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冬夜の巫  作者: 真鴨子規
第一章 星と羽翼
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星と羽翼 6

 駅前から乗り込んだバスに揺られ、住み慣れた市街の、あまり見慣れない風景を眺めながら、俺は病院へと向かっていた。

 冬樫ふゆがし市は、人口およそ七万人の地方都市だ。中心都市と呼ぶには若干小振りな、しかしそこそこ賑やかな繁華街と居住区が共存する、ある意味バランスの良い市街地である。

 人口は年々首都圏に吸収されているものの、駅周りとその目前にある商店街の活気は、今なお損なわれることがない。二つ隣の中核都市で働く人々の居住区として、それなりの地位を得ているのではないかと思っている。

 住人の年齢層は、働き盛りの大人とその家族がメインで、昔ながらの旧家住まいの高齢者がそれに続いている。少子高齢化社会の煽りを受けてか、この近辺でも介護関係のトラブルをよく耳にするーーというか、介護従事者の母がたまに愚痴をこぼしている。一人暮らしの高齢者が増えているのだそうだ。

 そういう町で、冬樫市一の大病院『小此木総合病院』の存在は重要だった。大掛かりな手術などはそこでしかできないし、病床数も余所は微々たるものしかない。市内を巡るローカルバスも、駅とその小此木病院を中心にして動いている。俺が今乗っているのも、駅と病院を最短距離で繋ぐ路線のバスだ。

 幸いなことに、健康だけが取り柄みたいな俺である。病院の世話になる機会はあまりなく、だから小此木病院へと向かうバスにも馴染みがない。小学校の時分、入院したクラスメイトの見舞いに行ったのが最後だったと記憶している。認識の上では、地図に記されている以上に遠く感じる場所だ。

 一人でバスに乗り、慣れない場所へ行く。まるで冒険のようだーーなどと。五年くらい前ならば、そんな風にわくわくしたりもしたかも知れないが。高校生にもなった今ではとても、そんな気分にはなれなかった。

 そういえば、と思い出す。最後に病院に行ったとき、俺に付き添ってくれたのは、他ならぬ兄ーー誠一だったのだ。

 感傷に浸る余裕もなく、バスは病院前に到着した。

 待ち受けていたコンクリートの塊は、その閉鎖的な雰囲気も相まってか、巨大な要塞のような印象を与えてきた。曇天の下で乱立する、濁ったような白い壁。冬の乾燥した空気が、喉に詰まるような感覚があった。

 わざわざ時間を掛けてーーといっても一時間足らずだがーー到着した割に、用事は一瞬で済んでしまった。というか、予想通り門前払いされたのだ。

 野宮 誠一という患者はいないのだから、そもそも面会のしようがない。過去にそういう人間が入院してはいなかったか、などという質問に、答えがあるわけもない。患者のプライバシーを守ることもまた、彼らの仕事のうちなのだから。

 対応してくれた若い女性の事務員は、露骨でこそないものの、困った客が来たなという顔をしていた。休日の午後、しかもこんな忙しいときに、俺のような珍客の相手などしている暇がない、というのが本音なのだろう。

 そこに至ってようやく、俺も冷静さを取り戻してきた。仕事中の相手に時間を取らせるのも申し訳なくて、早々に病院を出ることになったのだ。

 こんな忙しいときに。

 誰もいないバス停に戻り、待合いスペースの木製ベンチに腰を下ろしてから、少しだけ見えた病院の中の様子を思い返す。

 普段がどの程度なのかは分からないが、なんだか慌ただしい空気だった。急ぎ足で行き来する看護師の姿がちらほらと見え、誰かの名前を呼ぶ切羽詰まった声がどこからか聞こえてきたりした。喧噪など御法度の静かな場所、という勝手なイメージからは、どこか外れているような気がした。

