2 飛行少年 語る
「あら、雪香ちゃん、お帰んなさい」
「え?」
あたしは驚いてしまった。
何故かって、そりゃ、ただいまと言って帰った我が家の居間で、全然知らないおばさんが、一人くつろいでお茶すすってたら、誰だって驚くはずだ。
「こんにちは」
とりあえず挨拶はしたが。
誰だったっけ。知ってる人だったか?
「あら雪香、帰ったの?」
お茶菓子を抱えて台所から出てきたのは正真正銘あたしの母親である。
「た、ただいま」
取り敢えずあたしは言った。
「はい、おかえんなさい。今日は、テストは?」
「ない」
「この間やったテストはどうだった?」
「もうすぐ結果出るよ。いつもと同じだよ」
お茶すすってたおばさんは、にこにこ笑いながらあたしを見てる。
「まあ、雪香ちゃんてご近所でも評判の頑張り屋さんだものねえ。中学、高校と、今まで一番しかとったことないっていうじゃない? すごいわねえ。うちの息子もこのぐらい勉強すりゃいいのに」
またか。
「奥さん、やっぱりねえ、生まれつきの天才なんて、いませんわよ。うちの雪香だって、小学校の頃は全然普通の子と変わりなかったんですもの。
今はこの子、すごく努力してましてね。勉強しろなんて言わなくてもいいんですよ。
お宅の息子さんだって、遅くないですわ。今からでも頑張るように言ってみてはいかが?」
「そうかしら。うちの息子でも大丈夫かしら。ちょっと頑張らせてみようかしらねえ」
オバさん連中は下らない話題に盛り上がっている。
あたしは静かにその場を離れて二階へと上がった。
階段を登ってても下らない話は延々と続いている。あんな話で盛り上がってて何が楽しいんだか。
うちの母親は、ああしてよく人を連れてきてはあたしのことを話す。
一番とったからって、それがどうだって言うんだろう。
あたしはただしなきゃいけないことをやってるだけなのに。
そうしなきゃ、怒られるからやってただけだったのに。
怒られるのは嫌だった。
だから怒られないですむ方法を選んだにすぎない。
本当に、ただそれだけのことだった。
「大人って、わかんないなぁ」
部屋に入ってさっさと着替えると、あたしは机に向かう。
数学の課題があったのだ。
明日提出なのでとっととやってしまわねば。
参考書を広げて、あたしは数式を解きはじめた。
途中、下からオバさん連中の笑い声が聞こえてきていたが、やがて気にならなくなった。
晩ご飯やらお風呂やらで、結局課題を終えたのはもう九時を少し過ぎていた。
「あーあ」
あたしは大あくびをしながら体を後へと反らせた。
「あ」
思い出した。
和美に、この課題明日までだって教えてない。
かばんの中には入れたけど、和美が中を見ているとは思えない。
あの時言おうと思っていたのに、すっかり忘れてた。
どうしよう。
しばし考え。
「――今から行ってくるか」
居間の両親に行き先を告げて、つっかけのままあたしは外に出た。
和美の家はあたしん家から二件隣。
ちょっと走って玄関のチャイムを鳴らす。
「ごめんくださぁーい」
「はぁーい」
少し間延びした声が奥から響いて、ぱたぱたとスリッパの音が近づいてくる。
和美の母さんが出てきた。
「あら雪香ちゃん、どうしたの?」
「こんばんわ、おばさん、和美いる?」
「いると思うわ、ちょっと待ってて。呼んでくるから」
ぱたぱたとおばさんは階段を上っていった。
和美は一人っ子なので、結構甘やかされて育った。
あたしも一人っ子なのと、あたしと和美の母さんが友達だったのとで、ずっと一緒に育ってきたけど、このおばさんが怒鳴ったところは見たことがない。
こんなお母さんに育てられると、和美みたいな脳天気な子供が育つんだろうか。
おばさんが降りてきた。
少し困ったような顔をしている。
どうしたんだろ。
「雪香ちゃん、和美お部屋にいないのよ。どこ行ったか知らない?」
一瞬の間。
和美がいると思ってここにきたのに、ここにいなきゃどこにいるかなんてわかるわけないだろうが、などと思いながら。
