ぜんしん
人がどんなに馬鹿らしい悩みを抱えていても、平等に朝は来るらしい。
本来の用途を果たせず、ただ寝返りを何度も打ち付けられただけのベットから起き上がり、いらだつ気持ちを当てつけるように、まだ起動する前のアイちゃんのアラーム設定をオフにした。こいつ、いや、こんなシステムさえなければ、俺はこんな余計なことに頭を悩ませずに済んだのに。はぁ、と漏れ出た息をつき、どうしようもないかと半開きだったドアを足で大きく蹴っ飛ばして開けて、大人しくリビングに向かった。
埃ひとつ落ちていない部屋に、ピカピカに磨かれた机に窓。いくつかある観葉植物も心なしか青々としているように見えたが、そのすべてが俺の中の憂鬱を肥大化させた。
気を取り直して冷蔵庫を見ると、タッパーの中には照り焼きチキンにハンバーグ、ポテトサラダ、にんじんしりしり……。とにかく沢山の、今まで実物を見たことがないような、豪華な食べ物が並んでいた。
「食べらんねぇよ、こんなに」
文句を言ったって、あいつに届くわけではないが、口に出さずにはいられなかった。
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昨日、あの「アヤノ」もとい「頭ハッピー野郎」は、散々俺の怒りに油を注ぐだけ注いで、その後は普通に家事をしていた。再び俺の部屋に来るまでは。
あの後、いつもの通りゲームをしていると、再び肩にトントンと優しい衝撃を受けた。振り返ると、やはりにっこりと浮かべられた笑顔と目が合う。
「……、……」
こいつは俺をおちょくっているのだろうか。ただパクパクと開かれる口をじっと見ていると、笑顔をさらに大きくしたあいつから、なぜかバシッと肩を叩かれた。行動の真意が何一つ分からず、ゆっくりと目線を下げ、ぼーっとしていると、しゃがんでこちらをのぞき込むアヤノとまた目が合う。
先頬までの笑顔が消え、不安そうな表情が浮かべられているが、やはりパクパクと開かれる口からは何も言葉が発されることはない。
「なんなんだよ、お前は」
腹の下の方に固まったモヤモヤした何かを押し出すみたいに、喉の奥の方から声を絞り出した。響き渡った、今まで聞いたことがないような低い声に少し驚いたが、それと同じように、アヤノも驚きの表現と言わんばかりに固まっていた。気まずい沈黙が流れる。
やはり、俺が人と関わるなんて。そんなネガティブな思考が浮かんで来ようとするが、それより少し先に、肩をバシッと叩かれた。
「、、、、、」
また口をパクパクさせるあいつの顔を見上げると、先ほどと同じような満面の笑みが広がっていた。
「……、……」
何かを言い終わった満たないな満足げな顔をして、あいつはドアも締め切らないまま部屋から出て行く。何なんだ、本当に。
バタバタと玄関のドアが閉められる音を聞きながら、溢れる不信感を水で流し込んで、またパソコンに向き直る。もういいや、どうでも。
どうせ週に一度きりの、ただの雇用関係なのだ。これ以上、気に留めるのは時間の無駄でしかない、どうでも良い。それよりも、今は目の前の敵に集中しようではないか。
気を取り直して、もう一度カーソルを握るが、やはり頭の中に浮かぶのはモンスターの倒し方ではなく、あいつの一挙一動だった。
なんなんだよ、本当に。
気を紛らわせるつもりでガッガと力任せにカーソルを動かすが、いつもはなんて事のない平坦な道で何度も同じミスをしてしまう。
いつの間にかログインしていた仲間から
「大丈夫かよwww」
とメッセージを受け取るが、それもまた自分の中の怒りに火を注ぐだけだった。
「喧嘩なら買うぞ。フィールド来いよ」
ダンッとキーボードを鳴らして、バトルのフィールドにそいつを呼び出す。
俺は十八番のチャージライフル、あいつはオルタネータ―。試合開始の音と共に、打つ、打つ、ひたすら打つ。負けっぱなしの悔しさが、集中力を掻き立て、やっとゲームに集中できるようになった辺りで
「わりぃ、そろそろアイちゃんが悲しむから行くわ」
と言うメッセージと共に、仲間はフィールドから立ち去っていった。時計を見ずとも分かる、時間は午後5時、つまり、アイちゃんの配信が始まる時間だった。
