禁足へのサイレン
念のため。
サイレンと言ってはいますが、あの有名なホラーゲームとは全く無関係です。
――今でもたまに、夢をみる。
むせ返るような熱気と、セミの声。そして黒い人影がどこかへ走っていく光景。
彼らは口々に何か叫んでいるようだが、うまく聞こえない。いつの間にか、セミの声もかき消されていた。
黒い、黒い、山の穴。
黒くて同じ、山の色。
黒く染まれば撃たれない。
黒く染まれば怖くない。
だから、だからーー。
怖くなって、人影を追った。その先に何があるのか、確かめる余裕もなかった。
でも誰かに止められて、行けなかった。
誰だろう。このままじゃ逃げられないじゃないか、と振り向こうとしたところで、目が覚めた。
――あれは誰だったのだろう。彼らは、どこへ行ったのだろう。
「ばいばーい!」
「また明日ね!」
手を振って、沙穂はヒグラシの声が響く赤い光の中を歩き出す。
畑や田んぼの点在する住宅地のど真ん中は、立ち上る陽炎が静かに揺れているばかり。まだあまり慣れない帰り道、隣の男子の存在は頼もしくも落ち着かない。
沙穂の視線はアスファルトの影法師から動くことはなかった。歩くたび、隣の彼の寝癖が跳ねている。
「帰り道はもうわかるようになったか?」
彼は日に焼けた顔で、淡々と聞いてきた。
沙穂が小さく「一応」と返すと、「そうか」の一言で黙ってしまう。
――ああ、気不味いな……。
沙穂はこの朔弥という少年が少し苦手だった。
この田舎の村で数少ない同年代の子と運良く打ち解けることができた……と思っていた矢先、顔を合わせたこの朔弥とだけはなかなか慣れることができないでいた。
家が隣のため、自然と帰りは一緒になるのだが、お互い口数が少なくずっと黙り込んでいる。
やがて、隣で跳ねていた寝癖が止まった。
あれ、と顔を上げると、そこは見慣れてきた四つ辻で、朔弥が早々に店じまいしている駄菓子屋を指差した。
「俺、ここまでだから」
「うん……今日も待つの?」
「そう」
素っ気なく沙穂を置いて歩き出す後ろ姿に、少し迷いながら口を開いた。
「でも、その、そこの山は危険だから入っちゃいけないんでしょ? そんなところで待つのは危ないんじゃ……」
その駄菓子屋は、黒山に向かう道のすぐ側だった。
こちらに振り向いた朔弥の奥、沈みつつある夕陽の影で黒々とした山はじっと二人を見下ろしている。それを見るとなんだか、今にも吸い込まれそうな気さえしてくるのだ。
あんな鬱蒼とした山なら熊が出てもおかしくない。
「入らなきゃ平気」
朔弥はそう言って、特に気にすることもなく駄菓子屋の前のベンチに座った。そこでいつも彼は婦人会から帰ってくる祖母を待つのだと言う。
何故だろう。彼の祖母は、迷子とは無縁そうなキビキビとした老婦人だし、そもそも婦人会はいつも遊ぶ公園の近くにあるのだ。わざわざここで待つ必要はない。
しばらく見ていたら、彼は手を振った。バイバイ、ということだ。
置いて帰るのも気が引けるのだが、沙穂はいつもここで後ろ髪をひかれつつも歩き出す。
――ああ、全く、落ち着かない。
だって、背中に朔弥の視線を感じるのだ。だからといって振り向けば、彼はまた手を振る。それこそ「早く帰れ」と言わんばかりのしかめ面で。
彼が一体何を考えているのか、沙穂には全くわからなかった。
「沙穂ちゃん、今日もでかけるの?」
ある日、毎朝慌ただしく家を出ているはずの叔母さんがそう言って沙穂の借りている部屋にきた。
珍しいことだ。今日は時間に余裕があるのか、と思ったのも束の間、やはり急いでいるのか早口で喋り出す。
「今日はサイレンが鳴ると思うけど、何もないから気にしないでね。あと、今日は寄り道しないこと。暗くなる前にまっすぐ帰っておいで」
「? はい」
腑に落ちないまでもはっきり頷いた沙穂に、叔母さんは少し笑って、それからハッとした顔でカバンを漁る。
「あーっしまった! お弁当お弁当……!」
ドタバタと階下に降り、家を出ていく音を聞きながら、少し考える。
サイレンが鳴る、ということは避難訓練だろうか。学校行事でやらされるが、今は夏休みだから違うだろうし、昨日も皆そんな予定があるなんて言ってなかった。かといって、大人が避難訓練をするなんて話も聞いたことがない。
「……変わってる」
誰もいない家でそう呟き、沙穂は自分の弁当を持って公園に向かった。
