表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冬夜の巫  作者: 真鴨子規
第二章 応援挽歌
61/61

応援挽歌 38


※S.E


 対面した一年――野宮の言葉を聞いているうち、昔のことを思い出した。

 高校三年、夏大会を控えた練習試合で。思わぬ接戦につい熱くなってしまって、心と身体が一致しない感覚に襲われていた。たかが練習試合、それでも負けるのは嫌だ。気持ちがはやって、フライの捕球時にフェンスに激突してしてしまい、肩を損傷した。

 チームメイトの反応は冷ややかだったが、俺も同感だった。こんな練習試合で、負けても構わない勝負で、一体何をやっているんだと。自分でも答えられず、言い返す言葉もない。ただ、言い知れない苛立ちが募るばかりだった。

 空回っている自覚はあった。

 口では馬鹿にしていたけれど、いつの間にか本気になっていた。暇さえあればバットを振っていた。あんなにも面倒な道具の手入れを怠らなかった。寝てもさめても、いかに勝つかということばかり考えていた。

 それでもどこかで、疎外感のようなものを感じていた。チームメイトたちとの間にある壁の存在は常にあった。その視線は気にくわなかったが、同時にそうあるべきだとも思っていた。誰より俺自身に、距離を詰めようという気持ちが芽生えることは、ついぞなかった。


 和知の存在は最後の決定打ではあったが、それですべてが終わったわけではなかった。最初から俺は、その場所に馴染もうという意志に欠けていた。もういなくなった誰かに背中を押され、前に進むことはできても。その先にあるものは、俺自身で手を伸ばし、つかみ取らなくてはならなかったのだ。


 それゆえの、当然の帰結。

 すべては過去。終わったこと。

 後悔はない。野球に打ち込んだ時間に、それを捨ててしまうことに、後悔はない。

 でも。

 でも、ああ――


 ただの練習試合なのに、特別に許しを得て応援に来て。

 そのうえ、禁じられていた声援を送って、こっぴどく叱られた一年生がいた。

 誰もが落胆の溜息と共に見送る中で、一人。練習試合を途中退場する俺に、声援を送った男が、確かに。


「格好良かったです、海老原先輩! お疲れさまでした!」


 そうだ。そんな一年坊が――いたんだったな。




「ハーイ。お元気? <ならず者ディーター>くん。いえ、もう海老原 鐘くん、と呼んでもいいのかしらね」

 学校から、離れた雑木林まで来て。歩き疲れて、木に背を預けていた俺に、そいつらはやってきた。

「……フリーデルか」

「あらまあ、うふふ。思ったよりは元気そうで安心したわ。名誉の負傷ご愁傷様。眉間に傷なんか作っちゃって、男前が上がったじゃない」

 傷口に障る笑い声に眉をひそめながら、フリーデルの背後を見る。

 向かって左後方に、別の女がいる。フリーデルとはまた違う、露出度の低い修道服。目深に被ったベールで顔のほとんどが覆われ、その容貌のほとんどが隠された女だった。確か、最初にフリーデルと顔を合わせたときにも、同じように控えていた。

 もう一人――その女の更に背後に、誰かいるようだったが。負傷のせいで視界がイカれたか、人影を認識するのが精一杯だった。

「何の用だ? ――俺は、負けた。もうてめぇらのゲームとやらに付き合う義理はねぇはずだ」

「そう。正式なゲームで決まった勝敗は絶対。たとえ五体満足でも、敗者がその後のゲームに関わることはできない。それは最初に説明したとおりだわ」

 フリーデルの表情に、少しの違和感があった。

 それはこれまでと同じく、妖艶に、軽薄に、あざ笑うような調子の笑みだったが。

 何か、違う。これまでとは更に異質な、迫るようなものが、あるような気がした。

「でも、ねえ。負けたから、もう手を出しません。って言って、納得してくれる人ばかりじゃないのよねぇ。もちろん私は、鐘君を信じているんだけど? でも、命令違反の前科があるのは事実だし。ちょっとズルをして、また勝手に干渉してくるんじゃないかって、疑われても仕方がない。そうよねぇ?」

