応援挽歌 15
「まずは賞賛しよう。夜闇に乗じることなく、姿を晒したその勇気を」
一星の言葉を無言のまま受け、黒い男はゆっくりと近付いてくる。
「では名乗れよ。先日は背を向けて悪かった。私も万全ではなかった。だが、互いに都合が悪かったと水に流そう。これでようやく、存分に打ち合える」
そう言って、一星は刀を――八握剣を掲げて見せた。
黒い男は、名乗りを上げる素振りも見せない。ただ靴音を響かせ、二十メートル先あたりまで近付いてきていた。
だが、男の視線は雄弁に、その抑制された激情を訴えかけてきていた。
まるで仇敵を前にしたような、鋭い眼光で俺たちを――いや、一星を見る。
そう、男は名乗らなかった。
名乗らなかったけれど、それでも。
俺は、その人の名前を知っていた。
「――海老原先輩」
冬樫高校三年、海老原 鐘。
昼休み、藤枝先輩と共に話をした、あの海老原先輩に間違いなかった。そのときと違うのは、私服であることと、長い頭髪をすべて後ろに流して固めていること。
それだけの違いだ。
何も変わらなかった。ごくごく一般の学生であると、そう言って何も差し支えない。登校して、勉学に、あるいはスポーツに打ち込む、当たり前の日々。普通の学生と比してもそう変わらない風体の、その人を。
敵だと。
紛れもない敵なのだと、一星は言ったのだ。
「――てめえは」
名前を呼ばれ、流石に無視はできなかったのだろう。海老原先輩は俺の顔を睨み、苛立たしげに舌打ちをした。
「そういうことか。光永が本当に待っていたのはあの女どもじゃなく、てめえだったわけか」
海老原先輩の言うところが、俺にはよく分からない。何のことを言っているのか、誰のことを言っているのか。俺の理解は追い付かないし、先輩も俺に理解させるつもりはないのだろう。
ただ一つ言えるのは、海老原先輩にとって俺もまた、打倒すべき敵になったということだった。
「それに、その刀」
次いで、海老原先輩は一星の持つ刀へと視線を移す。
「『万全ではなかった』だと? まんまと嵌められたってことかよ、クソが」
悪態を吐く海老原先輩の表情は険しく、ますます敵意を募らせていく。
率直に言って、嫌な空気だった。
帯刀した一星は、言うまでもなく臨戦態勢だ。
そんな一星を前にして、一切臆する様子のない海老原先輩。先ほど倉庫の壁を叩き壊したことを考えても、一星と対立『できる』人であることは間違いない。
この二人が、このあと大人しく別れてくれるとは、とても思えなかった。
敵。敵同士だから、喧嘩だってする。
いや、それは。
喧嘩なんて言葉で、片付くようなものだろうか。
「一星」
「なんだ。まさか、戦うななどとは言わないだろうな?」
「…………」
そんなことを、言うつもりはない。でも、だとしたら俺は、何を言おうとしたのか? 何を言おうとして、一星の名前を呼んだのか。
一体全体、俺の立場で――何を言う資格がある?
一星を手助けすることも、一星を止めることもできない。後ろに立って、応援するくらいが関の山。そんな俺がどのツラ下げて、一星に物申そうというのだろうか?
でも。このまま何も言わなければ。何もせず眺めていたら。この二人は、きっと――
「やる前に、聞いておくが」
俺の思考が追い付かないまま、海老原先輩はこちらの様子を窺うように言った。
「その刀が、八握剣とやらで間違いはないな?」
然り、と一星は答える。
相手が名乗らなかった時点で、一星としてももう、多くを語る気はないのだろう。短く、冷たく。その一言は敵意の表れとして、研ぎ澄まされているようだった。
「八剣 一臣。その名前に聞き覚えはあるな?」
然り、と再び一星は答える。ただ先ほどとは違い、わずかにためらいの時間があったような気もした。
「じゃあいい。余計な時間をとらせて悪かった」
海老原先輩は、一星を睨むのをやめ、天を仰いだ。
それは、見方によれば、戦意を喪失したかのようでもあった。
争うことなく。傷つけ合うことなく。
このまま終わるのではないかと。何事もなく過ぎ去るのではないかと。
そんな風に期待して。一瞬だけ希望を垣間見て。
そして。
「これで心置きなく、てめえをぶち殺せる」
それはいとも簡単に、裏切られた。




