歴史改編:日露戦争
仁川上陸・鴨緑江会戦から遼陽会戦・沙河会戦・奉天会戦へと続く「日露戦争」の経緯については、史実と変化はありません。
乃木希典将軍の第三軍が旅順要塞攻略において大損害を出したことに関しても同様です。
ハワイを巡るアメリカ合衆国との感情的しこりも、ロシア帝国の反ユダヤ政策=ポグロムに反発する合衆国経済界には大きな影響を及ぼさず、日本が発行した戦時国債は(悪戦苦闘の結果、ではありますが)必要な分だけ引受先が確保できました。
こうした流れが史実と乖離するのは、1905年6月に起きたポーツマス講和条約の不成立と7月に起きたロシア軍の反撃、いわゆる第二次奉天会戦の始まりからです。
5月の日本海海戦でバルチック艦隊を全滅させられ、海軍力の大半を失ったロシア帝国にとって、これ以上の戦争継続は望むところではありませんでした。
というより、すでに勝利は失われています。
極東海域の制海権を失ってしまった以上、陸上戦でどれだけ勝とうとも、引き分けより上の結末に持ち込める可能性は皆無でした。
にも関わらず、陸上戦でもアレクセイ=クロパトキン将軍率いるロシア満州軍は日本軍相手に連戦連敗。
兵士らの士気は著しく低下して指揮系統の混乱が甚だしくなっており、「血の日曜日事件」や戦艦ポチョムキンの水兵反乱、オデッサにおける市民蜂起など国内での混乱が多発したことで、ヨーロッパからの増援も期待できない状況に陥っていました。
戦争の継続どころか、ロシア陸軍において大規模な反乱が発生する恐れすらありました。
そんなさなか、罷免されたクロパトキンに代わって満州軍総司令官に就任したニコライ=リネウィッチ将軍は、日本軍に対する逆襲を計画します。
無能な高級士官への反発が下級兵士たちに蔓延し、あからさまなサポタージュすら見られるようになった満州軍を強引に統率し、目の前の日本軍に決戦を挑んだのでありました。
合衆国が仲介に立ったポーツマス会議をひとまずロシア側が蹴ってみせたのも、この反撃計画での勝利が日本側の政治的譲歩を産むかも知れないと期待してでのことでした。
残念ながら、ロシア皇帝・ニコライ二世による「ひとにぎりの土地も、1ルーブルの金も日本に与えてはならない」という要求を忠実に履行できるほど、ロシア帝国の置かれた状況は楽観的なものではありませんでした。
国家経済が破綻寸前となり、これ以上の戦争継続は不可能であると早期講和を欲していた大日本帝国の側に負けず劣らず、ロシア帝国の側も追い詰められていたのです。
物資と兵数には勝るものの、戦意の面で疑問符の残る自軍を率いて、リネウィッチは哈爾浜から鉄嶺に向けて押し出します。
改めて言いますが、これは純軍事的な攻勢というよりは、軍の面子と政治的意図──特に日本軍による樺太侵攻に呼応したものでもありました。
要するに、最低でも一度は日本軍に勝利しておくことで体面と名誉とを守りたい陸軍と、どうせ守り切れない樺太分の分銅を講和会議の天秤に乗せておきたい政府の意図とが合致したことで急遽決定した、にわか作りの作戦だったのです。
対するは、物資と兵数には劣るものの、戦意については明らかに勝る日本軍です。
満州軍総司令官・大山巌は、これを受けて四平街から奉天まで後退。
補給線を短縮した上で、陣地を築いて迎え撃ちます。
「第二次奉天会戦」の始まりです。
架空戦記では、ここで日本軍が大敗し日露戦争での勝利を失うパターンが多いのですが、当時のロシア陸軍の内情を調べると、その可能性は高くないものと思われます。
確かに、これまでの戦闘で優秀な現役兵と下士官、および下級士官を失ってしまった日本軍が質的低下に苦しんでいたのは事実です。
ですが、国内の混乱でヨーロッパからの増援を受けられず、貴族の士官と平民の兵/下士官という構造的問題を抱えていたロシア軍もまた、自軍の戦力低下に苦慮していたのです。
