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冬夜の巫  作者: 真鴨子規
第二章 応援挽歌
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応援挽歌 37

 視線が交差し、最初に見たのは、驚愕に目を開く海老原先輩の姿だった。

 ざんばらな髪、荒い呼吸、血に濡れた腹部。例のモヤは、勝負が付いたところで晴れたようだが。その姿は、とてもあの海老原先輩だとは思えないほど、狼狽しきり、弱さをさらけ出していた。

「海老原先輩」

 呼吸を整えながら、意を決してその名前を呼んだ。

 振り向いた先輩の、見開かれた両目が物語る。一体全体、お前は何をしにきたのかと。

 それは、先輩を追いかけるここまでの道中で、散々自問自答した疑問だった。

 ゲームは終わった。俺たちの勝利によって。

 命は救われた。万全の一星が駆けつけてくれたことで、それはほぼ確定したことだ。

 勝敗も決した。今更、手負いの先輩がどう足掻いたところで、一星の相手にはならないだろう。

 であれば、なぜ。

 逃げる先輩を、なぜ俺は追いかけ、呼び止めたのか。

「調子乗ってんじゃねぇぞ、一年坊が」

 掠れた声で、しかし身体の芯を震わせるような威圧感で。先輩は唸る。

「ああ、まったく、てめぇには一杯食わされたがな。それで、俺を笑いにきたか? それとも説教でも垂れに来たか?」

「違います」

 拳に力を込め、全力で否定する。

「ただ、聞きたかっただけです。あのときの質問の答えを、もう一度……もう一度!」

「――――」

 先輩は、もう――

 野球に、戻らないんですか?

 そう、そうだ。俺が必死で追いかけてきた理由は、ただ一つ。今一度問いただすため。あのときの、あの質問を繰り返すために。

「それが、調子に乗ってるってんだよ、クソ野郎」

 喀血。

 先輩の負傷は深刻だった。きっと、普通に立って喋っていることが奇跡という段階の。

 こんな状況だからこそ、問いかけに来たのだろうと。臆病者のそしりを受けても、それは仕方のないことだ。

 それでも。それでも、俺は。

「戻るわけねぇだろ」

 覚悟していたその答えに、目の奥が痺れた。

「野球? は、くっだらねぇ。あんな球遊び、さっさと辞めて正解だった。部の連中だって、誰も惜しんじゃいねぇよ。どいつもこいつも変わらねぇ。俺は異物で、そこにいたこと自体が異常だった」

 血を吐きながらあざ笑って、ふらつきながら唾吐いて、そして先輩は言った。

「時間の無駄だったぜ、あんなもの」

「――!」

 それは、その言葉だけは。

 夏の空。降り注ぐ日差しと、漂う雲の白。荒々しく舞い上がる砂塵と、熱気を帯びて滴る汗。

 ただ遠巻きに見ていたその光景を、俺は。

 俺は――!

「ざっ――」

 胸のつっかえを踏み外し、喉のつまりを押し退け、歯を食いしばりながら駆け出して。

「けんな――!」

 拳を、その顔面に叩き込んだ。

 渾身だった。腰から打ち出すような殴打は、先輩の長躯を跳ね飛ばした。

 冗談かと思えるくらい地面を跳ねたあと、仰向けに倒れた先輩を、焦れる気持ちを抑えながら追う。

 整える先から息が上がる。落ち着こうと思う先から感情が溢れる。言葉を選ぼう、上手く喋ろう――そんな気持ちが、初冬の空に凍って砕けた。

「高校入って野球部入って、飽きもせず朝から晩まで打って捕って投げて走って打って捕って投げて走って……!」

 倒れ込むように膝を突く。顔を押さえ呻く先輩の胸ぐらを掴む。掴んだ右手は赤黒く、鈍い痛みも走ったが、気にする余裕は毛頭ない。

「やれる訳ないだろ! そんなしごきみたいな、自分苛めるみたいな、辛くて苦しくて重くて痛くて、泣きたくなるほど毎日毎日毎日毎日、逃げずにやってこられる訳ないだろ! 何となくでいい加減で、何度も追い掛けて何度も追い掛けられて、勝って負けて負けて負けて負けて……! 掴もうとしても届かなくて、それでも挑み続けるなんてことが! そんなことが! できる訳ないだろッ!」

