ファンタジーへの道
勇者には常に死の恐怖が伴います。
いつ誰を殺すかわからない。
いつ誰に殺されるかかわからない。
本当に勇者になりたいですか?
僕はただ、勇者になりたかった。
悪しき魔物を打ち砕き、この世に愛と平和をもたらす。それが出来るのは僕しかいない――はずなのに。
僕はどうしてこんな場所にいるのだろうか。
つるりとした白いタイルの床に人工灯の煌々とした光が反射している。清潔なシーツの施されたベッドに座り、僕は染み一つない天井をぼんやりと眺めている。二畳ほどの狭い独房に収容されて既に二週間以上たっていた。
決して難しい課題ではない。最終試験とは名ばかりで、これまでの過酷な試練に比べれば遥かに簡単だ。
ただ唯一の苦痛は、この空間に僕を勇者と証明出来るものが何もないことである。
例えばここが薄暗い地下牢や錆びた鉄格子の中であれば、魂を奮い起たせることもできよう。悪漢に捕らわれ理不尽な仕打ちを受けているのであれば、なんとか脱出を試みるはずである。
しかし僕は自ら望んでこの部屋に入り、こうして退屈な時間を食い潰しているのである。鍵こそかかっているものの、扉の外の試験官に申し出ればいつでも外に出られるのだ。
勿論それは『棄権』を意味する。
僕の精神力を甘く見て貰っては困る。この程度のことで今までの血の滲む努力を無駄には出来ない。
何としても勇者にならなくては。
僕は勇者になるんだ。
絶対に、なってみせる。
平穏な時の浪費に脳が馴れてしまわぬよう自分に言い聞かせた。ここで堕落しては勇者失格なのだ。
――なぜそうまでして勇者になりたいんだ。
――なぜそうまでして悪と闘いたいんだ。
――今君がしていることは本当に価値のあることなのか。
――そもそも勇者とはなんだ。
――君は結局何がしたいんだ。
永遠のように続く退屈という最終試験は、僕の熱意と希望を少しずつ確実に鎮火させていった。
「時間だ」
ドアの外から固く強張った試験官の声が聞こえた。久しぶりの自分以外の人の声だった。あまりに突然のことで一瞬耳を疑ったが、幻聴ではない。
終わった。
終わったんだ。
夢にまで見た勇者の称号が、現実のものとなったのだ。
僕は天にも昇る感情の高ぶりを圧し殺し、静かに立ち上がった。ドアの中央の小窓が空き、警備員のような制服の一部が見えた。
「両手を出しなさい」
ゆっくりとドアに近づき、言われるがまま手を外に差し出した。
手首に金属が触り、細やかなロック音が皮膚を締め付けた。手錠で繋がれた両手を戻すと、ようやくドアが解錠された。
五人の男に促され、僕は独房を後にした。
エレベーターで階を下る最中、抑えきれぬ興奮と両手を拘束された不審から右脇の男に声をかけた。
「あの、これからどこへ」
「喋るな」
男の淡白で絶対的な表情に、僕は恐怖を抱き始めていた。
エレベーターに階数表示がなかったため、どこに到着したのかはわからない。独房のあった階と同様、そこには窓のない長い廊下が続いていた。
豪華な観音開きの向こう、赤絨毯の広い部屋に通された。7、8人の御偉方と線香の臭いが仰々しく僕を出迎えてくれた。更には二名の医師と高僧までいる。
そのうちの一人、責任者らしき男が一枚の証書を掲げている。
これで勇者になれる。
そう確信した僕の眼に、部屋の隅に置かれた祭壇が映った。
「死刑執行指揮書……拘置所にて刑の執行を命ず。平成二十……」
――死刑。
そう聞こえた。
どういうことだ。これも試験のうちなのか。
下らない。勇者になるならば命さえ犠牲にする覚悟が必要、ということだろう。
「最後に言い残すことは」
僕は勇者だ。たとえ地獄の業火に身を焼かれ絶望の縁に立たされようとも、命尽きるまで闘い続ける。死など恐るるに足らず。
その勇敢な精神に反し、僕の膝関節は大袈裟に痙攣していた。全身の皮膚の裏側が、寒くて堪らない。
僕は、本当に死ぬのか。 腰の抜けかけていた僕を支え、男達は着々と執行準備を進めていた。枷錠は後ろ手にかけ直され、頭には布頭巾を被せられた。
視界を遮られた途端、僕は己の死を実感した。
死ぬ。
僕は死ぬんだ。
まさか、こんな終わり方はないよ。
せめてお姫様の胸に抱かれて、かっこよく死にたかった。
生暖かい男の手の感触を両肩に感じ、促されるままゆっくりと足を動かした。
一歩、一歩。
足許の感覚を確かめるように。
心の中の僕は既に冷静さを失い暴れ回っているが、身体が言うことをきかない。
僕の足が止まり、向きを変えられた。
そして、頭巾の上から太い縄がゆわえられた。首に軽く食い込み、左耳の裏には固い結び目が当たっている。
足許の床が開けば――
――僕は死ぬんだ。
「では始めよう」
僕はまだ、冒険にすら出てない。
倒すべき魔物にも出会ってない。
こんなのただの無駄死にじゃないか。
こんな場所で死にたくない。
こんな死に方は嫌だ。
死にたくない。
僕はまだ死にたくない。
僕は勇者になる覚悟など、できていなかった。