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8作品の短編集

作者: 堀本廣

8編の短編集です

 


                

          第1話       宵 待 草

 

 「5年前の事でしたな」男は話し出す。

 不動産屋を始めたばかりでした。たまたま半田市内に安い売り物件がでました。安いだけあって三角形の土地なんです。隣地の所有者を調べました。

 所有者は碧南の古い家並みの中に住んでいました。道路が狭くて、近くの喫茶店に、後でお茶でも飲むからと約束して、車を駐車しました。そして地主さんに、半田の土地を売ってくれんかと掛け合いました。夕方の5時ごろでしたかなあ。

 地主さんは暗い感じの人でした。うん臭い目で私の顔をじろじろ見るんです。得体の知れない不動産屋が突然やってきて土地を売れとせっつくのですから警戒されるのも無理はありません。1通り話は聞いてくれましたが、売りたくないの一辺倒、それじゃあ三角形の売地を買わないかと勧めましたが、買う金がないと、とりつく島もありません。これ以上押し問答しても仕方がないと諦めて退散しました。

喫茶店でコーヒーでも飲んで帰ろうと思いました。

 かけ出しの頃でもあったし、どうも仕事がうまくいかない。自分にはこの仕事は向いていないんじゃないかと、悩む毎日でした。八方塞がりという言葉がありますが、まさにそんな毎日だったのです。

 ーー宵待草ーー喫茶店の入り口に、わざと下手な字で青いペンキで書かれた看板が出ていました。外観は木造の納屋を改造しただけの粗末な造りです。駐車場は地面の地肌がむき出しのままで、私の車以外は駐車してありません出した。

 冬でもあるし、夕方5時を過ぎていました。寒くて心細い気持ちで喫茶店のドアを開けました。

さっき納屋と言いましたが、まさしく納屋で、天井の梁がむき出しのままです。裸電球が天井からぶら下がっているだけです。北側の入り口から中に入ると右手に5つばかりテーブルが並んでいます。左手にはカウンターがあります。カウンターには5人のお客がいました。カウンター奥の棚にはウイスキーの瓶が並んでいます。喫茶店兼スナックというところでしょうか。

 私は右手のテーブルに腰をおろそうとしました。

「こっちへきませんか」カウンターの中から髪の長いママさんが声を掛けました。仕方なく私はカウンターに腰を下ろしました。皆が私の顔を見ます。

 酒は嫌いではありませんでした。ここで時間をつぶそうと意を決して、ウイスキーの水割りを注文しました。家に帰っても待っている人もおりません。気持ちも塞がっています。ここで腰をすえることにしました。 

 店内の暖房は適度に効いています。オーバーを脱いでネクタイを緩めました。

「あなた、どちらから・・・」隣の初老の男の人が声をかけてきます。古風な綿入り帽子を被り、黒のジャンバーを着ています。金縁眼鏡の奥から優しい目が私を見ています。

「いや、実は・・・」私は頭を搔きながら、今日ここへ来た理由やら、仕事やらを話しました。

「大変ですなあ」男の人は1人頷きながら、

「ママ、今度の休みはどお?」ママさんにアタックしているんです。私は苦笑しましてね、水割りを喉に流し込んだんです。

 ママさんはそりゃすごい美人でしてね、年のころは30ってとこでしょうか。色が白くて、鼻が高くて、日本人離れした容貌でした。

「もう一杯いかが?」

ママさん、私に水割りのお代わりを勧めます。

 暖かい雰囲気でしたね。カラオケがあるわけでもなし。裸電球に照らされてね、皆、静かに酒を飲んでいるんですよ。

 駐車場には私の車以外はありません。皆近所の人達ばかりなんでしょう。天井を見上げたり、お隣同士小声で話したり・・・・。

 酔いが回ってきました。明日の仕事の事なんぞ忘れちまいましてね。思いきり飲んでやれって気持ちになりました。

「ママ、皆さんにお代わりしてやって」気が大きくなりましてね、有り金全部はたいてしまえと思ったんです。

「いやあ、すみませんなあ」一番端の、まだ30くらいでしょうか、私と同じくらいの歳の小柄な青年が、真っ赤な顔で手を挙げました。私はこの通り大柄ですがいたって気が優しいし,わりとぱっぱと金をはたくほうなんです。

「皆さん、ぱっと飲みましょうよ」私は声を張り上げました。皆さんの嬉しそうな顔。

「あらあら、豪勢なこと、いい事ありますよ。きっと」

ママさんの笑顔が美しかったですなあ」

 それから和気あいあいとなりました。

 定年退職をした人、会社を辞めて自営業をしている人、5人の人は皆バラバラでしたが、

「仕事、仕事で気が疲れる。たまにはパーッと息抜きしなきゃ」そんな雰囲気でしたなあ。

 たちまち時間が経ちました。

1人去り、2人抜けて、とうとう私一人になりました。私も帰ろうと勘定を払い,席を立ちました。

「お客さん、これサービスにあげますわ」ママさんがウイスキーのボトルを1本くれました。

「お仕事、頑張ってくださいね」手を握られました。暖かい手でしたね、嬉しかったですなあ。

 夜もしんしんと更けていました。喫茶店のドアを開けると、冷たい空気が拡がっていました。車に乗り込みライトをつけて、バックしかけました。お店の明かりが消えました。ライトの灯りに“宵待草”青い色が鮮やかに浮かび上がりました。いい名前だ、また来よう、看板を振り返り振り返り見ながら私は喫茶店を後にしました。


 それから・・・。

私はツキについていました。やる事成すことが怖いくらいに、ツボにはまるんです。無我夢中に働きましたねえ。2年前に結婚して子供にも恵まれました。

 半年前の事でしょうか。仕事もようやく落ち着いてきました。ふと宵待草を思い浮かべました。私はあの日を境に変わりました。自分でもびっくりするほどです。ママさんからもらったウイスキーも封を切らずに飾ってあります。ママさんの美しい顔,あたたかな雰囲気が鮮やかに思いだされます。

 私は夕方思いつめたようにあの場所に行きました。5人の仲間にも会いたい。子供のように胸を弾ませていました。

 喫茶店はありませんでした。草ぼうぼうのまま、何もありませんでした。店は潰れてしまったのかしら、私は不安になりました。

 近所で聞きました。あれから喫茶店はどうなったのか知りたかったのです。会えるものならママさんに会いたい。胸の内が熱くなってきました。

「喫茶店?,宵待草?、何です、そりゃ」近所の主婦はうん臭そうな顔で私を見ます。

「あそこは昔からずっと原っぱですよ」

 主婦はむずかる子供をあやしながら、玄関のドアをばたんと閉めました。

            

