応援挽歌 18
それに気が付いたのは、本当に偶然だった。
何かが近付いている。
人ではない。鳥でもない。何かが空から急速に、この場へ飛来しようとしているような、そんな気がしたのだ。
風を切る音を無意識に捉えたのか。
ただの気のせい、当てにならない第六感だったのか。
いずれにせよその予感は、叫んだ後で急速に現実味を帯びた。
視界を縦に割るかのごとく、閃光が降ってきた。その狙いは言うまでもなく、今まさに刀を振り下ろそうとしていた一星に違いなかった。
一星はギリギリで気付いたようだった。刀を止め、脇目も振らずに飛び下がった。
直後、光が爆ぜた。
爆音が鳴り響き、凄まじい地響きで思わずしゃがみ込む。
目がくらみ、いきなりのことで前がよく見えない。一星は――恐らく無事だとは思うが、安否は分からない。
「一星、無事か?!」
「そんなことより警戒しろ! 新手だ! しかも奴は――」
その後の一星の言葉を、俺は聞き逃した。いや、確かに聞いてはいたのだが、あまりの内容に記憶が飛んでしまったようだった。
「流石だね。一応、殺す気ではあったんだけどな」
その声が届いた途端、耳の奥が痛みを覚えた。
「初めまして。あんまり意味はないけれど、初対面ではあるんだし。とりあえず、挨拶からさせてもらってもいいかな、お二方」
視界が徐々に戻っていく。新たに現れた一人分の影を捉える。
声の主が、今目の前にいることを感じながらも、どこか違和感がつきまとう。
「役職名で失礼。僕は〈ヨアヒム〉。無理に覚えなくていいけど、まあ、名前くらいは記憶できるんじゃないかな」
その人物の風貌を、言葉で表すのは困難だった。
一目した瞬間は、若い男のようにも見えた。だが、次の瞬間には老婆のようにも見え、話している途中で幼い少年のようにも見えた。
声も同じだ。男性のようで、女性のようで、中性的でもあるように聞こえた。
それは自然体のようで、それでいてあまりにも不自然だった。ともすれば、〈ヨアヒム〉と名乗る擬獣であるのだと説明されれば、信じてしまいそうなほどに。その姿は何もかもがおかしかった。
誰かがいるのは確かなのに、それが誰だか分からない。まるで、見えないモザイクでも掛かってるかのようだった。
「ああ、無理をしない方がいいよ。さしもの八握剣の継承者といえど、この『隠蔽』は破れない。理由は説明しなくてもいいよね? 僕らだって夜くらいぐっすり眠りたいんだよ。君たちの魔本のような、便利な能力でもあれば話は違ったけれど。まあそこはそれ、メリデメの釣り合いは取れているから文句もない」
隠蔽、つまり何かの技術、何かの力で、正体を隠しているということだろうか。それもまた、界装具の持つ力ということなんだろうか。
彼――〈ヨアヒム〉という男性名を頼りに、便宜上男と認識しておくが――は、どうやら笑顔でいるらしかった。
「で、なぜ僕がここに来たのかも、別に説明は必要ないよね。まあ、彼とはそこまで仲がいいわけではないけれど、それでも仲間は仲間だ。仲間を傷付けられて黙っているほど、僕は非道ではないつもりだよ」
そう語る〈ヨアヒム〉の背後では、海老原先輩がこちらを睨んでいた。まだ伏した状態で、起き上がれるほど回復したわけではないようだ。
「御託はいい。敵だというなら是非もない――二人まとめて掛かってこい」
一星は、まだ戦う気だ。
ヨアヒムが、海老原先輩の仲間であることは疑いようがない。直接言わずとも、海老原先輩を助けに来たのも間違いない。
二対一がずるいとか、フェアじゃないとか、そんなことを言っても仕方がないだろう。これはスポーツの試合ではなく、本物の殺し合いなんだから。どれほど卑怯でも生きていれば勝ち、どれほど正しくても死んでしまえば負け。少なくとも、一星はそういう戦いを挑んでいる。
海老原先輩を圧倒した一星であれば、二人相手でも勝てるだろうか?
