。そして』




僕たちの犯した罪について。










――

むかし、むかし。と言っても、両手で数えられる、数年前の話。

あるところに、天体学者がいました。


彼は、何よりも天文学を愛していたし、それを続ける才能もあった。


工学に通ずることで、既存の技術を応用して、更に正確な観測を可能にしたし、農学に通ずることで、天文学の技術を地球に享受させることにも繋げた。


ある日、彼らは銀河の奥に、見たことのない星があるのを見つけた。

星は、己が輝くか、他の星の光を反射することでその存在を見出される。

しかしながら、その星は、己で輝きを放つには不可能な色を、しかし他の恒星の光を反射するというには説明の出来ない色をまとっていた。

言語化は難しいが、例えるのであれば、ブラックダイヤモンドと言ったところであろうか。

光を反射しているのか、吸収しているのか。人間には分かりえないが、真っ暗な空間でも、確かに黒い輝きを放つその存在は、今までなぜ見つかることがなかったのかと思わせるほどだった。


彼らはすぐに研究を始めた。あの星にはどのようなエネルギーが眠っているのか。

きっと、この地球上に存在する、何万人もの人間の人生を向上させるものになるであろうと、そんな期待を抱いて。


何度もその星の方角に望遠鏡のレンズを向け、ロケットを発射した。

毎度、天の川を超えることは叶わず、宇宙に光の残骸が増えていく一方だった。


「もう、これは無理なのではないか」


誰もがそんな思いを抱きかけたある日、ロケットはその星をカメラでとらえることに成功した。

どうやったのか、彼らには分からなかった。それは、偶然が重なり成功したからとかではない。

5歳になったばかりの研究者の息子が、彼の知らぬ間にロケットを操作し、今までは天の川の影となり隠れていたその星を確かにカメラで捉えていたからだ。


研究者は、驚いたが、感情は同時にそれ以上の喜びに溢れていた。


これで、ようやくあの星の謎を解明できる。

この国で研究に携わる人間は、誰しもそう喜んだ。



だが、この研究が、この世界に災いをもたらした。



いくつもの星を超え、ロケットは、ようやくアームを近づけられる程の距離にまで近づいた。

もう少しで、謎が解析できる。誰もがそう思った瞬間だった。

星から何か、黒いガスのようなものが生まれた。

火山活動か何かかと、少し距離をとってみていると、ガスと呼ぶには少し動きが不自然であることに気が付く。

何だ、これは。そこにいた全員がそう思うよりも早く、手のような形にまとまった黒い物体は、ロケットを握りつぶした。今までの努力をあざ笑うかのような一瞬の出来事に、誰も何も言葉を発することはできなかったが、本当の悲劇はここからだった。


その日、人類は、皆揃って同じ夢を見た。


『「私は、ヘラ。お前たちが崇める、神である。

神である私の、触れるべきでない領域に踏み込んだ。お前たちを守る理由は、もうない。

今後、裏切り者には、天罰が下る。己の愚かさを悔やめ」』


ギリシャ神話の女神と言われ、誰もが思い浮かべるような長髪をまとった女は、冷たくそれだけ言うと、暗闇の中に消えていった。

具体性のない話だったが、人間はこの話の意味をすぐに理解することができた。


次の日、世界の人口は約半分になった。


失踪したとか、死んだとか、そういうことではない。ただ忽然と、いたはずの場所から「いなく」なってしまったのだ。


誰もが、彼らの必要とする人間の名前を呼び続けた。


「どこだ、○○、なぁ!」


「返事して××!」


そんな悲痛な声が、世界中でこだました。


ニュースだって、社会だって混乱を極めた状態で、誰もまともでいるなんてことはできなかった。誰もが失った大切な人の名を呼び続け、その声に誰もが触発され、また声を上げる。


混沌を極め、疑心暗鬼に陥る中、日本で配信されたと一本の動画が、世界中で拡散されることになった。

内容は、いたってインチキくさい、ベールを被った自称占い師のおばさんが話しているだけだった。


「私は、夢を見ました。これは、呪いです。人間が、愚かであるが故の、呪い。

あなたの大切な人間を取り戻すためには、祈りを捧げ続けるしかないのです」


普段なら、再生回数は一桁止まりであろうそんな動画に、日本だけでなく、世界中の人が集ってコメントを残した。


『そうだ、これはヘラの、逆襲なのだ』


と。世界中の人間が、自分の見た夢についてコメントを書き込み、他人との合致に戸惑い、そして確信を持って話した。そうだ、私の、俺の大切な人は、ヘラの呪いで……!