                 ・・・完・・・




第2話      もう1人の俺


 俺はいつも朝8時に起きる。30分で朝食を済ませて家を出る。9時ぎりぎりに会社に入る。

・・・ずぼらな男・・・と呼ばれているらしいが何も無理して働く事はない。適当に働いて・・・、どうせ出世してもたかが知れているし・・・、自由気ままに生きたいだけだ。

 今日も8時に起きる。「おい、飯だ」パジャマ姿で食卓に着く。

「あなた、さっき食べたばかりでしょう」何ねぼけてるのって顔で妻がむくれている。

「何言ってるんだ」俺は怒鳴る。結婚して25年。お互い裏の裏まで知り尽くしている。もう惰性で夫婦生活を送っている。妻は銭勘定はしっかりしているので、俺の安月給だけでなんとか食っていける。子供は高校生と大学生だ。2人とも朝が早い。

「今起きたばかりだぞ。メシ!」俺は不愉快になる。

「そうですか、それじゃあもう一杯どうぞ」妻はふてくされてみそ汁とご飯をどんと置く。こんな不作法も毎度のことだから気にもしていない。

「何だ、今朝はおかしいな。メシがはいていかんぞ」

「当り前じゃないの、さっき食べたばかりなのに」

妻は太った体を横に振る。

「あなた、今日はおかしいわよ。30分前にメシを食べるんだもの。どうしたのって聞いたら、今日から真面目に働くんだって、、、。私感動するよりも驚いちゃった」

 私の顔をまじまじと見る。

「朝飯済んだら、会社へどうぞ」このセリフはいつもの通りだ。気にすることもない。

 会社まで30分。9時ぎりぎりに出勤のタイムカードを押す。

「あら、何してるんですか。さっき、押したんでしょう」

事務の女の子がびっくりしている。

「えっ!」俺はタイムカードを見る。30分前に押してある。

「誰だ、こんないたずらしたのは」

「変なこと言わないでください。自分で押したくせに」

 女の子はむくれて、隣の女の子に「ねえ」と同意を求める。

 今日はなんかおかしいなあと思いながら席に着く。

「君、出かけたんじゃないのかね」

俺より若い課長はびっくり顔で俺を見る。

「今来たばかりですよ」皆じろじろと俺を見ている。

「じゃあこれは何だ」課長は今日1日の行動予定表を俺の顔に突きつける。そこには確かに俺の字で1日の訪問予定が書いてある。びっくりしたのは俺の方だ。

「ええ、もう早く行ってこい!」年下のくせに課長はいらだっている。

 俺の仕事はお茶のセールスだ。会社はお茶を全国の問屋や小売店に卸している。俺たち営業マンは企業や商店を訪問して注文を取る。

 1日に30軒は訪問する。1~2軒は注文をくれる。小売店で買うより安いので注文がもらえる。とはいえ何度でも足を運んでこそ常連になってくれる。しかし面倒くさいので、俺は1~2度しか再訪しない。

 それでも月に5軒くらいは新規の客が取れる。他のセールスマンは月に20軒から30軒の注文を取ってくる。当然俺よりも給料がいい。もっと給料をと妻からぶつくさ言われる。今の給料だけでも何とか食っていけるので無理に働かないことにしている。

 課長にどやされて外にでる。今日はおかしいと思う。とにかくセールスに回ろうと心に決める。

1日の訪問予定は昨日の退社前に決めてある。一応30軒の訪問客を回る、と行動予定表に書いてある。

 とはいえ毎日30軒も回ると体が参っちまう。俺はいつも5軒から10軒くらいしか回らない。

俺は30軒回ったような顔をして、1日の行動予定表に書いて課長に提出する。

 今日はおかしなことが続いている。たまには予定表通りに30軒回ってみよう思った。そんな気持ちになる。

 まずは3日前に電話しておいた商事会社の庶務課を訪問。

「あら、何か忘れ物?」担当の女の子がけげんそうな顔をする。

「えっ?」と俺。

「そうそうさっき言い忘れてたけど、数量ね多めにしといてね」

 俺は呆然とするがとっさにありがとうございますと頭を下げた。

 2軒目,3軒目を回る。注文は取れていないものの、

・・・俺が来ている・・・、

4軒目の不動産屋のおやじからは

「また来たのかね、仕事熱心だねえ、その熱意に免じて、考えておくわ」ときた。

 とにかく30軒回ってみた。注文が5軒。俺が1か月かかって取る契約料がたった1日で・・・。4時半に会社に還る。

「さっき帰ると言っておいて、タイムカードを押したろ。何か忘れものか」課長は上機嫌だ。その机の上には俺が契約した注文書が載っている。

「いや、実はその・・・」下手な言い訳をして退社する。

「あら、今日は早いのね」妻が皮肉る。無理もない。

 いつもは1日千円の小遣いで駅前の屋台一杯やって帰る。夜8時前に帰宅したことがない。

 俺は着替えをする。

「風呂」

「今、沸かすわね」妻は風呂釜のガスを点火する。

 風呂上りは気持ちがいい。食卓に座る。

「メシ]

「1本つけましょうか」妻は俺の顔をまじまじと見る。

「いらん」飯を食べながら、・・・今日はよく働いた・・・メシがうまい。

「おい、俺まだ飯食ってないんだよな」

「ええ、今が初めてですよ」

「そうか、1本つけてもろおうか」思い直して注文する。

 テレビを見る。9時になる。

「寝る」

「フトン、敷いてありますよ」

 妻と2人の子供は顔を見合わせる。いつもはこの時間に帰宅する。

 フトンにもぐりこむがまんじりともしない。

 ・・・もう1人の俺がいる・・・

 よし、明日から30分早く起きてやる。俺は決心する。1日の疲れがどっと出る。前後不覚に寝入った。



                                ーー 完 ーー



           第 3 話      ブ  テ


 「ぎっちゃん、かわいい猫よ、あげるわね」

 隣のおばさんが生まれて間もない猫を持て来た。

 僕,義一という。皆、ぎっちゃんと呼ぶ。こんな呼ばれかた嫌なんだ。母ちゃんに、ヨシイチと変えてくれとだだをこねる。

「ギイチって素晴らしい名前なのよ」母ちゃん誇らしげに言う。どこが素晴らしいのかさっぱりわからない。何で?って聞いても、死んだ父ちゃんが素晴らしい名前だと言ってたからだというばかり。3年場前に死んだ父ちゃんに聞くわけにはいかないから、僕は黙ってしまう。

 僕は小学6年生。柄はは小さいほうだ。母ちゃんはパートで働いている。生活が苦しいことくらい僕だってわかる。

 隣んちのおばさんは裕福で服や食べ物なんかくれる。恵んでやるって感じで好きにはなれないんだ。でもおばさんちのよっちゃんは僕に優しくしてくれるから好きだ.

