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歴史改編:日清戦争

 さてここいらで、イギリスの「番犬」である大日本帝国のほうにも目を向けてみましょう。

 まずは、ハワイ方面。

 前回述べたように、ハワイ王国と大日本帝国の合邦が既定路線となったことで、日本からハワイへの契約移民(のちには私的移民)が増大しました。

 もっとも、当時のハワイ王国では「仕事を中途で辞めることが法的に認められていなかった(通称「主人と召使法」のこと)」ので、その実態は人身売買に近いものであったのも事実です。

 それゆえ、日本人移民は激しく雇い主に抵抗し、度々大規模なストライキを行いました。

 さすがは百姓一揆のお国柄です。

 そうした状況が大きく変化するのは、白人農場主らが画策した王制打倒クーデターの失敗と、その翌年に成立したハワイ王国と大日本帝国との正式な合邦です。

 これにより、それまで絶大な権力者であった白人富豪はその政治的発言力を大きく削られ、代わって新天地を求めて日本から渡ってきた旧幕臣たちが、日本人移民らの社会的リーダーとして影響力を発揮するようなっていきます。

 先に述べた法律が改正方向に動くのも、概ねそのあたりの出来事です。

 これら旧幕臣たちのほとんどは、有能でありながら薩長の牛耳る明治政府の中に相応な居場所が与えられなかった者たちであり、その中でも榎本武揚の功績は特筆すべきものでした。

 かつて蝦夷共和党の総裁を務めた人物でもある彼は、ハワイ人、日本人移民、さらには白人資本家らがそれぞれ抱えるしこりの解消に粘り強く取り組みます。

 そして、遂には1891年に東京で亡くなったカラカウア王の跡を継いだリリウオカラニ女王の信任を得て、日本の生まれでありながらその側近となり、さまざまな旧弊を熱意をもって廃しつつ、当時の合衆国大統領で親日派として知られるセオドア=ルーズベルトから「第一級の改革者」と評されるほどの活躍を見せていきます。

 その進歩的で開明的な改革は、貴族的な特権を失い社会的地位の低下した白人富豪たちにさえ評価され、ハワイ人の中には自分の子供に「エノモト」と名付ける者さえ現れる始末でした。

 榎本としては、蝦夷共和国で見た夢を改めて実現化する敗者復活戦であったのかも知れません。

 そんなハワイの状況を半ばイライラしつつ眺めていた東京の日本政府でしたが、だからといって(政府の意向とは無関係な)榎本らの改革に口出しすることもなく、状況はしばらく「一国二制度」とも言えるものとなっていきます(この状況が解消され始めるのは、大正帝の即位後となります)。

 なぜか?

 東京の日本政府としては、それ以外にやらねばならない事柄が山積みであったからです。

 国内の制度改革はもちろんのこと、今後の国家戦略的にも、日本政府は「大陸への進出」に関する姿勢をはっきりさせておく必要がありました。

 わかりやすい部分で言うなら、いわゆる「征韓論」に対する是非になるでしょうか。

 清を宗主国と崇め、冊封体制に耽溺したまま事大主義を続ける李氏朝鮮に対し、実力をもって独立させるか、はたまた李氏朝鮮内の改革派を支援(驚くべきことに清帝国による協力も期待されていました)して自ら独立への道を選ばせるか。

 どちらも政治的には一長一短で、政府内での議論は長引いたことでしょう。

 こうした日本側の対外姿勢ですが、本作では、おおむね史実どおりの進展を見せたものとします。

 というのも、地政学的な視点で見て「朝鮮半島の独立」は日本にとって必須の国防条件であり、朝鮮半島が大陸国家(この場合は、清帝国)の支配下であり続けることは、極めて由々しき事態であったからです。

 日本という国は、その政治制度の如何に関わらず、朝鮮半島を支配する「大陸国家」の強い影響を排除することができません。

 幸いなことに、過去の中華王朝(元を除く)は朝鮮半島についてほとんど無関心でいてくれたので大きな問題とはなり得ませんでしたが、今後もそうでいてくれるという保証はどこにもありません。

