応援挽歌 11
西棟の四階へ続く階段を、一人で足早に上っていく。
急いでいたのは、時間が惜しいからだけではない。先ほどの、海老原先輩とのやり取りが、些か以上に心拍数を上げる結果になっていた。
『どうして彼に、あんな質問を?』
別れ際の、藤枝先輩のもっともな疑問を反芻する。
場を和ませようとして出任せを言った、訳ではもちろんない。いつか聞かなければならない、あれは一つのけじめだった。
ただ、あの場で言うべきことでなかったのは間違いないし、俺でもどうかと思っている。先輩同士の衝突を避けるため、という動機がなければ、きっと別の機会を求めていたに違いない。
結局、答えは得られなかったし。
『あまり、無茶はしないことね』
そんな藤枝先輩の忠告に、迷わず頷いた俺は、果たして誠実だっただろうか。
そんなことを考えているうち、気付けば階段を上りきっていた。目的の生徒会室は目の前である。
四階にはもう人の気配はない。これ以上の障害はきっとないだろう、と思った矢先に。
がらりと、生徒会室の扉が勝手に開いた。
扉の向こうから現れた人物と、思わず「あっ」と言い合ってしまう。
現れた人物――折鶴 美優は丸い目をして俺を見上げていた。そして慌てたように会釈をして、小走りに階段を下りていった。
挨拶をする暇もなかった。折鶴が俺を認識したかも怪しいところだ。
ただ、心配していたバッティングは起きずに済んだ。下で海老原先輩と顔を合わせたのも、ある意味好都合だったと言える。
ともあれ、これでようやく、目的を果たすことができる。
少しだけ緊張を実感する。職員室へ入るときと似た感覚だ。
それを踏み越えるようにして右手に力を込め、扉を二回ノックする。
「どうぞ」
聞き覚えのある声に促されるまま、「失礼します」と声を張り、扉を開いた。
初めて入る生徒会室は、他の部室と同様、会議室のようなレイアウトだった。
広さは教室の半分程度だろうか。部屋の中央に長机が二つ置かれ、それをいくつかのパイプ椅子が囲んでいる。正面の窓側以外の壁際は棚で埋め尽くされ、隙間なくバインダーが並べられている。
目的の人物は、俺から見て左手方向、部屋の奥の席に座っていた。
「よく来てくれましたね、野宮君。ちょうどよかった、先客の用件がいま済んだところでした」
生徒会長――光永 直紀は、俺を朗らかな笑みで迎えてくれた。
爽やかに切り揃えられた黒髪は、当然校則に沿った長さだ。
朝礼などで見たときの体格は確か、中肉中背くらいだった。体育会系だという話も聞かないが、痩せぎすという風でもない。体力作りをすれば、運動部でもやっていける身体ではあるだろう。
総じれば、平凡で安定的な、第一印象を落とす要素の削ぎ落とされた姿だ。誠実な性格、学業に邁進する姿勢を評価され、生徒会長の腕章を身につけるに至った。それが今までの、光永生徒会長に対する俺の所感だった。
しかし、こうして対面すると、不思議な雰囲気を感じざるを得なかった。遠目に見ている分にはさほど判別できず、噂に頼るしかなかったが。その両目には、見逃せない特徴があった。
その瞳の色は、この国で見かけることはほとんどない。一般的な黒と比較すれば確かに明るい、淡い褐色の虹彩を備えていた。
「どうぞ、好きな席に座ってください。ああ、少々散らかっているのは気にしないでください。ちょっと作業中だったもので」
言われたとおり、光永会長に一番近い椅子へ腰掛ける。机の上には、生徒会関連と思しき資料や閉じられたノートパソコンが雑多に置かれていたが、意識して視界から外した。
「一応の礼節として、初対面の君には名乗っておきましょう」
手に持っていたペンを胸ポケットに刺し、光永会長は改まってそう切り出した。
「初めまして。生徒会長の光永 直紀です。わざわざ呼び立ててしまってすみませんでした」
「いえ。俺の方こそ、もっと早くに来るべきでした」