 迂遠な物言いにイライラする。だが、それとは別に、脳の奥で警鐘が鳴る。

「何が、言いたい?」

「ううん。別にね、何かを言いに来たわけじゃないのね。というより、ほら――」

 暗がりに、ギラリと光る眼孔を見て――理解した。

 それは、加虐の色だ。獲物を追いつめ、悪戯にいたぶり殺す、捕食する側の目だ。

 俺は、狩られる側の動物として、危機感に苛まれていた。

「もう、用事は済んだから」

 ずるりと、両足が埋没した。

「……?!」

 両脚が、ずぶずぶと地面に吸い込まれていく。さっきまで普通の地面だった足下は真っ黒く染まり、底なし沼のように俺の脚を食らっていた。

「てめぇら、何しやがった……!?」

「安心してよ。別に殺す訳じゃないの。ただ、一足先に逝ってほしいだけ」

 恍惚としたフリーデルの笑い声に、呼応するかのように。黒い地面は徐々に版図を広げ、瞬く間に俺の下半身すべてを引きずり込んだ。

「でも、まあ――この世の何にも干渉できないって、死んでいるようなものかもしれないけどね?」

 もがく余力もなく――いや、俺が万全だとしても手遅れだった。気がつけば胸のあたりまで地面に浸かり、なおも沈み続けている。痛みはない、だが沈みきった身体の感覚が曖昧になっている。このまますべてが飲み込まれたら、どうなってしまうのか。それを思うと――

「怖い? ねえ、怖い?」

 フリーデルがしゃがみ込み、顔を近づけてくる。香水か何か、甘ったるい匂いが意識を酩酊させる。

「かわいそうな鐘君。ね、助けてあげましょうか? やめておねがいたすけてフリーデル様って、駄犬みたいにすがりついたら手を引いてあげるわ。ほら、ほら」

 小綺麗な手をひらつかせ、フリーデルは蕩けるような笑みで言った。

 助ける気なんかないのは明白だったが。それでも思わず助けを乞いたくなるような、どす黒い恐怖心が確かにあった。

 左半身が完全に沈む。残っているのは首から上と、右肩から先だけ。

「嘘だと思っているの? そんなことないわよ」

 俺の心を見透かしたように、フリーデルが甘ったるい声で話しかけてくる。

「私を敬うなら。私のためだけに生きるなら。私の奴隷になるのなら。ほら――助けてあげるわ。私のかわいいペットとして、永遠に飼ってあげるわ」

 悪魔のように暗い瞳で、ソレは微笑みを称えた。

「……フリーデル」

 声が震えていた。当然だろうと思った。力を入れる足も腹も、もうここにないのだから。

「うん、なあに? 鐘君」

 勝ち誇ったように、フリーデルは返答を促した。

 だから俺は食い気味に、答えを返してやった。

「くせぇんだよ、バーカ」

 最後に、歯軋りしながら激怒するフリーデルを見ながら、俺の意識は閉じていった。


 ああ、でも、本当に。お前が悪いんだぜ、フリーデル。

 お前があんなことを言わなければ。俺だって、黙って消えたってのに。


 お前もそう思うだろう?

 なあ、野宮――



※I.N


 右手がじんじんと痛かった。

 地面に放り出した手は、甲が赤く染まっていた。正直かなり辛かったが、起き上がるのも億劫だ。その心境を表すような空を、地面に寝転がったまま見つめていた。

 学校の敷地内、駐輪場のコンクリートの上だった。同じように倒れていた海老原先輩は、いつの間にかいなくなっていた。それでも、もう一度追い掛ける気にはならなかった。もう、言いたいことは済んだ。俺なりの、最後の応援は、先輩に届いたか、どうなのか。それは分からないが、そこから先はあずかり知らぬところだ。