 この前、おばさんがよっちゃんのお古をくれた。よっちゃん、体が大きいもんで、服なんてダブダブなんだ。

「やだよ、こんなの」僕は駄々をこねる。

「母ちゃんに直してもらいなさいよ」おばさん、僕を見下すして、ニタニタ笑っている。

「お言葉に甘えて、直させてもらいますわ」母ちゃんおばさんにお礼を言う。

 母ちゃんの裁縫の腕はすごい。ミシンを自在に操って、だぶだぶの服をぴったりと直してくれた。

「まあ、よく似合うこと」おばさんいまいましそうに口をゆがめる。

「良かったわね、義一、おばさんにお礼を言いなさいね」母ちゃん得意そうに微笑む。

「義一ちゃん、悪い事したね。僕のお古を押し付けちゃって」よっちゃん申し訳なさそうに言う。

 トンビがタカを産むとはさしづめ、よっちゃんのことを言うんだと思った。

「猫をやる」と言われたとき、さすがの僕もびっくりした。

「何!この猫、いらないよ」つっかえそうかと思った。母ちゃんが僕のお尻をつねる。

「いつもすみませんねえ」母ちゃん猫を押し頂く。

「まさか・・・」僕は母ちゃんの手のひらの中の猫を見る。

 どう見てもブタだ。目がふぞろいで口も歪んでいる。耳だってとんがっていない。

 おばちゃんちには6匹の猫がいる。子猫も毛並みがよくてかわいい奴ばかりだ。よりによってこんな猫を・・・。

 僕はおばさんを見上げる。おばさんよっぽど性根が悪いんだ。僕は口を尖らすとおばさんは母ちゃんを睨みつける。

「大事に育てますわ」母ちゃんにこにこして頭を下げた。

「義一、人さまから頂いて、文句を言ってはいけませんよ」

母ちゃんはピシャリと言う。僕は泣きだしたくなって俯いた。

「いいこと、どんな生き物でも、1つや2ついいところがあるものよ。それを見つけてかわいがってやりましょう」母ちゃんは優しい。

 僕は思い直す。不細工な猫だけど、まんざらでもなさそうだ。

「名前をつけましょう」母ちゃんは猫にミルクを飲ませる。

 僕は名前を考える。トラ猫だ。でもトラと呼ぶには名前が立派すぎる。

いっそのこと、ブタにしちまえ、一番似合っている。

 母ちゃんに報告する。

「ブタ!」母ちゃん目を丸くしている。

「ちょっと可哀そうじゃない」

「そうかなあ]僕は一生懸命考えなおす。この猫にふさわしい名前がなかなか思いつかない。

 タマって柄じゃないし、ミケもおかしい。僕は考えるのは得意じゃないんだ。

・・・ブス・・・これがぴったりだ。僕は母ちゃんに言う。

「ブスねえ・・・」母ちゃん、呆れた顔をしている。

「もっとましな名前はないの?」苦情を言う。

 猫ちゃん、見えない目で一層懸命にミルクを飲んでいる。いじらしいけれど、どうしても“ブ”の文字から離れられない。

・・・ブテ・・・僕は何気なく言う。

「母ちゃん、ブテってのはどう?」

「ブテ?、意味は?」

「意味なんてない。思い付きだから」

「仕方がない。それにしようか」

「ブテちゃん」母ちゃん、猫を撫ぜる。

「ブテちゃんってのはおかしいよ。ブテって呼び捨てでいいよ」僕は断固主張する。

 ブテは日増しに大きくなる。

庭にダンボールで砂場を作ってそこでウンチをさせる。家の中でウンチしようものなら、ビタンと軽くぶってやる。4~5日もすると、ブテは砂場でウンチをするようになる。面白いもんでウンチした後は前足で砂をかけている。

 ブテと呼んでから餌をやる。そのうちにブテと呼ぶだけで飛んでくる。

 1ヵ月もすると、醜い顔が整ってくる。

「母ちゃん、ブテ、猫らしくなってきたよ」

 ブテはきちっと餌をもらえるので、食卓に上がり込んで魚を失敬するようなマネはしない。

「こっちへ来い」というと、言葉が判るのか、チャンと寄ってくる。

「賢いんだよブテは」僕は嬉しくなる。

「飼い主に似るのね」母ちゃんは褒めるのがうまい。

 久しぶりにおばさんがやってくる。

「これがあの猫?」金魚がふをぱくつくような顔で驚いている。

・・・ざまあみろ・・・僕は得意になる。

「ブテ,来い」ブテは僕の横にきちんと座る。「

「まあ、なんて賢い猫なの」

 おばさん、感心しているのではない。唇をかみしめて悔しがっているのだ。

「おかげさまでいい猫になりましたわ」母ちゃん、にこにこして礼を言う。

 おばさん唇をゆがめたまま、そそくさと帰ってしまった。

「何の用で来たのかしら」母ちゃんキョトンとしている。

・・・ミャー・・・ブテが鳴いた。


                   ーー 完 ーー




         第4話    あわれな男


 平山はカミソリを取り出す。手首を切って死のう。本当にそう思った。

「俺、今から死ぬからな」妻の郁子に電話を入れたところだ。

「勝手に死ねば!」郁子はこれだけ言うと、ガチャンと電話を切った。

・・・何故こうなったんだろう・・・平山は過去を振り返る。

 1年前に建売を買った。街の小さな鉄工所で働いている平山にとっては一生一代の買い物である。妻もパートに出ている。2人で力を合わせれば何とかやっていける。

 結婚して17年目、高校1年と中学2年の男の子がいる。後3年もすれば上の子が勤めに出る。狭い借家で親子4人がひしめいているよりも良いと思って建売を買ったのである。

 それから・・・。仕事は順調だし貯えもある。広々とした家の中で、気分的にもゆとりができる。

 平山は大人しくて人当りもよい。仕事もまじめで信頼されている。パチンコはやるが小遣い程度で済ます。妻もパートで精を出してくれている。ローンの支払いにも滞りはない。

 家を買って半年くらい経ったころから何となく気分がふさぐ日が続いている。あまり飲まない酒を飲むようになった。何故こうなったのか考えたことはない。家にいても、自分の部屋にこもってテレビを見て酒を飲むだけである。

 借家住まいの時は2部屋で4人が寝起きしていた。食事をするのにも、テレビを見るときも家族全員がそろっている。テレビのチャンネル争いも、父ちゃんが見るんだと言えばそれでケリとなる。食事中でも妻や子供たちがベラベラ喋り尽くす。

