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冬夜の巫  作者: 真鴨子規
第二章 応援挽歌
56/61

応援挽歌 33

 何か、夢でも見ているような心地だった。

 木竜の枝が俺に突き刺さる、まさにその瞬間。何かが間に割って入り、手にした棒のようなもので、すべての枝を振り払った。

 俺の頭上を、何かが掠めた。伏せろと言われて伏せたわけではない。脚から力が抜けて、立っていられなかっただけだ。そうして屈んでいなければ、俺の頭部はどうにかなっていたかもしれない。

「は?」

 間の抜けた声が漏れた。

「なんで?」

 さっきは同じように光永会長を助けたが、立場が逆転したというわけではない。ここに会長が来ることはないのだから。

「なんで、ここにいるんだ? ――悠助」

 その後ろ姿は、紛れもなく。つい先刻別れたばかりの、悠助のものだった。

「なんでって、叫び声が聞こえたからさ、戻ってきたんだ」

 悠助は、半身をこちらに向けた状態で言う。その表情は、格好を付けて笑っているようで、少しだけ強張ってもいた。

「それでさっき一格を見付けて、声掛けたのにさ。気付かず走って行っちゃうから、追いかけてきたんだよ」

「あ、ああ……悪い」

 混乱する。普通じゃない状況のはずなのに。少し遠くに視線をやれば、化け物が道を塞いでいるのに。悠助の声は、普段とほとんど変わらないように思えた。

「それ、なに? 木刀?」

「木刀。生徒指導のソルジャー榎本がたまに持ってるヤツ。モップの柄も目の付け所は悪くはなかったけどさ、いざ振り回すには慣れが要るよ?」

 強がるように、悠助は口元だけで笑ってみせた。

 当然だ。少し上手く振り回せるからと、なんとかできる状況でないのは明らかなんだ。悠助にだって、あの木龍は見えているのだから。

 そこで、地鳴りのような咆哮が響く。俺たち二人はびくりと身体を震わせながら、木竜の方へ視線を奪われた。

 そしてこれも当然、木竜は傷一つ負っていない。枝はすべて健在で、意表を突かれて少し引っ込めたという程度だった。

「それで一格、勝機は? 弱点とか、切り札、奥の手、なんかそういうの、あるんだよね?」

「いや、ないんだけど……」

「……マジ?」

 本当に、信じられないものを見るような目だった。申し訳なくて死にたい気分だ。これじゃあ、犠牲者が一人増えただけ。状況はより悪くなったとすら言える。

「いや、一応弱点というか、それを奪えば勝ち、みたいなのはあるんだけど――」

「待って、一格」

 なんとか弁明しようとした俺の言葉を、悠助が制止した。

 この期に及んで何事か、と悠助を見る。

 見開かれた悠助の目が向く先を察し、俺は息をのんだ。

 悠助の目は、怒りの色を滲ませていた。

「お久しぶりですね、海老原先輩!」

 悠助が叫ぶように言う。

 それに対し、海老原先輩はやはり微動だにせず、うなだれたまま――いや。

 海老原先輩は、ゆっくりと顔を上げた。

「悠助? あれが海老原先輩だって、なんで――」

 俺の声を無視して、悠助は大きく深呼吸をした。

「夏大前の、練習で少し話して以来でしたっけ。あのまま野球からは離れたって聞いてましたけど。なんだか面白いこと始めましたね、先輩。強そうなペットに人殺しさせるのを、高みの見物するみたいな? 貴族の遊びっていうんですかねそういうの、いい趣味してますよねホント!」

