第17章 お盆と終戦の日
第17章 お盆と終戦の日
お盆って先祖の霊が帰ってくる。
霊ってどんなものだのだろう。物質ではないんだろうけど、時々見える場合もあるらしいので、エネルギーを持っているんだろうな。エネルギーそのものはきっと見えないんだろうけど、空気の粒子に当たると発光して目に見えるようになるのかしれない。波動?粒子?光のように両方の性質をもつものなのかもしれない。でも、本当はそんなものはないのかも知れない。生きている私たちがフィクションとして生み出した実態のないものなのかもしれない。意思とか意識とかは脳や体中のネットワークが生み出す虚構?ノエル・ハラリが考えるように虚構が信じられ、共有され、まるで生き物のような振る舞いをし出すのだろうか?
お盆と終戦記念日が重なるこの時期は、死と戦争について否が応でも考えなくてはならないんだということを突きつけてくる。絶対に忘れてはならないというのは確かなことだと思う。特に日本を含め、国内が戦場になった国でないと絶対に分からない感覚だ。アメリカも多くの死傷者を出しているが、国内が戦場になったわけではない。この点は天と地を分けるくらいの大きな違いだと思う。
今でもロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナが戦争を続けている。それだけではない。世界各地で何らかの戦闘が行われている現実がある。日本ではこれを機に平和を祈り、誓うことは忘れずにしっかりやっていると思うが、日本だけにとどまる問題ではないのも確かなのだ。世界の指導者を一堂に宇宙に会し、一緒に青い地球を眺める機会を設けたらどうかという意見もある。が、国境のない美しい青い地球を見たら、争いは起こらないだろうというロマン主義にはちょっと否定的だ。中には全部自分のものにしたいと考える指導者もいるんだろうな。いやそこまでではなくても、具体的なルールを作ろうという段階になれば、間違いなく利己がぶつかり合う争いごとは起きるだろうな。既得権は捨て難い。一度地球が滅亡してゼロリセット、一からのスタートなら話は少し別なんだろうけど。
由美子は悶々としている。村上との対話で話が広がり過ぎて収拾しづらくなったいうのもある。また、いろいろな考え方を学び、どれが正解でどれが間違いかという単純な問題ではないことも耳タコだ。ぐちゃぐちゃどろどろの中でも投げ出さないで一つずつ解決していこうという姿勢を貫くのは精神的に結構しんどいものがある。先ずは村上との約束である読書感想文の初稿を書くことが大切なんだけど。由美子は「うんっ!」と体を開くと畳から起き上がった。仏壇の手前にあるテーブルに原稿用紙、付箋だらけの本、満腹を通り越した分厚い紙のファイル、お古のノートパソコン、チラシの裏紙、兄から送られてきたHBの鉛筆と消しゴム(自衛隊のキャラが印刷されている)をとりあえず、どさっと置いた。
で、ノートパソコンの電源を入れ、ワープロのソフトを立ち上げた。パソコンも古いが、ワープロソフトも古いので、機能は少ないものの快適に動作する。
歴史の上では必然だった。後出しジャンケンのように後から責めるのは『私には』出来ない。彼のようなしたたかな人物が現れなければ、人類は新しい世界に進むことが出来なかったはずだ。彼の切り開いた技術は未来において人類の救世主となるかもしれない。おそらく過去には同じような事例がたくさん積み重なって、人類の歴史がつくられてきたのだろう。過去の善し悪しを問うのは悪いことではないとは思う。これからを考えた時、少なくとも同じ過ちを繰り返すべきではないが、未来から見れば今の私たちがどんなに一生懸命生きようとしたとしても、批判されるべき事はたくさん出てくる。それは人類が前に進むために必然だったはず。後出しジャンケンならどうとでも言える。大事なのは私たちが本当に今を一生懸命に生きることなんだと思う・・・。
由美子はため息を一つついた。言いたいことが表現できてない。何書いてんだろう・・・。文章の未熟さもそうだが、自分の考えがはっきりまとまっていないのではないか?言いたいことは頭の中に雲のように湧いている。でも、その雲をつかんで文字と形に整形していくのは簡単には出来そうもない。「読む」と「書く」ではこんなにも違いがあり、大変だったのか。紙飛行機と本物の飛行機を飛ばすくらいの違いがある。これじゃ、墜落しちゃう!村上先生のイメージに頭突きをする自分が見える。苦しい、助けて。クラスでミニバスをやっていたのが、いきなりNBAで八村選手を相手にするようなものだ。村上先生は軽く誘ってきたけど、あの時の迷いはこれだった・・・いや、もっと厳しく、辛いもののような気がする。由美子は畳の上に大の字に転がった。天井の板の木目がムンクの叫びのような模様に見える。エアコンもないので、空気を遮断された背中がすぐに汗ばんでくる。それに伴い、額にも大粒の汗が噴き出し始める。あれっ、ムンクの叫びがぼやける。目からも汗が?ごろんと横を向く。目頭から一筋のしずくがこめかみを伝わっていく。何だろう。混沌。カオス。糸くずの中にいる自分。もがけばもがけそうなのだが、もがく気力がゼロの自分がいる。なんか先生の声が聞きたい!由美子はむくっと起き上がるなり、電話に駆け寄った。ピポパポ・・・しばらく呼び出し音がなる。1回、2回、3回・・・10回。受話器を置く。お盆期間の学校は無人化となっており、日直の先生もいない。土日だと教頭先生とか教務主任の先生がたまに出ることもあるが、お盆はさすがに誰も出勤していない。(※実はこの時教頭先生が校舎の見回りのために自主的出勤し、ついでに少しばかり仕事をしていたが、約束を破ると不公平となるので電話には出なかった)今や個人情報等の関係で先生の自宅の電話番号や携帯電話の番号は伝えられていない。非常時の場合は教育委員会に電話をすると対応してくれるが、この場合は違う。
