歴史改編:南北戦争後の国際状況
さて、南部連合の独立承認(+南北戦争停戦の仲介)を行ったことでイギリス(と、それにそそのかされたフランス)はアメリカ合衆国と極めて険悪な状況に突入しました。
もっとも、両者が険悪なのは米英戦争(いや、独立戦争からですな)からずっとのことなので「いまさら」と言えなくもないのですが、それでもイギリスにとっては外交戦略を再考するのに十分すぎる現実です。
それにしても、架空戦記で歴史改編する時、イギリスの視点で俯瞰して見る作者が少ないのはなぜなんでしょう?
少なくとも、18世紀の終わりから19世紀の初頭にかけて、世界を牛耳っていたのは間違いなく大英帝国だと思うんですけどねぇ。
このあたりは、ビクトリーゲームズ/ホビージャパンが発売していた「パックスブリタニカ」というシミュレーションゲームをプレイすればよくわかります。
世界の第2位+第3位を越える圧倒的海軍力を背景に好き勝手帝国主義していたのが、この当時のブリテンです。
綺麗事(を口にするのだけは)大好きなくせに必要とあればド汚い遣り口も躊躇わないという、現在の米帝など足下にも及ばない史上最大の極悪国家が、この当時のブリテンです。
連中のやらかしがなければ、20世紀の国境紛争の大半は発生してなかったでしょう(とは、言い過ぎか)
で、話を戻しますと、そんな彼らがまず考えたのは自国の一部(自治領)である「カナダ」の防衛です。
これは議会がそれを否決したとはいえ、合衆国政府がロシア政府からアラスカ領土の購入を目論んだことで強く後押しされました。
イギリスは「合衆国からカナダの背後を守るため」、ただそれだけの理由でロシア皇帝からアラスカ領土を購入します。
当然ながら、後々この地に石油が吹き出すなんてのは、まったく予定外の出来事です。
後日、合衆国は歯ぎしりして悔しがったのですが、それはまた別の話。
兎にも角にも、アラスカの購入(+カナダへの併合)によってカナダの安全が確保されたため、地政学的に合衆国を南北から締め付ける態勢が整いました。
南北から、ということは当然、イギリスの対米戦略には南部連合もきっちり組み込まれています。
南部連合から綿花を輸入し、それを加工した製品を世界中に売りさばくことは、産業革命時におけるイギリスの基本政策に近いので、南部連合との密接な戦略関係はイギリス自身の国益にも適うからです。
イギリスが南部連合の独立承認を行ったのは、決して「合衆国憎し」(だけ)が理由ではありません。
自国の工業製品、その原材料産出地の確保という大きな理由があったからなのです。
「南北戦争」の勃発理由が、北部の保護貿易と南部の自由貿易との対立であることを忘れてはなりません。
合衆国というライバル工業国の脚を引っ張りつつ、自国の国益に適う原材料産出国を支援する。
もちろん、そういった関係は南部連合にも大きな利益をもたらします。
軍事的政治的な後ろ盾になってくれるのみならず、有力で信頼の置ける最大貿易相手国になってさえくれるのですから。
例えは悪いのですが、現在の日米関係に近いかもしれません。
こういう目立たないスキのなさこそが、ブリテン外交の真骨頂なんですね(史実ではコケましたが)。
で、そんな彼らが次に目論んだのは「合衆国の太平洋進出阻止」です。
国策として西へ西へと進んできた合衆国が、太平洋を越え、アジア方面に進出してくるのは、イギリスにとって面白い状況ではありません。
そこで彼らはその手段として、合衆国によるハワイ領有を阻止する動きに出ます。
ハワイを手に入れなければ、合衆国はアジア太平洋方面に大規模な商船団を送り込めません。
ゲーム的な表現でよければ「連絡線が設定できない」ということです。
定期的な商船航路の維持は、少数の軍艦や捕鯨船団の派遣とはわけが違うのです。
合衆国が悪辣な手段を用いてまでハワイの領有化を企んだのは、それが戦略的に是非とも必要な一手だったからなんですね。
それほど重要なハワイという島。
ここでイギリス自身がハワイ王国を保護国化できれば一番だったはずです。
ですが困ったことに、大英帝国にとってハワイの価値は、あまり魅力的ではありませんでした。
というより、ほとんど無価値と言っていいでしょう。
ハワイの価値とは、ひと言で言うなら「太平洋のど真ん中にある良港」であることに尽きます。
つまり、北米大陸からアジアに至る商船航路の一大拠点になり得る、ということです。
この地理的要件は、アメリカ合衆国には極めて重要なものでありますが、大英帝国(というより欧州列強)にとっては、ほとんど「どうでもいいこと」に成り下がります。
なぜなら、欧州からアジアに至る海上交通路は、太平洋上を通過しないからです。
世界地図をイギリス中心に眺めてください。