俺はアラームとしてだけその機能を使っているアイちゃんだが、本来の配布目的は午後5時から始まる配信機能と、健康的な生活を送るためのリマインダー機能にある。
「配信」と言っても、少し前に「ライバー」と呼ばれた者たちのように、何かしらの企画をみんなでそろってみる訳ではない。アイちゃんは、自分に合った配信を、自分に合ったペースで、自分の為だけに行ってくれるのだ。
だから、このサイトからも、5時には人々が一斉に居なくなる。まぁ、あいつらがアイちゃんの配信をみて、投げ銭として支払われた「税金」によってこのサイトも運営されているのだから、何も文句は言えまい。現代の社会で俺みたいなボンクラが悠々と生きられているのも、全てのコト、モノが、アイちゃんの配信によって回収された税金によって賄われているからだ。今までなら反感を集めていた増税も、何の通達もなく、何の反感も生まず行うことができる。支払う側が「払いたい」と思って自発的に払うからだ。よく考えたよな、と思いながら、5桁は減った接続人数を見る。
お互いに言葉を交わすことは、無いが、顔見知り程度にはなっている名前を上から順番になぞって、それぞれが、それぞれのしたいことをする。このメンバーとフレンドになれば、時間なんて気にすることもなくゲームの続きができるんだろうが、それ以上に「配信を観ない」という思考を持ち合わせていることを知られている気まずさがそこにはあった。
ゲームを通じて人と関わるのは、ゲームの中で協力する為だ。
他の人間がどうなのかは知らないが、少なくとも俺の行動原理はそこにあった。さて、今日は何をしようか。ゲームの画面を閉じ、デスクトップに戻ったところで、ふと、届いているメールに気が付いた。なんの思考も挟まず、クリックしてみると、本文のハイテンションが目に飛び込む。
「ぅわ」
急いで閉じたが、もう遅かった。あいつの言葉が、声が頭に流れる。
折角気が紛れていたのに。思い出してからはもう手遅れだった。
どれだけゲームをしても、どれだけ眠ろうとしても、ふとした思考の隙間に、常にあいつが潜り込んできた。
なんでこんなことに……。そんな思考も虚しく、俺はそのまま朝を迎えたのだ。
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さて、時は戻って、現在。先ほどの作り置きを目の前にして、呆然とした記憶はある。そして、昨日のことを振り返った記憶もある。では、目の前に広がる光景は一体何だろうか。
ピンポン、ピンポンと鳴り響くインターフォンの音を聞きながら、画面の向こう側で手を振る女を見て立ち尽くす。いやいやいや、昨日来たばかりの家事代行サービスが、週一回の契約をしている家事代行サービスが。今日も来るなんてありえない。眠れなかった分、どこかで寝落ちて、夢でも見ているのだろうか。俺のそんな心の叫びも虚しく、ガチャッと合鍵で開けられたドアから響き渡った明るい声は、確実に俺の鼓膜を揺らした。
「おはよう!準備できてる?」
そう言ってにっこりと手を振るアヤノは、夢でも反芻される記憶でもなく、明らかに目の前に立っていた。
「え、」
そんな俺の漏れ出た声もかき消すほどの勢いで、ずいッと玄関から上がってきたと思うと、部屋の真ん中に位置する机にツカツカと向かった。
「あれ!もしかしてみてないの!これ!」
ツルツルに磨かれた机から何かが持ち上げられた。よく見ると、何かの紙切れのようだった。
「かみ……?」
首をかしげると、えっ、と声が上がる。
「今日、一緒にお出かけしようって、用意すること紙に書いておいておくから見ておいてって言ったじゃん」
驚いた顔をされるが、俺の方が驚きだった。何だその約束、一切聞いた覚えがないぞ。
「いや、そんなはずは」
それだけ答えるとまた「えっ」という声が響いた。
「え、嘘。伝わってなかった。どうしよう」
あわわわと頭に手をやるアヤノを、昨日と同じように、ただじっと見つめる。
何なんだろうか、こいつは。
そんな俺の中の黒い靄がまた広がる前に、今日は明るく響いた声が俺を現実に引き戻した。
「やっ!そうだよ、今更後悔したって意味ないんだから」
そう言ってにこっとこちらを向いたアヤノが続ける。
「一緒に準備しよう。今から」
そう言うと、あいつはパタパタとキッチンの方に消えて行った。
準備?一体何の?