礼節などと言うのであれば、最初に生徒会に誘われた段階で、直接返答に来るべきだった。いくら時任先生が良いと言っていたとしても、自分の言葉で断りに来るのが筋だっただろう。そうしなかったからこそ、こうして呼び出されることになったのだから。
「もっと早く?」
色素の薄い会長の目が、不思議そうに瞬かれる。
「君は――野宮君」
はい、と反射的に口に出した。同時に、自己紹介のタイミングを逸したことに気付き、若干の悔いが残ってしまった。
とは言え、そんなことを気にしている暇もない。何か、俺の言葉で困惑させてしまったように見えるものの、原因が思い当たらないのだから。
「僕が今回、なぜ君を呼び出したか、理由に心当たりがあるのですか?」
会長の言葉に、思わず首を傾げてしまう。なぜ呼ばれたか、理由は明白だと思っていたからだ。
「生徒会勧誘の件ですよね?」
「ああ――」
会長は得心がいったように頷いてから、今度は首を横に振って「いや」と続けた。
「その件はもう白紙に戻っています。勧誘の件は、時任先生からお返事を頂いていますからね。まあ、気が変わったということであれば、いつでも歓迎しますが?」
今度は俺の方が首を振った。この短期間で、心変わりがあった訳ではない。
苦笑いを浮かべる会長を見て、話が食い違っていたことを確信した。というか、時任先生の思い込みだったということだろう。いやもちろん、そのことに気付かなかった俺も同罪なのだが。生徒会に呼び出される理由が他にもあるなどと、思いもよらなかったというのが正直なところだ。
「じゃあ、なんで俺を?」
呼び出したのか、と。
その問いに、会長は少し思案するように間を開けてから、少しだけ声を潜めて――話し出す。
「彼女を――八剣 一星を一緒に呼ぶかどうかは、僕たちの中でも意見が割れていました」
一星。
その名前が出た途端、全身に強い緊張が走ったのを感じた。
「ただやはり、鬼贄さんも十さんも慎重派なんですよ。いきなり彼女との接触は、相手方を刺激しすぎるのではないかと」
ツナシ――その名前は、確か。
「僕や一内さんは、君を呼び出すという時点で充分な刺激だろうという意見だったんですけどね。ああ、ひょっとして『VAX』の人たちも、君と同じような勘違いをしてくれていたり? だとすれば、彼女たちの憂慮も無駄ではなかったということですね」
女の勘というやつかな、などと。光永会長は含み笑いをしていたが。対する俺は、内心それどころではなかった。
正直、人名についてはほとんど心当たりがない。『ヴァックス』というのも、文脈から何らかの組織名だろうという推察しかできない。
けれど、分かることはある。
一星の持っていた刀。
擬獣――あの超常の怪物。
この人は、『そちら側』だ。
「君を呼んだ理由でしたね。では用件だけ話します」
いつもの会長の、朗らかに見えていた笑みも、今では不敵な笑みに変わっていた。
不思議な色をした瞳が。ガラス玉のように、鈍い光を帯びているようだった。
この人の目的は未だ分からない。俺や一星に、どういう感情を向けているのかさえ。
ただ、今俺が感じている不気味さは、そういう理由らしい理由が原因ではないように思えた。
そう、ただ――冷や汗が止まらない。
あの会長が。今までの普通の学校生活で、普通に見掛けていた人物である光永生徒会長が。当たり前のように、『そちら側』から声を掛けてきたから。
「僕たちのリーダーから、君と一星さんに伝言を預かっています」
まとまらない思考を持て余す。会長の言葉を追いかけるので精一杯だった。なるべく平静を保つよう心掛けつつも、膝の上で握った拳の震えは止められなかった。
それでも、会長は気にすることなく、その伝言とやらを口にする。
「今日の深夜、日付が変わるころ。東区のショッピングモール『ウェルゴ』の四階でお待ちしています。もちろん、二人で来てくださいね――八剣さんと」