ゆえに本作における「第二次奉天会戦」は、前年の沙河会戦と似たような結末を迎えることになります。
指揮統制に難のあるロシア軍が陣地と砲兵火力に支えられた日本軍を攻めあぐね、損害と補給物資の欠乏に耐えかねて退却を強いられるという流れです。
満州軍の児玉源太郎参謀長は、ロシア軍主力を奉天北方まで突出させ、両翼から退路を遮断することで包囲殲滅するという作戦計画を立案しましたが、開戦当時の精鋭たちならともかく、疲弊し消耗した当時の日本軍では、荷が重過ぎる目論みでした。
結果として、日本軍はまたしてもロシア軍を取り逃がし、決定的な戦果をあげることなく損害を重ねただけに終わったのです──軍事的には。
ですが、この会戦は政治的に一定の効果をもたらします。
ひとつは、ロシア宮廷に蔓延っていた夢想的な楽観論を吹き飛ばし、自国の勝利がもはやありえないのだと皇帝と戦争継続派に思い知らせたこと。
もうひとつは、彼ら以上の楽観論に支配され、さらなる戦線拡大と過大な戦時賠償を求めていた無責任な日本側メディアと国民の双方に頭から冷水をぶっかけたことです。
特に後者の影響は絶大でした。
それまで現実離れした主戦論で国民を煽っていた新聞各紙は、まだロシア軍には攻勢に出るだけの余力があること、そして下手を撃てば戦争そのものを失うかも知れない(現実的には、ほぼ杞憂でしたが)という現実を見せつけられ、慌てて論調を転換させたのです。
曰く「勝っているうちに矛を収めるべきだ」と。
そうした両国の国内状況を背景に、1905年11月、ふたたび合衆国のポーツマスにて話し合いの場が設けられます。
史実を上回る対陣によって財政破綻半歩手前にまで追い込まれていた日本は、ここで戦争を終結させねば国家体制の維持すら危ぶまれる、正に瀬戸際状態でありました。
例え敗北に準じる条件であっても、内容次第では受け入れるのもやむを得ない。
それほどまでの悲壮さで会議に臨んだ日本側交渉団を迎えたのは、あろうことか強気一辺倒だった前回と打って変わって腰の低いロシア側でした。
ロシア全権大使、セルゲイ=ウィッテは、非公式の予備会談にて次のように発言します。
「日本は、いかなる条件であれば金銭上の要求を撤回するのか?」
これを聞いた日本の全権大使、小村寿太郎は耳を疑いました。
前回までのウィッテであれば、確実に「ロシアは負けてなどいない。まだまだ継戦も辞さない」と戦勝国代表のように振る舞ったことでしょう。
それは、第一回の講和会議でウィッテが小村に投げかけた「もしロシアがサハリン全島を日本に譲る気があるならば、これを条件として、日本は金銭上の要求を撤回する気があるか?」という質問から、さらに一歩踏み込んだ内容でした。
これに前後して、同盟国イギリスから決定的な情報が日本政府にもたらされます。
国内の混乱で弱気になったロシア皇帝ニコライ2世が「賠償金支払いを行わないで済むなら、サハリン全島を割譲してもよい」という譲歩姿勢に転じたとの情報が、です。
日本にとって千載一遇の好機が訪れました。
元老および閣僚による緊急会議が開かれ、続く御前会議において桂太郎総理および山縣有朋参謀総長から次の内容が承認されます。
「ロシア側が樺太全土の割譲に同意することと引き換えに、日本側は賠償請求を取り下げる」
ロシア全権のウィッテもまた、樺太の割譲で合意することを決心していたため、会議場から別室に戻ったおりに「平和だ。日本は全部譲歩した」とささやき、随員の抱擁と接吻を喜んで受けたと言われています。
こうして、日本とロシアとの講和条約は成立しました。
ロシアからの領土割譲が「樺太の南半分」から「樺太全島」に変化したこと以外は史実のポーツマス講和条約と同じ内容であり、明らかに日本有利の取り決めでした。
ただし、互いの政府は内心で、これを「痛み分け」と認識していました。