 最近は物騒だからな。

 昨日も、悠助とそんな話もした。最近は物騒なのだから、あまり遅くまで出歩くのは感心しないと、たしなめたのは俺の方だ。

 今朝のニュースではまた一人、『被害者』が出たらしい。

「野宮君?」

「ん?」

 突然名前を呼ばれ、俯き気味だった顔を持ち上げる。

 見上げた先には、整った眉を不機嫌そうにひそめた女性の、威圧的な視線があった。

「ああ、お疲れ様です、藤枝ふじえ先輩。ご無沙汰してます」

「こんにちは。相変わらず、応援団の鑑みたいな人ね」

 しかめっ面の藤枝 舞子まいこ先輩は、長い黒髪をかき上げつつ、ふわりと俺の隣に腰掛けた。

 クリーム色のダッフルコートにチェック柄の赤いマフラー、厚い紺色のロングスカート。制服と体育着、弓道着以外の服装を見るのは初めてで、藤枝先輩に間違いないと認識した後も、何度か顔を確認してしまった。着ている物が違うだけで、別人になったようにも思える。

 険しい表情から怖がる生徒も多いが、何度か話してみて、これがこの人の地顔なのだと分かった。風紀委員長という役職柄、厳しい言葉もよく飛び出るものの、それは真面目な気質ゆえだ。怒りっぽい訳でもないし、よくよく観察してみれば面倒見が良く、思い遣り深い気配りのできる人だ。

 男子生徒から学年問わず苦手がられる反面、女子生徒ーー殊に下級生からの人気が高い。初めて言葉を交わしたのも、女子テニス部の大会応援に行った先だった。俺たちのように大声で応援する姿は見なかったが、試合後に数人の選手たちに囲まれ、困ったような顔をしていたのを覚えている。

「塞ぎ込んでいるから、怪我でもしたのかと思ったわ。誰かのお見舞い?」

「ええ、まあ。先輩もですか?」

「そんなところ」

 流石に、兄の件まで話す気にはなれなかった。

 ぼかした俺の回答をどう受け取ったか、藤枝先輩もそれ以上、その話を続けることはなかった。

「小此木病院には、普段あまりこないんですけど。大病院ともなると、医療スタッフの方たちも忙しそうで、大変ですよね」

 先ほど垣間見た院内の様子を思い出しながら、軽い世間話のつもりで振ってみた、のだが。

「いつもは、もう少し静かなのよ」

 と。藤枝先輩からは、思いがけない答えが返ってきた。

「ここ最近ーー夏の終わりくらいかしらね。この病院にも、重傷患者がちょくちょく運び込まれるようになって、よく騒がしくなっているわ。ほら、例の傷害事件で」

 ああ、と。最近、この近隣で流れているニュースを思い浮かべながら頷く。

 例の傷害事件。いや、もう死傷事件と呼ぶべきか。

 この冬樫市を中心にして多発している、不可思議な事件のことだ。

 被害は主に深夜、人気のない野外で発生しているらしい。酷い外傷を受け、病院に運び込まれたという、それだけ聞けばなんらおかしなことはない。残念ながらこの時勢、そういった事件は珍しくもないのだ。意味もなく無差別に、意図的に誰かを傷つける犯罪者、殺人鬼というものは、時折現れるものだ。『むしゃくしゃしていたから』とかいう、理解の及ばない、けれど単純な理由によって。

 最近の例では、二年前の首切り大量殺人鬼の件だろう。名前は忘れたが、全国を渡り歩いて十人以上の首を切り落とした男の話は、未だに記憶に新しい。あの頃はこの国全体で、天災に怯えるかのごとく戦慄していた。

 でも今回は、そういう類の話ではない。

 今回の事件で奇妙なのは、その傷そのものだというのだ。

 ナイフだとか包丁だとか、あるいは拳銃だとか、そういう『人間の手によるもの』ではない。喰い千切られたような、抉り取られたようなーー要するに、ライオンやワニや鷲のように、鋭利な爪や牙を持った野生動物によって、付けられた傷なのだというのだ。

 動物による死傷者というものも、前代未聞なわけではないが。過去にあった熊や猿や猪を想定しての捜索は、今のところ成果を挙げていない。野生の動物が、人間の目をかいくぐり、既に二十人を超える被害者を出している。

