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冬夜の巫  作者: 真鴨子規
第二章 応援挽歌
54/61

応援挽歌 31

 前


 西館最上階。四階、もしくは屋上。まずはそこを目指す。

 東館一階の廊下から、西館へ続く渡り廊下へ。物陰から木人形が飛び出してこないか内心ビクビクしながら、それでも全力で走り抜ける。

 両手で抱えたモップの棒が、徐々に重く感じ始めている。けれど問題ない。恐怖で身体がすくんでも、その程度で体力が底を突くような、柔な鍛え方はしていない。

 それに、後押しするものはたくさんある。

 俺に激励をくれた一星。

 俺を気遣ってくれた光永会長。

 俺に後を託した、兄さん。

 向かう先は死地かもしれないが、それでも。彼らの姿を思い浮かべると、脚に、背筋に、心に――熱が籠もるのだ。

 そして、もう一つ。どうしようもないほどに、俺を突き動かすものが――きっと、向かう先にいるのだから。俺は、今更止まる事なんてできない。

 突き当たりに差し掛かる。ここを右に曲がれば半屋外の渡り廊下だ。まだ道のりは長いが、とにかく進むしかない。そう思い、勇んで角を曲がり、

「う――」

 思わず上がりそうになった悲鳴を、すんでの所で飲み込んだ。

 渡り廊下は塞がっていた。窓や扉で施錠されているのではなく、巨大な植物――大樹によって阻まれているのだ。

 大人一人を内側に収められそうなほどに太い根が、幾重にも折り重なってそびえている。鏡張りの開き戸から渡り廊下に出れば、あるいは大樹の天辺も窺えたのだろうが。その根を苗床に群生して蠢いている、あの木人形たちを退ける手段を、俺は持たない。

 木人形の数は、分からない。根を守っているのか、今まさに産まれているのか、とにかく夥しい数の木人形が揺らめいている。この数に攻め込まれたら、さしもの一星でも逃れ切れないかもしれない。

 一瞬のためらいのうち、急いで踵を返す。

 奥がどうなっているかまだ分からないが、とにかくこのまま突撃はできない。別の道を探さないと――それなら、そんな道は一つしかない。

 来た道を、先ほど以上の速さで走る。後戻りをしている余裕など、本来ならば全くない。限界まで加速して、遅れを挽回しなくてはならない。最早、木人形を恐れている暇すらないのだ。

 職員室の入り口が見える手前で道を外れ、階段を上る。既に息は苦しく、肺が破れそうではあったが、両脚に鞭打って駆け上がっていく。ここから目指すのは三階である。

 二階まで来たとき、廊下の向こうから、数体の木人形が迫って来ているのが見えた。

 だが当然構ってなどいられず、先を急ぐ。立ち向かったところで勝てるものではないし、足止めなど今は絶対に避けたかった。

 その結果、後で挟み撃ちになる可能性は無理矢理に忘却し、到達した三階の廊下を進む。

 周囲は、異様に静まりかえっていた。

 恐らくこの先は、敵にとって要になっているのだろう。一階の渡り廊下がああなっていた理由は、道を塞ぎ、守備を固め、敵の侵入を阻むためだ。

 三階の渡り廊下も同様であれば、別の道を探すしかなくなる。西棟に外側から回り込んで、最悪窓を破ってでも、中に入ることはできる。だが、時間制限を考えれば望むところではない。今の俺には、三階の渡り廊下であれば通れるという『希望的観測』に縋るしか、勝機はないのだ。

 分の悪い賭けかどうかは、それでも半々くらいだと思っている。事実として、俺はまったく戦力にならない。俺の行く手を遮るくらいならば、一体でも多くの木人形を一星や光永会長に差し向けた方が盤石だろう。

 俺は侮られている。無視してもいい存在だと思われている。間違いはない。間違いはないが、だからこそ突ける隙がある。

 俺は、敵の中の誰にも勝てないが。そもそもこのゲームは、誰かに勝つ必要性もないのだ。ただ一点、油断した敵から宝を奪取し、逃走する。ご都合主義でもなんでもいい。俺が唯一掴めるその勝利だけを目指して、今は走るしかないんだ。