 悠助の挑発に、先輩は明らかに反応していた。

 正気や理性を失ったような姿の海老原先輩に動きがあった。それはあるいは、現状を打破する切っ掛けになるかもしれないと。そういう期待も確かにあった。あったが、しかし。

 どうしても、嫌な予感の方が強く前に出ていた。

「……てめえ、和知か」

「ええそうですよ、おはようございます」

 海老原先輩が話し始めると、木竜の枝が動きを止めた。呼吸するような上下運動だけで、近づいてくる様子はなくなった。

「よくもまた、顔を出せたな――この俺の前に」

 その視線は、もやの掛かったような今ですら鋭く、激しい感情を放っていた。威嚇ではない。これは明確な殺意。一星に向けていたような――いや、もしかしたら、それ以上の。

「なんだ、そんなに恨んでたんですか。まさかそれでこんな馬鹿なことを? 失望もいいところだ」

「おい、悠助」

 そう、そうだ。この二人には因縁がある。

 海老原先輩は元々、三年間野球部に所属していた。今年の野球部も県大会の途中で敗れ、最上級生たちも引退していったが……海老原先輩の引退は、それより少しだけ早かった。

 少しだけ。夏の大会の、一回戦の直前に――

「三年のくせに、バイトの一年にスタメンを盗られたのって、そんなに悔しいもの?」

「黙れ」

「でも、恨まれる筋合い、僕にある? 頑張って勝ち取ったポジションを奪った? そんなの、練習試合で肩なんか怪我した、どこかの間抜けが悪いんだろうに!」

「黙れッ!」

 ばきりと、窓ガラスの亀裂が広がる。

 地響きと共に、周囲から新たな枝が這い出てくる。あっという間に逃げ道は塞がれ、窓の外でもおびただしい数の枝が待ち構えている。

「ごめん一格。怒らせたみたい」

「馬鹿だろ、謝るくらいなら……何してる?」

 悠助が、俺の前に出た。そして立ちふさがるように、木刀を正面に構える。

「あの枝全部が僕を突き刺したらさ。君一人くらい、逃げられるんじゃない?」

「な――!」

 馬鹿だった。

 馬鹿でしかなかった。

 こみ上げてくるもので、言葉が詰まる。

 言うべき言葉がありすぎて、今にも吐きそうだった。

「ふざけてんじゃねえぞ、和知。一年坊の分際で……!」

「その一年に取って代わられて、ふて腐れちゃったんですか。僕が抜けた準決の敗戦、あなたが復帰していたなら、勝てる見込みはあったんですがね」

 悠助の挑発は止まらない。それは本当に、自分の身を犠牲にして、俺を逃がすためなのか。

「お前に、何が――」

「何が分かるって、分かるわけないじゃないですか。なんですかこれは。生きた木? 龍? いやいやゲームじゃあるまいし。こんなものをけしかけて、人を殺そうとしている人間の気持ちなんか」

 分かるわけない。

 冷たく言い放つ悠助の言葉は、すべて本心だろう。野球部のことも、今のことも。

 悠助は確かに怒っていた。理解できないと憤っていた。野球部を去った身で、今更何を言うのかとも思ったが。

 今年の夏、悠助はバイトで、様々な部活を転々としたが。聞いてみれば、野球部だけは、少し毛色の違う入り方をしていたようだ。つまり、怪我をしたスタメンの穴埋めとして、文字通りピンチヒッターとして、参加していたらしい。

 俺もよく知っている。その、怪我をしたスタメンというのが、海老原先輩だったということと。

 悠助も、海老原先輩に帰ってきてほしかったんだということを。

「海老原先輩」

 おいおい、という悠助の視線を感じながらも。俺は、口を挟まずにはいられなかった。

 視線が突き刺さる。それ自体が殺傷力のある刃であるかのように――それでも。

「野球に、戻らないんですか?」

 ひりついた空気で、咳き込みそうになりながら。それでも、続ける。

「まだ、戻れるんじゃないですか」

 今でも。今からでも。

 こんなことが、海老原先輩のやりたかったことでは、なかったはずなんだから、と。

「……は」

 笑った。

 俯いたまま、海老原先輩は、口角を吊り上げた。

「は、はは、ははは――」

 腹を抱えて。よろめきながら。乾いた笑声が反響した。まるで、あちこちから伸びる擬獣の枝、そのすべてから発声されているかのように。

「笑わせるな――!」

 海老原先輩が吠え、呼応するように周囲が赤く染まる。それは、視界を埋め尽くすすべての枝が、血のように赤く染まったがための変化だった。

「野球? ああ、やってたな、そんな球遊び」

 先輩は、言う。

「戻る? あんな意味のない場所にか? あんな無駄な場所にか?」

 ――やめてくれと。

 それ以上言わないでくれと。

 そんな俺の心を、踏みにじるように。

「一体俺はどういう気の迷いで、あんなくだらないことをしてたんだろうな」

 俺の願いに、唾するように。

「和知。安心しろよ。別に、お前が来たから、俺が戻れなくなったわけじゃねぇ。ただ、あのタイミングで気付いただけだ。あんなくだらねぇ遊びに付き合うのは、いい加減馬鹿らしいってことに。だから――」