そんな俺の考えを見透かしたみたいに、アヤノはひょこッと顔をのぞかせる。
「楽しみだね、ピクニック」
タノシミダネ、ピクニック……?
「いや、俺は行くなんて一言も……」
「よーし。じゃあ、レタスを四分の一に切っておいて下さい」
「お願いね」とだけ言い残し、わーいと言わんばかりに廊下に走って消えたあいつに、俺の言葉は果たして届くことがあるのだろうか。もう、ほとんど諦めの境地にいた俺は、大人しくキッチンに向かい、皿に並べられていた、洗われたレタスの山とにらめっこすることにした。
「どう?出来た?」
十分程して再びアヤノの声が響いたが、俺の様子を見てか、軽快な足音はパタッと止まった。
諦めてレタスとにらめっこをしていた俺は、十分経った今もにらめっこを続けていた。
「どうしたの?」
いつもは明るい調子の声に、自分にも伝わるくらいの戸惑いが含まれていることに胸が苦しくなるが、どうしようもないものはどうもできない。ただ何の反応もせず、ぼーっと突っ立て居る俺に
「よっし」
と言って、ぱちんと手が鳴らされた。包丁を置き、俺は用済みか、とキッチンの出口の方にくるりと向きを変えた所で、向き合ったアヤノにがしッと肩を掴まれる。
「二人でやっちゃおう、そしたら二倍速なんだから!」
は?意味が分からず呆然と立ち尽くすままの俺の横をタッと走り抜けて、アヤノはキッチンの引き出しを開けると、「あったあった」と言って、しゃがんで手を突っ込んだ。
取り出された、取っ手がカラフルで、刃先に光沢を持たない小さな包丁と、ペラペラのまな板じっと見つめていると、
「じゃあ、こっち使ってもらって!お願いします!」
そう言っって、いつの間にか二皿に分けられたレタスのうちの一皿の前に包丁とまな板が自分の前にセットされた。
「いや、あの、俺は」
そう言ってじっと床を見つめるが、耐えられず、視線を上げた所で、ばちっと目が合ってしまい、ニコッと浮かべられた笑顔に、再び目線を下げることはできなくなってしまう。
「とりあえず、包丁持ってみるところから始めよう、ね」
そう言って傾けられた首に、いやとは言えず、大人しく言われるがままに包丁を握った。
「あ」
レタスを数枚取って、まな板に移し、包丁をざっくりと入れてみたところで、思わず声が出る。
真っすぐに下したはずの包丁は、芯の方さに耐え切れず、フラフラと曲がった切り口を描いた後、ぱたりと横に倒れてしまった。
「惜しい、惜しい、もうちょっと、何と言うか、うーんと」
そうやって、右手と左手をパタパタと動かしてジェスチャーをされるが、そんなもんでできるようになるのなら、俺だって苦労はしていない。
「俺は、いいですよ。ひとりでやった方が早いし」
それだけ言って、もうこれ以上はやる気がないという意思表示とばかりに刺さっていた包丁を
置く。もうこれ以上は何も言わせないと、今回はそらさずにまっすぐ見つめた視線に、俺の気持ちを察すると思っていたアヤノは笑顔を崩さず、ただ、はっきりと言い放った。
「そんなことない。できるから、絶対」
少しひるんでしまうが、固まってしまう俺を見て、「そうだ!」とアヤノはパタパタとこちらに走ってきた。
「はい、じゃあ、包丁持って、まな板に向かって」
そう言って、「はい」と渡された包丁を受け取り、そのまま包丁を握ったままの右手を掴まれて、くるっとまな板に向かわされる。掴まれたままの右手に少しだけ力を込めながら、先ほど作った、ガッタガタの切り口を眺めていると、不意に、ふわっと背中と左手に暖かい感触が伝わった。
「はい、じゃあ一緒に切ろう」
そう言って、右の二の腕の辺りに頬をあてたアヤノは、重ねた右手と左手を、上からゆっくりと動かした。緊張なのか、何なのか、腕の全然関係ないところに力が入っているのを感じるが
「はい、リラーックス!」
という声と共に、少し腕をフルフルと振られると、力が抜けた。
「そうそう、いい感じ!ほら、みてみて!できたよ!」