 今ーー、家族1人1人に部屋がある。テレビを見るのも食事を摂るのもばらばらである。

飯ぐらいは家族一緒にと言っても、俺用事があるからと、子供たちはそそくさとすまして自分の部屋にこもってしまう。

 妻は自分の部屋が持てて、知り合いの主婦を引っ張り込む。無駄話に興じている。郁子は喋るのが好きな女だ。借家住まいの時は、テレビを見ながら近所のうわさ話や、パート先での出来事をとりとめもなくしゃべる。夫にも聞いてもらいたいのである。

 家が持てて郁子の人生は変わった。知人を引っ張り込んでは、家を買ったときの苦労や、家の中を見せては自慢話に花を咲かす。お茶やお花だと言っては外出する機会が多くなった。

 平山は酒浸りの日が続くようになった。家族の誰も相手にしなくなった。要は給料さえ貰ってくればいいんだ。そんな雰囲気がありありとうかがえた。

 欠勤の日が多くなる。彼は熟練工だから社長も大事にしてくれる。がそれも限度がある。

たびたびの欠勤に、温厚な社長もしびれを切らす。郁子を呼びつけて苦情を言うようになる。びっくりしたのは郁子である。

「あんた、何で仕事をしないの!」妻は口を尖らす。話下手な平山は無言で俯く。

 以前の妻なら、「どうしたの、どこかわるいの?」いたわってくれた。

・・・俺は無視されている・・・家族はバラバラで、皆、自分の事しか考えていない。

 ある日、一杯飲み屋で喧嘩をした。警察に引っ張られる。郁子が呼び出しを受ける。この時ばかりはさすがの郁子も不安そうに夫を見る。家に帰されても、子供たちまでもが「父ちゃん・・・」不安そうに側に寄ってくる。

 この時平山は心が満たされた。自分は家族の中心なのだ。この当たり前の事実を実感して満足感を全身で感じたのだ。

 それも束の間、家族は元のバラバラぼ生活にもどった。また喧嘩をする。郁子が呼び出される。今度は郁子の顔が引きつっている。

「なんで、喧嘩ばかりするの」大人しい平山と違い郁子は気が強い。2人の子供も郁子に肩入れして、平山を軽蔑の眼で見る。何も言わず自分たちの部屋に引きこもる。

 それ以来、妻も子供たちも平山とは口を聞かない。明らかに軽蔑している。酒浸りの日が続く。仕事も休みがちになる。

「あんた、家のローンはどうするのよ!」郁子の態度はとげとげしくなる。

・・・俺はお前たちの保護者だぜ。俺をもっと大事にしろよ・・・

 心の中で叫ぶものの、口でh言い出せない。平山はイラつきながらも、郁子の小言を黙って聞くしかなかった。

「離婚しよう」

 平山が切り出した。本当に離婚しようとは思っていない。こういえばいくら勝気の妻でも泣いて謝るだろうと思ったのだ。

ーーあんた、ごめんなさい。あんたをもっと大事にするから、離婚しないでーー

平山の脳裏にこんな気分のいい光景が浮かんでいる。

 郁子は無言で平山の言うことを聞いている。

「この家はどうするの?」郁子の声は冷たい。

「お前にやるよ」

「ローンの支払いを押し付ける気ね」

 郁子は夫を睨みつけたまま、つっと立ち上がる。2階に上がると、子供たちと何やらごそごそと話し合っている。

 2日後、郁子は2人の子供と平山の前に現れる。

「離婚するわよ。子供は私が引き取る。この家もね」言いながら離婚届や、土地、建物の権利証やらを平山の前に並べて、ハンコを押せと迫る。

 家をやると言った手前、引っ込みがつかなくなった。

 離婚して家を追い出された平山は、近くのアパートに引っ越した。いずれ自分を呼び戻しに来るに違いないと踏んで家族の近くに居を定めたのである。

 1ヵ月が経ち、2ヵ月が過ぎる。郁子たちからは何の音沙汰もない。一杯飲み屋でケンカして、警察から郁子に連絡してもらった。

「関係ありませんから」郁子の返事だった。

 仕事がクビになり、酒浸りの日が続く。

 そして・・・。

「俺、死ぬよ」電話を入れたものの、突き放された寂しさに、平山はカミソリで手首を切った。どくどくと流れる血に怖くなった。このまま死にたくない。助けを呼んでも誰もきてくれない。

・・・郁子、来てくれ・・・平山は叫ぶが、声は虚しく部屋の中に響き渡るのみだった。

・・・このままじゃ・・・平山はとっさにライターを取り出す。ゴミに火を点ける。これで消防車が来るだろう。郁子や子供たちも顔色を変えて駆けつけるに違いない。

 火は部屋中を回る。煙に巻かれて息苦しくなってくる。出血もおびただしい。5分、10分と立つ。永遠の時間の中にいるようだった。

・・・早く来てくれ・・・

 薄れていく意識の中で、けたたましい消防車のサイレンの音が聞こえてくる。

・・・来た・・・平山の意識は遠のいていった。


                           ーー 完 ーー




         第 5 話      ゴ ン タ  


 吉田選挙事務所の出陣式の日、ゴンタはよそいきの服に着替えて出かける。十数人の応援会の人達と一緒に万歳を三唱する。そのあと酒がふるまわれる。

「ゴンちゃん、一杯やりや」同年の中田が機嫌よくすすめる。普段は鼻にもひっかっけない。いつもは“ゴン”と呼び捨てにする。今日ばかりは“ちゃん”が付く。

 50になるゴンタは1人暮らし。定職もなし。何とか食いつないでいるものの、ほとんどがその日暮らし。誰もまともに相手にはしてくれない。

 選挙の投票日までは、選挙事務所に行けば酒が飲める。寿司にありつける。一番気持ちがいいのはまともに相手にしてくれることだ。

「ヨッちゃん、おおきに、わし頑張るでな」

 缶ビールで乾杯しながら、ゴンタは小さな体をバッタの様に曲げる。

「よっ、ゴンちゃん、来とるな。きばろうぜ」この日ばかりは、皆が気持ちよく声をかけてくれるのだ。

この1週間はお祭りなのだ。

「へえ、へえ」ゴンタは愛想笑いを浮かべる。嬉しくて仕方がない。

 しばらくして・・・、

「ゴンちゃん、このチラシなあ、団地に撒いてくれやあ」

ヨッちゃんがチラシの束をわたす。そのうえでゴンタを陰に呼んで、

「これやるでなあ、きばってくれやな。ただし誰にも言うんじゃねえぞ」大枚1枚を握らす。

 ゴンタは大きくうなずく。ゴンタが決まった収入がないことを知ってる。日ごろは無視していてもゴンタの心中を見抜いている。

・・・おおきに・・・ゴンタはお札を押し頂く。

 それにしてもヨッちゃんは大物だわ・・・。

1代でこの町でも一番の不動産屋にのし上がる。市会議員としても羽振りを聞かせている。市役所へ行っても案内も乞わずに市長室に入り込んで行くと言う評判だ。度胸があるんだ。ゴンタはヨッちゃんを仰ぎ見る。