日本側は賠償金を諦める代わりに領土を得て、ロシア側は領土を割譲する代わりに賠償金を諦めさせた。
その内容は、どちらの政府にも等しく痛みを与えるものでしたが、現実的に考えるなら、これに勝る落としどころは存在しなかったでしょう。
条約に基づいて両国の軍隊は満州より撤退し、状況は戦時から平時へと転換しました。
ですが、日本帝国の本当の苦しみは、その平時になって訪れたのです。
名目上の勝利者になったとはいえ、史実より長引いた戦争は、軍事的・財政的に日本の負荷を超えてしまっていました。
戦前に調達した外貨は枯渇し、戦時債権の支払いすらが危ぶまれる状況にあったのです。
そのため日本は、戦争で獲得した東清鉄道南満州支線と付属地の炭鉱について、一部とはいえ合衆国との共同経営を認めなくてはなりませんでした。
これがいわゆる「桂/ハリマン協定」です。
そしてそれは、朝鮮半島の優越権についても同様です。
ただでさえ脆弱だった日本の経済力は戦費の捻出によって重篤な打撃を被っており、朝鮮半島の利権から収益を上げようにも、そのために必要な原資がないという絶望的な状況に陥っていました。
自国の限界を熟知する伊藤博文、井上馨らの元老や首相である桂太郎にも、莫大な経費を要する鉄道や植民地を経営していく実力が自国にあるかどうかの自信が持てませんでした。
そのため、小村寿太郎や児玉源太郎からの激烈な反対を退け、渋沢栄一を代表とする財界人の支持の下、日本政府は南満州一帯と朝鮮半島とを日米共同勢力範囲とする計画を構築するに至ったのです。
これが「桂/タフト協定」です。
日本にとっては苦渋の選択でありましたが、背に腹は代えられません。
利権の旨味は激減するものの、国防上の戦争目的は果たされており、「欲をかいてすべてを失うよりはマシ」という消極的な判断が、日本政府にあったことは疑う余地もないでしょう。
一方、合衆国政府や財界が日露戦争において日本側を支援したのは、イギリスによって阻まれていたアジアへの進出が日本帝国を経由するルートで果たせるのでは、という期待あってのことでした。
加えて、破綻寸前にあった日本経済に対する影響力を高めることで同国の政治をも左右し、ひいてはイギリスの対米包囲網を弱体化させるといった戦略的意味合いもありました。
この遣り口は、のちに大統領となるウィリアム=タフト(「桂/タフト協定」の合衆国側当事者)が「ドル外交」として多用することになります。
「桂/ハリマン協定」も「桂/タフト協定」も、そうした合衆国の目論見を、十分とは言えませんが、ある程度は満足させるものでありました。
ですがイギリスは、そうした流れを見逃しません。
無論、タテマエとしては、日本が合衆国に対して相応の譲歩をすることに目をつぶる意向ではありました。
それは、合衆国に向けての「飴と鞭」理論でありましたし、満州権益を日本に独占させないための足枷でもありました。
ですが、それはあくまで自国の戦略が許す範疇で、という意味での話です。
イギリスとしては、「栄光ある孤立」を捨て去ってまで飼うことにした日本帝国が弱体化のあげく番犬の役を果たせなくなるのも、せっせと封じ込め政策を整えてきた合衆国が海外に向けて食指を伸ばすのも、どちらも面白い状況ではありません。
その点で言うと、いま目の前で展開している日米関係は、前者はともかく後者については押さえ込む必要があると考えられました。
特に問題なのは、日米の資本力がこのまま推移するなら、いずれ朝鮮半島の利権は合衆国優位のままで固定され、事大主義に慣れ親しんだ大韓帝国が新たな寄生先を彼の国に定める恐れについてであります。
その実現性については、日清戦争に敗れた清帝国からすかさずロシア帝国に鞍替えした皇帝・高宗の政治姿勢が、何よりも雄弁に物語っています。
もし大韓帝国が懸念のとおり振る舞えば、合衆国アジア艦隊が釜山あたりに展開するのは間違いなく、死命を制された日本は、軍事的にも政治的にも同国の影響下に身を置くこととなるでしょう。