 呼吸が乱れる。

 肺が痺れる。

 それでも言わずにはいられない。

 それでも黙って見過ごせない。

 一星の言うような、正義とか悪とか、そんな高尚な大儀の話では決してない。

 これは、この想いは――

「うるせえよ!」

 腹部で爆ぜるような衝撃が生まれ、そして今度は俺が吹っ飛ばされる。身体が宙に浮かんだのを、呆然と感じながら。直後、背中を襲った鋭い痛みに意識が飛びかける。

「何が! 言いてぇんだ、てめぇは!」

 眉間から血を流し、敵意に満ちた視線で、海老原先輩は睨み付けてくる。駆け寄ろうとして、でもできなくて、たたらを踏みながら近づいてくる。

 敵意、いや、この全身が粟立つような感覚は、きっと――殺意。

 ただ生きていくだけならば経験しない。常人ならば知らずに人生を終える。その命を、やむを得ずでも、不可抗力でもない、明確な意志で閉ざそうという、呪いにも似た決意。

 それでも、怯むわけにはいかない。

 震える脚に拳を叩き込みながら、ゆっくりと立ち上がる。

 これは、この想いだけは――殺されたって突き通す。

「一生懸命、やってきたんだろ! それを選んで、一度しかない青春をそこに賭けて、脇目も振らずに、本気で! 全力で! 戦ってきたんだろ!」

 頭を捕まれる。間髪入れずに頬を殴られ、そして迫る膝が額を打つ。

 視界がチカチカと明滅する。一瞬意識が白く染まる。嫌な感触がして、額に手をやる。指先は、赤く染まっていた。

「それ、を」

 ぐらつく頭を必死で押さえ、負けじと先輩に視線を返す。

 驚愕するような先輩の顔を、睨み返してやる。

「馬鹿に、するなよ。それを自分で、馬鹿にするなよ、なかったことになんてしようとするなよ。紛れもない本物だったはずじゃないか――目的が果たせなくたって、結果が伴わなくたって、夢が叶わなくたって!」

 また胸ぐらを掴むが、足がもつれて、その勢いのまま倒れ込む。もがく先輩を、逃がすまいと全力で押さえ込む。

「馬鹿にすんな、馬鹿にすんな、馬鹿にすんな! それまでずっと頑張ってきたことは、それだけは、絶対誰にも――自分にだって! 否定できるものじゃないだろうが!」

 視界が歪む。殴られたせいか、血が目に入ったのか、それとも俺は泣いているのか――わからない。そんなことはどうでもいいと吠えた。そうしなければならないと、心の底からあふれ出る気持ちそのままにぶちまけた。

「くだらねぇ」

 暴れながら、海老原先輩は吐き捨てる。

「ぺらぺらと知らねぇことをよ。応援しがいがないってか? 外野ごときが、一体何様のつもりだ。そんなもんは所詮、お前の都合でしかねぇだろうが!」

「当たり前だろ! 応援団は、応援したくて応援してるんだよ! 応援したい相手も応援したくない相手も、いて当然だろ!」

 誰もが、尊敬に足る人間なわけじゃない。誰だって楽な方がいい。頑張りたくないときも、サボりたいときもある。頑張りたくない人間を応援できるほど、俺だって博愛主義じゃない。

 だけど――

「だけど間違えるな! 俺は一度も、ただの一度だって、誰かを応援したことを悔いたことはない! 応援した相手が、負けて、それまでの歩みを悔やんで、全部諦めたとしても、それでも!」

 ぶちりと、頭の奥で何かが切れた。

 先輩の胸ぐらを掴んだまま、その両の手を全体重で押し込む。

「俺たちの目には焼き付いてるんだ、彼らが立ち向かっていた姿! 泥臭くても眩しくて、目を逸らしそうになって、それでも目を離せないほどの勇姿が!」

 俺は知っている。

 どんな壁にぶつかっても、悪路に脚をとられても。たとえ夢破れて終わると分かっていても、それでも諦めず立ち向かい、もがき苦しむ姿を。

 俺は、誰よりこの目で見続けてきたから。

「あんたこそ分かるのかよ――それを、無駄だとか、無意味だとか、そんな風に言われることが、どんなに悔しいか、どんなに悲しいか――あんたに分かるのかよッ!」

「黙れ――!」

 再び、身体が宙に浮いた。どうやってか投げ飛ばされたのだろうと思い至り、そしてすぐに相手を見る。意地でももう倒れない。始めたからには最後まで続けると、その矜持一つで、俺は両の足で着地し、大地を踏み締めた。

「てめえ、まさか――」

「俺の、理由は」

 額を拭うと、視界が開けた。

 破れそうなほどに肺を酷使して、それでも最後の言葉を絞り出す。

「俺がみんなを応援してたのは、みんなが格好良かったからだ。一生懸命な姿に憧れたからだ! たとえそれが報われなくても、何度も挫けて、そして諦めてしまったとしても。俺は決して、頑張っていた彼らを忘れない! 俺もまた、そんな彼らみたいになりたいって、ずっとずっと思ってたから――!」

 血が滲むほど握りしめた拳を右に、弾けるように駆け出す。

 先輩が身構える。でも関係ない。防がれようが、反撃されようが、そんなことはどうでもいい。

 俺が今まで、一度始めた応援を、途中でやめたことがないように。

 頑張ることを諦めた、頑張っていた自分を卑下した、そんな裏切りへの糾弾を、途中でやめることもない。

 それは、終わってしまった青春に送る、最後の声援。

 無意味で、無価値で。ただこの悔しさを、このやるせなさを、八つ当たりのように叫ぶんだ。

「みんなは――俺たちはぜったい、絶対、絶対に――」

 ノイズが走る。

 動かない心、ひしゃげる身体、その軋む不協和音が、そのまま口から漏れ出るように。

「かわいそうなんかじゃないッ!!!」

 絶叫と共に打ち出された、その拳は。再び、先輩の顔面に叩き込まれた。

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