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冬夜の巫  作者: 真鴨子規
第二章 応援挽歌
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応援挽歌 14

 最後の人狼が討たれ、背筋を刺すような緊張感は薄れていた。

 散々走り回ったが、未だに俺たちは件の倉庫群の中にいた。

 それなりに騒ぎになったから、他に人がいれば顔を出しそうなものだが。どうやらこの時間、働き者の倉庫管理者はいないようだった。

「怪我はないな、一格」

 鞘に収めた刀は握ったまま、周囲に目を光らせながら一星は言った。その聞き方は、怪我などあるはずがないと言いたげだったが。

「そりゃあ、ぴんぴんしてるけど」

 直接狙われた訳ではないし、強いて言えば転びそうになったのが少し危なかったくらいか。

「体力はどうだ?」

「体力?」

「随分走っただろう。疲れは感じないのか?」

 言われてみれば、必死で走っていた距離は結構なものだった気がする。ぐるぐる回っていたからよく分からないが、ここからさっきのバス停までの道のりを往復するくらいの距離は優に走ったのではないだろうか。

「体力はあるんだ。応援団で鍛えられてるから」

 体力。肺活量、ないし心肺持久力。そのあたりはこの一年、応援団で目一杯鍛えてきた。他の部活の選手たちが技術も磨いていく中で、俺たちはただひたすら、スタミナを伸ばし続けた。

 その成果が出たのだろう。走っていた時間としては三十分強、マラソンにしては速いペースではあったが、バテるにはまだ早い。

「やはり、自覚できてはいないようだな」

 溜め息交じりに言って、一星は正面から真っ直ぐ俺を見た。

「理解しているか? 先ほどの私たちが、一体どれほどの速さで走っていたか」

「え?」

「自動車よりは速かったぞ」

 一星が言っていることの意味が、最初はまったく分からなかった。

 自動車よりも速く走る?

 人間の瞬間最高速と言えば、時速四十四キロ程度が精々だ。当然のことながら、俺の最高速はそこにすら及ばない。法定速度で考えても、六十キロで走行する自動車を超えるなど、前人未踏以外の何ものでもない。

 でも確かに、そうだ。徒競走のタイムで言えば平均レベルでしかない俺が、あんな化け物から逃げおおせるなんて、考えてみればおかしな話だ。それが事実だとすれば、あの人狼たちが遅すぎたのか、一星と俺が速すぎたのかのどちらかでしかない。

 人狼が鈍足だったという、その線はないだろう。あの姿で、あの四肢で、あの膂力で、脚が遅いはずがない。

 俺たちが――いや、俺が、そんな速度でどうして走れる?

 一星はいい。あんな人外を殲滅できるんだから、相応に足も速いだろう。

 だが、俺にそんな力はない。足だって、一星が兎だとすれば俺はナマケモノだろう。どう考えても、さっきの状況とは辻褄が合わない。

 ということは、考えられるのは一つだ。これ以外にはあり得ない、という自信を持って、俺は一星に答えを告げる。

「一星の力が、俺に伝播した?」

「違う」

 あっさりと、本当にあっさりと切り捨てられた。

「そういう力もあるだろう。界装具の力は千差万別、味方である他者を強化することにこそ本領を発揮する能力もある。だが、今の八握剣にその力はない。この刀が強化するのは、持ち主である私の運動能力のみだ」

 あまりにもはっきりと否定されたものだから、怒られたのかとも思ったが。一星の表情に怒気はなく、淡々と口を開いているのみのようだった。

「でも、それくらいしか……」

「たわけ。もう一つあるだろう。気付いているだろうに、そんなことはあり得ないと、最初から切り捨てたのだろう」

 簡単に気付けて、でもすぐに否定した、可能性。

 それは、確かにある。

 あるけど、それは、そんなことは――

「一格。まだ警戒を解くなよ」

 一星にそう、言われたからだろうか。

 ふいに、誰かに見られているような気がした。

 どこから、という訳ではない。右なのか、左なのか、後ろなのか。辺りを囲む倉庫の影か、こちらを見下ろす屋根の上か。俺たちを窺う視線、地面を踏み締める音、服がこすれ合う衣擦れ、息遣い。どこからなのか、何がなのか、ほとんど分からないのに、存在感だけは肌で感じる。先ほどの人狼の気配とはまた違った、不気味な粘着性のある感覚だった。

 目に見える脅威がなくとも。いや、目に見えないからこそ、その正体に想像がかき立てられ、最悪の結末を想起してしまう。

「出てこい。いるのは分かっている」

 夜の倉庫群に、一星の声が木霊する。

 俺たちを見る誰かに向けて。

 一星を狙う誰かに向けて。

「そちらにどんな大義があろうと、この期に及んで身を隠す者を、私は正義とは認めない。正々堂々、尋常に立ち会うがいい。界代八剣流、八剣 一星が、この八握剣にて迎え撃つ」

 張られた声は凜々しく、時代劇の侍のようだった。実際に刀を帯びて、堂々と名を名乗る一星の姿は、まさしく少女剣士と呼ぶに相応しかった。

「それでもなお、姿を見せぬならば疾く失せよ。我が刃は最強の名を冠する神剣。臆病者にくれてやるほど安くはない」

 一星の挑発が、終わるや否や。

 何かが爆ぜたような衝撃音を、いち早く右耳が捉える。

 ガラガラと、硬質な何かが崩れ落ちる音の出所を、俺たちは一斉に視界に収めた。

 距離にして五十メートルほどさき。そこには、一人の男がいた。

 電灯の光に照らされても、顔の判別は付かない。ただ、先の人狼たちと比べても遜色のない長躯で、四肢も太く引き締まっている。

 服装も、この場所からはよく分からない。恐らく上下ともに黒色なのだろう。シルエットからすれば、カットソーとボトムスではあるのだろう。

 先の衝撃音の原因は、その男の右手にあった。裏拳でもって、倉庫の壁を強かに打ち付けた結果のようだった。

 それだけならば、一星の挑発に乗せられ、怒りに任せて壁を殴ったという、別段驚くようなことでもなかったのだが。

 殴られた倉庫を、俺は驚愕をもって見つめるしかなかった。

 決して薄くはないだろう倉庫の壁、その一角がまるごと、無残にも崩れ去っていたのだ。

「一格」

 俺を呼ぶ、一星の声は変わらない。

 まるで、川や海や断崖絶壁でも背にしているような。

 そして、まさしく、

「敵だ」

 敵対する誰かと、向かい合っているかのような。

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