応援挽歌 20
「穏便に引き下がってもらえて助かりました。いや本当に」
海老原先輩、そしてヨアヒムが去って行ったのちに。後ろを歩く俺と一星に向け、光永会長が溜め息交じりにそう言った。
「勝ち目はなかったと?」
「ああ、ごめんなさい。貴方を侮ったわけではありませんよ、八剣さん」
背後から睨みを利かせる一星に対し、会長は両手を挙げて無抵抗を示した。
一星も、そこまで怒気を露わにといった風ではなかったが。先ほどの戦いを見ていたら、会長が平伏したくなるのも無理はないだろう。
腫れ物だ、これじゃあ。
「僕は、その……いわゆるところの、雑魚でして。界装具は持っているんですが、そこら辺の擬獣にすら勝てません。あの場で総力戦となれば、僕という足手まといがいるこちらが負けていたでしょう」
そう言えば、と先ほど見た会長の顔をよくよく思い出してみると、額に脂汗が浮かんでいた。どうも謙遜などではなく、本当に危なかったらしい。
「確かに、あまり強そうには見えないな。身体作りも必要十分といったところで、武術の心得もさほどないのだろう」
仰るとおりで、と会長はへりくだる。
なぜ一星は一目で、そんなところまで看破できるのか。そもそも真冬の外套込みの外見だ。まさか足運びだけで判断したということなのか。
でも、じゃあ。それが分かるなら、なぜ。
「の割には、敵の引き際が潔すぎたな」
「ああ、それは――」
会長が一呼吸置く間に、ヨアヒムの言葉を思い出す。会長の啖呵――今思えば完全なハッタリだった訳だが――を受け、ヨアヒムは即座に撤退を申し出ていた。会長が雑魚だというのであれば、あの反応はないだろう。
「まあ、彼らと僕はまだ戦っていないので、未知数と見られているのでしょう。慎重、冷静沈着、石橋を界装具で殴って渡るタイプ――あるいは、そういう実力の知れない相手から、よほど痛い目に遭わされたのかも知れませんね」
ありがたいことですけど、と。会長は自嘲気味に笑っていた。
会長は、意外にもギャンブラー気質なのかも知れない。一歩間違えたら全滅もあり得たというのに、そこまでの危ない橋をよくも平然と渡ったものだ。
本当に、意外。そういうことをする人では、ないと思っていたけれど。
「…………」
ともあれ。そんな風に話しながら、かれこれ十五分は歩いたろうか。あの倉庫群から雑木林に戻り、どこを目指してか直進を続けている。
足場も視界も悪いもので、一星はともかく、俺は何度もツタやぬかるみに足を取られそうになっていた。
それでも今は、会長の後をついて進むしかない。たとえその会長が、俺と同じく悪路につまづきながら歩いていても、である。
「とりあえずは、こうして無事に危地を抜けられたことを喜びましょう。もう少し先で、ツナシさんたちがお待ちですので」
一星は、相変わらず警戒している様子だった。終始皺の寄った眉間は、探し人の名前が出たところで安心などできない、とでも言いたげだ。
その過剰な警戒心は、きっと俺にも求められているのだろうけど。俺などは警戒のしようもない。過信は危険だと言われたところで、自分を守る手立てすらないのだから。
過去に何があろうと。
誰に何を言われようと。
その事実だけは、どうあれ動かしようがないのだから。
……でも。
「一格」
一星が俺の名を呼んだのは、会長との会話が途切れたタイミングだった。
それでも不意を突かれたように、俺の返事は一拍置く形になってしまった。
「奴に言われたことを気にしているのか」
奴、とは。
それは当然、ヨアヒムのことだろう。であれば、一星が言わんとしていることは聞くまでもない。
―― 野宮 誠一は、僕が殺した。
「敵の言うことだ、あまり深く考えるな。嘘にせよ事実にせよ、平静を乱せば思う壺だ。元より、倒すべき敵であることに変わりはないだろう」