 ましてや、幕末時に一度は対馬を占領したロシアのような膨張主義国家が朝鮮半島を支配すれば、日本は直接的にその脅威を受け止める羽目になります。

 事実、侵略的傾向の強い蒙古に支配された高麗は、元の対日侵攻において重要な後方拠点となっています。

 日本としては、大陸勢力からの防衛ラインを朝鮮半島に置くことで、本土そのものを守るという基本姿勢を考えていました。

 少なくとも、この頃の「日本陸軍」が言う「外征」とは朝鮮半島への出征を意味していたわけです。

 これが史実では(併合の結果、朝鮮半島が「本土」となってしまったため)、本来の防衛ライン=朝鮮半島を守る防衛ラインとして満州/シベリアに、そして、その防衛ラインを守る防衛ラインを守る防衛ラインを中国大陸にまで求めて無秩序な遠征を繰り返すというわけのわからない行動で国力をすり減らし、やがて防衛ラインを守る防衛ラインを守る防衛ラインを構築する行動を続けるために米英と戦端を開いて滅亡への一里塚を踏み越えていったのです。

 まあそんなわけですから、いかにハワイと合邦したとはいえ、日本帝国が朝鮮半島を無視して海洋国家を目指すというルートは、架空戦記といえど無茶が過ぎます。

 ましてや、国としては末期的だった当時の李氏朝鮮が、明治維新ばりの自己変革を行うなど、もはやファンタジーの世界です。

 だからこそ、コチラの世界の日本もまた、実力を用いて李氏朝鮮を独立国とする道を選ぶ──いや、選ばざるを得なくなるわけです。

 無論、独立国とは言いつつも、その政治体制は日本のコントロール下にあってもらわなければなりません。

 言葉遊びの類ですが、日本が朝鮮に求めたのは「属国」という関係ではなく「保護国」といった立場なのでしょう。

 そして、そんな朝鮮半島の帰属を巡って新興の日本帝国と年老いた清帝国が激突するのは、歴史の必然と言っても良かったでしょう。

 せっかく独立させたものの、その内実が旧宗主国と旧属国の関係のままでは困るのです。

 それゆえに、日本としては、朝鮮半島に対する清帝国の影響力排除は文字どおり必須条件のひとつでした。

 こうした流れに従って、コチラの世界でも史実どおりの出来事と史実どおりの外交交渉を経て、日本と清とは戦争状態に突入します。

 日清戦争の勃発です。

 戦争の経緯に関しては、これまた史実どおりに進んだものと設定します。

 政治が軍事を統率する挙国一致体制の日本と比べ、政治と軍事(そして外交すらも)がてんでバラバラという清帝国のシステムが大幅に変わらない限り、その戦争遂行能力が向上したとは思えないからです。

 かくして、東学党の乱をきっかけに朝鮮半島へ出兵した日清両軍は、日本軍による朝鮮王宮の占拠(と朝鮮王の身柄確保)を経て遂に激突。

 平壌攻略戦と黄海海戦に日本側が勝利したことで、軍事的には「勝負あった」状態となります。

 これは、両国における戦争目的の違いが戦争の推移に強い影響を及ぼした結果によります。

 どういうことかと言いますと、日本側が「清帝国に自国の要求を呑ませること」という明確な政治的目標を定めていた一方、清側は「属国である李氏朝鮮に対する自国の面子を守るため」という、どちらかと言えば曖昧模糊とした目的意識で戦っていたということです。

 このため清帝国は「自国領内に引きずり込んでから包囲戦を仕掛ける」という軍事的に正しい道を選ぶことができず(朝鮮半島から撤退すれば宗主国としての沽券に関わるという政治的判断があったからです)、不利な体制のままで平壌を防衛=李氏朝鮮への影響力をなんとか維持しようと目論んだ挙げ句、主力軍も朝鮮半島の支配権もどちらも失う羽目に陥ったわけです。

