応援挽歌 28
一瞬、視界が明滅した。
目眩、というには意識ははっきりしていた。であれば気のせいで片付けられるほどで、辺りを見回しても何もなかった。ただいつも通りの校舎で、悠助が去ったことで人影一つなくなったというだけの違いだ。
と、思った矢先。
「熱っ」
左手に、熱を帯びた痛みが走った。まるで火に手を突っ込んだようだったが、当然そんなはずはない。反射的に手のひらに目をやって、
「……は?」
絶句した。喉の奥がひきつって、まともな人語をひねり出す機能を失ったかのようだった。なにせ目の前にある自分の手が、明らかな異常を示していたから。
一言で言ってしまえば、タイマーだろうか。
黒い文字で、二桁のアラビア数字が記号を挟んで表示されていた。文字は点滅し、その度に一番右の数字が一つずつ減っていく。
五十九と四四。それが一体何なのかは、俺には分からない。そもそもどうしてそんなものが、俺の手に映されているのか。どうやったらこんな状況が起こりえるのか。何も分からないまま、その瞬間は訪れた。
誰かの悲鳴。
誰かは分からないが、恐らく女生徒のものだろう。
何か――恐らく、想定するより遙かにまずい何かが、起ころうとしている。そんな予感を抱くや否や、左手に残留する痛みを振り払い、剣道場へと駆けだした。
その道中。視界の端で、何者かが動いたような気がした。
東館から中庭に出た直後のことである。思わず停止し、周囲を見回す。
ただ、何も異常は見られなかった。出てきた東館、その窓、外壁、中庭を区分けするフェンス、剪定された低木――すべていつも通りにしか見えなかった。
悲鳴に続く声は何も聞こえない。俺のように駆けつける誰かも、逃げてくる誰かも、一人として視界に映らない。危機感は募る一方で、立ち止まってなどいられない。再び、多くの人がいるはずの剣道場へ向けて走り出した。
喉が渇く。朝の冷えた空気が口内の水分を奪う。しかしそんなことを気にかける余裕もなく、剣道場へと到着する。
駆け込んだ剣道場で動いている人間は、一人の例外を除き、誰もいなかった。
女子剣道部の部員十七名全員、床に倒れ伏していた。全員防具は着けたままである。面をしている人は分からないが――
面をしていない部員は苦悶の表情を浮かべ、意識を失っているようだった。もちろん、それがもう手遅れである可能性を、俺は否定できない。
そしてもう一つ、明らかな異常が見て取れる。剣道場の中は、まるで台風でも通り過ぎたかのように、壊れた木片が散乱していた。
「おい! 何があった――一星!」
唯一動いている例外である一星は、倒れている部員のうち一人の様子を窺うようにしゃがみ込んでいた。胴や垂は付けたまま、面と籠手は外している。
「大声を出すな、たわけ。気を失っているだけだ。何が起きたかは――私にも分からない。個人差はあったが、みな急に卒倒しだした。それから」
一星は真剣な面持ちで、左手をこちらに突き出した。
「あっ、それ」
その手のひらには、俺と同じタイマーが表示されていた。数字も、俺のタイマーと同期されているようで、全く同じだ。
「やはりお前もか。この状況、単なる事故の類いではない――明かな害意を持った『攻撃』だ」
「攻撃って……一体誰が」
「聞くまでもない。我々を敵視している集団は、少なくとも現段階では一つきりだ」
それは、つまり。ヨアヒムや、海老原先輩の属するグループ――『VAX』ということになるのか。確かに彼らであれば、一星や俺に再び攻撃を仕掛けてくる可能性は大いにあった。
でも、と思わざるを得ない。
周囲を見渡す。今日偶然学校に来ていただけの、無関係な女子剣道部部員たちの惨状を見る。大会に出るため、休日を返上して努力していた彼女たちの姿を、見る。
……どうして。
「だが、肝心の敵の姿は未だに見えない。加えて、この時間制限を思わせる掌の表示……『見つけてみろ』という宣言だ。猶予はあと四十五分。一刻も早く元凶を見つけ出し、叩かねばならない。そうでなければ――」
そこで、一星が喋るのをやめた。
それと同時に、かたん、という乾いた音が剣道場に響いた。
音の先に見えたのは、散乱した木片の一つだった。たまたま、木片が何かの拍子に転がっただけだと思った。
だが。
「なんだ……?」
乾いた音が、鳴り止まない。
それどころかどんどん大きく、多方面から聞こえるようになっていく。それは蝉や蛙の大合唱のように反響し、暴力的な音量でもって周囲を取り囲んだ。
そして、異変はピークに達する。
木片から、新たに芽が生えてくる。さらに、何もない床からも新たな植物が現れ、瞬く間に成長していった。
人間と同じくらいまで成長したソレは、手や足のような四肢を備え、なおも大きく変じていく。
そして、それは剣道場全体に波及し――あっという間に俺たちは、不気味な木の人形に包囲されてしまった。