目の前のレタスは、先ほどとは違い、まっすぐな切り口で二つに分けられている。
「できた……」
この高揚感になんて名前がついているのかは知らない。だけど、初めて感じる、喜びに近しい感情に、溢れた言葉は抑えきれなかった。
「よし、じゃあ、どんどんやってみよう、絶対できるから」
そう言って、俺から離れたアヤノはまたニッコリと笑うと、皿にてんこ盛りにした野菜をジャーンと見せた。
トマト、キュウリ、それだけじゃない、ハムにチーズにゆで卵まで。
「やるぞー!」
と言って拳を突き上げるあいつに、流石に拳を一緒にあげることはしなかったが、ふっと笑いがこみ上げたのは自分でも分かった。
「よし、やるか」
右の口角だけが上がり、少し震えた声にはなってしまったが、もうそんなこと、どうでもよかった。
「やった!できたね!」
数十分後、そう言って、ぎゅうぎゅうに食材が詰め込まれたランチボックスを前に拍手をするアヤノは、こちらを見てにっこりと笑うと、まるで喜びを表現するかのようにその場でくるりと一周回った。
「きっとひとりでやってたら、もっと早かっただろうし、もっときれいだったんだろうけど」
サンドイッチの隙間からぐちゃッと潰れてあふれ出したトマトを見ながらそんなことを呟いた俺に、アヤノは「にひひ」と笑いながらにこちらに顔を向けると、ぶっと俺の両ほほを手でつぶして自分の方に顔を向けた。
「良いの、『一緒に作った』ってことが、何より嬉しいんだから。いいの」
「ぅ、ふぁい」
ふふんっとこちらを覗くアヤノに、何とも言えない情けない返事をしたが、自分の言葉に肯定の意が返ってきたことに喜んでか、うんうん、と頷くと手はパンっと俺を解放してくれた。
「じゃあ、準備しよっか。私、鞄にこれ全部詰めちゃうから、着替えておいで」
着替える?何のためにだろうか。見てみると、着ていたえんじ色のTシャツには、べったりと卵やらトマトやらなんやらが飛び散っていた。
「流石に、それで外に出るとは言わせないよ」
そう言って笑いながらツンツンとこちらを指さすアヤノに、一抹の不安がよぎる。
「あ、あの。俺、今日はまだ外に出られる日じゃないんですけど」
「え?どういうこと?」
こいつは、あたかも俺の全てを知っているかのように言っておきながら、人感AIのことを知らないのだろうか。
「いや、今日はまだ体が半透明なんで、外に出られないんです。AIが俺を判別してくれなくて」
「え、でもこの前、ゲーミングのパソコンは普通に触れてたよね?」
言われてみれば、確かに。自分の中で「当たり前」として処理していたが、身体の満ち欠けに関わらず、触れるものと触れないもの、感知してくれるものと感知してくれないものが、その定義は不明瞭であれ、いくつか存在した。
「あ、実は触れるものと触れないものがあって。例えば、パソコンとかパーカーは半透明になっても変わりなく触れるんですけど、それ以外の物は触れなくて。エレベーターとか、ドアとか、それこそタッパーも触るのにものすごく力が必要になります」
「例えば、部屋の照明とかは俺のことを認識してくれます。俺が部屋に入ったら、自動で明るくなるように。でも、家の前とか、スーパーについてるような人感AIは基本俺のことを見てくれないですね」
自分の中にあった息を、補充することなく話し切ったことで少し胸が詰まる感じがしたが、そんなこと気にしないようにアヤノはまた口を開いた。
「ふーん、なるほどなるほど」
そう言ってむぅっと口に手をあてたが、数秒してからふふん、とすぐに得意げな表情が表れた。
「なるほど!じゃあ、多分何とかなるから、とりあえず着替えといで」
そう言ってにこっと笑うと、アヤノはふんふんと鼻歌を歌いながらさっき詰め込んだランチボックスに蓋をし始めた。
もう何年間も悩み続けてきた問題を、今しがた知ったような人間に解決されてたまるか。と意固地になるような気持ちもあったが、それ以上に自分が何もしないことにより、今までのやり取りが無に帰してしまうことに対する喪失感があった。