高鬼、鬼ごっこ、サッカーに、暑くて疲れたらだるまさんが転んだ。そして、お昼には近くに住む子の家で持ってきた弁当を食べる。
生来、人見知りの沙穂がこうして遊びに行くなんてあまり経験がない。それだけにこうした時間は新鮮だった。
だから、完全に叔母さんの言葉を忘れていた。
『ウウウゥゥゥゥゥゥ――』
沙穂はその予期せぬ鼓膜の振動に固まり、卵焼きを落としたが拾うことができなかった。
――この音……テレビで聞いたことある。
少なくとも、沙穂の学校の避難訓練のものとは違う。不安を掻き立てるだけでない、ゾワゾワと背筋がざわつくような音だ。
野球の試合開始にこんな音が鳴るらしいが、この村にそんな大それた球場はないはずだ。テレビも付いてないし、どこから流れてくるのだろう。
頭の中でうわんうわんと唸り、沙穂はおかしくなりそうだった。
「あーもう、うるせーな」
皆、うんざりとした顔で耳を塞いでいる。サイレンのことはやはり知っていたらしい。
それが鳴っていたのはほんの数分のことだったが、沙穂には延々となっていたように思えた。止んでからも耳に残っている感覚がして気持ち悪い。
「……なんか、すごい長かったね」
「そうだな。でもどうしようもない」
「?」
まじまじと隣でトマトをつまんでいた朔弥を見る。彼は耳をさすりながらも、なんでもないような顔で言った。
「あれ、勝手に流れるから」
「え……」
真夏だというのに空気が凍った気がして、沙穂はそれ以上何も聞けず冷たい卵焼きを拾った。
沙穂はそれからどこか気もそぞろで、それは自分でもわかっていたし、皆もわかったのだろう。今日は早くに解散することになった。
「さっちゃん、今日は待つ?」
そう聞かれて、朔弥の様子を見る。皆にとって、彼が村に来たばかりの沙穂のお目付け役になっていたのだ。
朔弥は忘れ物でもしたのか、お昼を食べた近所の家の子に何か話して一緒に歩いて行く。
――道なら覚えたし、明るいうちに帰るよう言われてるし……何より今日はもう早く帰りたい。
「ううん。今日は一人で帰ってみるよ」
「そう……? 気をつけてね」
その子は一瞬心配そうな顔をしたが、笑顔で手を振った。
沙穂も手を振り、早速赤い西日の中を歩き出した。
二人で帰る時はよく足元の影法師を見ていたため、注意深く目印の標識やお店を確認しながら歩く。そうしていると、余計なことを考えなくてよかった。
四つ辻に辿り着きさえすれば、あとは一人でも慣れたものだ。
いつもの癖で駄菓子屋に目を向ける。当然ながらベンチに朔弥の姿はなく、代わりにヒグラシが張り付いて元気に鳴いている。
本当に、彼がいなくてよかった。ずっと黙っていたら、あまりの気不味さにあのサイレンについて聞いてしまいそうだったから。
あの音はすごく嫌な感じがして、正直あまり思い出したくない。
――だってあの音、まるで……。
『ブツッ』
その時辺りに響いた音は、放送がかかる前の接続音だった。何事かと考える間もなく、それが鳴り出す。
『ウウウゥゥゥゥゥゥ――』
あの音だ。
一回だけではないのか。しかも、お昼の時より音が近く、たちまちヒグラシの声がかき消されていく。思わず耳を抑えて周りを見ると、近くの電柱にスピーカーが付いていた。そこから流れてくるのだ。
――こんな中で今日もおばあさん待つのかな……。
どう考えても、今日はやめた方が良い気がする。
そうこうするうちにまた音がうねるように頭の中を這いずり回り、背筋がざわざわと粟立つのを感じた。
――早く帰ろう。
しかし、家路に向かって動かしたその視界の中、何かが蠢いたような気がして身体が固まってしまった。
「人……?」
沙穂の視線が向かったのは、山だった。
まだ明るいとはいえ山に入る道は真っ黒な穴のようで、相変わらず吸い込まれそうな錯覚と酷い音が相まって眩暈がする。
それでも目を凝らすと、小さな影がいくつもふらふらと、その山の穴に向かうのがわかった。
子供だろうか。あそこに入ってはいけないということを知らないのか、あるいは怖いもの見たさか……それとも、このサイレンに驚き逃げようとしているのか。
いずれにしろ止めなければ、と思った。
しかし不幸にも、その影とは距離がある上、この頭の中を引っ掻き回すけたたましい音だ。声を張り上げても聞こえないのは火を見るより明らか。
――山に入らなければ、大丈夫だよね……?