 ゴンタは車に乗り合わせて団地内にチラシ配りをする。約1時間半、配り終えると、選挙事務所に舞い戻る。

「ご苦労様だったなも。一杯やりや。寿司もあるでな」

ヨッちゃんの奥さんは優しいし気が利く。普段の日でも「ゴンちゃん元気かなも」目をかけてくれる。ゴンタよりも年下なのに頼りがいがある。姉さんのような人だ。

「おおきに」ゴンタやほかの数名の者は凱旋の兵士の様に事務所の奥に入る。

 事務所の表では、若い女の子の黄色い声が飛びかわっている。

「吉田をお願いします。吉田を当選させてください。吉田は頑張ります」

…いろんなことを言うんだなあ・・・缶ビールでのどを潤しながら、ゴンタは表の騒音を聞くともなしに聞いている。

「よっ、ゴンちゃん、やっとるな」

 ツネが脂ぎった髪をぷんぷんさせながら入ってきた。

「へえ・・・」ゴンタは卑屈に腰をかがめる。

・・・やな奴がきた・・・ゴンタはツネを避けようとして席から腰を挙げようする。

「ゴン!、逃げんでもええだねえか」ツネは腰かけに片膝ついて威高に言う。他の者がこそこそ逃げ出す。

「別に、そんな・・・」ゴンタは目を伏せる。

「まっ!、座れや。一杯やろまいか」ツネはガラスコップに景気よくビールを注ぐ。

「俺はよう、人が思うほど悪い男じゃねえぞ」

・・・何言いやがる・・・ゴンタは愛想笑いをする。

 ツネは全国を股にかけての行商をやっている。人を騙して粗悪品を売っているという評判だ。暴力団との付き合いもあると言う噂だ。とにかく評判が悪い。

 こんな時に選挙事務所に顔を出すのは、事務所にとってマイナスだが、来てはいかんとは言えない。ツネは後援会の一員でもあるのだ。それにツネはこの町に顔が利く。かなりの票を集めるという評判だ。

 ツネの側にいるだけで息苦しくなってくる。黙って席を立つとど叱られる。ビールを飲みながらじっとしているしかない。

 その時、

「ゴンちゃん!」知り合いのおかみさんが顔を出した。

「まっ!、ツネさん、お久しぶり!」おかみさんはゴンタをそっちのけにして艶っぽい声をかける。

「いよ!おケイちゃん、相変わらず色っぽい」ツネは片手をあげて相好を崩す。

「まっ!、嬉しい」

「どう、今夜付き合わない。しっとりと・・・」

「いやらしい!」おかみさん、まんざらでもなさそうに、ケタケタ笑う。

「あの、何か?」

「あっ、忘れるところだった」おかみさん、自分の額をパチンと叩く。大げさにびっくりしてみせる。

「表でね、旗振ってほしいって」ゴンタを見もせずに、ツネの横にべったりと腰を据える。

 ゴンタは黙って奥から出る。

・・・俺が旗を振るだかや・・・不安が先立つ。

 表に出る。

 「おお、ゴンちゃんこっち、こっち」選挙参謀の赤井さんが眼鏡越しに忙しそうに言う。見ると女、子供にところかまわず旗を手渡している。猫の手を借りたいほどの忙しさなのだ。かわいこちゃんだの、ブスだのと言っておれないのだ。ゴンタは一生懸命に旗を振る。

 夕方になる。選挙カーが一斉に帰ってくる。皆声をからしている。

「まあまあ、ご苦労さんですね」主婦たちがねぎらいの声をかけながら、お茶やジュース、缶ビールを振るまう。

 事務所内は急にごったがえす。ゴンタは無視されている。それどころではないのだ。ゴンタもそれはよく判っている。

「さあ、皆さん。今日1日ご苦労様でした。奥へどうぞ。食事の用意が出来ております」ヨッチャンの奥さんはニコニコして奥に手招きする。1人、また1人と奥に入っていく。

「ゴンちゃんおいでや」ヨッチャンの奥さんはゴンタに声をかけてくれる。ゴンタは嬉しくなる。

「へえー、おおきに」ゴンタはバッタの様に腰を曲げながら威勢よく奥の部屋に飛び込む。

 主婦連中が長机の上に食事を並べている。

・・・どうせここが満員になれば、俺は押し出されるだけだ。早う帰って寝よ・・・

 ゴンタは黙々と飯をかきこむ。缶ビールを2つ、上着のポケットに押し込む。

 食べ終わる頃に席は満室近くになる。

「どうもおおきに」事務所内に陣取って一杯やっているヨッチャンや赤井さん達に頭を下げる。

「ゴンちゃん、明日もたのむでなあ」ヨッチャンが手を振る。

「へえ、判っとります」

「よう、ゴンちゃん、色男、頼むで」呑み助のツネは顔が真っ赤だ。

 ゴンタは表に出る。

 事務所内で、ワッという歓声が上がる。ゴンタはそれを背中で聞きながら家路に急ぐ。



                           ーー 完 ーー

 




            第 6 話      と も 子 


 私は仕事を息子に譲りましてな。ごらんのとおりの楽隠居ですわ。十数年前に妻に先立たれて、息子夫婦に食わせてもらっています。酒は飲めんので、付き合いの誘いがあってもジュースで乾杯します。それに宴会とか、とにかく賑やかの所は好きではありません。

 本を読んだり庭いじりをしたり。猫とじゃれあったり、散歩したりします。それに1日2時間くらい車を運転しましてな、喫茶店でコーヒーを飲むのを楽しみにしています。

 1年前の事ですわ。隣町まで行きました。ある大手の製鉄会社を控えた所に喫茶店がありました。ぶらりと入ってみました。

 店内はテーブルが10くらい並んでいました。奥にカウンターがあって、まあ、どこにでもある喫茶店ですな。でも私が釘付けになったのは、おしぼりとお水を持て来たウエイトレスでした。

 髪はおかっぱ頭、化粧化のない顔ですが、色が白くて唇がほんのりと紅いのです。鼻筋が通っていて、目が大きくて涼やかな表情をしているんですわ。

 私は自分の歳のことも忘れて胸がときめきました。コーヒーを注文して、新聞を読むふりをして彼女を観察しました。

 客が来れば「いらっしゃいませ」客が帰れば「ありがとうございました。」と挨拶はするものの、それ以外の事は何もしゃべりません。注文も客が言うまでは立って待っているだけです。もともと寡黙なのか、喋るのが億劫なのか、暇があるとおしぼり用のタオルを丸めたり、それが済むとカウンター横の壁にもたれて外の景色をじっと見ているのです。私は興味を持ちました。