 枝の一本がしなる。そうかと思った瞬間には、破砕音が響いていた。

 俺と悠助は、馬鹿みたいに遅れて、その音の出所へと視線を落とす。コンクリートの床は無残に砕かれ、クレーターを形成していた。

「今はいい気分だ。ようやく、目が開いた気分だぜ」

 思わず、奥歯を噛みしめる。

 血の味がした。

「逃げるなら逃げてもいいぜ、和知」

 無数の枝を差し向けながら、海老原先輩は言う。

「お前はこのゲームの参加者じゃない。だから標的でもない。後ろの野宮ソイツを見限って、尻尾を巻いて逃げるんなら、笑いながら見送ってやるよ」

 何を馬鹿な、と零したのは悠助だったが。俺は思わず、はっとしていた。

 逃げられる。悠助一人であれば、見逃してもらえる。その提案に、光明さえ見出してしていた。

「ゲーム? これがゲームだって?」

 悠助が、説明を求めるように俺を見ていた。

「ゲーム、らしい。どこかにいるゲームマスターが、不思議な力で成立させている、命を賭けたゲーム。決められた参加者同士の戦いで、俺たちの側は、どこかにある勾玉を奪い取れば勝ち。そういうゲームだ」

 ふうん、と悠助は視線を前に戻す。

「それで、奪うだけなら勝ち目があると、君はここに来たわけだ。無謀にも」

「…………」

 言い返せなかった。冷静に考えてみれば、無謀以外の何ものでも無かった。希望的観測にすがってここまでは来られたが、ここから先の展望なんて何もなかった。

「勾玉って、あれ?」

「は?」

「あの龍みたいなのの、逆鱗」

 逆鱗というのは確か、龍の顎の下にある、一枚だけ逆さに生えた鱗のことだ。悠助の指摘を受け、よくよく目を凝らしてみると――

「……あれだ」

 木龍は一定周期で、窮屈そうに首を持ち上げる。その瞬間、微かにだが、赤く光る鉱石が見える。樹木の肌の隙間に、埋め込まれているかのようだった。

「おい。無駄口叩いてんじゃねぇ」

 苛立ったように、先輩が低い声で話す。

「残って無様に死ぬか、逃げて無様に生き残るか。どっちみち無様なんだから、どっちを選ぶべきかは分かるだろ。言ってんだよ、俺は。見逃してやるって。生かしておいてやるって」

 死ぬとか、生かしておくとか。言ってることは滅茶苦茶だが、それでも言ってることに間違いはない。

 たとえ、無様でも。笑われても。この状況から生きて帰れるなら、それだけで充分じゃないか。

「それは」

 悠助が言って、思案するような間が生じる。

「それは当然、僕と一格、二人に言っているんだよね?」

 悠助がそういうと、海老原先輩は心底愉快そうに破顔した。

「だめだ。野宮の方は参加者だからな、確実に殺す」

 嘲笑っている。クラスメートを、友達を、見捨てて逃げろと。裏切り者のそしりを受けながら、生き長らえろと。

「ましてや、よりにもよって八剣 一星のツレだろう。再戦の手土産がほしかったところだ。ぶち殺して、首だけアイツに返してやらないと」

 趣味の悪い話だ。そう思ったが、俺はそれでいいとも思った。幸いにも、八握剣の勾玉の位置は知れた。あとは何とかして、命を引き換えにしてでも、それを奪い取れば、俺たちの勝ち。――これ以上、無関係な人間を、悠助を、巻き込む必要なんてないはずだから。