声が聞こえそうなところまでで良い。少しだけ近づこう、と沙穂は黒山に向かって踏み出した。
――その瞬間、一切の音が止んだ。
黒い、黒い、山の穴。
黒くて同じ、山の色。
黒く染まれば撃たれない。
黒く染まれば怖くない。
だから、だからーー。
「ダメだ行くな!」
ハッとした沙穂は、元来た道へと顔を向ける。
耳を塞いでいてもわかった。その声は朔弥だ。彼が走ってくる。
途端にヒグラシの声が戻り、黒かった景色が鮮烈な西陽に色付けられていく。
「何してるんだよ! 山に入るなって言われただろ!」
「え、あ……」
朔弥との付き合いは短いが、それでも見たことのないくらいに眦を吊り上げている。
これは、そこまで怒らせるようなことだろうか。
疑問に思いながらも沙穂は何も言葉にできず、縋るように視線を山に向けた。
「え?」
しかし、そこには何の影ももう見えなかった。
訳がわからない、という顔の沙穂に、朔弥は何故か苦しそうな顔をして、それでも沙穂の腕を掴んで歩き出す。
「帰るぞ」
「あ、あの……」
もしかしたら、彼らはもう山に入って行ってしまったのかもしれない。すぐに探しに行かないと、熊に襲われでもしたら大変だ。
沙穂は必死に声を振り絞って伝える。それでも朔弥は腕を引っ張り続けていたし、その足はどんどん早くなっていく一方だった。
「やめとけ」
「な、なんで」
「……俺が来た時、サイレンなんて鳴ってなかったからだ」
そんなはずはない。あんなにうるさかったのに。
「で、でも、昼に聞いたのと同じ……まるで」
そう、あの音はまるで……。
「空襲警報、みたいな音が」
四つ辻から離れて住宅地に入ると、やっと朔弥の足が遅くなった。しかし、彼が振り向くことはない。
「ばあちゃんは、こんな田舎の村に空襲なんて来ないと思ってたらしい。たくさんの人が山に逃げ込んで、自分も逃げようとしたけど誰かに止められて、山に入った人は誰も帰って来なかったって……あの山はそれを覚えてて、毎年同じ日に、ああやって人を呼ぶ」
黒い、黒い、山の穴。
黒くて同じ、山の色。
黒く染まれば撃たれない。
黒く染まれば怖くない。
だから、だからーーはようこっちおいで。
「呼んでどうするのか、誰も知らない」
沙穂は叔母さんに見たことを話したが、結局その日、山に入った人はいなかったという。
「……ふうん」
朔弥は興味ないようにそう言って、今日もまたあのベンチへ向かう。沙穂が小さく手を振れば振り返し、また沙穂が四つ辻から離れるまで監視するのだ。
でも、それでもやっぱり、沙穂は彼が苦手だ。
誰も彼も吸い込みそうな黒々とした山を前に、まるで何事もなかったかのように佇む彼は、何を考えているのだろう。
――本当は、誰を待っているの?