大人しく、シミのついたパーカーを脱ぎ、洗濯機に入れてから、部屋に向かい、洗濯された黒いパーカーに腕を通す。下は着替えなくていいかな。と、ほんの少し湿ったズボンを眺めていると
「あ、そうそう。着替えるのはそれじゃなくてさ」
そう言って、バンとドアが開かれた。えっ、と慌てふためく俺を尻目に、アヤノは「はい」と何かを手渡した。
「これ、私の!はい!」
それだけ言うと、またパタンと扉が閉じられる。見てみると、アニメやドラマなんかでよく見る、紺色の、学校指定ジャージのようだ。こんなもの着られるかよ、と不服な顔を作ってみるが、扉の向こうから聞こえる音はこちらなんか気にも留めていないようにパタパタと走り回っていた。
「はぁ」
わざとらしくため息だけついて、紺色の長袖とズボンに袖を通す。ピッタリの丈感に何とも言えない気持ちになるが、
「着られたー?」
の声に諦めて部屋を出る。
「よしよし、それじゃあこれもつけてもらって」
グイグイと押し付けられるものを受け取り、しぶしぶ見てみると、浅いつばのキャップと、白いマスクだった。まるで深夜のコンビニに現れる、思想の強い40代のような姿に自分で吹き出しそうになるが、それを見てアヤノはただ嬉しそうに拍手をするだけだった。
「それじゃ、いきましょうか!」
そう言って最後に一つ大きな拍手を響かせたと思うと、大きなかごや鞄を両手でばっと掴んで、だッと玄関から走り出した。
「はやく、はやく」
廊下から響く声に思わず駆け寄るが、玄関を出るまであと一歩と言うところで足が止まった。
「っっ」
何が恐ろしいのかも良く分からないが、ただ、足が重く、前に進まない。開かれたドアから明るい光が差し込んでいるが、それすら部屋の中の暗闇を対照的に浮かび上がらせているようで、だんだんと息が短くなる感覚を覚えた。身動きが取れず、視界がぐるぐると周り始め、真っ黒になる。えっと、えっと……。
自分を包み込んでいた暗闇の世界に、不意に差し込んだ光が広がる。
眩しさに思わず手で目を隠そうとするが、気が付くと右手は、外へ行く以外の選択を否定するかのように、固く握られていた。されるがままに、引かれた方から身体が崩れて、どしゃっと廊下に倒れ込む。少し遅れてやってきた痛みに気が付かなかったわけではないが、そんなもの気にさせないと言わんばかりに、また、あの明るい声は響いた。
「やったね、脱出成功」
あはは、と呑気な笑い声をあげるアヤノは、俺の下敷きになっているのにも関わらず、痛がるでもなく、俺をどけようとするでもなく、ただ笑い続けていた。
「なんなんだよ、お前」
発された、情けないふにゃふにゃの声に、自分で笑いそうになる。力の抜けた身体をゆっくり起こして、埃を払って、それからアヤノの方に手を差し伸べた。
「ほら、行こう」
ほんの数時間まで、こいつの存在は俺にとって恐怖であり、異物でしかなかったはずなのに。今は、なぜだか、こいつと一緒に居ることが当たり前のように感じてしまっている自分がいた。
そんな俺に驚きを隠せないかのようにアヤノは目を開いて少し止まったが、それを見た俺の不安もよそに、
「うん!」
と力強く頷くと、バシッと手を掴んで起き上がった。今までとは少し違う、くしゃっとした笑顔に一瞬頭に何かがよぎったが、それが形を作り上げる前に、右手にかかった体重が全てを吹き飛ばした。
「っ、うっ!」
唸り声をあげて、引っ張り上げたアヤノは、起き上がって、その場で軽くジャンプすると、
にぱっと笑顔をこちらに向けた。
「よし、じゃあ、行きましょう!」
そう言って、また駆け出したアヤノをぼんやりとみていると、
「はやく、はやく」
と声が響いた。よし、行くか。流石に、走るなんてできなかったが、どれだけ自分を抑えようとしても、いつもとは違う外の空気を吸い込んで、少し前のめりに足が出ているのが分かった。