 そうして、幾度目かの曲がり角を抜け、三階の渡り廊下が見える場所へ、ついに到達したとき。

 俺はようやく、戦うべき相手と対峙した。



 後


 それは、渡り廊下の終端を塞ぐ形で立っていた。いや、立っているというより、生えていると言った方が適当なのだろう。

 周辺の窓ガラスは無残に砕かれてる。そこから伸びる形で、無数の枝が廊下に入り込み、壁を作っている。枝といっても一階で見た大樹のサイズで、俺の腕よりは太い。このまま素通りは難しいだろう。

 だが、そもそも素通りという選択肢はない。なぜなら、俺が目指していたのは西棟の屋上でも四階でもなく――この場所だったのだから。

 ルビーのような妖しい明かりが、二つ。細かい枝が形作った、切れ長の孔から覗いている。

 枝は更に複雑に絡み、長く伸びた顎を有する逆三角形の頭部を形成している。

 その頭部を先端にして、椰子の木のような太い枝が枝垂れている。

 更にその枝の根元は、渡り廊下を塞ぐ大樹の幹を、突き破るように生えている。幹から枝が生えているのは当然のはずだが。動かない大樹と、動物のように揺れ動く首の対比は、不気味なほどに食い違っていた。

 幹や枝を覆う樹皮のゴツゴツした模様が、まるで爬虫類の鱗のようにも見える。いや、その巨大なシルエットは爬虫類というより、絵本から飛び出してきた龍、そのもののようだった。

 顎の先が上下に大きく割れ、鋭利な牙の覗く空洞になっている。そこからは、それが木彫りの彫像などではないことを示すように。獰猛な息遣いが漏れ出していた。

 擬獣。それも、人を喰らう捕食者。あの大量の木人形を生み出している大本、本体がこれなのだろう。木でできた龍――木龍とでも呼ぶべきなのか。詳しいことはまったく分からないが、それでも確信めいていたのは、身体を芯から震わせるほどの威圧感がそうさせたのだ。

 ダメだ、と直感した。こんなもの、とても人間が相手できる代物ではない。目的の勾玉さえ見付かれば、それを奪い取るくらいは……。そんな考えは浅かったのだと、全身が震えるほどに思い知っていた。

 逃げ出したくなる。ここまでのすべてを放り投げて、どこか遠くへ駆けていきたくなる。プライドだとか見栄だとか、そんなものがどうでもいいくらい、目の前の木龍が恐ろしい化け物に見えた。

「……?」

 両脚が、俺の意志を無視して逃げ帰ろうとした、そのとき。何か、うめき声のようなものが耳に入った。

 人の声。誰が? そこまで考えて、そんなものは一人しかいないはずだと断じ、そして、その姿を見つけ出す。

 それは、幹から生える一際太い枝で隠れるように。その場に佇んでいた。

 百八十五センチを上回る背丈。

 服の上からでも分かる、鍛え抜かれた肉体。そして、無造作に伸びた黒い髪。

 海老原先輩は、例の籠手を両手に備えた状態で立ち、力なく項垂れていた。

「先輩――」

 両脚に、両腕に、心に、力が灯る。

 俺がここに来た理由。俺がここにいる理由。すべてを思い出し、すべてが重なり、そして、

「海老原先輩!」

 叫んだ。全力で。野球場の端から端まで、響かせんとするほどに。

「なんで! どうしてですか先輩! こんな方法しかなかったんですか? もっといいやり方はなかったんですか!」

 こんな、大勢の人を巻き込むような、こんな方法しか。

 ゲルトの仕掛けたこのゲームにおいて、ゲルトの管轄はゲームの基盤運営だ。その上で、どんな戦場を選び、どんな駆け引き、どんな勝負を行うのか。それはきっと、『VAX』側の人間に委ねられている。そしてこの戦いを挑んだのは、恐らく海老原先輩なのだ。

