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冬夜の巫  作者: 真鴨子規
第一章 星と羽翼
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星と羽翼 8

 冬樫市の北と東には、山から海へと流れる一級河川――『不金川ふがねがわ』が存在する。

 川は北西から市街に入り、北部を横断したあと、ブーメランのように湾曲して南東方面へと流れ出ていく。地図で見ると、その川が隣接市との境界に使われていることが分かる。

 川幅は二キロを超える。徒歩で渡ることなど当然できないため、いくつかの橋を使って行き来することになる。その関係上、橋の周辺はそれなりに栄えており、河川敷の運動公園があったり、釣り堀が開かれていたりする。

 俺が今到着したのは、川沿いでありながらも、そういった人気スポットとは真逆の場所である。橋と橋のちょうど中間、一般の人間はまず訪れないだろう、冬樫の下水処理場前だ。

 学校の校舎よりも一回り巨大な、鉄骨や鉄塔が剥き出しになった工場は、どこか怪獣じみて見える。小さい頃、遠くから眺めては冒険心を煽られたあの建物が、小学校の社会科見学で下水処理場であると紹介されたときには、ある種の夢が壊されたような印象を受けたものだった。

 この一帯を管轄とする下水処理場は、休日の今日も当然稼働している。漏れ出る電灯の光は要塞のようで、物々しい雰囲気がある。日が暮れてから見に来たのは、これが初めてだったように思うが、今でも少し怖い。

 こんな場所へ、来る予定などなかった。

 帰路を外れ、倉庫群の間を縫うように抜けた先、下水処理場の全貌を視認できる開けた空間。その向こう側の不金川と併走する車道は静かで、街灯もほとんどない。下水処理場の明かりだけに照らされた、不気味な光景に身がすくむ。例の事件の噂がなくとも、近寄りたいとは思えない場所だ。

 なぜこんな場所へ来たのだと、後悔の念に駆られていた。

 でも、どうしても、来なくてはならないと思ったのも事実だ。

 あのとき目の前を横切ったあの子は、左腕を庇うようにしていて。どう見ても――怪我をしていた様子だったから。

 数瞬見えた服装は、夜に紛れる黒装束。恐らく学校制服のブレザーにスカート、それから黒いタイツだったろう。それを身に纏った女の子も、体格からして中学生か高校生くらいだったはずだ。

 ただ、俺の通う高校や、俺の通った中学の制服ではなかった。近隣の他校にしても、あそこまで真っ黒な冬服ではなかったと記憶している。遠くの学校へ通っている人なのか、それとも全く別の町からやってきた人なのか。前者ならまだしも、後者ならば問題だ。

 件の傷害事件は、あくまでローカルな話題なのだ。全国ニュースに出てくる気配は未だなく、だから外部の人間が知らなくても無理はない。

 人気のない夜を、女子が一人で出歩くことなど、そもそも言語道断かも知れないが。今この時期、この町で、その危険度は倍どころでは済まされない。

 まして、既に怪我を負っているというのなら、なおのこと――。

「……いない」

 下水処理場の全貌が視界に入るほど開けたこの場所に来ても。それまでの道のりで、脇道の死角も見逃すまいと、注意を払っていても。あの女の子を見つけることはできなかった。

 少しだけ息が上がっている。風のように走っていたあの子を追いかけて、俺もかなり懸命に走ったのだ。

 体温が上がって、けれど寒気は増すばかりだ。心臓が高鳴るのは、走ったからというだけではあるまい。さらに明度を失う夜、見えない恐怖を煽る古びた倉庫群。そして、あの事件の噂。

 結局のところ、あの傷害事件はなんなのか。

 まるで獣に襲われたかのような痕跡。

 けれど、警察や猟友会が虱潰しに捜索しても、痕跡らしい痕跡を一切見つけられなかった。

 そんなことがあり得るのだろうか?

 自分の足跡を消して歩く獣などいるのだろうか。そんなこと、誰かが人為的に隠してでもいなければ、あり得ないのではないだろうか?

 誰かが、何らかの目的で、獰猛な肉食獣を放し飼いにし、人を襲わせているのだ、と。そう考えても、目的なんて皆目見当が付かない。気の狂った犯罪者の仕業だと、そんな風にしか言いようがなかった。合理的な理由なんて、何も思い浮かばなかった。

 だから、もし。

 もしも、それが。

 正体不明。

 本当に、人の手によるものではないのだとしたら。

 ぞわりと、全身が震え上がるのを感じた。肌があわ立ち、意図せず奥歯がガチガチと鳴る。

 こんな妄想は、ずっと前に卒業したはずだ。

 夜に一人でトイレに行くときとか。曰くありげな廃病院、人目に付かない墓所や、枝垂れる柳を見たときとか。おぞましいピエロの仮面を目にしたときとか。そういうときに子どもは、目に見えない、ありもしない、非現実な何モノかを幻視する。

 人の気配一つない、夜に沈んだ無機質な迷路。

 何か良くないモノが巣くう異世界に、迷い込んでしまったかのような錯覚。

 冷たい風に乗って届く、微かな音、微かな気配。その一つ一つを感じる度に、息苦しさが増していく。

 今にも。そう、次の瞬間。

 背後から。見えない、えない影の向こう側から。

 恐ろしい化け物が、迫っているのではないかと。

 まるで首を絞められているように苦しい呼吸を続けながら。

 根拠のない予感がして。

 最悪の結末を夢想して。

 俺はゆっくりと、振り向いた。


「何者だ、貴様」

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