そう言われて、嘘かも知れないという可能性があることに、俺はようやく気が付いた。敵対者、あまりにも許し難い相手の言い分を、なんの根拠もなく信じ込んでいた。冷静さは、確かに欠いているようだった。
「……いや、でも」
兄さんを、殺した。
それが仮に、本当に仮に、事実だとして。俺は一体、どうしたかったのか。
その言葉を聞かされた瞬間のことを思い出す。
許せないと思ったか――思った。
ふざけるなと思ったか――思った。
仇を取ってやると思ったか――いや。
仇であるアイツを、殺してやると思ったか――いや。
いや。たとえ冷静さを失っても、論理的な判断力を損なっていたとしても、そこまで強い感情に見舞われた訳ではなかった。それはきっと、俺にとって兄さんが、とうに過去の人間になっていたからだろう。もしかしたらそれすらも、兄さんの思いやりだったのかも知れない。
そうだ、つまるところ兄さんは、自分の死を偽装して、殺し合いの世界に飛び込んだのだ。家族を、俺を、巻き込まないために。必要以上に悲しませないために。最期まで本当に、本当に兄さんらしい。
でも、それでも悲しかった。
兄さんの、輝かしいはずの未来が、奪われてしまったこと。
それが、誰かの手によるものだったということ。
仕方ないの一言で、片付けることはできない。あるべき状態ではないと、それは間違いなく感じていることだった。
「罪に問うことは、できないのかな」
できないな、と。一星は、予め用意されていたかのように即答した。
「界装具の力を行使した殺人を、国の法律で裁くことは難しい。そもそも、異能者を閉じ込めておける檻など、国家権力も持ち合わせてはいまい」
一星の言うとおりだろう。疑わしきは罰さずがこの国の大原則。仮に相手が自白したとして、証拠不十分での釈放が目に見えている。
それに、怪物とすら戦えるような能力者を、撃ってはいけない拳銃一つで制圧しろというのも無理な話だ。
「……でも」
じゃあ見逃すしかないのか?
罪も罰もないとして、ならば無罪だと。人を殺すことさえ、法律が働かなければまかり通るのだと。そんな暴論に納得できるのか?
無理やり自分を納得したとして、じゃあ――兄さんは?
兄さんは、どこへ行くんだ?
「もしも、相手を許さないなら」
一星を見る。
一星は強い視線で、前を――どこか遠くを、睨んでいるようだった。
「お前が証明しろ、一格。お前の兄の正義を、お前の兄に代わって。お前自身が、兄の正義を信じるならな」
正義を、信じるなら。
そんな大仰な言葉が、この感情に相応しいのかは、俺には分からなかったけれど。
ただ。法に従い、罪を償わせることができないのであれば。
俺がなすべきこととは、きっと――
「お話中すみませんが、到着ですよ」
光永会長が言って、前方を指し示した。
その先に待ち人はおらず、特別な施設がある訳でもなかった。あくまで、これまで歩いてきた雑木林の延長線。暗がりに溶ける木々が、幽霊のように揺れているだけだった。
「東区のショッピングモールに行くんじゃ、ないんですね」
「出入り口は一つではない、ということです。ご心配なく。どこから通ろうと、目的地へは行けますので」
出入り口、というのは比喩ではないらしかった。目の前の、何もない空間こそが、目的地への経路であると会長は言うのだ。
「ツナシの魔本の力か」
一星には心当たりがあったようで、納得したように頷いていた。
「ええ。場所が割れたとしても、許可のない方は通れないそうで。もちろん、お二人は許可済みとのことですので、どうぞこちらへ」
言いながら、光永会長の姿が忽然と消えた。
特に何の変哲もない木々の間を、歩いて抜けただけだったはずだが。それがつまり、入り口ということなのだろう。
「行くぞ、一格」
張り詰めたような声で呟く、一星に続いて。俺もまた、その領域へと足を踏み入れた。




