応援挽歌 16
「下がれ、一格!」
言うが早いか。俺の名を呼ぶ一星に、海老原先輩の拳が襲いかかる。
まだ二十メートル近くあったはずの距離は消し飛んだ。その岩石のような巨体が、弾丸のように一星に撃ち出された。
「一星!」
突き出された海老原先輩の右腕は、一星の手にある刀の鞘が受け止めた。
その瞬間、鈍い金属音と共に、台風もかくやという突風が暴発した。
立っていられなくなり、思わず尻餅をつく。それほどに強い衝撃だったのは確かだが、両脚に力が入らないのはそのせいじゃない。
最悪の結果をみすみす招いた失意、無力な自分に対する失望。そんなものに浸っている暇もないはずなのに、立ち上がることすら、俺にはできないでいた。
それでも、目の前で始まってしまった戦いを、見失うわけにはいかない。そう心に言い聞かせて、なんとか視線を持ち上げる。
海老原先輩は、その両腕で絶え間なく攻撃を繰り出していた。地面に触れればクレーターを形成し、空振ってすら甲高い風切り音が鳴った。回避のために一星が後方に飛べば、恐ろしい反応で追従し、即座に肉薄してくる。
尋常離れした身体能力だった。先輩は元々恵まれた体格ではあるが、そんなレベルでは到底収まらない。昨夜見た大口の化け物、そして先ほどの人狼――あれらの擬獣と比べても、海老原先輩は間違いなく強いだろう。
一星が防戦一方になっていることが何よりの証拠だ。あの拳がかすりでもしたならば、あの細身ではひとたまりもないはずだ。
拳。
海老原先輩は、一星のように刀を携えているわけではない。ただ、単なる素手で殴っているわけでもなかった。
海老原先輩の両手、その前腕部にすっぽりと装備された、青い鉄の塊。それは西洋甲冑に見られるような籠手で、五指に至るまでを湾曲した鋼鉄が覆っている。
伊達や酔狂で、そんな物を身につけている訳ではないだろう。となればあれこそが、海老原先輩の力の源――界装具ということか。
「逃げるだけか! てめえ、その刀は飾りかよ!」
海老原先輩が吠える。
理由は未だ分からないが、その殺意は本物だ。一星がよけなければ、一星が刀でいなさなければ。一星の死という形で、結末はあっという間に訪れただろう。
しかし一星も、単に逃げているだけというわけではないようだった。
回避にせよ防御にせよ、一星は海老原先輩の攻撃を目で追いきれていた。プロボクサーでさえ及ばないほどのスピードを、完全に見切っているようだった。
一星の表情も変わらない。焦燥や恐怖の色はまったく見えず、ともすれば涼しい顔で、紙一重の回避を継続している。体格差を考えても、相手から受ける威圧感は尋常ではないだろうに、そんな様子はまったく伝わってこない。
追い詰められて防戦一方、ではなく。あえて防戦に徹しているだけ、なのか。
先に焦れたのは海老原先輩の方だった。強かな舌打ちが鳴り、不満げな表情を伏せられなくなっていた。
一方的に攻撃しているのは海老原先輩の方、それは間違いない。
だというのに、一発も当たらない。一撃必殺の威力はあっても、その一撃が途方もなく遠い。
むしろ、最小限の動きで回避を続ける一星よりも、体力の消耗は激しいのかも知れない。海老原先輩の息が上がりつつあるのは、この季節では隠しようもなかった。
「――いい加減にしろよ」
その事実を、誰より看過できないのは先輩本人だっただろう。
いくら攻めても攻めきれない。否応なく感じてしまう実力差。俺からすれば、両者とも常軌を逸した能力の持ち主だが。相対してしまえば優劣が生まれるのは必然だった。そう、今の状況を思えば、劣っているのは明らかに海老原先輩の方だった。
その拳が握りしめられる。離れて立つ俺の位置まで、骨の軋みが聞こえそうなほどに強く。
がちり。
がちり。
怒りに任せた攻撃が幾度となく放たれ、空振り、そのたびに鈍い金属音が軋んだ。
「――?」
ふと、違和感に気が付いた。一星も多分気付いているとは思うが、俯瞰して見ている俺の方が気付きやすくはあった。
色が、違う。
海老原先輩の界装具、両腕の籠手。ソレは確かにさっきまで、深い青色をしていたはずだった。
なのに今では少しだけ、緑色が混じっている。ほんの少しの違いだが、光沢に変化が生じているのは間違いなかった。
がちり。
がちり。
がちり。
色の変化、鳴り続ける不快音。だが、海老原先輩はまったく意に介さない様子で、戦い続ける。
先輩の拳は変わらず、一発でも当たれば致命傷に至る威力を誇っている。
余裕を見せる一星が刀を抜けば、或いは勝負は一刀でつくのか。一星の狙い如何では、取り返しのつかないことにもなりかねない。
決着がつくのはいつになるだろうか。今この一瞬あとかも知れないし、もう数十分は猶予があるのかも知れない。
止めなくては、と思った。