 それから私は毎日その喫茶店に通い詰めました。1週間ばかり通い詰めたところで、

「お嬢さん、どういう名前?」

 彼女は私が老人ということもあったのでしょう、ニコッと笑うと「パートで働いています。名前は智子と言います」それだけ言うとコーヒーを置いて立ち去りました。

 その後判ったことは、歳は19,日曜休みで朝10時から夕方4時まで働ているということです。

 私はそれ以上たずねませんでした。彼女の顔を見るだけで満足でしたから。

 朝10時ごろとお昼ごろに行くと、店内は混雑しています。ウエイトレスは彼女1人のみ。カウンター内の厨房でマスターが1人コーヒーや食事やらを作っています。てんてこまいの忙しさですが彼女は客の注文をテキパキとこなしていきます。その姿を私はほれぼれとみていました。

 客の口から猥雑な言葉が飛び出しても、いやな顔1つせず涼しげな表情に笑みを浮かべるだけでした。

そこには照れ隠しのような,いやらしさは微塵もありません。

 喫茶店通いをして4ヶ月経ちました。私は不思議なものでも見るように彼女を眺めるようになりました。

 一見して華やかで、俗にいう掃き溜めに鶴なんですね。際立つ美しさなんですね。それを本人が自覚しているのかどうか、どう見ても自分の美しさを鼻にかけている様子が見られません。

 客から冗談なんか言われても、ニコッとするだけです。別に客に媚びたり愛想笑いするわけではありません。赤ん坊がニコッとした時の、あの無垢な笑いに似ています。

 喫茶店ですから、風俗的にかなり際沿いヘアヌード満載の雑誌などが置いてあります。客の中にはそれらの雑誌をコーヒーを飲みながら、堂々と拡げて見ている人もいます。年頃の女の子の中には、すべてとは言いませんが、こんな客には露骨に眉をひそめて、いやらしいそうな顔をします。その割には仲間同士の会話は男の子のセックスだったりして・・・。

 とも子さんはそんな客にも嫌な顔1つしません。ヘアヌードの写真がテーブルに拡げてあっても全く意に介しません。嫌らしい顔もしません。そんな人でも声をかけられると、ニコッとするのです。本当に心の底から笑っているような純な笑顔です。

 客の方もそれ以上とも子さんに冗談めいた話はしません。客は客でコーヒーを飲みながら、自分の世界に引きこもってしまいます。

 とも子さんはとも子さんで、用事がなければカウンターの横にもたれ掛かって、いつまでも表通りの景色に見入っています。その時の彼女は近寄りがたい威厳があります。

 私は霊というものを見たことがないので信じてよいかどうかわかりませんが、もし霊があるなら孤高の気高い霊が彼女に取りついていて、他の者が彼女の領域に踏み込めないようにしている。そんな孤独の雰囲気が感じられるのです。

 私は老人の厚かましさで、とも子さんにいろいろなことを聞きました。

ーーどこに住んでいるの?。彼氏はいるの?。趣味は?。休日は何しているの?ーー

 とも子さんは微笑するだけで答えません。私の質問に嫌な顔もしません。不思議ですねえ。まだ19歳の小娘ですよ。随分と落ち着いているんですよ。歳を尋ねなければ、どう見ても24~5ぐらいにみえるんです。社交性が有るわけでもなし、かといって人当りが悪い訳でもありません。人を傷つけるような態度は決して取りません。

 それからまた私は2か月、3か月と通いました。彼女の顔を見る事で何となく生きる張りが出てきました。生きているという喜びっていうんでしょうか、毎日が楽しくて仕方がありませんでした。

 亡くなった妻との、若き日のラブロマンスが思い出されましてね,生きていてよかったって感じでした。

 喫茶店ではコーヒーを飲むだけです。よく粘っても1時間ぐらいいるだけです。その時だけは私には何物にも代えがたい貴重な時間でした。

 息子の嫁なんかが「お父さん、近頃若くなった感じですね。何かいいことでもあるんですか?」しげしげと私の顔を見るんです。

私は嬉しくなって、思わずとも子さんのことを喋っちまいそうになりました。でもこれは私の秘密の宝なんですね。誰にも言う訳にはいきません。

 ゲートボールだの、老人会だの、いかにも老人臭い集まりは私は好きになれません。大勢で騒ぐよりも1人でいた方が楽しいんです。夢の中でロマンスを追っていた方がどんなに幸せか。

 とも子さんは私の夢でした。宝でした。彼女にデートを申し込むことなどできるわけがありません。私のような年寄りがそんな事したら笑いものにされちまいますわ。

 でもとも子さんは私を1人の人間として、いや欲張った言い方をすれば1人の男として扱ってくれていると信じておりました。コーヒーカップをテーブルに置く時、私の顔をジーとみてにこりと笑います。その時の何と美しいことか、清々しくて、ここに来てよかったと、本当に若返った気も気になります。

 それも終わりに近づきました。10月も下旬になりました。とも子さんの姿が見えません。休養か風邪なんかひいて休んでいるのだろうと思い、それでも私は1週間ばかり通いました。

 10日目になってマスターに「とも子さん、辞めたの」と聞きました。

「ええ、代わりの女の子が11月に来ます。それまでご迷惑かけます」マスターは済まなさそうに言います。

「彼女の住まいどこ?」よほど聞こうと思いましたがやめました。聞いたところでどうなりましょう。夢は夢で大切に胸の内にしまっておこうと思いました。

 私はその喫茶店に行くことはやめました。でも1日に一回はどこかの喫茶店でコーヒーを飲むことにしています。


                              ーー 完 ーー

 



          第 7 話      夫 婦


 「ねえ、あなた、どうするの、今月も赤字よ」妻が頬をふくらまして夫にくってかかる。

10年前に結婚。激しい恋愛の末ゴールイン。周囲からの猛烈な反対を押し切っての結婚だった。

 夫は文学青年だった。金には無頓着で、細面の顔に憂いを含んだ表情をしていた。文学論を語らせると、熱に浮かされたように喋り続ける。妻にはそれが好印象に見えた。

 結婚しても双方とも両親からの援助が期待できなかった。特に夫の実家は火の車でそれどころではなかった。金がすべてではない。愛さえあれば、そう信じ切っていた。

 結婚当初、妻は瓜実顔のキラキラした瞳でひたむきな愛に生きようと張り切っていた。目鼻立ちの整った美しい顔は幸福に輝いていた。夫の愛さえあれば苦労はいとわなかった。夫が将来有望な作家になると信じて疑わなかった。

 結婚して3年目の楽しい日々は瞬く間に過ぎていった。実家からの経済的な援助のない妻は、夫を支えるために必死に働いていた。多少の貯えもあり、苦労も大して苦にならなかった。