だが、そんなことが分かったところで、誰が何をできる訳でもなかった。


ヘラって、あのヘラだろうか。あの、ギリシャ神話の。

何のためにこんなことを?

困惑と、わずかな情報に縋って人々はインターネットをさまよい続けた。


一部の人間を除いて。


あの夢を見た後、『ヘラ』という単語を聞いて、天文学を研究している人間は緊急で収集することになった。


ヘラは、ギリシャ神話に登場する女神の名でもあり、天文学者の中でもごく限られた人間が知っている『暗黙の了解』を表す呼び名でもあった。


『天の川を超える時は、絶対にその裏側を通ってはいけない』


それがなぜ『ヘラ』という名前を付けられているのかを答えられる人間はいなかった。だが、上に立つ人間は、上級機関からの理不尽を理由を伴わずに飲み込むことに慣れていた。天の川はヘラの母乳がこぼれてできたというギリシャ神話を元につけられたのだろう。そんな仮説を立て、特に深く考えずにその了解を守っていた。

そもそも、地球からノンストップで天の川の向こう側まで行く方法は現代の技術ではまだ確立されておらず、研究者たちは必ず天の川の表側を経由して、向こう側に行こうという計画を立てるしかなかった。だが、それが成功した例は一つもなかった。


そう、前述の研究者を除いては。


彼が、天の川の向こう側に駒を進めると同時に、人類が見た夢、そして消えていった人間たち。

彼の研究が無関係だと言うのは、誰がどう見たって無理があった。


世界中の天文学のスペシャリストが集う中、彼は答弁台の前に立った。だが、彼が答えられることはない。彼はロケットを操作していなかったからだ。


「ロケットの操作は、私の息子が行いました」


やつれた様子の研究者は、それだけ言うとロケットのログを画面に映しだした。

あぁ、やはり、そうだ。

ロケットは、天の川の裏側に潜り、影の中を優美に泳いでいった。あたかも「それが正解だ」と言わんばかりに。


なぜ、研究の資材を齢5歳の小さな子どもに触らせたのか。

なぜ、このような高い技術を持つ子どもに、暗黙の了解を伝えなかったのか。

そんな非難の言葉が飛び交う中で、誰かが声を上げた。


「それで、その子どもはどこに行ったのだ」


震える足でかろうじて立っていたかのように見えた研究者は、その言葉を聞くと泣き崩れた


「消えました。今朝、忽然と」


そう言って地面に突っ伏し、ただ両手で頭を殴り続ける研究者に、誰も何も言うことができなかった。こいつの研究が、世界に大きな損害をもたらしたことは間違いないが、それ以前に、こいつも守るべき存在がいる、紛うことなき一人の人間なのだ。

皆が皆、人間としての自分の立場と、世界中の天文学を牽引する立場という自分の立場に挟まれた。研究者の責任を追及して責め立てることも、子を抱きしめることができなくなった不安に苛まれる父親に励ましの言葉をかけることも、誰にもできなかった。

ただ、何とも言えない空気の中で、誰かが言った。


「私たちに責任があることだけが確かだ。

何としても、早急に『世界』を取り戻さなくてはならない」


こうして、残された人間を確実に『残す』ための急速な技術の発展、そして、消えた人間に関する研究が進められていくことになったんだ。



――


『さて、これが僕が伝えられるこの世界の真相。はると君にとっては、全てが新しいことで、きっと驚いてしまったかな』


そう言って優しく細められた目に、そっと自分の胸に手を当ててみるが、驚くことに自分は自分が思っていた以上の平静を保つことができていた。


「あの、その」


そう言って泳がせた視線に、シンさんは少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔を取り戻すと、ただ優しく膝に置いた指を組んでこちらを見つめた。

テントの外の虫の鳴き声だけがこだまする。天井からただ一人つるされ、暖色の光を力強く放つ電球は、そんな自分の運命を疑うことも知らないかのように「ジジジ」と何か言いたげな音を鳴らすと、役割を全うしようと言わんばかりにまた静かに輝きを放ち続けた。


「あのっ」


止まった時を動かすかのように、自分の中のありったけの空気を出し切って声を上げる。反動で飛び込んできた息に喉が少しヒュッと音を鳴らしたが、そんなしょうもないことは、気に留める必要もなかった。