「ああ――じゃあ、そのへん探してみます。別にそんな急ぐわけでもないから」
嘘だけど、とり繕った。
「あら、そう? ごめんなさいねえ。じゃあ、見つけたら早く帰ってくるように言ってちょうだい」
のほほんとした笑みは、和美に似ている。
そうか。
和美の脳天気は遺伝だったのか。
なら、怒るのも少し酷か。
「はい、おじゃましましたあ」
お辞儀してから、和美んちをあとにする。
息子がいないのにも気づかないで鍵をかけてるなんて、ほんとのほほんな家だ。
「さて、どこにいこうか」
月はまんまるにでらでらと光ってる。
妙にくっきりした影をたどって、あたしは、うちの通りの一つ角を曲がった向いにある公園に向かった。
こんな夜中にふらっといくとこなんて、公園ぐらいしかないだろう。
公園といったって大したこともない。
お子様用の砂場と滑り台にブランコ、鉄棒にジャングルジム。
ついでのような外灯とベンチがたった一個の、そんなちんけな公園に、アベックがわざわざ来るわけもない。
昼間はそれでもお子様が結構いるけれど、さすがに夜中の九時過ぎに遊んでる非常識なのはいなかった。
さて、和美はどこにいるんだろう。
ぐるりと見回して、あたしはジャングルジムの上に探している姿を見つけた。
「か――」
呼ぶのを、あたしはなぜかためらった。
鉄パイプでできたでっかい鳥篭のように見えるジャングルジムの上で、和美は微動だにしない。
和美は、空を見ていた。
ただ、空を見ていた。
それは空を恋う、鳥のようにも思えた。
「――和美」
声をかけても気づかない。
「和美!」
「え?」
二回目で、和美は気づいた。
こっちを向いて、あたしを見つけると笑いかける。
「どうしたんだよ、きっか」
いつもと変わらないのほほんとした笑み。
今日はなぜか、それが腹立たしく見える。
たたっと走り寄って、あたしは和美を見上げた。
「どうしたんだよ、じゃないだろーが、このバカもの! 夜遊びすんのは宿題終えてからにしろ!
数学の課題あったの言うの忘れてたんだ。リュックの中に入ってる。早く帰ってやれよ。わかんないなら手伝ってやるから」
くすくすと、和美が笑う。
「わざわざ言いにきたのか」
むか。
何がおかしいんだよ。
そんな仕草がまた腹立たしくて、
「おりろ、馬鹿!」
「ぉわっ!!」
あたしは和美の足を掴んで引っ張った。
和美はバランスを崩してジャングルジムから落っこちた。
「――ひどいな、きっか」
とっさにバランスを保ったんで、和美は不様に転がったりはしなかった。
それでも、着地するときについてしまったジーンズの膝は、しっかり汚れてしまってた。立ち上がりざま、ぱたぱたと膝を払うが、汚れは落ちなかった。
「あーあ、とれない」
少し困った声。
自業自得だ。
あたしは、ふてくされたままそっぽ向いてた。
和美はそんなあたしを見て、ひょいっと覗き込むように背をかがめてあたしの視界に入ってきた。
「この頃きっか、怒ってばっかだな。何が気に入らないのさ」
「和美があたしを怒らせるんだ」
すかさず言うと、和美は困ったように眉根をよせた。
「別に、怒らせようと思ってるわけじゃないよ」
「当たり前だ。わざとやってんならひっぱたいてる」
「こわいな」
すっと体を起こして、和美はまた笑った。
月明かりで、細い体がくっきりしてる。
和美は背は高いけど、どうしてもひょろひょろしたイメージがある。
大体顔がやさしそうだから、軟弱に見えるのに、その上かなり細いから普通の男とは何となく違うように見えてしまう。
Tシャツの袖からのびた腕は、すごく細くて、
「和美、お前何食って生きてるわけ?」
ついついどうでもいいのに聞いてしまってた。
「生きてくのに必要なだけ」
こともなげに和美は答える。
あたしは顔をしかめた。
「今に栄養失調になるぞ」
今度は和美が顔をしかめた。
「だって好きじゃない」
?