 まさに「二兎を追う者一兎をも得ず」を地で行く戦争指導でした。

 そのうえ、黄海海戦によって制海権を失ったことで海路による増援派遣の道が断たれた清帝国軍(と清国政府)は、日本軍が無防備な海岸線にいつ上陸してくるか怯える状況にすら追い込まれました。

 そしてこの後、日本軍が遼東半島を制圧し、艦隊根拠地である山東半島・威海衛要塞を陥落(これにより、清国海軍は壊滅状態となる)させたことで清政府は明確に敗北を認め、1895年4月の下関条約締結へと繋がっていくことになります。

 この下関条約によって、日本帝国は清帝国より朝鮮半島の政治的独立と多額の軍事賠償金に加えて遼東半島の割譲という国家利益を受けたわけですが、最後の領土割譲の件に関してだけは、教科書にも載っている仏独露によるいわゆる「三国干渉」によってなかったものとされてしまいます。

 そして、そんな日本を嘲笑うがごとく。ロシア帝国は清帝国より、日本が手放したばかりの遼東半島を租借することに成功します。

 この流れを汲むまでもなく、不凍港を求めるロシア帝国の南下政策は、あまりに露骨なものでした。

 同国とイギリスとが「グレートゲーム」と呼ばれる政治的・軍事的駆け引きを続けていたのは、決して理由が無いわけではなかったのです。

 地政学的に言うと、ロシアとイギリスの対立は「ハートランド」と「リムランド」の対立であり、「ランドパワー」と「シーパワー」の対立、「大陸国家」と「海洋国家」の対立でありました。

 七つの海を支配することで莫大な権益を支えてきたイギリスとしては、ユーラシア大陸の内陸部、つまり「ハートランド」に位置するロシアがユーラシア大陸の外縁部、すなわち「リムランド」に向けて膨張してくる事態は是が非でも避けねばならない事柄でした。

 ことにインドと満州におけるそれは、イギリスの保有する権益と真っ向から衝突する結果を招きます。

 ことここに至り、イギリスは旗色を鮮明にします。

 それはロシアと日本とが軍事的に対立した際、明確に日本の側に立つという宣言です。

 そうしたイギリスの決断は、日本にとって渡りに船の出来事でした。

 というのも、日清戦争の勝利で確定した朝鮮半島の独立(と内政改革)が、三国干渉で日本の威信が失墜したことをきっかけに不安定化。

 遂には親露派によるクーデターを引き起こし、朝鮮王(後の大韓皇帝)があろうことかロシアの公館にて政治を行うという、前代未聞の状況を発生させてしまったからであります。

 この事件は、日本主導による朝鮮の保護国化が完全に挫折したという事実にほかなりません。

 そして日本は、改めて大陸国家、この場合はロシア帝国との戦争を覚悟する必要に迫られたのです。

 「眠れる獅子」とは呼ばれていても列強とは異なる国家であった清帝国と異なり、ロシア帝国は紛れもない欧州列強の最強格です。

 とてもではありませんが、大日本帝国が単独で戦って敵う相手ではありません。

 そんな日本から見て、世界に冠たる大英帝国からの助けは、どれだけ力強かったことでしょう。

 1902年1月、日英同盟締結。

 この条約が対ロシア用のそれであることを疑う者はいませんでした。

 遡ること1900年に清帝国で勃発した「義和団の乱」において、義和団とそれに同調した清帝国軍とに包囲された北京を救出するため列強各国は軍を派遣しましたが、ロシア帝国はその気に乗じて満州全体を軍事占領。

 列国と清政府との間で取り決められた撤兵の期限を完全に無視して、満州占領の既成事実化を図ろうとしていました。

 もはや開戦は不可避というこの状況。

 1904年2月の日露国交断絶と宣戦の布告をもって、いわゆる「日露戦争」が始まるわけです。

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