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満ちゆく月と孤独な天の川  作者: 月岡 結
月が、美しく『そこ』に居るということ
6/11

はじまり

この時間は、ゲームのデイリーミッションをこなした後、適当に作り置きの料理をつまんで、風呂に入ってまたゲームをする。

ずっと続けてきた、そんなルーティーンが崩れるなんて、数か月前の自分には想像もできなかっただろう。


ピクニックに出かけて以降、アヤノは度々俺の家に訪れるようになった。

最初は家事代行の日も合わせて週に3日程だったのが、4日、5日。と次第に増え、今では、仕事の時以外は俺の家に住み込んでいる。

金が発生するわけでもないクライアントの家に転がり込んで、住み込みで料理や掃除をして、たまに一緒にゲームや天体観測をしたりする。

あいつにとってのメリットが分からず、なぜこんなことをするのか尋ねても、あいつの答えはいつも同じだった。


「私が、『そうしたい』と思うからだよ。だめ?」


そんなことを言われると、何も返せなくなってしまう。


俺にはまだ『これがしたい』という感覚が分からなかった。ルーティンのようにゲームをするでも、外に出られるからという理由で月を見に行くでもなく、ただ『やりたい』と思って行動するという気持ちが。

ただ、こいつといると『楽しい』。それだけは確実に俺の中に存在した。

きっと、こいつが居なくなるとこの気持ちも消えてしまう。それなら、こいつがここにたむろする理由を無理に聞き出す必要もなく、ただこの日々を享受しようと。そう思った。


「ご飯できたよ~」


そんな言葉に呼ばれて、洗濯ものをたたむ手を止め、ダイニングに向かう。

見ると、トレーを持ってキッチンから出て来たアヤノが、ちょうど机の上に料理を移すところだった。


「はい、お待たせしました。グラタンと、サラダ」


そう言って置かれた皿から湧き上がる湯気の先に見えた、キラキラと輝く黄金に、これが「グラタン」か、と感動を覚えた。

コイツが来てからは、毎日が未知との遭遇だ。

以前までは、夕食と言っても、冷蔵庫、冷凍庫に入るような作り置きのおかずをつまむか、それすらめんどくさいときはパウチゼリーやシリアルに頼る生活をしていたので、湯気が出るような食べ物を口に運ぶのは、ほとんど初めての経験だった。


高揚感を押さえながら椅子を引き、「いただきます」と呟いて握ったスプーンを、口に運んで衝撃を受ける。


「あっつ!」


舌の皮が剥がれて感覚がなっていくのが分かった。口から吐き出したスプーンがカランカランと床に落ちるのを聞きながら、口を押えて悶える。

不甲斐なさなのか、恥ずかしさなのか、とにかくしゃがみ込んでしまった俺に、横から「ええぇ!」と驚いたような声が飛んできた。


「あっっついよ!だってグラタンだもん!」


そう言ってアヤノはパタパタと走ると、キッチンからコップに入れた水を持ってきてくれる。

夏の気温に当てられて、少しぬるくなった水道水は、今の俺にとってはこれ以上ないぐらいにありがたい存在だった。


「っ、ありがとう」


落ち着きを取り戻し、汚してしまった床を拭こうと立ち上がった俺に、アヤノはなぜかニヤニヤとした視線を送る。


「ふふん、最近なんか素直だよねぇ」


そう言って繰り出される、ツンツンとこちらを指指す動作に、俺は上手くできない苦笑いを返すことしかできなかった。


ティッシュで床に飛び散ったグラタンをふき取り、落としたスプーンを拾い上げて、キッチンでゆすいでからまた机の方に戻る。

そんな俺を待ってくれていたのか、アヤノはスプーンを握りしめて椅子に座り、「はやくはやく」と言わんばかりに足をパタパタとさせていた。


「じゃあ、手を合わせて」


俺が椅子に座るや否や、待ちきれんとばかりに声がかけられる。

両手を合わせたアヤノからじーっと送られる視線に応えるように、ゆっくりと両手の平を合わせると、満足したようにアヤノはニッコリと笑った。


「よし、いただきます」


そう言って体を少しだけ折って机の上の料理に小さく礼をした彼女に合わせて、もう一度自分


「いただきます」


と真似して呟いた。そんな俺を見て満足そうに


「召し上がれ。グラタン熱いから気を付けてね」


と言うと、アヤノはチーズの中にスプーンを差し込み、上にみょんと持ち上げる。伸びたチーズがなかなか切れずに。くるくると巻き付けられているのを見ると、思わず自分もそれをしたい衝動に駆られ、スッとスプーンを差し込み、一思いに持ち上げた。湯気を伴いながらオレンジの照明を反射して輝く黄金色に、年甲斐もなく「わぁ」と声が出てしまうが、お構いなしに息を吹きかけ、口の中に運ぶ。