 不気味と言えば、これ以上なく不気味だ。被害者は誰一人として、自分を傷つけた相手を覚えていないのだ。暗やみに紛れて突然襲われた、相手を視認する余裕もなかった。影や鳴き声から、何の動物かを推定することさえできない、と。

「学校でも、他人事みたいに流している人が大勢いるけど、貴方も気を付けてね。被害に遭ってからじゃ遅いのよ」

 確かに、と普段の学校の様子を思い返す。

 最初に注意喚起の連絡が流れた辺りでは、みんなざわざわと噂にして、普段よりは注意を払っていたように思うけれど。最近は特段、話題に上ることもなくなった。

 誰々のお父さんが大怪我をした、兄弟が入院した、というような話も時折あるのに。半年もすれば慣れてしまって、それさえ日常として受け入れてしまったのだろう。何事にも順応できる人間の性質は、長所とも短所とも言える。

 学校としても、毎月学校通信で注意を呼びかけているけれど。根も葉もないデマが飛び交って、パニックになるような状況は避けたかったはずだ。いつもの事なかれ主義に従って、今は様子見を決め込んでいるようだった。

 油断、気のゆるみ。そんな空気が、正しいとは思えないが。さりとて間違いだとも、俺には言えなかった。事故にしても、通り魔殺人にしても。気をつけていれば回避できることもあれば、どうしようもないこともあるのだ。

 とはいえ、それはそれとして。

「はい、気を付けます」

 首肯しながら、改めて悠助にも言っておかないと、と記憶した。最近忙しなく外出している悠助こそ、気を付けなければならないはずなのだから。

「その件で、ご親族が入院された、というわけではないのね?」

「はい、幸いにも」

 そう、そういうわけではない。

 入院している知り合いなんか、一人もいない。いなかったのだ。

 ただ。無関係なのかどうかは、俺にも分からないけれど。

「藤枝先輩は、その……」

 先輩はどうなんですか、と聞きかけたのだが。

 基本的に、相手やその身内の病状など、気軽に聞いて良いものではないのだ。

 さっきの先輩の質問は、俺を心配してのことだったろうからいいにしてもーーいや、俺だって心配はしているけれど、でも。

 その質問は、少し軽率だったように思った。

 先輩は数秒、言葉に詰まった俺を訝しげに見ていたが、すぐに「ああ」と察してくれたようで、

「私もその件で来た訳じゃないわ」

「それは良かった。ホッとしました」

「私は、弟のお見舞い。いつものことよ」

 藤枝先輩は、何気ない顔で、そう答えた。

 先輩の弟さんについて。俺も、噂だけは知っていたから。

「あの、すみません」

「謝らなくていいわ。そもそも、先に聞いたのは私だったんだから」

 ごめんなさいね、と。先輩は、少しだけ潜めた声で言った。

 気を遣わせてしまって、胸が詰まる思いだった。

 やはり、優しい先輩だ。真面目で、勉強もできて、おまけに美人で、胸もある。気難しそうな表情と取っつきの悪さが本当に惜しいけれど、風紀委員という役割にはぴったりだ。先生たちからの信頼が厚いのも頷ける。

「ともあれ、つまらない不注意で、病院の人の厄介にならないように。寒くなれば体調も崩しやすいし、来月には雪も降るでしょうから、凍結した路面で滑り転んで怪我したり」

「ああ、ええ、本当に」

 そして、男子生徒から苦手がられるのも頷ける。女子からしたら頼もしいお姉さんに見えるかも知れないが、男子視点だとまるでお母さんだ。なんだか常に叱られている感じもするし、素行の悪い生徒にとってはなおさらだろう。

「……それはそうと」

 他にもあれこれ注意を受けたあと。

 自分でも少し言い過ぎたと思ったのか、藤枝先輩は籠もり気味の声で、話を切り替えた。

「ねえ野宮君、貴方」

 その声が。突然、頭の中にすっと入ってくるような、鋭いものだったから。

 はっとして、俺は藤枝先輩の顔を凝視してしまう。

 藤枝先輩は、いつもの険しい表情のまま。厳格な雰囲気を助長する、真剣な眼差しをこちらに向けて。

「最近何か、おかしなことは起こっていない?」

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