 俺は精一杯叫んだ。それだけで、充分だ。

「一格」

 見上げると、一星がいた。少しだけ肩を上下させていたが、普段と違うのはそれくらいだ。どこも怪我していないし、疲労もさほどではない様子だった。

「救急車を手配した。気を失っている者たちは全員搬送されるだろうが、命に別状はないだろう」

 我妻さん、剣道部のみんな。職員室の先生たち。誰一人として、命を落とさなかった。

「生徒会長、光永 直紀。あれも疲労が濃かったが、問題はないそうだ。鬼贄たちに連絡し、事後処理にあたるそうだ。痕跡や証言が残ると、後々面倒だからな。――それから」

 それから。一星は俺の顔をじっと見つめて押し黙ってから、続ける。

「和知 悠助も無事だ」

 その言葉に、知らず顔がほころんだ。

「まあ、重傷ではあるが。命に別状はない。応急手当はしておいた。適切な治療を行えば、遠からず完治するだろう」

 よかった、と。全身の力が抜けるのを感じていた。

 あのとき、俺は海老原先輩を追い掛けることを選んだ。今を逃せば、俺の言いたいことを言う機会は永遠に来ないと、そんな気がしたから。

 でも、考えてみれば薄情な話だ。あの木龍を倒せたのは、ほとんどが悠助のおかげだ。その悠助が負傷していたというのに、一星にすべてを任せて先に行ってしまったのは、反省すべき点だと思った。

「悔やむことはない。お前は、その場その場で最善を尽くした。それが合理的でなかったとしても、誰に責める資格があるだろう」

 一星はそう言いながら、俺の近くまで歩いてきた。そして袴を抱え込むようにしゃがんで、俺に顔を近づけてくる。

「胸を張れよ、一格。お前は、未だ一般人の域を出ない身でありながら、大勢の人間の命を救った。そのあとで、多少のわがままを通すぐらい、認められてしかるべきだ」

 多少のわがまま、などと言ったら、悠助には怒られそうだが。それでも、一星にそう言ってもらえたのは嬉しかった。少し、意外ではあったが。

 自分の正しさなんて、自分では分からない。正しいつもりでも、間違っていることなんて、いくらでもあるし。自分に都合のいいことばかりに、目で追ってしまうのも、人間誰しもが持つ弱さだ。

 それでも、よかった。

 あれだけのことがあって、一人も死ななかった。それだけで、俺には充分だ。

「そうだ、一星」

 ポケットに入れたままだった勾玉を取り出した。今思えば、まず一星に渡してから、海老原先輩を追い掛けるべきだっただろう。まさか海老原先輩も、取り返そうとした勾玉を俺が持ったまま、追い掛けてきたとは思わなかったに違いない。

「これで二つ――いや、三つ目か。結果的に、お前に取り戻してもらってばかりだ、一格」

 ありがとう、と。

 一星はそう言いながら、八握剣の柄に勾玉を押し当てる。刀が一瞬光ったかと思えば、元々付いていた勾玉に並ぶように、二つ目の勾玉が連なった。

「……俺だけじゃ、何もできなかった」

「そんなもの、この場にいた誰しもがそうだ。一人で何ができるつもりだ、お前は」

 たわけ、と。一星は俺の額を小突いた。

 そうだ。そうだった。

 俺にできるのは、ただ応援すること。声に乗せて、俺の思いを伝えること。ただそれだけ。誰かの人生を変えるとか。誰かの支えになるとか。そんな大それたことはできない。

 今回もそうだ。俺は海老原先輩を止められなかったし、野球に戻ってもらうこともできなかった。思い出してほしかった、せめて後悔だけはしないでほしかった。でもきっと、何も変えることはできなかった。

 夢を諦めた人が、再び夢を追い掛けるようになる。それはきっととてつもない奇跡で、だから並大抵のことでは決して起こせない。

 俺の声援が、その助けとなれたなら。いつもそう強く願って、けれど上手くはいかない。俺は背中を押すことはできても、結局歩いて前に進むのは相手だから。歩くことを諦めてしまった相手を、立ち上がらせるだけの応援を、俺ができないから。

 海老原先輩に送ったのはきっと、挽歌。もう何も受け取ってくれない相手に手向ける、最後の応援――応援挽歌。寂しくて、切なくて、悲しくて。それでも俺たちは膝を折らない。折るわけにはいかない。この先で何人、何十人、何百人を、見送ることになろうとも。俺は決して諦めない。声援を送り続ける。今を頑張っている誰かを、一人にさせないように。