 でも――

 でも、悠助は変わらずそこに、佇んでいる。

「困るんだよね、そういうの」

 悠助は、頷かない。ともすれば、さっきの挑発を更に続ける気配さえして、ぞっとした。

「悠助、お前――」

「ねえ、一格。いっこだけ質問」

 振り向きもせず、悠助は言う。

「ゲームマスターってさ、どんな奴だった?」

 意味の分からない質問だった。

 それが一体、この状況の何に関係しているというのか。

 それでも、何も言わない悠助の背中は。俺の答えを、切望しているようで。

「多分、あれは。理想のゲームマスター、なんだと思う」

 ことの善悪はともかくとして。

 ゲームを設計し、運営する人間として。その精神、その信念、その覚悟は、きっと理想的だったんだろうと。俺は、思ったままのことを悠助に告げた。

「そっか」

 悠助は、それだけ言って。押し殺すように、静かに笑った。

 それが、海老原先輩のしゃくにも障ったのだろう。というより、いい加減我慢の限界という顔だ。木龍に攻撃を指示、いや、今にも自分から突っ込んできそうな様子で、目を見開いて――

「ゲームマスター!」

 突如、悠助が叫んだ。

 俺も海老原先輩も、驚いて――いやぎょっとして、悠助を凝視する。そうしなければならないと思うほど、その声は強く大きく、衝撃的だった。

「僕をゲームに参加させてくれ! 言うまでもなく、一格の側にだ!」

 次の瞬間、自分の耳を疑った。

 何を。悠助は一体、何を言っている?

「てめぇ、何をふざけて――」

 海老原先輩の方は、戸惑いより怒りが先行しているようだ。むしろ、未だにその場に留まっていることの方が不自然なほどだ。それくらい、警戒しているということかもしれない。

 警戒。一体、何を。異質な能力など持たない一般人を前に、界装具を構えた先輩が、何を恐れる。

 でも、確かに。言い淀むことなく、臆する姿の一片も見せず、この場で踏みとどまり続ける悠助には、何かがあると思わるものがあった。

 突出した知能、類い希な身体能力、成熟した精神性。こいつは一体、何を持ち得ないのかと。誰もがそう感じ、羨み、妬み、見上げた天才。ただそこにいるだけで、すべてをひっくり返してしまいそうな、そんな万能感。その奇跡のような姿に、夢を見た人間は数知れなかった。

「その気無し、かな? 残念だよゲームマスター。僕ならきっと、君が一番見たいものを、見せてあげられるっていうのに!」

 普通なら、ただのハッタリとしか思えない、そんな台詞さえ。本当に成し遂げてしまうのではないかと、思わせる何かがあった。

 和知 悠助。一星に並ぶ、いやそれ以上の、本物の天才――

「……いや」

 俺は、首を振った。振らざるを得なかった。

「さあ、海老原先輩。こういうことだ、僕も仲間に入れてくれよ」

 悠助が左手を掲げる。手の甲を海老原先輩に見せつけるように。だから、俺の方からそれが見えたのは一瞬だけだったが。――そこには確かに、プレイヤーの証であるタイマーが表示されていた。

「舐めやがって、ゲルト。だが、結果は変わらない。何も、何も、何も……!」

 先輩が激高する。木龍が咆哮する。次はない。今度こそ、目の前の獲物を穿たんと、その爪牙を研ぎ澄ませる。

「てめぇが何を企もうと、ぶち殺すことに変わりはないんだよ。その薄ら笑いが、その態度が、目障りだったんだよ、和知 悠助!」

 企む? 悠助が? なんで? 何を?

「やめろ、悠助。逃げろ、早く――そうだ、一星の下へ、早く――!」

 違う。違うんだ。錯覚に呑まれるな。夢に目を眩ませるな。

 悠助にだって、何もできない。先輩を、あの木龍を、倒す手段なんか何もない。

 だって。

 だって!

「悠助……!」

 だって、そうじゃなきゃ!

 悠助の手が、あんなにも、震えているはずがないのだから――!


 ――あの枝全部が僕を突き刺したらさ。君一人くらい、逃げられるんじゃない?


「悠助ッ!!」


 木龍の枝が、悠助の胸を貫いた。


 何本も、何本も、何本も――

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