しあわせ
結果から言うと、第一回どっちが先に着けるのか選手権は、アヤノの圧勝だった。慣れないことをして悲鳴を上げる膝に手をつき、ゼーゼーと肩で息をしていると
「大丈夫?ごめんね、ごめんね」
と、アヤノはただ背中をさすってくれていた。
「っっだい、だいじょっ」
己の不甲斐なさに胸が余計に苦しくなるが、それが何かを生み出せるわけではない。
「とりあえず、座って、これ飲んで」
湖の中心に位置するデッキの手すりに寄り掛かり、息を落ち着けながら、手渡された水筒に口をつけ、顔を上げる。弾んでいた息も落ち着き、揺れる視界もだんだんと地に足をつけ始めると、自分たちは、先ほどみた、奇跡のような景色の中にいるのだと気が付いた。
ふうっと吐いた息に空に広がる青色が混ざり、まるで希望が満ちたように輝きを放つ。
太陽の光を吸い込んで、透き通った輝きを放つ水面の優しい暖かさの中で、ただ穏やかに揺られるアサザを眺めていると、近くを泳ぐ鯉が波紋を作り、一瞬の太陽の反射に思わず目を細めた。
「あ、飛行機雲」
そう言ってアヤノの指さした方を見ると、アルプスの山々を背に、飛行機雲が縦に力強く伸びている。
「そっか、今日は月も見えるんだな」
飛行機雲の横に、ほんのりと存在する月をみて思わず声を出す。壮大な山々にも負けず、かといって、競って一番になろうとするでもなく。ただ、『そこにいる』だけのお互いを尊重しながら、そこに居続ける全てのものが、そこはかとなく輝いて見えた。
なんて言うか、今すごく幸せな気持ちだ。
「ほんとだね、綺麗」
そう言って、指をフレームのように組むアヤノを見て、あたたかい優しさが広がるのを感じる。初めて感じる『幸せ』と言う感情に、ゲームで敵を倒した時とは違う、胸の優しい高鳴りをゆっくりと噛みしめる。あぁ、俺は……。
しかし、それは突如として、湖の上を吹き抜けた冷たい風にさらわれ、はっと我に返った。
なんてことをしているんだ、俺は。
俺が、今まで信じていたもの、忌み嫌っていたもの。それは「月を美しい」と評することだ。それなのに、今の俺は、月を見て「幸せだ」と思ってしまっている。
月は、孤独を感じているかもしれないのに、その気持ちが分かるのは、俺だけかもしれないのに。そんな自己嫌悪に陥り、気が付いた時には、思わずいつもの癖で声を発してしまった。
「月を美しいって感じるのって、人間のエゴだよな」
頭の中に浮かんだ言葉を口に出してから、ハッとする。目の前に「月を美しい」と言った人間がいるのに。俺は、俺自身の個人的な感情で、半ば自分に対する義務的な感情で、そいつの意見を否定してしまった。アヤノがどんな顔をしているのか確認する勇気が出ない。
お前は俺の味方だよな、と縋るような気持ちで、ただ、まっすぐに月を眺める俺を、冷たい静寂が包み込んだが、身震いをするよりも前に、あいつの声は届いた。
「確かにそうかもね」
そっと呟かれた音が、指を触れた湖の水面みたいに、ゆっくりと俺の中に広がる。
何なんだ、こいつは。
ふっと目線を下げると、もの悲しいような、愛おしさを感じさせるような。優しい笑顔を浮かべたアヤノが、ただこちらを見てじっと立っていた。
「なんで、そう思うの?」
絶対に、自分の中に秘めていようと思っていた感情、これ以上、誰にも否定させないと決めていた感情。だけど、こいつになら話してもいいかもなと、そう思ってしまった。
できる限り息を吐いて、今の、この空気をできる限り吸い込んでから言葉を紡ぐ。
「月を見て美しいって言う人間は、目の前にいる月しか見ないだろ。雲に隠れてる時も、新月の時も、月が見えてない昼間だって。アイツは確かにそこにいるのに、誰もあいつのことを見ようとしない、考えようともしない。
だから、俺は月に向かって『美しい』って言う自己中心的な人間が嫌いなんだ。
自分が痛みを感じたときだけ、月に目を向ける癖に、月の痛みには共感しない。あいつらにとって、月はただの都合いい存在の癖に、あたかもお互いに分かり合ってるかのように話す。俺は、人間のそういう愚かさに、虫唾が走る」
「お前らみたいな『普通』の人間には分かんねぇだろうよ、確かにそこに存在するのに、あたかも存在しないかのように扱われる苦しさが」
言い切ってから、否定されることへの恐怖が、また少しずつ膨れ上がってくる。
なんで俺はこんなことを、こんな奴に。
「いや、でも別に、月がきれいだと思う気持ちは分かるというか、お前の考えを否定したいわけではないというか」
そうごにょごにょと話す俺を見て、アヤノは「気を使わなくていいよ、ありがと」とふっと微笑んだ。何も言えずにぐっと黙ってしまう俺に、アヤノは、はっと短く息をしてから続けた。
「確かに、新月を私たちが見ることはできないし、だからこそ、私たちは新月に思いを寄せることは、ほとんどない」
「でも、それって月を『美しい』って言っちゃダメな理由になるの?」
「おかしいと思わないのかよ!」
やっぱり、だめだ。だめだ、だめだ、ダメだ。