「一格」

 一星に呼ばれ、思考の渦から解放される。

 一星は俺に、手を差し伸べていた。

 その手は、体躯に合わせて小さく。しかし、日々の鍛錬のたまものか、皮が厚かった。

「いつまで転がっているつもりだ。その体たらくで、誰かの応援ができるのか」

「ああ、ありがとう」

 手を握って、身体を起こす。

 疲れたから、無力を突き付けられたから。そんな理由で倒れたままでいるなど、応援団にあるまじき行いだった。

 痛いほど握られた手を引かれ、立ち上がる。

 自力で立てることを確認し、そして海老原先輩が去って行った方を向いた。

 今回は、ダメだった。

 俺も、引き留めることはできなかった。

 でも、それで人間終わるわけじゃない。生きてさえいれば、その気さえあれば、何度だってやり直せる。――かわいそうなんかじゃない。そうして立ち上がることができたなら、人はいつだって輝けるんだから。

 いつかどこかで、何かを頑張っている先輩と出会えたならば。きっと煙たがられるだろうけど。それでもまた、応援したい。声の限り叫んで、目一杯手を振って。その目的、その夢の、一助となりたい。

 所詮は俺の都合、俺の勝手な嗜好だけれど。それでまた、怒られるかもしれないけれど。

 でも応援って、そういうものだ。心の中の応援も、無意味とは言わないけれど。腹の底から声を出して。歌や言葉に想いを乗せる。それこそが一番、相手に気持ちが伝わるんだと、俺は信じているんだから。

 次こそは、きっと。

 その想いを胸に、立礼する。

 次こそは、きっと。この声を、届けてみせる。



冬夜の巫 第二章『応援挽歌』 ―― 完 ――

 作中は初冬真っ只中だけれど、これを書いている現在は八月、甲子園の決勝戦が間近の頃合い。

 そこまで無敗で辿り着いた猛者達が相争い、死にもの狂いで優劣を競う。ある種、極限状態の地獄であり、限りある青春をくべて燃え上がる真夏の暖炉。それでも人々を魅了し、多くの注目を集める年に一度の催し。それが甲子園。

 それを応援する人たちは当然主役ではない。注目を浴びる舞台のセンターではない。

 ならばいなくてもいいのか? ただの応援団に、存在する必要性はないのか? あるいはコロナ禍において、無観客でも成立した過去の大会を思えばそうだったのかもしれない。

 けれど、あえて私は否と答える。

 人間の精神など脆いものだ、というのは前作夏夜の鬼でも誰かが言っていた。そして競技というものは成功と失敗が立て続けに起こるもの。いくら才能があっても、いくら練習を積み重ねても、何一つ失敗しない人間はいない。そしてその一つの失敗が、その脆い精神をぐちゃぐちゃにぶっ壊して再起不能にする。そう、いとも簡単に。

 爆音をぶち上げろ。喉を枯らし肺を潰し、想いを乗せて叫び続けろ。そうすることで、ほんの少し、泣きたくなるほどわずかに、崩れた精神を立て直し、グズグズになった心を支えることができる。それは欺瞞や空論ではない、事実として存在する力なのだから。

 現時点で、野宮 一格に戦う力はない。人形一体倒せないし、人一人の心を変えることもできなかった。けれど、一星の影に隠れて、バトルの解説だけしている卑怯者ではない。応援以外なにもできないからと言って、断じて無価値などではない。その胸には、誰より熱い想いが猛っているのだから。

 とは言え、いつまでも成果なしではいられない。というかいさせない。私の物語の主人公を張るのならば、それ相応の活躍をしてもらわなければ困る。主人公がただ無双する物語には食傷気味だし、無双する誰かに頼るばかりの主人公にもあくびが出る。私の描く、理想の主人公でいてくれなくては。

 目の前の理想へ向け、歯を食いしばって一歩進め。無様でも、みっともなくても、足掻いてわめいて、傲慢にも掴み取れ。最良の結果を、己にしか踏破できないその道を。

 次なる第三章は、きっとそんな話になるでしょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