気まずかったとか、そういう訳では決してない。

だが、「この人と話さなくては」という義務感にも似た何かが、何をできるでもなくただ固まっているだけの自分を奮い立たせた。


「あの、それで消えた人間は戻って来たんですか」


とにかく何か意味のある言葉を口にしようと、一番最初に思い浮かんだ疑問を尋ねると、目線を向けた先に居たシンさんの笑顔には、少しの曇りが浮かんだ。

ゆっくりと横に振られた首に、何も言い返すことができない。


『この数年で、研究は目まぐるしい進化を遂げた。

 人間の身体が消えるノウハウの解明から、君が知っているような数々のAI技術の発展まで』


研究が進んだということは、喜ばしいことではないのだろうか。

技術の進歩を紹介しつつも、シンさんの暗くなっていった声色から感じ取れるのは、失望とか、嘆きみたいな、負の感情に分類されるようなものだった。


『研究で分かったのは、『消えた』人間は、『いなくなった』訳ではないということ。ただ、『見えないだけ』で、『触れられないだけ』で、『意思の疎通ができない』だけで、確実にそこに存在しているということ』


『そう、新月の時の君と同じようにね』


向けられたシンさんの力ない笑顔に、自分がどんな顔を返せばいいのか、分からなかった。

俺の反応が正解なのか、不正解なのか。

分からないが、シンさんは止めることなくただこちらを見つめながら言葉を続ける。


『ものに触れることさえも難しい『消えた側』の人間は、確実に世間から迫害されていった。『消えていない側』の人間の意図がどうであれ、少なくとも『消えた側』はそう感じ、『消えた側』の人間同士での結束を固めていった』


そんなことを言うと、シンさんは笑顔を消して立ち上がり、力強い目を向けながらこちらに歩いてきた。大きな身長で電球の光が遮られ、太陽が雲に隠れたかのように目の前が暗くなるが、自分の傍らに跪いたシンさんの表情は、対照的に優しく、柔らかく。それでいてただまっすぐな思いだけが浮かんでいた。


『今や、『消えた側』と『消えていない側』の間に生まれた確執は修復可能の域を超えている。『消えた側』には、『消えていない側』とは違う技術が存在するし、抗争が始まるのも時間の問題だ。でも、僕は絶対にそんなことは避けたいと思う。みんな、大元は同じ「人間」なのに、争いあうのなんて嫌じゃないかい』


そんな言葉に、思わずゆっくりと首を縦に振ると、シンさんは安心したように息を漏らし、俺の右手を両手でぎゅっと包み込んだ。


『僕はね、『消えた側』の人間。正確に言えば、『後から消えた側』の人間。

僕の娘が消えてしまってね、何とかもう一度会いたいと思って、研究結果を駆使して、ちょっと無茶もしたけど、自分の身体を消して。

だけど、現在の技術では、消えた人間を元に戻すことができない。だから、今の僕には『消えていない側』の人間と交渉をする術も、『消えた側』の人たちに『消えていない側』の思いを伝えて抗争を止めることもできない』


俺の手をすっぽりと覆ってしまうぐらいの大きな手は、少し骨ばってザラザラとしていた。だが、言葉につられて、ぎゅっと力が込められていく。

まっすぐ見つめ続けた目は、片時も逸らすことなくこちらを見つめ返し、絶やすことのない強い思いを感じさせていた。


『だからね、ハルト君。僕は君に真実を知って欲しかった。この世で唯一、『消えた側』にも、『消えていない』にもなることができる君に。

そして、お願いをしたかったんだ、君が僕の望む架橋になってくれないかって。

今日が、僕にとって最後のチャンスだった。今日、君に会うことができなければ、全てを諦めようと、そう思っていた。

だけど、君は来てくれた。これは、偶然なんかじゃないと、僕は思うんだ』


『絶対に、君に全部を抱え込ませるなんてことはしない。

絶対に、君を一人にはしない、僕は絶対君を裏切らない。

だから、どうか僕に力を貸してはくれないか』


そう言って手を握り、膝づいたまま頭を下げるシンさんに、何も考えるでもなく、俺の返す言葉は決まっていた。


「はい、俺にできることがあるのなら、何でも言って下さい」


ばっと上げられたシンさんの瞳は、風が通った湖の水面みたいに潤んでいた。


「本当かい、ハルト君。本当に、本当にありがとう」


涙声でそう言って、もう一度頭を下げるシンさんに、どんな言葉を返せばいいのかはやっぱり分からなかったけど、ゆっくりと椅子から下りて、地面に膝をつき、シンさんと同じポーズを返して、ただゆっくりと頷いた。


月が美しくそこに『いる』のは、きっと月がそこに居たいと意思を持ったからだ。


今はどこにいるのか、生きているかさえも分からない、それを教えてくれた人間の笑顔の為にも。俺は俺なんかにできることがあるのなら、喜んでなんだってやろうと。


そう思えたんだ。


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