「あいつは、あいつは、確かにここに居る。なのにそれを無視して、都合のいい部分だけ見て。それで『心を通じ合わせる』だ?ふざけんじゃねぇよ。
あいつは、人間なんかの為に存在してるんじゃねぇ。なのに、人間は自分の事ばっかりで。自分が目を向けるべきところに目を向けやしない。そんな自分を、おかしいと思わねぇのかよ、愚かだと思わねぇのかよ」
思わず投げつけた言葉の反動に、肩で息をする。おかしい。やっぱり、人間は、おかしい。
叫びつけたくなる衝動に鎖を繋ぎつつも、まっすぐあいつを睨みつけることは辞めなかった。
何で、分かってくれないんだ。こいつだけじゃない。今まで知り合ってきた人間、全員。
自分が優しくされたって、当たり前だと思うくせに、相手の苦しさには寄り添おうとしない。
自分の思想がいかに自己中心的か自覚してほしいと、ただ、月に寄り添う人間であって欲しいと思っているだけなのに。
金を渡せと言っている訳でも、何百時間も働けと言っている訳でもないのに。
なぜ、そこに確かに存在する人間の愚かさと向き合うことをせず、自分の中での『当たり前』を平然とした顔で主張できるのだろうか。
「だから人間なんか嫌いなんだよ」
そんな俺の言葉を受けてもなお、全くこちらから目を逸らすことをしないアヤノの瞳は、空の光を吸い込んで力強く輝くだけだった。
じっとにらみ合ったまま、静かに冷たい匂いだけが通りすぎる。
これ以上何を言うでもない自分を見てか、アヤノは一度小さな瞬きをすると、そのまま静かに口を開いた。
「確かに、人間は月を自分の都合がいいようにしか認識しようとしない」
「でも、月がそれを『悲しい』と思っているかどうかは、月本人にしか分からないんじゃないかな」
月が、なんでそこにいるのか、考えたことある?という問いかけを聞いて、目の前に広がる光が、自分の中にブワッと飛び込んでくる感覚を覚えた。ただ、目を見開いて目の前の光景を焼き付ける。
あいつは、孤独で。でも人間はそれを無視して、自分の都合のいいように解釈していて。きっと、月はそれを悲しんでいると。
でも、あれ?なんで俺は、あいつが悲しいと思っていると?いつから?
今まで疑うことなく見つめ続けていた
「月が、今どんな気持ちで私たちの前に現れてくれているのか、私には分からないけどさ。月に出会えて生まれた幸せな気持ちが確かにあることだけは、確かでしょ」
「他人からの評価にも、自分を取り巻く環境にも、何にも干渉されず、ただ確かにあり続けるものは、自分の中で『自分』だけなんだから」
何も言えず固まったままの俺の態度を、肯定と受け取ってか、言い過ぎたと感じてか。
アヤノはこちらに背を向けると、また月を囲むように指を組んだ。
「人が、人に寄り添おうとする気持ちって、きっと大切で尊いものだよ。
誰にでも持てる物じゃないし。
でも、自分の発した言葉で、真に肯定されるのって、自分だけじゃない?だって、自分が発する言葉って、自分が、自分の中にある感情に寄り添って初めて生み出されるものだから。誰かの言葉に共感できるのって、自分自身が色んなことを経験して、考えて、そして初めて自分の中に受け入れられるから。」
「自分の中にある苦しみを肯定できるのって、月でも人間でもなく、ただ唯一、自分だけなんじゃないかな、と私は思うよ」
あれ、なぜだろう。涙が止まらない。
「俺は、人間は、他人の痛みに鈍感な自分に気が付いてないと。あいつの痛みが分かるのは、俺だけだと」
今、自分の中に浮かぶ感情が何なのかは、やはり分からない。
自分のことを否定していると思っていた社会が想像より優しかったことに対する安堵?
図らずしも、一番自分が嫌っていた「普通」との比較をしていたことに対する落胆?
この心の中に広がる何かに、どんな名前を付けようとしても、正解と不正解の印を同時に着けたような歯がゆさが残る。
ただ、一つだけ。
ひとつだけ確かに分かるのは、自分が「孤独」だと思い込んでいたものが、ただ「認められたい」という要求なのだと気が付けたことに対する安心感だけが、確かにそこにいた。
「あいつだけは、俺の痛みを理解してくれると、思って」
「俺は、他の奴らを、俺のことを見ようともしなかったあいつらを。否定することで、自分を肯定したかったんだな、きっと」
口にした言葉の後半は、嗚咽ではっきりとは言えていなかったと思う。だけど、あふれ出した涙と共に、今までずっと自分の中にいた黒い靄が吐き出されていくのが分かった。
「俺は、俺は」
ただ、ぐちゃぐちゃと、まとまりのない感情が、だんだんと近づいて、結ばれて、そして形を作っていく。
きっと、ここまで生きてこられたのは、この人と出会えたのは。紛れもなく月が近くにいてくれたからだった。
俺は、月が俺にとってそうであるように。
自分が誰かにとって必要とされる存在なのだと、自信を持って言うことができる日が来るのだろうか。今は未来のことなんて、ひとつも分からないけれど、ただ、俺の人生はここからまた始まるんだろうという確信に似た何かが、とめどなく流れる涙をつくり出していた。