西はカナダ+南部連合、東は中国という大英帝国の権益エリアにとって、重要なのは北大西洋と地中海(+スエズ運河)、そしてインド洋だというのがわかるでしょう。
それは、イギリスのみの話ではありません。
欧州列強のすべてにとって「そうなんだ」って感じの話なのです。
ということは、この「戦略的に旨味のない島」を他の欧州列強に押し付けることもできそうにありません。
これは困った。
そう思って世界地図に目をやったイギリスが見付けたのが、アジアの新興国である「大日本帝国」でした。
合衆国からの露骨な干渉に怯えていたハワイ王国が、同じ有色人種である日本人に保護を求めたのを知らないブリテンではありません。
史実の明治政府は、来日したハワイ王・カラカウア直々の申し出──カイウラニ王女と山階宮定麿王(後の東伏見宮依仁親王)との縁組を断ったわけですが、こちらの世界では「合衆国の封じ込め」という戦略的目的からイギリスが非公式にその成立を後押しします。
史実の日本がハワイ王からの提案を辞退したのは、合衆国からの反発を恐れたからです。
ですがこちらの世界線では、合衆国と対立する大英帝国がその縁談(+合邦提案)を非公式に、かつあからさまに「推奨」してきます。
イギリスにとって、大日本帝国というのは絶妙な規模の国家なんです。
たとえハワイを領有化したところで北米大陸への軍事的脅威となりうるほどの大国ではなく、かといって合衆国が南部連合と二正面戦争を目論めるほどの小国でもない。
イギリスが「番犬」として飼うには最適と言っていい国家だったんですね。
日本としては、ハワイとの合邦は国力的にかなり厳しい。
その一方で、イギリスからの「推奨」を無視することもできません。
なんといっても、人類史上最大の版図を持つ「日の沈まぬ帝国」です。
国際的な地位を少しでも上げたい、そしてそのための強力な後ろ盾が欲しいと懸命に努力している新興国・日本が、世界最強国家の意向を受け入れないわけありません。
将来の同盟関係も匂わせつつ「推奨」の履行を求めるイギリスに対し、日本もまた最上級中の最上級たる外交カードを切ってきます。
カイウラニ王女の縁談相手に、あろうことか明治帝の三男である明宮嘉仁親王(のちの大正帝)を推してきたのです。
保守的だった元老の多くはこれに反対しましたが、開明派であり国際派であった伊藤博文に説得された明治帝が、これを「強く主張」したからです。
同君連合。
日本の「天皇」が同時に「ハワイ王(布哇王)」となり、「ハワイ王(布哇王)」が同時に日本の「天皇」となる政治制度。
日本の歴史上、初めて経験する政治制度です。
ただこれは、欧州ではときおり目にする制度でして、独立王国同士が合邦する際には、よく用いられる手段とも言えました。
有名どころでは「オーストリア=ハンガリー帝国」ですね。
合邦された領国の、どちらが上でどちらが下という関係でなく、双方が共に同じ君主を頂く制度。
イギリスがインド帝国成立時にやったような軍事力を背景とした合邦でないその遣り口は、政治的穏健派である伊藤の面目躍如といったところでしょう。
もっとも伊藤としては、合衆国と大英帝国のどちらの国策に乗るのが得か、という冷徹な読みが働いただけの至極当然な選択であったのかもしれません。
維新の嵐を潜り抜けてきた人物は伊達ではないのです。
加えて、ハワイ王家が天皇家と直接縁戚関係となれば、謀略で政府転覆を謀る白人系移民に対する威嚇とメッセージにもなりうる、とまで計算していても不思議ではなかったでしょう。
国際社会で八方美人は褒め言葉になりません。
生き馬の目を抜く帝国主義の時代、旗色を鮮明にしない中立国は「潜在的な敵国」とみなされるのが普通だったからです。
もっともその卓越した読みは、後年、一部で当たり、一部で外れるという皮肉な結果を招くのですが……
ちなみに彼の死後、伝統的保守派の巻き返しにより「布哇王」の称号は日本の皇太子が名乗るもの、つまり「今上天皇より下位」の称号として皇室典範に定められます。
それが適用されるのは次の皇太子・裕仁親王(後の昭和帝)からとなるのですが、それはまた別の話ということで。
さらに話は逸れますが、1891年、ハワイでプランテーションを経営していた白人富豪による王制打倒(+合衆国併合)クーデターが勃発しますが、日本人移民を中心とした王国側義勇兵の活躍により鎮圧されています。
この時、王国側義勇兵を最前線で指揮していたのは、蝦夷共和国を脱出し遠路ハワイに潜伏していた元新撰組副長・土方歳三であったと伝えられています。
この一件は、ハワイの白人社会を弱体化させ、ハワイ人をより一層日本側に押しやる結果になりました。
合衆国にとって、随分と高く付いた謀と言えるでしょう。
閑話休題。
