応援挽歌 36
海老原 鐘が野球を始めたのは小学生のころで、中学の夏に一度離れている。そして本格的に復帰したのが高校二年の春。長いブランクこそあったが、恵まれた体格が助けとなり、すぐに同学年でも一線級の選手として成長した。
それまでは。
中学から高校一年までの彼について、記憶している者は多かった。それは決して好意的な思い出ではなく、畏怖と忌避、そして嫌悪に溢れたものだった。
年長者や教師には反抗的で、特に言葉選びの質は最悪だった。大きな喧嘩があったと思えば、当然のごとく彼がかかわっていた。彼自身怪我も多かったが、比較にならないほど、彼によって病院送りにされた人間は多かった。恵まれた体格も、スポーツではなく喧嘩に舵を切ってしまっては、単なる恐怖の対象だった。
高校に入学した段階で、彼はあらゆる大人からさじを投げられていた。反社会的な団体との関係性さえ噂され、確証無しにそれを信じる人間も多かった。いずれにせよ、いつかはその道へ行くのだろうと、誰もが盲信して――距離を置かれていった。
海老原自身、周りの大人は疎ましかったし。学友と言っても、特別親しい者はいなかったから。反発したのは中学の半ば頃までで、以降は自分からも、誰かに近寄ることもしなくなった。
どうして、中学で一度入った野球部を辞めたのか。彼を知る多くの者は、口を揃えて同じ答えを返す。
『暴力事件だってね』
相手は高校の不良グループだった。海老原にしてみれば面識のない、誰とも知らない有象無象だったが、相手にとってはそうでもなかったらしい。目立つ長身、目つきの悪さ、不遜な態度。偶然目についた海老原の振る舞いが、彼らにとって気に障ったという、実に些細な理由だった。
『ずいぶん暴れたらしいよ。高校生を五人も大けがさせて』
海老原にとって不運だったのが、その不良グループというのが資産家の子息たちで、体面上は優等生で通っていたという点だった。高校生複数と中学生一人という、明らかに偏った喧嘩だったのにもかかわらず、
『ああ、ほら。やっぱりね』
世間の目はあっさりと、海老原を悪者にした。
それからのことを、海老原はよく覚えていない。噂が噂を呼び、尾ひれ背びれがやたらとついて。海老原自身が何もしていなくとも、厄介ごとは際限なく呼び込まれた。
海老原のもう一つの不運は、彼自身が暴力に高い適性を持っていたことだった。理不尽に押し寄せる困難を、彼は己の暴力ひとつで、すべて解決できてしまった。
血みどろの地獄をさまよう海老原が、目を覚ましたのは高校一年の晩夏。懐かしい顔と再会したときのことだった。
「――花木?」
「海老原くん?」
花木 佳也子。同じ学校に通う、一学年下の女生徒だった。海老原の近所に住んでいて、何度か一緒に遊んだことが、おぼろげな記憶の中にあった。そんなような間柄の相手が。
「噂は聞いてるけど、噂は噂でしょ。君のこと、誰も大して知りもしないのに」
でも君も悪いんだよ、なんて。そんな風に言われても、なぜだか海老原は、苛立ちを覚えることがなかった。
「野球には、もう戻らないの?」
上手かったのに、もったいないね、なんて。そんな言葉を、海老原にかける人間がまだいたことに、海老原自身が驚いて。ほとんど強制的に書かされた入部届を、彼女と一緒に野球部に届けた。
「応援してる。ウチ弱いけど、行けたらいいね、甲子園!」
ろくにルールも知らないくせに、それがどれくらい大変かも知らないくせに。無邪気に笑うその少女の顔が、海老原の瞼から離れなくなった。
恵まれた体格が助けとなり、すぐに同学年でも一線級の選手として成長した。――それは彼を見た大多数の意見だが、事実は違う。その裏で、彼がどれほどの努力を重ねたか、知る者は意外なほど少ない。
あんな奴に負けてたまるか、と。海老原に触発された部員も多かった。海老原の口は相変わらず悪かったが、それもある意味カンフル剤だった。もちろん、それだけで急に強豪になれるほど、単純な世界ではないが。それでも、海老原の住む世界は大きく変わり、事実として、彼を取り巻く暴力沙汰はなりを潜めた。
高校三年、最後の夏大会を見据えた練習試合で、海老原は怪我をした。初戦にはギリギリ間に合わないが、三回戦まで勝ち進めれば、海老原は復帰できる。その見立てを信じて、自分の代わりに活躍する一年の助っ人を複雑な気持ちで眺めながら、リハビリに没頭していた、ある日。
海老原は、ボロボロになった少女を見下ろしていた。
「――花木?」
その声に、自分を呼ぶ声は返ってこなかった。
『最近頑張ってるみたいじゃん。ほんとに行けるんじゃない? 甲子園!』
虚ろな瞳が、宙を見つめていた。
『見て見て、髪伸ばしたの! ちょっとは大人っぽくなった?』
黒髪は乱雑に切り裂かれ、薄汚れていた。
『私ね、生徒会長に立候補したの! 君を見てたら、なんだか、私も頑張ろうって気になったから――』
