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満ちゆく月と孤独な天の川  作者: 月岡 結
月を美しいと評する人間であること
1/11

はじまり

 古今東西。ほのかな光を手向けて移ろう月は、常に人の心のそばにあった。

遠く離れた故郷を慈しむ時、上り詰めた場所から退く決意を固めた時、そして、愛する人をひとりでに待ち続ける時。

 どんな時であろうと、どんな人間であろうと。顔を上げれば、平等に微笑みかけてくれる彼の存在が、どれだけ沢山の人の支えになったか。私ごときには計り知れない。

 時は流れ、現代に至っても、月はまた平等に私たちを見守ってくれている。

心細い一人の夜道も、明日が不安な長い夜も。ふと気が付けばそこにいる彼の存在に救われた経験は、誰しも持ち合わせているだろう。

 では、なぜ人々は、決して手の届くことのない星に、ここまで心を通わせてきたのだろうか。彼が人を引き寄せて来た魅力とは、一体何なのだろうか。

今日は、優しくも美しくあり続ける「月」について私なりの見解を述べたい。


 それでは、最初に――――――


普段なら特段気に留めることのない、ただのBGM代わりのニュースなのに。うっとりした顔で語る女から感じた人間の愚かさに嫌気が差して、気が付いた時にはプツッとパソコンの電源を落としていた。己の衝動性に若干の反省を覚えつつも、電源ボタンからゆっくりと手を離し、足を椅子の上で抱き寄せて、ただゆっくりと背もたれに体重をかける。

フォンとパソコンの動作が完全に止まった音を聞いて、先ほどの言葉が思い出されようとしたが、間髪入れずに、分かる必要もないか、と天井を仰いだ。



月を美しいと評する人間であることは、

自分本位でしか物事を考えられない馬鹿であることと同義だ。



太古の昔から、月が何千年、何万年と自分たちに寄り添うことに救いを覚える癖に、空を見上げ、月の悲しみに寄り添おうとしたやつは一人もいない。

だから、あいつは、ずっと孤独だ。太陽がいなければ輝くこともできず、日々の行動はおろか、身体さえも自分の思う通りには変化させられない。そんな苦痛を、ずっと一人で、何十年、何百年と繰り返しているのだ。何か具体的な行動が必要なわけでも、悲しみを浮かべ続ける必要がある訳でもなく。ただ、一時も欠けることなく、そこにいたあいつに「一人じゃないよ」と心を通わせるだけで救われるのに。愚かな人間は自分の都合のいい時にしかその存在を認めようとしない。そう言うところに、人間が利己的な生き物であることを感じてしまって、月を「美しい」と評することが、俺はどうしても好きになれなかった。


「まぁ、そんな人間に救いを求めようとしてる時点で、俺も同じ穴の狢か」


部屋が暗くなったことを感知して、明るさを増した室内灯を眺めながら、誰に聞かせるためでもなく、ただ頭に浮かんだ言葉を口から吐き出した。

もう一度画面に向き合う気にはなれなかったので、ギッと音を立てて椅子から立ち上がる。幸い、今日は『完全に見えない日』だ。いつもと同じように一式の電源を落とし、特に何を持つでもなくドアノブに手をやって、またため息をついた。一ヶ月前は必要だったジャンパーも、この暖かさなら必要ないだろう。玄関の鏡に映った、真っ黒なパーカーにズボンという部屋着を見て、なんとなく黒いマスクを着けて家を出た。やはり少しだけ肌寒さは残っているが、眠気覚ましには丁度いい気温だった。


マンションの廊下を左に曲がって、階段を降り、いつもの通りの道を進む。

いつもより少し早い時間なのもあってか歩道にはパラパラと人が点在していたが、むしろ自分にとっては都合がよかった。

いつもの通り近づいてきた、少し坂を上った先にある人感式の信号機の前で、やはりいつものように足を止める。当たり前のように俺を見ようともしない信号機を一瞥して、誰が通るのを待っていると、今日は対岸の帰宅途中と思しきサラリーマンが信号を青に変えてくれた。

何となく、すれ違いざまに首をすくめてみるが、やはり反応が返ってくることはない。

いつものことだ。

 そんなことをぼんやりと考えながらしばらく足を進めると、いつも通りの丘の頂上にたどり着いた。

 空き家と神社の間の細い道を抜けた先にある、少しの緑と後は一面に夜空が広がるだけのこの場所。せわしなく生きる現代人が、誰も知ろうともしないこの場所は、家を出てすぐの、人間の住むビルに埋め尽くされた空とは違い、俺と唯一の友達の繋がりを妨げるものが一つもない、唯一の場所だった。他人から「ないもの」として扱われる自分の手を空にかざし、同じく姿の見えない彼が存在する空を見上げて、そっと呟く。


「今日も、俺はお前のこと忘れてないよ」


水面に波紋を広げたような音は、ぬるく吹き上げた風にさらわれて消えた。雲に隠れる訳でもなく、ただ姿を見せることができないだけの新月は、俺の言葉を聞いて、どんな表情をしているのだろうか。俺から月が見えないみたいに、月からも俺は見えてないのかもな、とよぎった不安を振り払い、


「でも、お互いにここに居ることには、何一つ間違いはないもんな」


といつもの通り静かに笑って見せた。


二〇XX年、すべてが政府主導のAIで動かされる現在。家に出入りするにも、スーパーに入るのにも、生体認証をする必要があるこの世界で、月と同じ周期で身体が見えたり、見えなかったりする俺は、完全に身体が顕現する満月の日以外は、認証エラーで家から出ることさえ叶わない。

