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冬夜の巫  作者: 真鴨子規
第二章 応援挽歌
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応援挽歌 35

 鼓膜が揺さぶられ、耳鳴りと頭痛でよろめく。目の前で発せられた木龍の断末魔は、意識が飛びそうなほどの音量で、視界が明滅するほどの衝撃だった。

 首を裂かれ、勾玉を失った木龍はのたうち回り、その長い首を振り回しながら自壊していった。木の鱗が砂のように剥がれ落ち、周囲の枝や木人形も一斉に崩れ去った。

 まるで、一夜の夢のように。ただその爪痕だけを残し、そのすべてが消え去ったのだ。

 勾玉は、運良く足下に転がっていた。拾い上げてみれば熱く、僅かに鼓動のような振動を感じた。

 あるいは、この勾玉こそが、木龍――あの擬獣の、心臓部としての働きを担っていたのかもしれない。あれだけの木人形や枝を操ることができたのも、無限に思えた再生力も、勾玉あっての出力だった、ということなのか。

「悠助……!」

 惚けている場合ではないと、すぐに顔を上げる。支えを失い、ボロボロになった床に伏せる悠助を見――

 強い衝撃が右半身を襲い、左方の壁に叩きつけられる。

「ぎ……!」

 幸い、左腕は間に合って頭を庇えた。しかし、強い衝撃で全身がしびれる。たまらず地面に転がり、天地の感覚すらも失う。

 歯を食いしばって、身体を起こそうとした、その直後。今度は、がら空きだった腹部で、何かが弾けるような痛みが生じた。再び身体は宙に浮かび、そして瓦礫の敷かれた床に全身を削られる。

 勾玉を無くさないよう、握った左手に意識を集中させる。代償として、右手の古代刀は手放してしまったが、それどころではなかった。

「やってくれたな、クソ野郎ども」

 その声で、何が起きたかをすべて察した。

 なんとか見上げた先で、海老原先輩は血走った目をこちらに向けていた。怒りによってか全身を震わせ、がちりがちりと朱色の籠手を鳴らしている。

「先輩、もう……」

「勝負はついた? ゲームは終わりだと? 知ったことかよ、くだらねぇ」

 海老原先輩は苛立たしげに近付き、俺の腹部を蹴り飛ばした。さっきよりは弱い威力だったが、それでも呼吸を失った。

「どうしてもゲルトの意向に沿えってんなら、簡単な話だ。その勾玉さえ奪い返せば、まだ負けじゃない」

 よこせ、と。

 海老原先輩は俺の首を掴み、軽々と持ち上げた。

 苦しい。息ができない。籠手を引き剥がそうにも、腕を持ち上げる力すら入らない。さっきの蹴りで吐き出しきった酸素が補給できず、嫌な痺れが頭のてっぺんに走る。

「なんなんだ、てめぇは」

 怒りに震える声で、感情を押し殺した声で、先輩は言う。

「戦う力なんかねぇくせに。命を張る理由も、命を奪う覚悟もねぇくせに。この期に及んで、その無駄な抵抗に、一体何の意味があるんだ」

 その問いかけに、さらに怒りを募らせるように。首を絞める力が、どんどん強くなっていく。

 うめき声すら出ない。窒息が先か、頸椎がへし折られるのが先か。そんな状況でも、勾玉を返して許してもらおう、という気持ちは欠片も湧かなかった。

 だって、俺たちは勝つために戦ったんだ。一矢報いて満足だ、よく頑張ったと。命を繋いで、次へ活かそうと。そういう勝負があるとしても、それは今じゃない。それに――

 それに、なにより。たとえ試合に負けようと、気持ちで負けるわけにはいかない。それが、それこそが、俺たち応援団の、せめてもの矜持だから。

「……知らねぇな」

 興味を失った顔で、海老原先輩は俺を見る。

 人を殺せる力で。人を殺せる意志で。俺の意識は押しつぶされていく。

 ふと、たくさんの人の顔が見えた。

 父さん、母さん、兄さん。ごめんなさい。

 我妻さん、光永会長、悠助、せめて生きていて。

 そして。

 そして――


 ――頼んだぞ、野宮 一格!