「気を抜くな、一格。其奴らは――恐らく、人間の生気を糧とする樹木の化け物だ。擬獣の分体なのか何者かの能力なのかは定かではないが、放っておけば間違いなく、ここにいる者たちを襲い、死に至らしめるだろう」
死に至らしめる。
気が遠くなりそうなのを、唇を噛んで耐えきった。
「なんでだよ! みんなを攻撃する理由なんて、どこにも――」
「気を抜くなと言ったぞ、たわけ!」
一星が、怒号と共に俺の方へと突撃してくる。かと思いきや脇を抜ける。
振り抜かれた一星の刀――それは竹刀ではなく、本物の刀『八握剣』だった。勾玉が宙を舞い、白刃が軌跡を描く。
一拍遅れて振り向くと、そこには納刀する一星と、背骨部分を一刀両断された木人形がいた。
「状況を見ろ、一格。現実から目を反らすな。理由など後から考えればいい。だが、ここで戦わなければ、この者たちに『後』はない!」
一星の鋭い声、その一つひとつに、斬り付けられているような衝撃を感じた。
それは、そうだ。彼女たちが気絶しているのは事実で、起こす手段がないのも事実だ。そして、みんなを標的として動く化け物が、目の前にいるのもまた事実だ、夢でも幻でもない。
それは分かる。分かるけど――
『支障ありませんか。一星さん、一格さん』
そのとき、突如として、頭の中で女性の声が響いた。
「なに、だれ?」
「撫子か」
狼狽する俺など歯牙にもかけない一星の問いに「はい」と返答があった。
言われてみれば、聞き覚えがある。それはつい昨夜の話、あの城の中で対面した女性のうち一人、ツナシさんだ。
『ご無事でなによりです。いま本拠から、私の能力で会話しています。そちらにすぐ向かうことはできませんが、おおよそ状況は把握しています』
そんな声が聞こえる最中でも、一星は止まらない。次々と女生徒に襲いかかろうとする木人形を一人で処理していく。
木人形は、単体としては一星の相手にはならない。だが、ただひたすらに数が多い。一星ならいくらでも倒せるのだとしても、いつまでもこの状況のままでいいとは思えない。
「何が起きてるんですか?」
ひた走る一星が、何か文句でも言いたそうな顔をしていたので、先んじて俺から聞いた。
ツナシさんは、若干のためらいのあと、その言葉を口にする。
『単刀直入に言えば――『ゲーム』が始まりました』
「……ゲーム」
その言葉の意味と現状のそぐわなさに、またも違和感を覚えてしまう。だが、そんな問答を今している場合でないのは確かだ。
「VAXか」
一星が、忌々しげに呟く。
『はい。その手の時限表示、それが今回の目印だと聞いています』
やはり、そういうことか。状況を整理すれば、件のゲームが開始され、そのフィールドとしてこの冬樫高校が選ばれた、という話になる。しかも、何の関係もない他の生徒や先生たちまで、巻き添えにして。
「ゲームってことは、クリア条件があるんですよね?」
恐らく自分からは聞かないであろう一星に代わり、俺が情報収集の役目を担う。
『直前に通達がありました。今期開催されるすべてのゲームにおいて、我々の勝利条件は一つ。特定の範囲内に隠された宝を奪取すること』
「宝――」
『八握剣の勾玉です』
さしもの一星も、その一言には切っ先を鈍らせたらしい。一瞬だがよろめいて、木人形に包囲されかけた。
「一星――」
「私に構うな、たわけ!」
怒りに任せたような一太刀で、木人形が三体まとめて吹っ飛んだ。本当に、一星本人への心配は要らなそうだ。
『参加者は、開始時点でその場にいたものから選出されるそうです。結界の制約がここでも活きているため、その場にいる参加者以外の能力者は、例外なく弱体化を受けるそうです』
「それって――」
よく考えなくても、俺も参加者に数えられている、っていうことだよな。俺なんて、弱体化を受けようが受けまいが、戦力になんかならないのに。
「この木の化け物は、VAXの仕業なんですか?」
『正確には、彼らの放った擬獣の分身体です。とは言え、VAXの構成員もまた、擬獣本体の周辺にいるはずです。どうか、警戒を――』
そこで、なぜか声が途絶えた。それと同時に、剣道場に現れた木人形の最後の一体が、一星によって両断された。
「どうした」
「いや、ツナシさんの声が――」
一星は息一つ上げていない。ここで気を失っているすべての人を、余力を持って守り抜いたということか。
『失礼しました、別の通信が入り……』
再び聞こえたツナシさんの声には、どこか焦りを感じた。その理由は、すぐに理解に至る。
『申し訳ありませんが、救援要請です。現在、その学校の職員室でも、同じように木人形が出現、数名の教師が襲われています』
「え!?」
そうだ、ここ以外にも人はいたんだ。まるでそういうニュースでも聞いているかのような錯覚を、奥歯を噛みしめて拭い去る。
早く助けに行かなくては。いや、でももし一星がここを離れたら、剣道部員は誰が助ければ……?