日が暮れるとおじいちゃんの墓参りに出かける。仏壇の灯りは現代風にLEDだ。安全だものね。この時期は一日中ついている。お線香の香りも一日中だ。これも液体蚊取り線香のような仕組みでお線香の香りのアロマが流れている。おじいちゃんは写真立てに中で不器用な笑みを浮かべている。いっそいつもの通りに笑わないでおけばいいのに。めずらしく中途半端だね。ご先祖様もたくさんいるはずだけど、私が直接知っているのはおじいちゃんだけだ。家系図も代々残されているわけではないし、たとえあったとしても、ご先祖様たちは目視外のずっと先にいて全く分からない。
ふと考えてみる。お父さん、お母さん、そのおじいちゃん、おばあちゃんたち、またそのひいおじいちゃんたちとひいおばあちゃんたち・・・・。ず~~~っと続くこの生命の営みのどこかで一つでも欠けていたら今の私はない。それは人間としてだけではなく、その進化の前の段階も、そのまた前の魚のような段階も、生命が生命としてその命が生まれた瞬間から続いているのだ。およそ36億年。途絶えることがなかったのだ。奇跡というよりもラッキーだった。太平洋戦争だけをとっても、いったいどれだけの人がなくなり、この36億年続いてきた生命の糸が途切れてしまったのか。
村上先生の話も浮かんできた。村上先生が自称「無神教」と言うようになったかという話で「俺は『無神教』という言い方ではなくて『宇宙教』かな」と言ったことだ。村上先生曰く、宇宙誕生のビッグバンで物質が生まれ、それらの物質は水素のような軽い元素で、やがて引力によって塊になっていき、星となる。星となり、塊となった物質は熱をもち、やがて爆発して新たな少し重い元素を生み出しながら広がっていく。そしてまたお互いの引力で塊となり、星となって最後は爆発する。そして、さらに重い元素がつくられていく。そうして何億年も何十億年も、気の遠くなる時間をかけて私たちの生命を形作る物質が生まれてきたのだと。自分もそんな過程の中で生まれたし、やがて命が尽きれば再び物質、元素だよね、星屑なんて言い方もあるかも知れないけど、それらの物質となって宇宙に散らばり、それはやがてまた別のものを形作っていく・・かもしれない・・・。だから、神とかじゃなくて宇宙を信じるから『宇宙教』かなと。変な先生・・と思ったけど、案外それもありなのかもしれない。今必死で戦争を続けている大人たちも、実は元素の塊じゃんってね。
でも、私はおじいいちゃんの霊・・というか何というか、その存在したことを信じる。元素じゃなくてその塊の、暖かくて、頑固で、頑張り屋で、あまり笑ったことのなかったじいちゃん。それがいいんだ。思い出とか記憶とか、私の中のものでしかないんだけど、とても大切なものなんだ。自分の中ではおじいちゃんはまるで生きているんだもの。だから、お墓参りにもいく。大切にしたいから。それはフィクションなのかも知れないけど、真実であることも間違いない。私の真実。私が決めた揺らぎのない真実。
昼間の地獄のような暑さも日が暮れ、暗くなって少し空気が動くようになるとちょっとだけ過ごしやすくなる。昼間テレビでは、80年近く前、あふれる汗とともにラジオから流れてきた玉音放送に向かって頭を下げたり、土下座をしたりしながら天皇陛下の声に耳を傾ける人々のモノクローム映像が流れていた。今までならそんなに気にとめることもなかったのだが、由美子はそのモノクロームの絵の中に自分がいる錯覚に囚われた。蝉の声がミーンミーンする以外、社会の中の騒音はすべて消え、天皇陛下の声が響き渡っている。「耐え難きに耐え、忍び難きを忍び・・・」涙する者、安堵のため息を隠そうとする者、何か分からない感情に襲われて震えている者、様々な人たちが自分なりに混乱を生じ、そのどうしようもない混乱と闘っている。負けたということもさることながらやっと「解放」される思いも深層心理の中に渦巻く。大切な人を失った悲しみに加え、何かがボロボロと崩れ、消えていく虚脱感。とにかく今はそっとしておいて欲しい。整理の時間が必要なのだが、日々の生活はそれを簡単には許してくれそうもない。
起きてはいるのだが、暗くなるまで由美子の頭はぼぉっとそんなことでもやがかかったようになっていた。白日夢というのだろうか?
由美子は、暗い中、線香とロウソクが立ち並ぶ石の間で、祈った。なぜか去年までとは全く違う祈りのような気がした。おじいちゃんはもっと身近で、ありありと目に浮かぶようになっていた。不思議なんだけど、私は変わったと思い始めた。
その次の次の日、母が赤飯を炊いてくれた。いつものお醤油の赤飯ではなく、ちゃんとした食紅を使った赤飯だった。確かにこの夏の私の身長の伸びは異常なくらいの数値を示していた。このままじゃ、確実に教室の入り口でアゴが桟にぶつかってしまう。(※二十歳を過ぎた頃の由美子にとっては単なる杞憂だったが)