何はともあれ、日本との合邦によって、ハワイは合衆国の手の届かない場所へ行ってしまいました。
軍事的侵攻を選択すればまた別の話なのでしょうが、そうなれば最悪、イギリスをバックに持つ大日本帝国との全面戦争を覚悟しなくてはなりません。
ただでさえ南部連合という軍事的脅威を抱えている合衆国にとって、それはできない相談です。
同様の理由から、史実で発生した「米西戦争」が、こちらの世界線では発生しません。
合衆国のイエロージャーナリズムはスペインによるキューバでの残酷な統治を非難するより南部連合で成立した「黒人取締り法」を(さまざまな捏造込みで)指弾したほうがずっと売り上げが伸びたため、連中に煽られなかった世論は戦争突入への盛り上がりに欠けたのです。
さらに言うと、史実では西部への拡張およびインディアンとの大規模交戦の終了が合衆国陸軍の職務を減少させたために、軍の指導陣が新しい職務を望んだことが開戦動機のひとつとなっていますが、こちらの世界線では南部連合の存在が「合衆国陸軍の職務を減少させない」ので、ここでもスペインと戦争する理由が消滅してしまっています。
やったことはと言えば、「第二次キューバ独立戦争」に合衆国が「ラフライダーズ(指揮官・セオドア=ルーズベルト)」と呼ばれる義勇兵を派遣して宣戦布告なき軍事介入を実施、キューバの独立を支援(報酬としてプエルト=リコを租借)したことぐらいでしょうか。
これはフロリダ沖に南部連合への圧力拠点を確保して同国への戦略的優位性を獲得することが目的であったために連邦議会では賛成多数で可決されましたが、ここに至ってなおスペイン帝国との開戦自体は否決され、フィリピンとグアムはWW2の頃までスペインの植民地として残ることになります。
仮に開戦してフィリピンとグアムを獲得できても、ハワイが手中にない以上、これらを長期間維持するのは難しかったでしょう。
その気になれば可能だったはずの米西戦争が回避されたのは、そういった戦略的判断が下された結果とも言えそうです。
しかしながら、南部連合はこれに激怒します。
自国の目と鼻の先で停戦中の敵国(あえてそう書きます)が積極的な軍事行動を採ったのですから、それもまた当然のことです。
イギリスからの経済支援を受けて急速に国力を増していた南部連合は、これに対抗するため中南米およびカリブ海諸国に政治的影響力を行使し、これらとの関係を次々に深めていきます。
なんとしてでも、キューバの二の前は避けなくてはなりません。
中南米およびカリブ海諸国が合衆国側に付いてしまえば、地政学的に南部連合は戦略包囲されてしまいます。
そして、南部連合の地道な努力は、間を置かずきっちりと実を結びました。
その証明とも言えるのが、合衆国がパナマ運河建設を断念したことです。
彼の国は建設予算も議会の承認も通過させる腹づもりでいたのですが、パナマ地峡を支配するコロンビア共和国どころかパナマ独立を目指す地元運動家の協力(合衆国は、必要とあれば謀略によってパナマ地峡部分を独立させるつもりだったのです)も得られず、計画は初動から頓挫してしまったのでした。
結果として世界は、大西洋と太平洋を繋ぐ最短ルートを失うことと相成りました。
ではパナマ運河が無いことで欧州列強は困らないのでしょうか?
先にも述べましたが「大して困らない」が現実でした。
パナマ運河の利用割合は、コチラの世界であっても、アメリカ六割、日本二割、その他二割という内訳になります。
西洋と東洋を最短距離で結ぶスエズ運河とは、国際運河としての格が違うんですよね。
とはいえ、数字が物語っているように合衆国にとっては極めて重要なのがパナマ運河です。
軍事面だけで言っても、大西洋艦隊と太平洋艦隊を別々に編成しなければいけない合衆国海軍にとって、所属艦艇を最短距離でやりとりできるかできないかというのは、半ば死活問題的な面もあります。
無論、パナマ運河の幅によって艦艇設計の制限を受けないというメリットはありますが、それほどの巨艦を建造できるのはずっとあとになってからの話ですんで、それよりも艦隊の戦略的運用性へのデメリットのほうが圧倒的に大きかったでしょう。
それがないということは、合衆国海軍の両面作戦(太平洋&大西洋)に重い足枷が付いたのと同様な意味合いを持ちます。
太平洋と大西洋に別々の艦隊を編成しなくてはいけないようなものだからです。
その足枷は、後に「両洋艦隊法」が成立するまで、合衆国海軍を苦しめることになるわけです。
さてここで、歴史改編された部分を箇条書きでまとめてみましょう。
・アメリカ連合国の成立
・アラスカのカナダ併合
・大日本帝国とハワイ王国の合邦
・米西戦争発生せず
上記の流れによってアメリカ合衆国は北米大陸内に意識を集中させ、強固な「モンロー主義」に基づいた国家戦略に縛られて行くことになります。