それは、イギリスのアジア経営にとって重大な脅威となり得ます。
と言うより、あからさまな脅威です。
であれば、そうなる前に手を打たなくてはなりません。
イギリスは、すぐさま行動に移りました。
日英同盟延長の打診と同時に、日本政府に対して「朝鮮半島の共同統治」を申し出たのです。
具体的には「日本が朝鮮半島に持つ利権自体はそのまま、日本に代わりイギリスが大韓帝国を保護国化する」というものです。
それは、合衆国資本が狙っていた満州鉄道と朝鮮鉄道の連結を阻むと同時に日本帝国の喉元に匕首を突きつけるのと同じ意味を持っていました。
これを認めてしまえば、日本は一流国とは名ばかりの地域国家に落ちぶれるでしょう。
ですが、悪いことばかりではありません。
というのも、イギリスが保護国たる大韓帝国に責任を持つ限り、主に地理的要因から、同国は日本の意向を軽視するわけにはいかなくなるからです。
日本もまた、イギリスに敵対する意思を持たない限り、そのアジア経営のおこぼれを自らの手を汚すことなく受け取れるようになります。
しかも、仮想敵であるロシアや清(後に合衆国が加わります)の非軍事的な挑戦を受けても、同一地域にこれだけ利権が重なっていれば、イギリスが日本に味方するのはまず間違いのないところです。
加えてイギリスは、日本がこの申し出を受け入れた場合、膨大な戦時国債を支払い免除するという意向を示唆してきました。
これを受けた日本では、国論が真っ二つに分かれました。
ひとつは「日清/日露の戦争で日本人が日本人の血を流して得た権益を、なぜにむざむざ他国へ渡すのか? 満州/朝鮮の権益は日本が独占すべきであり、国策として大陸進出の方向性を躊躇するべきではない」という大陸国論。
これは、先に述べた「桂/ハリマン協定」や「桂/タフト協定」にも大反対した小村寿太郎や児玉源太郎が中心となったものでした。
もうひとつは「大陸進出や植民地経営で得られる利益が実際の国富となるには、極めて長い時間を必要とする。それよりもいまは、イギリスの庇護の下、国内に資本投下することで実力を磨き、主として経済をもって海外に進出すべきである」という貿易国論。
こちらは、三井財閥の最高顧問を務めた元老の井上馨や、後に「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一が中心となっていました。
前者は、日清戦争で獲得した台湾の統治が順調に進み、すでに利潤を生むようになっていることを根拠として「大陸進出や植民地経営は高い利益性を持つ」と主張していましたが、山縣有朋や田中義一ら満洲経営消極論者が多数を占める軍部からの支持を得られず、日本政府はイギリスの提案を(幾分かは修正しつつ)受け入れる意志を固めました。
一方、そういった帝国主義的パワーゲームに不満を持つ大韓帝国側は、1907年6月に「ハーグ密使事件」を引き起こして抵抗するも、列強が牛耳る国際社会からはまったく相手にされず、却って自国の無能を晒しただけに終わりました。
この事件をきっかけとして、高宗は息子の純宗に位を譲って皇帝の座を退くこととなり、同時に大韓帝国軍も皇帝の詔に則って解散。
独立国としての体裁は、この時点ですべて失われた状態と成り果てました。
そして1910年8月、イギリスは大韓帝国を正式な保護国とすることで、同国の外交権と内政権とを日本から継承。
大韓帝国は正に名目だけの独立国となり、以後はイギリスの手で実質的な植民地として扱われるようになっていきます。
なお、それに先立つ1909年10月、伊藤博文が韓国人テロリストの手で銃撃される事件が勃発しますが、幸いにして命に別状はなく、政務に復帰した彼は軍部に対する強力な押さえとして以後も活躍していくことになります。