「うま!」


口の中にじゅわっと広がるバターに感動して、思わず声が出た。トロッと口当たりの滑らかなソースの中から溶け出してきたブロッコリーを噛むと、柔らかい茎の中に隠れていたホワイトソースが、具材の甘みと混ざってあふれ出してくる。やばい、世界がチーズ色に輝いて見える。思わず口を押えて目を輝かせていると、ふとアヤノが肘をついてこちらを眺めていることに気が付いた。


「……」


頬に手を当てて、何を言うでもなく、こちらを見て優しい笑みを浮かべるアヤノに、心の奥の方から何か湧き上がってくる感情があった。何だろう、この感じ、どこかで……。

手が止まり、エアコンが音を上げる部屋の中でそんな自分の世界に入りかけたが、そんな隙を見計らってか


「えいっ」


と声が響いた。あっけにとられていた視線を動かして見ると、サラダの上にちょこんと乗っていたはずのトマトが消えている。


「ぁあ!俺のトマト!」


悲痛の叫びも虚しく、アヤノはもぐもぐと口を動かしていた。


「食事中にぼーっとする奴が悪い!」


ケラケラと笑うアヤノをぐっと睨むが、「ん?」と見つめ返されると何も言えなかった。諦めて、またみょーんとチーズを伸ばして口に運ぶ。やっぱりうまい。温かいものは温かいうちに食べるのが一番だな。と、先ほどより少しだけ冷めたグラタンを、一生懸命口に運ぶことに専念した。



――

はじまりは、翌日。何の変哲もない、穏やかな朝だった。


日常が壊れるのは、いつも一瞬。


遥か昔にとっくに気が付いていたはずのことを、今の俺は微塵も知りえなかった。


無事に朝食をとり、洗濯も干し終えて、自室に戻り、ずっと前から変わらないルーティーンであるパソコンを起動する。


ウィーンとファンが音を立てるのを聞きながら、パスワードを打ち込むと、目に入ってきたメッセージにうんざりしてため息をついた。


『君は、世界の真実を知りたくはないか?』


ここ数日、毎日同じようなメッセージが届く。普通であれば、スパムメールはAIが自動で削除してくれるはずなのだが。最近は機械が全体的に不調なのだろうか。インターフォンと言い、パソコンといい、今まで通りの働きをしない電子機器たちに苛立ちを覚えながら、気を持ち直して、まずは最初のゲームを起動した。


いつもの通り、一つ目のデイリーミッションをクリアして、デスクトップに戻った辺りで、ふと、ヘットフォンの向こう側からバタバタと何かが走り回るような音が聞こえることに気が付く。両耳に手を当て、ヘットフォンをゆっくりと下すと、それは勘違いなんかではなく、確かに廊下の方から聞こえているらしい。椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩いてドアの方に手を伸ばすと、それより先に廊下側からバンと扉が開かれた。


いってぇ。鼻を抑えてしゃがみ込む俺に、それどころじゃないと慌てるアヤノはその場で足踏みをしながら


「あっ!ごめん!えっと、じゃあ!行くから!よろしく!」


と言って慌てて玄関の方へ走って行った。何なんだ、一体。しかし、そんなことを聞こうにも、彼女はもう家の外に駆け出してしまっていた。まぁ、昼前には帰ってくるだろう。そんな楽観的な思考と共に部屋へ戻ろうと一歩足を踏み出したところで、ブーッと玄関のAIの認証エラーの音が響いた。玄関の方を見ると、上のすりガラスから先ほどと同じようにバタバタと足を踏む人間の影が見える。はぁ。鍵忘れたのか。呆れながら「はいはい」と言って玄関に向かった。


「何してるんだよ」そう言ってガチャッとドアを開けた俺の目の前に立っていたのは、全く知らないスーツの男だった。無造作にセットされた黒髪からは、にっこりと細められた目が覗いている。


「こんにちは、ハルトくん」


そんな言葉に、思わず固まってしまう。普段、温室のような家で暮らしている自分でも分かる。『こいつは、やばい』。崩されることなく浮かんだままの笑顔から目をそらさず、手にかけたドアノブを一気に引き戻したが、ダメだった。がっと扉を掴んだ手は、力強く人一人など余裕で通れるほどの隙間を作り出した。せめてここは通すもんかとギッと睨みつけるが、こんな小童の反抗など少しも気にしないかのように、笑顔を保ったままのそいつは、ドアをバンと完全に開いた。勢いに負けて廊下に投げ出される。口の中に入った小さな砂利と擦れてできた傷が混ざってべちゃべちゃのグミを食べているみたいな血の感じが広がった。