いや、無理だ。なぜならさっき、一星自身がそれを否定していたはずだ。
『そんなことより警戒しろ! 新手だ! しかも奴は――』
しかも奴は――
その先があまりにも意外すぎて、頭が理解を拒むほどだった。
そう、一星は確かに言ったのだ。
演技でもなく、過大評価でもなく、確かに一星は、
『しかも奴は――私よりも強い』
あのヨアヒムは、自分よりも強いと。確かにそう言ったのだ。
「勇ましいね。最後まで前線に出てこなかった君のお兄さんとは、性格も随分と違うみたいだ。それとも、失敗したお兄さんとはあえて別の戦略を取ったということかな」
ヨアヒムが繰り返した『兄』という言葉に、一瞬だけ驚いた。なぜここで、兄さんの話が出てくるのかと。
だがよくよく考えてみれば、ここで言及されたのは『一星の兄』という意味で――
「挑発のつもりであれば」
凍り付くような、一星の声に心臓が跳ねる。
「無駄なことだ。お前が八剣 一臣とどう戦ったかは知らないが、私には一切関係ない」
その小さな背中から、抑制された強い感情が伝わる。手にした凶器でもって、今にも斬りかかりそうな気配があった。
「そうか、そうだね。死んだ人間に固執したところで、生産性なんか何にもない。お葬式とかああいったものは、故人のために執り行う体だけど、実際は遺された人向けの式典だしね」
ほんとに無駄だ。君の言うとおりだ。
投げやりに放たれたその言葉に、一星はどう思っただろう。
苛立ったか。悲しんだか。何も感じなかったか。
少なくとも、俺は。
俺は、少し――頭に霧が掛かったような気分だった。
「おい、てめえ」
そこでようやく、海老原先輩が立ち上がった。目立つ外傷はなかったが、両脚の震えから、立っているのも辛そうだった。
「なんだい? あ、僕ヨアヒム。前もちょっと話したけど、会うのは初めましてだったかな」
「勝手にペラペラ喋ってんじゃねぇよ」
どうやら海老原先輩は、横槍を入れられたことに立腹しているらしかった。仲間と言っても、気心の知れた仲という訳ではないのだろうか。
「まあそう怒らずとも。お節介は承知の上で、それでも助力を申し出たい。なにせ相手は、評判だけで言えば『最強』だ。ここは二人で、確実に潰しておくべきじゃないかと思ってね」
ヨアヒムの言葉を聞いていると、ファミレスか何かで雑談でもしているような、そんな気軽さを思わせる。
目眩がしていた。その気軽さで、一星を潰すと――殺すと、言っているのだ。強いとは言え、女の子一人を、大の男二人で。
それがまかり通るような、彼らはそんな世界の住人なのだ。
「それとも、何かな。復讐は自分の手で成し遂げなくちゃ意味が無い、みたいな格好いいことを言いたいのかな? 〈ディーター〉」
「…………」
海老原先輩は応えない。目を閉じ、取り戻しつつある調子を確かめるように、一つ深く息をついた。
「知ったような口を叩くんじゃねぇ」
がちり。
がちり。
怒りを代弁するような金属音を鳴らし、海老原先輩の両手が握りしめられる。
「要は、目標に辿り着けばいい。俺は八握剣の持ち主を――八剣 一星を殺す。それが叶わなければ、意味がないんだから。手段も問わない、義理立てもない、使えるものすべて、どんな手でも使って、俺はそこに到達する」
籠手の色は、深緑。
より一層力を増したその両腕で、それでもなお全力を賭し、一星と相対すると宣誓する先輩は、
「だけど、お前は気に喰わねぇ。何がヨアヒム、何がディーターだ。外野は大人しくすっこんでゲームでもしてろよ」
助けに入ったヨアヒムを押し退け、先輩は再び一星と向き合った。
えぇ、と。ヨアヒムは腑に落ちなさそうな声を上げたが。やがて諦めた風に肩をすくめた。
これで再び、一星と海老原先輩の一騎打ちになるだろうか。
いや、それはもうほとんどあり得ない。初手で奇襲を仕掛けてくるような男だ。であれば、海老原先輩の拒絶を無視し、一星の背中を襲うなど当然のごとくやってくるだろう。結局のところ、さっきより数段不利な状況になったことに変わりはない。
それでも、一星は退く気がない。
勝ち負けではない。有利不利でもない。彼女が戦場に立つ理由はきっと、彼女の言った『正義』のためだ。
勝てるかどうかは問題じゃない。相手が誰であれ、どれほどの数であれ、一星は逃げてはいけないんだ。そう覚悟を決めているんだ。
彼女の後ろ姿は、その意志を雄弁に語っているようだった。
一星と海老原先輩が、少しずつ間合いを詰める。
今度こそ。その決着は、どちらかの絶命を意味するのだろう。
止めなくては。いや、止めようがない。この夜、何度も繰り返した問答が押し寄せて、身動きが取れなくなる。
そんな俺など気にも留めず、二人はまた、相手の命を奪うために武器を――
「そのくらいにしてもらいましょうか」