 結婚生活も7年過ぎると、作家として目が出ない夫にいら立ちをおぼえるようになった。結婚当初、楽しい愛の巣であるはずの高級住宅マンションでの生活も2年しか続かなかった。貯えも底をつき安いアパートに引き移る。それでも仕方がないと我慢をしていたものの、妻の心の底には夢が壊されていく不満がくすぶり続けるようなった。

 それを知ってか知らずか、夫は相変わらず売れもしない小説を書いている。細面の好ましいと思っていた顔も、いつしか疎ましく見えてくるのだった。

「ねえ、働いてくれない」妻は年のわりに老けた顔で夫に哀願する。

 一時期、夫は働きに出た。パートだが長続きしなかった。仕事疲れで机に向かう気力がなくなるとか、勤務先の人間関係が煩わしいとか不満を言う。要は働きたくないのだ。妻の愛情は少しずつ冷たくなっていった。

 そして今・・・。

 借金も多額にのぼり、家計のやりくりが限界に来ていた。

「ねえ、作家になるのをあきらめて、働いてくれない」妻の険しい顔に、夫は黙って俯くのみ。

「何とか言ってよ!」とうとう妻の癇癪玉が破裂した。

「少し時間をくれないか。賞の候補に挙がっているんだ」この言葉はもう何度も聞かされている。飽きが来ている。もう少し、もう少しと言われて5~6年が経っているのだ。

 妻は夫の小説がうまいのかまずいのか判らない。要は原稿料がもらえて、経済的に楽になりたいのだ。

 妻は何も言わずに外に出る。アパートを転々として、今は地方の市営住宅に入っている。それも相当なボロである。部屋には台所、トイレ、風呂を別にして6帖2部屋のみ。子供がいないというのが不幸中の幸いと言うべきか。

・・・この10年間は自分にとって一体何だったのか・・・

 妻は公園のベンチに腰掛けてぼんやりする。

 夫の才能にすべてをかけても後悔しないと決意して結婚した。この歳になってと妻は35歳になる自分を振り返ってみる。鏡を見てもいかにも疲れ切った表情をしている。夜の商売にでも入ればもっと多くの収入に恵まれる。しかし心の奥底で愛さえあればと啖呵を切った自分への裏切りの様に思えてふんぎれないでいた。それに、今書いている夫の小説が採用されるかもしれないという淡い期待がある。

 実家の母が娘の窮状を見かねて時折、金の援助をしてくれる。嫌でもそれに甘えずには生活できない。

・・・いっそ、わかれようか・・・ふと、離婚の2文字が浮かぶ。

 でも・・・。とためらう気持ちもあった。

 激しく愛し合った昔が懐かしい。あんなに愛し合ったのに・・・。

 妻はそれを払しょくするように腰を上げる。

・・・こんな生活、もういや・・・

 今は近くのコンビニでバイトをしている。

少しでも実入りのよいところと、働く時間が長くてもと仕事を転々としている。その上に売れもしない小説を書くしか能力のない夫の面倒も見なければならない。

 妻は気を取り直して家に入る。もう1ヵ月様子を見よう。作家を諦めて働いてくれるよう説得しよう。それが嫌というなら、きっぱりと別れよう。この歳ならまだ再婚できる。

 6帖の部屋は本が所狭しと山積になっている。本代だって馬鹿にならない。本は2度3度読み返すのかと思いきや、1度目を通すだけで後はつんどくだけ。

「図書館で借りてきたら」妻の提案も「本はどんな形で必要になるかわからないから・・・」

夫は一蹴するだけ。

 夫はお茶を飲みながら煙草をふかしている。その姿も昔は好ましく感じていた。今その姿は疎ましく見える。

 「あなた」妻はペタンと座る。

「あと、1ヵ月は様子を見させてもらいます」

「1ヵ月?、何のこと」夫は妻の方を向く。

 妻はいら立ちを隠さない。

「1ヵ月以内に原稿料をもらう身分になってくださいな。それが無理なら働きに出てくださいな」

 夫は憂いを含んだ顔で妻を見る。

「1ヵ月なんて無理だよ」

「じゃあ、どれだけ待てばいいんですか」

「どれだって言えないよ。そんなこと・・・」夫は灰皿で煙草の煙を消す。

「結婚する時、言ったじゃないか。小説で食っていけるまで支えてくれるって」

「じゃあ、あなたは、これからもずっと私に苦労しろと言うんですね」

『いやなら勝手にしたらいいさ」夫は背を向ける。

 ついに妻の不満が爆発した。

「そうですか。それなら勝手にします。別れて下さい。今すぐ実家に帰ります」

 夫の背中がピクリと動く。何も言わない。冷めたお茶をグッとン見込む。その無言の動作が妻にはいらただしく見えた。

「結局あなたには才能がないということですね」妻は嘲りの言葉を投げつけた。

「あなたが昔言ったことがありますわ。誰それが芥川賞をとったが、小説そのものは大したことはない。俺ならこれ以上のものが書ける。俺には運がないんだと・・・」

 妻は夫の反応を見ている。その背中が岩の様に動かない。こちらを向いてほしい。妻はやり切れない思いで声を大きくする。

「運も実力の内じゃありませんか。あなたには小説家としての実力なんてないってことじゃありませんか」

「馬鹿にするな!」振り向きざま、夫は妻を殴る。

 妻は殴られた頬を抑えて夫を睨む。その目から涙があふれる。妻はついっと立って台所に駆け込む。

 夫は荒い息使いでこぶしを握り締めている。最愛の妻に侮辱されて、男泣きして顔をくしゃくしゃにしている。妻のワッと泣く声がする。夫は正座してうなだれるだけだった。


                          ーー 完 ーー



         第 8 話     景 品 荒 し



 伊藤はA不動産の営業社員である。30歳。仕事熱心である。今日は完成した建売の展示会である。

5棟の建売を展示して完売にこぎつける。景気が悪いので多少の値引きもやむなしとの社長の意向も聞いている。

 5棟の内の1棟が展示会会場となっている。

朝8時に展示会会場の建物の窓や玄関を開ける。遅れて2名の営業社員と女子事務員が駆け込んでくる。

「伊藤さんの早いのにはかないませんわ」3人は頭を下げながら、応接室のテーブルに資料を置いたりして準備に余念がない。

 展示会は朝9時から夕方6時まで。午前中3人の来客があった。昼3時ごろ2人の母子と思しき客がやってきた。

 母の方は50歳前後、丸顔で背が低くて愛想がよい。子の方は20歳くらいだろうか、口をだらしなく開けて、目の焦点が定まらない。少少おつむの方が足りないようだ。

「中を見せていただいてもよろしいでしょうか」母の方は馬鹿丁寧に頭を下げる。

「どうぞ」伊藤はにこやかに招き入れる。2人の営業社員は伊藤の後ろに控えている。

 3人は母子2人を取り囲むようにして、建物の内部を案内する。2人は熱心に聞き入っている。

・・・ものになるな・・・伊藤の口調に熱が入る。

 厨房セットやクローゼット、洗面化粧台、バス、トイレなど・・・。

「まあ、いいわねえ」感嘆の声を挙げてくれるのが嬉しかった。

 一通りの案内が終わる。応接室のテーブルに腰掛けてもらう。女の子がお茶を出す。

「いかがでしたか」伊藤は力を込めて聞く。

「素晴らしい建物ねえ、気に入ったわ、ねえタケシ」

 タケシ君はだらしなく開けた口でうんうん頷く。

 頃を見計らって、アンケート用紙を差し出す。

「アンケートね、いいですわよ」母の方が手慣れた手つきでアンケート用紙に書き込んでいく。アンケートに、住所、氏名、電話番号などを書き終えたころ、営業社員の1人が奥のキッチンから景品を2つ持ってきた。