『幸か不幸か、今日は光永さんも登校しており、職員室に出現した木人形と戦っています。しかし――どうやら今回、彼はゲームの参加者として選出されていません。つまり』
誰かが行って助けないといけない、ということか。先ほどのルールが本当なら、光永会長は戦う力が抑えられているはずだし――本人の言葉を信じるなら、そもそも戦うには不向きなはずだ。
「一星、光永会長が――」
「悪いが」
一星が救援に向かう様子はない。刀を抜き、俺に背を向けている。
だが、それは何も、一星が冷酷な人間だからというわけではない。
――かたん、と。音がした。
「そんな……」
一星が粉砕した木人形、その亡骸から。再び、新たな木人形が生じようとしていた。
「ツナシさん、無理です! こっちにもまた敵が、敵が!」
『ですが、このままでは光永さんや、教師の方々が……』
喉が締め付けられたように乾き、呼吸がおぼつかなくなる。初めて聞くツナシさんの焦燥の声すら、頭に入ってこない。
こんなの何かの間違いで、本当にただのゲームで、人が襲われるとか、ましてや死ぬとか……そんなの、悪い冗談でしかないんじゃないか、いやそうに違いない、と。冷静に理屈を組み立てようとする呑気な思考に向けて、そんなわけがないだろうと直感が叫ぶ。
犠牲者が、出る。
誰か。誰かが――。職員室は東館の中だ。いくら一星といえど、これだけ離れた二ヶ所を守りきることはできない。一星の手で守りきれない誰かが、絶対に犠牲になる。
誰かが――?
脳内で火花が散っているようだった。
火薬が次々と引火して、連鎖的に炸裂している。
何がゲームだ、娯楽遊戯だと、ふざけるな。こんな非道を遊び感覚で実行し、関係のない人たちを巻き込んで殺そうとする、そんなものの何が――!
「狼狽えるな、たわけ!」
一星の怒号と、地響きを起こすほどの踏み込みが、狭まっていた視界を一気に切り開いた。
一星は再び、木人形の一団を一掃せんと猛っていた。
「職員室へ向かえ、一格!」
「えっ? だ、だけど、俺は」
「行け! そこに待っている者がいるのだろう! 行かずしてお前は、お前の正義を誇れるのか!」
「……!」
強い言葉に、心が揺さぶられる。
俺なんかが行ったところで、その先に待っているのがここと同じ状況であるなら。俺にできることなんか何もない。その場にいるという光永会長と、守られるべき先生たちと、仲良く共倒れするくらいしか、俺にはできない。この命を代償に、数秒誰かを生き長らえさせる――できて精々、そのくらいしか。
でも。それでも。会長が、誰かが、応援を必要としている、のなら。
異常なのは自覚している。これはゲームじゃない、何かスポーツの試合でもない。声援で力が漲って勝負に勝てるとか、そういう次元の話なんかじゃない。そんなこと、頭の芯から理解できているはずなのに。
行かなきゃ、と。
行って、この気持ちを、声に乗せて届けなくちゃ、と。
そんな意欲が、胸のどこかから溢れてくる。
だって、俺は。
俺は、応援団だから。
「案ずるな、一格」
思わず、一星の方を見、その顔を凝視する。
こんな絶望的な状況を、俺以上に理解しているだろう一星が。今も刃を翻し、話の通じない化け物を屠り続けている一星が。――力強い声で、俺の名を呼んだから。
「私はお前に、死にに行けなどと言ったつもりはない」
一星の息が上がっている。確実に消耗してきている。それでも、その瞳は誰よりも強く――目の前の俺を、信じるように。
「お前には既に、誰かを守る力がある。思い出せ、そして自覚しろ。今のお前にまだ足りないものがあるとすれば、それはただ、願うことだけなのだと。界装具とはそもそもに、己が願いの具現であるのだと」
木人形たちの包囲が崩れている。まっすぐ切り開かれた道は、剣道場の入り口、東館へ向かう唯一の道しるべ。
「頼んだぞ、野宮 一格!」
一星の信頼を背に、俺は駆け出していた。