あの笑顔が、自分に向けられることもなかった。
相手は、十人だった。
高校生、ではなく。明らかに、暴力の世界に生きる人種も含まれていた。
花木の親が借金をしてとか、どうとか。そんなことを言っていた気もするが、海老原の耳には届かなかった。
かつての記憶との重なりは感じていたが、それ以上思い出すこともなかった。
怪我の悪化など意に介さず、怒りのままに叫び、拳を振るった。悲しみに暮れる代わりに、涙を流す代わりに。
そうして、ついに力つきた海老原は、ナイフを握った男に首を絞められていた。
周囲には、動けなくなった男たちが――十人以上。いつの間にか増援が来ていたことに今更気づきながら、海老原は意識を失った。自分以外の誰かが、敵の男たちを殴っている光景を、掠れた視界に捉えながら。
そして。目を覚ました海老原は、すべてを失っていた。
花木は退学となった。その理由はぼかされていたが、それが災いした。かつてと同じように、海老原こそが加害者であるような噂が流れたのだ。事情を知っている関係者によって否定されたが、その『いかにもな真実』は、瞬く間に広がった。
うんざりだった。
野球に打ち込んで、何かが変わった気でいたのが、全部バカげたものに思えた。
何より海老原は、起点となった花木を見ていなかったことを後悔した。
あんなことになるまで、何の兆候もなかったはずがない。急にあんなことになるはずがない。ならば、夏が近づいてきた頃、花木が頻繁に話しかけてきたのは――自分に助けを求めていたのではないか?
その考えに至ったとき、海老原はすべてに絶望した。
自分の周りの人間も。自分自身も。それらが構成する、自分の人生そのものの価値が、分からなくなった。
夜道など怖くない。
地図のない道程など怖くない。
ましてや、ただ一人で歩くことが恐ろしいなどと、なぜ今更――
『知ってるか? 後悔先に立たずというのは、古くは鎌倉時代の説話集にも載っていた言葉だ。誰が口にした、というものでもない。それほどに、この国では当たり前の教訓だということだ』
その男と再会したのは、まさにそんなときだった。
『誰しも一人で歩いている気になるものだ。傲慢で、無関心で、怠惰。だが、そのままで歩き続けられるのは幸福なことだ。俺たちは血反吐を吐きながら、謙虚という言葉の本質を学び、そして唾棄しなくてはならない』
その男は誰より思慮深く、そして誰よりも強かった。
『自分の弱さを武器にできた者こそが、本物の強者だ。相手の才能に怯むな。目を眩ませるな。勝者とは、より多くの宝を抱えた者ではなく、最後に立っていた者のことを言うのだから』
その背中に目を奪われた。その両腕に救われた。
海老原 鐘は心の底から、その人のようになりたいと思った。
いつだって正しい人。
どんな障害だって破れる力。
それは彼がいま、何より欲しているものだったから。
「――トウリさん。あんたの言ったとおりだった。結局、俺は……」
うわごとのように言ってから、海老原は思わぬ景色を前にしていた。
学校の裏手、駐輪場。自転車通学をしない海老原からすれば、三年過ごした校内とは言え、落ち着かない場所だ。
だが、否応なく、意識は現実に引き戻される。八剣 一星に敗北した事実が、重く身体にのしかかる。
片流れの屋根が列を成す駐輪場に、まばらに停まった自転車。当然のごとく人影はない。ただ自分の荒い呼吸だけが、急かすように海老原を苛んでいる。
腹部の痛みは深刻だった。
この傷は残る。そんな予感がするほどに、一星につけられた太刀傷は深かった。異能を得る前であれば、痛みで意識を失っていただろう。そもそも、出血多量で歩くことすらままならなかったはずだ。
だが、そんなことよりも。
痛みより。引いていく血の気より。明確に敗北し、敗走を余儀なくされたこと。この事実に勝る屈辱はなかった。
ようやく見つけた、自分の理由。
誰かの役に立てたらと、初めて思えた矢先の話。
覚えのある感覚だった。また戻ってきたのかとさえ思った。
何度も、何度も、嫌気が刺すほど。無力な自分を見せつけられ、悪態をつく余裕すら失っていた。
やっと見つけた自分の役割すら、満足に果たせないで。
これから一体、どうしたらいいのか。
第一、逃げて何になるのか。それすらも分かってなどいない。
再び立ち向かうのか。傷を癒やし、八剣一星に一矢報いるべく立ち上がるのか。
そうすべきだと、『あの人』のためならそうすべきだと。その結論に至りかけたところで、膝が震えて身動きが取れなくなった。
そのとき。
「――!」
後ろから、走り寄ってくる誰かの足音が聞こえた。
八剣 一星が追ってきたのだと察し、海老原は覚悟を決めた。今更逃げたところで、逃げ切れるものでもないのなら。一矢報いることさえできなくとも、せめて立ち向かおうと、重苦しい吐き気を抑えながら。
海老原 鐘は振り向いた。