「粗品ですが・・・」伊藤はテーブルに載せる。

 これからが伊藤の本領である。

「いかがでしょうか。この建売は?」伊藤はにこやかに質問する。

「良いところですけどねえ。勤務先から遠くなりますわねえ」勤務先を言う。

「でも車でしたらそう遠くはありませんよ」

「でもねえ、やはり・・・。勤務先の近くにはないかしら」

「あっ、その近くに50坪の土地が出ていますが」営業社員の1人が横やりを入れる。

 女の子が住宅地図を拡げる。

「ここですが」女の子が指さした場所をみる。

「まあ、いいわねえ、おいくらなの?」

 伊藤は土地と建物の合計金額を言う。約4千万円。

「そうねえ、一千万円は持ってるから、3千万円を借りるとすると、月々のお支払いは幾らくらいかしら」

 事務の女の子が電卓のキーボードを押す。すぐにも支払金額が表示される。それを見せる。

「タケシ、これくらいなら払っていけるわねえ」

 タケシ君はだらしなく開けた口でうんうん頷く。

 その後伊藤は家族構成、収入などを聞く。

 母子2人暮らしで旦那はいない。勤続30年の経理係、収入はこれこれと答える。3千万円の借り入れは申し分ないとみる。土地の案内を申し出る。

「そうねえ、是非見たいわ」景品を抱えながら目を輝かす。

 伊藤は車を走らす。後から母子の軽四がついてくる。展示場から車で30分、目的地に到着。

 母親は丸い顔を一層丸くして「まあ、良いところねえ」しきり感心する。脈は充分にある。伊藤は契約の2文字が目の前にちらつくのを意識する。

「夜ならいつでもいますわ。30坪くらいの間取り図を書いてくださいな」腰を低くして言う。

「ありがとうございます。それじゃこの土地は売り止めとさせていただきますが、よろしいでしようか」

「有難いわ、ねえタケシ」

「それでは内金をお願いしたいんですが」  

「10万円でよろしいですが」

「今度来て下さる時でよろしいでしょうか、用意しておきますわ」

「ありがとうございます」伊藤は女の人に負けないくらい腰を低くして頭を下げる。伊藤はホクホク顔で母子の乗った軽四が走り去るのを見送った。

 3日後、間取り図ができたので電話を入れる。

「xxさんのお宅ですか?」

「えっ?、違います」電話は一方的に切れる。

「おかしいな」伊藤は不審げに呟く。訪問してみよう。アンケート用紙に記入された住所を住宅地図で探して訪問。

 その住所の表札には別人の名前が出ている。

「まさか、、、」伊藤はインターホンを押す。若い奥さんが赤ん坊を抱いて出てくる。

「すみません。こちらにxxさんいらっしゃいますか」

「そんな人、いませんが・・・」

「失礼ですが、ご近所にお見えになりませんか」

「近所にもいないわねえ」

・・・やられた。景品荒しだ・・・伊藤は唇をかみしめる。

 大きな契約が出来ると期待していただけに、言いようのない失望感に襲われる。それが怒りへと変わっていく。腹立たしさを抑えて帰路に就く。

 腹を立てたところで、どうにかなる問題ではない。すぐにも気を取り直す。長い営業の経験上、嫌なことはできるだけ早く忘れて、次の目標を目指す。

 展示場に来て、景品欲しさにアンケート用紙にでたらめの住所や名前を書く人は、ままいる。

しかしと、伊藤は砂を噛む思いで思い出してしまう。

 この母子のように、手の込んだ,いかにも今すぐに契約できるように思わせて、景品だけをもらっていく客はほとんどいない。いかにもせこい。

 展示会の物件は1ヵ月後に完売できた。次の展示会を開く準備も整った。仕事熱心な伊藤は自分の会社の物件が他の同業者の売り物件と比較してどの程度のものかを知るために、同業者の物件を見て歩く。

 昔と比較して、厨房セット、風呂、トイレ、押し入れなどは使いやすくて、豪華になってきている。

 それに土地の件もある。この土地なら売れるだろうと建売したところが、案外と売れない場合がある。

 知り合いの不動産屋さんが近日中に展示会を開くと言ってきた。当日昼過ぎに行ってみた。同業者とはお互い知り合いになっていた方が何かと便利である。土地の情報など出してくれる場合がある。

 駐車場に車を入れる。どこかで見たような軽四が駐車してある。

「これは・・・」ハッとして思い出す。急にむらむらと怒りが湧いてくる。それを顔には出さずに展示会場の玄関に上がり込む。

 例の母子が営業マンの説明を熱心に聞き言っている。

「やあ、xxさん、久しぶりですねえ」伊藤は大きな声で言う。

母子の顔がみるみる青くなる。

「何?」知人の営業マンが口をはさむ。

 母子は顔を伏せて、そそくさと玄関を飛びだしてえ行く。

「実は・・・」伊藤は今までのいきさつを述べる。

「景品が欲しけりゃ、初めからそう言えばいいんだ。手の込んだ嘘を言いやがって」

伊藤は今しも軽四に乗り込もうとする2人を見送る。

「景品荒しか。景品なんぞ、欲しけりゃやるよ。余ったらご近所に配っちまう」

知人の営業マンは笑って答える。

 展示会は近所の人がよく見に来る。興味本位にみるだけである。それでも景品を配る。宣伝と思えばよいのだ。

 ただあの母子の様に、買う気もないのに、金持ちの様にふるまって景品をだまし取る。一時は腹が立ったが、走り去る軽四の後ろ姿を見送りながら、今は憐れみを催すのだった。


                           ーー 完 ーー



 全8話、短編 終了


お願い  この短編集はすべてフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人、団体、組織とは何の関係もありません。この短編に登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作です。現実の地名の情景ではありません。





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