 その顔を、その声を、思い出した瞬間。

 海老原先輩は呆気なく俺を放し、何かに押し出される形で急速に離れていった。

 がくんと崩れ落ちた俺は、膝を強打した。意識が消える寸前で、地面が迫るのを、呆然と眺めるしかできなくて。

 けれど、そこで身体は止まった。

 両膝を地面につけたまま、全身の力は戻らないまま、それでも倒れることなく留まった。

 咳き込み、嗚咽しながら、その温もりと匂いに、まず安心感が先立った。


「よくぞ――」


 耳元で、その声がした。

 心のどこかで、ずっと縋っていた、その声が。


「よくぞやり遂げた。よくぞ勝利した。しかと見せてもらったぞ、お前の正義を」


 その言葉遣いとは裏腹に、労りの伝わる優しい仕草で。俺はそっと、床に横たえられた。


「尊敬するよ、野宮 一格。お前と出会えて良かった」


 少しずつはっきりしてきた視界の先で。

 清廉な少女の横顔が、敵を見据えていた。


「八剣 一星――!」


 怨敵を目の前に、海老原先輩は再び怒りを吹き上がらせる。

 駆けつけた一星は、その速度のすべてを乗せた一撃を、海老原先輩に見舞ったようだったが。先輩の表情を見るに、完全に防がれたようだった。

 だが、変化はあった。先輩の籠手には明らかに亀裂が走り、壊れる寸前といった有様だ。

「――海老原、と言ったか。その身に纏っている胡乱な気配、ヨアヒムと同じものだな。さしずめ、仲間の能力だろう。身元の隠蔽と、身体能力の強化。昨夜とは明らかに別人だ、別格と言っていい」

 一星が慎重な動作で、八握剣を正眼に構える。

 仲間の能力。今日の海老原先輩は何か様子がおかしかった。ヨアヒムと同じ状態と言われてみれば、確かにそうかもしれないが。

 だが、まったく同じではない。ヨアヒムと違い、海老原先輩の状態は酷く不安定なものに見えた。霧中を自由に闊歩する者と、行く先も定まらず惑う者。それが習熟による差なのか、適正の差なのか、実態は窺い知ることもできないが。

「だが、それでも」

 状況がどうあれ、一星に逃走の意志はない。

 そもそも、擬獣を倒し勾玉を奪取したというのに、手のタイマーが消えていない。残り時間、あと五分足らず――宝を確保したと証明するため、するべきことがあるとすれば、あと一つ。