「何が」
「食べること」
一瞬の沈黙。
「――」
どうも、和美はあたしら一般人とは違うような気がする。
食べ物の好き嫌いじゃなくて、食べること自体に好き嫌いってあるのか!?
あたしが奇妙な顔をすると、和美は付け足すようにいった。
「きっかさあ、考えたことない?
異物が、自分の体の中に入ってくるんだぜ。それで自分と混ざっちゃうの、気持ち悪いと思わないのか」
「い、異物!?」
な、なんちゅう表現をするんだ、こいつわっ。
もっと上品に『食べ物』と言え。
あたしは和美の『異物』、という言葉に一瞬グロいものを想像してしまって、背筋に悪寒が走ってしまった。
混ざるって言葉もすごい。
確かに、『消化する』って、聞こえはいいけど、ぶっちゃけていえば混ざるのと同じようなものなんだろう――(ホントか??)。
「じゃあ、和美は腹へんないのか」
「へるよ」
さらりとした答え。
「へるけどさ、目の前にご飯とかあると、そーゆーこと思い出しちゃって、吐きそうになって、あんま食えなくなる」
――わからんっ!!
あたしは目眩がしそうな感覚に襲われた。
食べることってのは、生きるために必要不可欠なもんなんだぞ。
気持ち悪いなんぞいってる場合かっ!?
今も戦争やってる国のみなさんが聞いたら、お前のことぶっとばすぞ。
「食いたくても食えない奴だっているんだぞ。贅沢なこと言うんじゃない」
「それと同じように、食いたくなくても食わなきゃいけない奴の気持ちは、考えられない?」
「――!?」
鋭く、和美は言った。
「だってさ、確かにここは裕福だけど、それは別に悪いことじゃないだろ?
そうなるように、みんな少なからず努力したんだから。
同じように俺が食べたくないから食べないのは、悪いこととは思わない。
俺はただ食べられる状況に生まれついただけで、それが悪いって言うんなら、俺は生きるのでさえ許されないってことになる。
他の奴だってそうだ。それを言うのは欺瞞だよ。
俺に言わせりゃ、食べられない状況のほうが羨ましい。食べなくたって文句言われないからな」
「――和美の言ってるのはヘ理屈だ」
曖昧に、和美は笑った。
食べられる者が食べないのは、当然なんて思えない。
そんなのは贅沢だ。
食べられるということは幸せなことなのに、ちゃんと生きていけるということはすごいことなのに、簡単にはできないことなのに、それを当然というのはすごくずるい。
そう、思う。
和美は傲慢だと、あたしは思った。
それでも。
不意に頭をかすめる別の思考。
でも、そう思うことのほうが傲慢だとしたら――?
「――」
どちらがより罪深いのだろうか。
生き永らえることに貪欲であることと、死に絶えることに強欲であることとは。
両者から見て、その反対の思考は、傲慢であるとしか思えないだろう。
どちらの価値観が正しいのかなんて、誰にも決められない。
生きることに、どれほどの意味がある?
そう聞かれたら、答えられない。
生まれて、こうして生きているからには、何かしら意味があるはずだと、みんな思っているけれど、そうじゃなかったらどうなるんだろう。
生きることは、実は何の意味もなくて、生きることこそが苦痛で、不自由で、不幸せなことだとだれもが思っているなら。
そういう世の中だったら――ああいかん、思考がぐちゃぐちゃになる。
「――」
あたしは強く頭を振った。
それまでの考えを全部頭から追い出して。
「帰る」
短く言ってもと来た道を歩きだした。
「送ってくよ」
和美が追いついて隣に並ぶ。
「いらない」
「女の子の夜歩きは危ないんだぞ」
だったら探させるような真似するなってんだ。
言葉には出さずにそう思った。
「――和美、数学のプリント、明日までだからな」
「うん……」
気のない返事が返ってくる。
多分、和美は戻ってもプリントをやらないだろう。
まんまるのお月さまが照らす夜道。
そのままずっと和美は無言で、あたしは、隣にいるのにやっぱり和美がものすごく遠かった。