「っ、……っ!」


非力な自分には何をできるでもなく、ただ地面に手をついたまま、目の前の恐怖を見上げ、睨み続ける。すると、ふっと笑顔が崩れ、「悲しい」と言わんばかりに眉尻が下がった。


「酷いですね、私は、君を助けてあげに来ただけなのに」


男が放った常套句に、口の中に溜まった血を勢いをつけてペッと吐き出す。そんな言葉を聞いて、「はい、そうですか」と大人しく聞く人間が果たしてどこにいるのだろうか。


しかし、やはり俺なんかの態度はこいつにはどうでもよかったらしい。再びまた笑顔を作ると、


「ハルトくん、この世の真実を、ひいてはあなたの正体を。そろそろ聞く気になりましたか?」


と首を傾げた。は?何のことだ?記憶を思い返すと、一つだけ心当たりがあった。


「おまえっ!あの!」


そう言うと、笑顔は満足そうに頷く。


「そうです。少しでもお役に立ちたいという思いで送り続けていたメールにご返信を頂けず。私たちの善意が『無関心』というこれ以上ない悔慢の形で踏みにじられるのが、私は何より悲しくて仕方なくて……。だからもう直接来ちゃうことにしました」


遊園地のピエロみたいに、張り付けた笑顔を浮かべたまま、男は腰を折ってこちらに顔を近づけた。町で見たら「普通」の判定を受けそうな背格好の男に対して、なぜ未知というだけでここまで恐怖を覚えるのだろうか。


目を見開いたまま。でも何も言えず、ただ口から荒い息が漏れる。なんで、こんなことに。

じっとこちらを見たまま微動だにしないこいつと、目を合わせたまま俺も固まる。近くに落ちていた何かの枯れ葉が風にあおられて右手にあたり、一瞬気をとられた瞬間に、全ての事は動いた。


「どっりゃぁぁっぁ!!」


そんな叫び声と共に、男の頭めがけて木材が振り下ろされた。頭がボールのようにぐにゃりと下にへこみ、笑顔の仮面の口角がさらに増す。俺の顔にまで飛び散ってきた木材の破片を手で振り払い、ぼやける視界を凝らすと、バタンと倒れた男の後ろに立っていた、アヤノと目が合った。


「バカ!!私が帰るまで絶対に家の扉を開けるなって言ったのに!」


怒りだけじゃない、俺の知らない感情も伴って半分泣きそうにアヤノはそう叫んだが、そんなこと言われても、俺は不甲斐ない程に涙が止まらないだけだった。カランカランと木材の落ちる音を聞きながら、ひたすら泣きじゃくる。そんな俺を見てか。アヤノも「っ、もぉ」と溢れる感情を押さえつけようと言わんばかりに手の木材を腿に叩きつけていた。お互いがお互いに自分の中身をぶちまけて、3歳児の感情を煮詰め合わせたみたいな空間が広がる中、不意に似つかわしくない明るい声が響いた。


「可哀そうに、ハルトくん。私が慰めてあげましょうか」


見ると、地面に伏す男の、へこんだはずの頭が徐々に元の形に戻っていく。もうどうしたら良いって言うんだ。だが、この女にとっては、この程度、なんてことはなかったらしい。


「どっりゃっ!」


そう叫びながら持ち上げた右足で、彼女は男の頭を踏み潰した。パリーンという音と共に、男の頬の破片が飛び散る。これって……。あっけに取られて見ていると、止まっていた玄関のブザー音が鳴り始め、それどころか聞いたことのない、けたたましいサイレンまで響き始めた。


「いい?よく聞いて」


覚悟を決めたように、そう言うと、落ち着きを取り戻したらしいアヤノに肩をがっと掴まれた。まばたきすらできないような動揺の中、まっすぐに見つめられた目を見つめ返すと、冷静さを一切欠くことなく、アヤノは話し始めた。


「私は、ただあんたに生きて欲しいだけ。だから、この一か月、絶対に外に出ないって約束して。私は絶対帰ってくるから。帰ってきたら、全部話すから。約束して。お願い」


今まで見たこともない、真剣な表情に、思わず頭を大きく振る。ほっとした表情が少し漏れ、でも次の瞬間にはすぐに真剣な表情が明日の方向を見ていた。


「じゃあ、行くから。約束守ってね、絶対」


それだけ言い残されると、抱きかかえられた俺は、どしゃっと玄関に投げ捨てられた。混乱する頭が視覚の情報を処理できないまま、扉がバタンと閉められる。一体何が起きているのだろうか。しばらくして、外から響くブザーも鳴りやみ、静かになった玄関には、ただ一か月、またアヤノの居ない『普通』の生活が続くのだという事実だけが取り残されていた。


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