しかし、完全に姿が見えなくなるこのタイミングだけは、俺はこの世界から「いなく」なる。人を感知するAIからも、そして扉をはじめとする無機物からも。彼ら彼女らに触れることが許されず、触れようとする身体は、全てを貫通してしまうのだ。傍から見れば、どんな悪行だってやり放題の最高の体質かもしれない。だが、「全てのものから見られない」ということは、すなわち、どこに身の危険が潜むのか分からないということだ。一度、エレベーターのボタンを押そうとして隙間に落ちかけたあの日、俺はこのいつも通り慣れた道以外を通らないようにしようと強く心に誓った。


別に、生きる上で何か不自由があるわけではない。新月の間も、必要なものはパソコンのパスワードさえ忘れなければ通販で購入できるし、野菜や果物など特定のものは食べることができる。それ以外の時も、掃除や料理の作り置きなど、家周りの大抵のことは一週間に一回来てくれる家事代行の人が何とかしてくれるし数十年前と比べて大きく進歩した今の技術をもってすれば、風邪を引いたって、その病気の原因をスキャンして、適切な薬を飲めばどんなものでも一晩で治る。

現代社会においては、過去の人間が思いつくような「困難」に対して、大抵の解決策が見出されているし、何より一番は、何か不自由を感じるよりも先に、パソコンの前に座ってしまえばよかった。どんな時も変わらずに光り続ける画面を眺めていれば、自然と時間も感情も情報が埋め潰してくれるのだから、何ともできないことに対して、まともに取り合って考えようとする方が馬鹿らしいまであるのだ。

 

さて、余計なことまで考えてしまったが。月に一回の習慣である、親友への挨拶を済ませた今、これ以上ここに留まる理由も無いので、「またな」とだけ声をかけて、来た道を引き返す。人通りこそないものの、やはり慣れない外の世界に出るのは少しだけ気が引けた。

5分ほど歩くと、先ほどの信号機が見えてきた。

今回は、自分が信号の前に着くよりも先に、運よく信号待ちをしている女の人がいて、止まることなく進むことができた。電灯のつかない暗い対岸の様子はあまり見えないが、何となくフードを被り、下を向いて歩く。誰が何を発するでもない夜の道に響く、地面を蹴る音だけを聞きながら足を進めると、不意に右肩に衝撃を受けた。「え」と小さく漏れ出たような声に、鼓動が一気に加速する。フードの右端を少しだけめくり、様子を見ると、スーツ姿の女の人は俺がぶつけてしまったのであろう左肩に手をあてて、やはり不思議そうにあたりをきょろきょろと見渡していた。非常にまずい。俺の存在が認識されることはないだろうが、何とも言えないいたたまれなさが自分の中に広がっていた。早くここから逃げなくては。サッとフードを被りなおし、向かう先へ足を進める。何から何まで、今日はついていない日だ。

気配から察するに、まだ白線から動こうとしない女に少し同情を覚えつつも、自分にできることはないとただ足を前に進める。


「ねぇ」


静寂の中、はっきりとした声が上がった。少しドキリとしたが、止まりかけた足を無理やり元のテンポに引き戻す。どうせ俺の事なんて見えていない。ならば、一刻も早くこの場から消えるのが最善だ。振り返ることもせず、ただ下をみて歩く俺に、


「まぁ、いっか。またすぐに会えるから。またね」


切ないような、芯のあるような。とにかく、自分に言い聞かせるみたいな声が突き刺さった。

 足を止め、行く先の歩道の、吸い込まれそうな黒色を眺めながら頭に響く声を少しずつ嚙み砕く。「まぁ、いっか。またすぐに会えるから。マタネ?」

何度考えたって分からない。あの人は『あの人以外存在していない』はずの空間に向かって、何を訴えようとしたのだろうか。


「それってどういう」


振り返ると、ただ暗闇の中に点滅する青信号だけが光っていた。彼女の発言の真意は分からないまま、ただ、自分の中にきゅっと胸がしまるような、小動物の鳴き声のような音が生まれた。違和感を抱くが、うまく言葉にはできない。


もどかしい思いだけが、ただ胸の中にあるが、少しだけ頭を使ったところで「あぁ」とため息が漏れ出た。


どれだけここで考え込んだって、どれだけ自分の納得できる結論を出したって、それが何の意味も持たないことは、俺が一番分かっているはずだ。


俺は「ここには存在しない」のだから。


どれだけ考えたって、どれだけ時間をかけたって、それが意味を持つことなんてない。だったら、こんなことをしてないで、ただまっすぐ自分のやりたいことをした方がいい。こんなしょうもないことに、時間と気力をかけるだけ無駄なのだ。


 ずっと前にわかり切ったことでも、頭の中で復唱すれば、また自分の中に落とし込んで自分を落ち着けることができた。

 そうだ、ものの数分後には忘れられている世の中の事象に、俺一人だけが囚われる必要なんてない。それよりも、今自分がやるべきは、一刻も早く帰って、一刻も早くゲームの続きをすることだ。そうだ、日付が変わる前に帰らなくては。

 そう思うと、足は少しだけ早く前に出た。もちろん、先ほどまでの重さは失って。


当たり前ように足を進める俺が、「明日からも、いつもと変わらない。なんの変哲もない日の繰り返しなのだ」と当たり前のように信じて、信じていることにさえ気が付いていなかった俺が。

「当たり前」なんてものが存在しないと気が付けるのは、もう少しだけ先のことだった


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