まだ間に合うのだ。一星も、海老原先輩も、どちらも死なず、誰も殺さず、この場を収められる可能性が、まだあるはずなんだ。
二人は互いを、敵同士だという。それは、もしかしたら勘違いだったりしないのだろうか。
いや、勘違いでも何でもなく、本当に敵同士だとしても。だからって、殺し合う必要なんかないじゃないか。
糸口はあるはずだ。何か、この二人を止める手段はあるはずだ。そう思って、ずっと考え続けているのに、その答えは一向に見えてくる気配がなかった。
だって。あの二人の視界に、俺はいないから。
この場で、こんな殺し合いを目の当たりにしてなお、俺は当事者ではなかった。
ただの第三者。ただの部外者。そんな人間――応援席に立っているだけの外野に、一体何ができるというのか。
応援席は、応援団の居場所だ。ただの第三者、ただの部外者でも、応援することはできる。その信条のもと、俺はこれまでずっと、全力で声援を飛ばしてきた。
そもそも、俺は一星と約束している。彼女を応援し、彼女を勝たせ続けると。それを反故にするなど、誰が許そうと俺自身が許せない。
だけど。
応援しかできない俺が、その応援を躊躇っている。どんな理由であろうと、殺し合いを応援できる訳もない。
ただの第三者。ただの部外者。応援席に立っているだけの外野のくせに、応援することすら放棄しようとしている。
そんな人間に。
そんな俺に。
何をする資格が、あるというのか。
「――力が増しているな」
ふと、それまで口を閉ざしていた一星の声がした。
「なんだと?」
驚いたのは海老原先輩も同じだった。
「それがお前の界装具――その籠手の有する力か。であれば一つ、認識を改めなければならないな」
戦いながら、攻撃をすべていなしながら、一星は続ける。
「お前のその怒り、その苛立ち、憤り。それは己の力不足に対する後悔ではなく、また相手へ向ける嫉妬とも違う。そのような幼稚な感情ではありえない。即ちそれは、私に対する正当な怒りだ。立ち会っておきながら、正々堂々と向き合わない不遜を糾弾するものだ」
――正々堂々と向き合わない。
確かに、そうとも取れるのかも知れない。一星は未だ刀を抜かず、海老原先輩に対して反撃する素振りも見せない。そうせざるを得ないのだとも最初は思ったが、今は違うと言い切れる。
一星は、この死闘を前にして、加減をしている。
「海老原といったか。お前が望むのは、真っ向からの凌ぎ合いであり――その果ての勝利か。外見や口調の割に繊細で、存外高潔な男だな」
一星が言い終わるが先か、海老原先輩の左足が大きく踏み込まれ、渾身の右ストレートが一星に直撃する。
炸裂音と共に、冗談のような軽さで一星の身体が吹っ飛んだ。
「一星!」
思わず名前を呼んでしまったが、すぐに杞憂であることが分かった。紙一重ではあったろうが、一星は正確に、刀の鞘で攻撃を防いでいた。
それでも、凄まじい威力だったことは間違いない。小柄な一星とはいえ、人間一人が大きく――十メートルほど宙を舞ったのだ。大型トラックに追突でもされたかのようだった。
「七割ほどか」
一星は、怯みさえしない。
中空で体勢を直し、軽々と両脚で地面に降り立った。その程度の芸当は慣れたものだと、幾度となく訓練してきた動作をなぞるように。
「生憎と、私は戦闘狂の類いではない。お前の強さの底も見えた。全力を待つまでもないが、しかし」
一星がついに、八握剣を抜く。
海老原先輩は一瞬たじろいだ様子を見せたが、すぐに怒りで顔を塗り固め直した。
「海老原――お前の気高さに敬意を表し、一つ教えを示そう」
海老原先輩が駆け出す。
大柄による突進は、大型トラックなど比較にもならない。
数トンに及ぶ鉄の塊が、時速数百キロで迫るかのような威圧感。そんなものを前にして、一星は、
「八握剣は、石突に備えられた勾玉にこそ力を宿す。そして本来、備わる勾玉は八つ。故に現状、この刀の力はおおよそ八分の一にも満たない。だから――」
流れる水のように、構えを取る。
猛る神剣を天高く掲げ、
「つまりそれに敗れるお前の力は、それほどに取るに足らないということだ!」
その咆吼は、地獄の底から響く怒号のごとく。
二人が接触する刹那、一星は刀を振り下ろす。
弾け飛んだのは海老原先輩の方だ。ただ、一星と違い受け身も取れず、海老原先輩は身体を激しく地面に噛ませた。
「――この程度なのか」
言ってから、一星は不満そうに鼻を鳴らす。
その台詞が聞こえていたならば、海老原先輩はまた怒り狂ったかも知れない。年下の女子に力比べで負け、勝者に煽られ、プライドを傷付けられたと思うだろうから。
だが海老原先輩にとって、真実はもっと残酷だ。
一星は、吹っ飛んだ海老原先輩など見てはいない。
先の台詞は、自分の握る刀を見て――つまり、一星自身の力に対して言ったのだから。