「決着をつけよう、海老原 鐘。愚兄との因縁があるというのならば、八握剣を継承した者の責務として、この私が清算する」

 向かい合う二人の距離は、二十メートルほど。奇しくもあの夜と同じ光景だった。

「八握剣――そうだ、それさえ、ソイツさえなければ。お前がそんなものを、持ち帰ってこなければ!」

 海老原先輩は獣のごとく吠え、絞り出すような呪詛を口にした。

「だから、私を殺すのだと。そんなお前の殺意は本物だった。確かにお前は、私を打ち倒す覚悟で向かってきた」

 一星は、そう淡々と語る。聞いてみれば理不尽な、一星からしたら身に覚えのない恨み辛みでも。その言葉を尊重する意思を見せる。

「そう、確かにその意志があった。善悪や実現性はどうあれ、お前の意志は本物だった。そうだ、お前はお前の正義を証明するため、私と戦うことを選んでいた」

 一星はそれを誤りだと、否定することをしなかった。自分に被害が及んでも、理由の分からない恨みでも。相手を軽んじることは決してしなかった。

 だが、と。一星は強く歯噛みして、その敵を見る。

「だからこそ失望したぞ、海老原。今のお前では、どうあっても私には勝てない」

 そこには、明確な怒りがあった。下手をすれば、海老原先輩を上回るほどの。それは極限まで錬磨された刃を思わせる、静かで硬質な怒り。

「御託はいいんだよッ!」

 大地を焦がす雷火のごとく、海老原先輩が駆け抜ける。それは掛け値なしの殺意で、一星を飲み込まんと突き進む。

 でも、なぜだろう。

 その怒りが、その殺意が、以前の数倍に膨れ上がっていたとしても。

 その力が、その速さが、あの夜を遙かに凌駕していたとしても。

 一星の負ける姿が、最早欠片も想像できなくなっていた。

「がぁっ……!」

 海老原先輩が止められる。その表情は苦痛に歪み、仰け反ってバランスを崩す。気が付けば、一星の白刃が走っていた。

「勝ちの目などない」

 その動作は緩やかで、あまりにも自然体で。瞬く間に刀を脇に構える一星の動きが、信じられないほど緩慢に映る。

「矛先も定まらない未熟者には!」

 そして鮮血が散った。ともすれば隙も大きかった横一文字の薙ぎを、先輩は無防備にも腹に受けた。

 一拍置いて、空気の振動が全身を抜けていった。一星の背後にいた俺ですら、身体が震えるほどの剣気。その一撃がどれほどの威力だったかを、如実に表していた。

 あるいは、致命の一撃だったかと、背筋が凍ったが。

 膝を突く寸前で、海老原先輩は後ろに飛び退いた。腹部に染みた血の量からして、軽傷では済まなかったろうが、死ぬほどではなかったようだ。界装具のもたらす防御力、生命力――その常識外れに救われた形だ。

 それでも、勝負はあったか。そう感じた矢先、左手に熱が生じた。

 咄嗟に手のひらを見る。すると、タイマーの数字が青白く輝き、霧散していった。

 目的の勾玉は離さなかった。木龍は消滅した。敵の海老原先輩は斬り伏せられた。ファンファーレの一つも欲しくなるくらい、この状況は明らかに、ゲームクリア――俺たちの勝利を指し示していた。

「くそが――」

 それを、海老原先輩も察したのだろう。傷に手を当てながら踵を返し、ふらつきつつもこの場を離れていった。

 それを。

 その背を、俺は。

「待て、一格」

 一星に呼び止められて、振り向いた。

 そう、ほとんど無意識の行動ではあったが。俺は、逃げていく海老原先輩を追い掛けようとしていた。

「勝負はついた。よもやとどめを刺そうというわけではないだろう」

 どうした、と。真剣な、そしてどこか不安そうな表情で問われたから。心の中に渦巻く気持ちをかき集めて、なんとか言葉にしようと試みた。

 でも、上手くいかなかったから。

「俺、行かないと」

 海老原先輩を、追わなくちゃいけない。ゲームとか、殺し合いとか、勝敗とか、そういうのとはまったく無関係に。この直感――このままあの人を、見失ってはいけないんだと、その気持ちにただ従っていた。

「それは、お前の正義のためか」

 ――正義。

 それが、一星の中で重大な概念であることはもう理解していた。それはきっと、俺が考える正義とは、規模も性質も違うものなんだろう。だから少し、頷くのを躊躇って。

 ――俺の、正義。

 そうではないと気が付いた。一星は何も、自分の正義を俺に押しつけようとしているわけではなかった。

 力強く頷いた。それは間違いなく、俺の正義のためであると。

 追い掛けたところで、何がどうなるかは分からない。下手をすれば、手負いの先輩の反感を買い、返り討ちに遭う可能性もあった。そんなリスクを背負うほど、俺の行動に意義があるのかと問われれば、きっと俺は何も言えない。意義なんて、意味なんて、自分でも分かっていないのかもしれなかった。

 それでも、行くんだ。

 言わなくちゃいけないことが。伝えなくちゃいけないことが。届けなくてはならない言葉が。――あるんだから。

「ならば行くがいい。そして必ず――己が正義を全うしろ」

 それはきっと一星にとって、最大の賛辞なのだろうと、受け取ったから。

「ありがとう、一星」

 そう言って、今度は明確な意識のもとで。海老原先輩の消えた方へ、走り出した。

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