 ゲームマスターは、ゲームバランスの観点から口を出すことはあっても、行いの善悪には頓着がない。結局の狙いはまだ分からないが、ゲルト視点で『正しいゲーム』が作れれば、あいつにとってはそれでいいんだ。

 だったら。ゲームの立案者である海老原先輩がゲームを取り下げれば、あるいは――


『つまらない勘ぐりで、俺のゲームメイクを台無しにしてくれるな』


「――!」

 俺の考えなど、あいつはとうに見透かしていたのではなかったか。

「先輩……!」

 それでも、それでもと。藁にもすがる思いで、先輩を呼ぶ。

 だが、返答はない。そもそも、俺が現れても、声を張り上げても、先輩は完全な無反応を貫いていた。聞こえていないはずはないのに、身じろぎ一つ起こさない。

 何かがおかしい。間違いなく不吉で、不穏な、その予感は。次の瞬間にはもう、現実に変わっていた。

「――――」

 うめき声だ。人の声、紛れもなく今目の前にいる、海老原先輩の声。

 だけど。間違いのないことなのに、俺の目が、耳が、頭が、無視できないほどに大きな疑問を投げかけてくる。


 ――あれは、誰だ?


 視界がぶれる。先輩の姿を中心にして、もやが掛かったような歪みが見える。

 顔が。頭が。体躯が。姿が。個人を判別する要素が、断続的に別の何かに置き換わり続けている、ような。

 ここにいる人間ならば、それは海老原先輩に違いない。そういう直感が最初からなければ、何者か分からなかったに違いない。そう思えるほど、それは甚大な異常性を漂わせていた。

 そして。何の前触れもなく、開戦の合図は鳴り響く。

 叫喚。獣の咆哮。だがそれは、木龍が発したものではなかった。

 海老原先輩が叫んでいる。獣のように。擬獣のように。反り返って見えた顔は尋常ではなく、白目を剥き、怒りに染まり、理性というものが剥がれ落ちた異形の相と化していた。

 震えているのは、俺自身だけではなく、空気そのもの。この空間すべてに、絶えず電撃でも走っているような、現実離れした光景に視界が霞む。

 そして現実と、記憶の中の肉塊が重なったとき。木人形の腕のように鋭い先端を持つ枝が、蛇のように蠢きだす。砕けた床と窓ガラスを這い、一斉に向かってくる。

「くそ……!」

 その動きは思ったほど速くなかったが、とにかく数が多い。手にしたモップの柄など、何の役にも立たなそうだった。これが本物の武器ーー槍か何かだったとして、それは変わらなかっただろう。

 銃器、いや火炎放射器でもあったなら。少しくらい、抵抗らしい抵抗もできたかもしれない。俺でも、一星や会長の十分の一くらい、活躍できたかもしれない、なんて。そんな夢を見るくらいに、俺の頭はぼんやりとしていて、脚も全く動かなかった。

 一星……。

 ごめん、無理だった。結局俺は、どこまで行っても応援団で、応援するしか能がなくて、一星の期待には応えられなかった。

 そう言えば良かったのに。俺には無理だって、ちゃんと言っておけば。一星も、会長も、今すぐ逃げれば助かるのに、俺が何かすると思い込んで、まだ一人で戦っていて……。

 嬉しかった。嬉しいと思ってしまったんだ。

 一星に。会長に。兄さんに。託されて、頼られて、俺にも『何かがある』と思ってしまった。

 応援団なのに。応援以外でも、何かできることはあるって。

 俺には応援しかないって、とっくに気づいていたのに。それなら応援を極めてやるんだって、そう決めたのに。

 自分で決めた自分を裏切った。その結末がこれだ。

 今度こそ、俺は死んで。

 我妻さんや剣道部のみんな、先生たちも死んで。

 光永会長も。

 一星も。

 みんな死ぬ。俺のせいで。俺が粋がったせいで。

 本当に、情けない。

 本当に、悔しい。

 本当に、俺は。


 俺には本当に、何もないと。

 諦めて、絶望して、枝が届く前に膝が折れようとしていた、そのとき。


「伏せろ、一格ッ!」


 慣れ親しんだ、あいつの声が、聞こえた。

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