星と羽翼 19
「元の場所――いや、とにかく遠くだ。安全を確保できたら、すぐ医療機関に連絡するから」
だから、もう少し頑張れ、と。
俺の耳元で、ぜえぜえと息を切らしながら。一星は俺を担いだまま、人気のない路地を進んでいた。
とにかく、遠くへ。安全な退路とは言い難いが、さりとてあの化け物を、人の群に突っ込ませる訳にもいかない。
遠くに聞こえていた喧騒も、今は聞こえない。駅周りから離れたからか、夜が更けてきたからか。いや、死にかけた俺の聴覚など、あてにできたものではないが。
「何が」
起きたのかと。問いかけようとして、咽せ込んだ。
風邪で痰が絡んだ時のような感覚だと思ったが、どうも違う。なにせ口から出てきたのは、赤黒い塊だったから。
「分からない。確認している暇もない。今、万一追いつかれてしまえば、もう――」
逃げられない、とでも言い掛けたのか。一星は頭を振り、俺を背負い直して、また先を進む。
「一星」
「なんだ。あまり喋るな。もう少し離れたら、応急処置くらいはしてやれるから」
応急処置、なんていうレベルの話なのだろうか。
医療のことなんか分からないけれど。こんな俺にまだ、助かる余地があるのだろうかと、思わずにはいられなかった。
「嬉しかった」
「なに?」
一星の声に余裕はない。同じ事を二度言う元気もないのだろう。
遮られないのなら。これ幸いと、俺は続けることにした。
「生きて欲しい、って。言ってくれて、嬉しかった」
「……一格」
この豊かな社会で、死なずに生きることは、多くの場合難しくない。
だから、生きることが当たり前で。成長して、大人になって、働いて、動けなくなるまで生きるのが、当然のように思えてくる。
でも、違うのだ。
国が、人の社会が、どれほど発展しようとも。人は本当に、簡単に死んでしまう。
事故で。病気で。或いは、自分で命を絶ってしまうことだって。
兄弟が、死んだ。
今度こそ確実に、兄さんは死んだのだ。
どういう理由で、どんな気持ちで、あの人が死んだのか。俺には分からないし、もう分かる手段もないのだろうけど。
もしも。本当に、もしもの話。
死ぬ前の兄さんに、一度だけでも会うことができたなら。
俺もきっと、同じように言っただろう。
さっき一星が、俺に掛けてくれたように。精一杯の声援で、兄さんに訴えかけただろう――生きて欲しい、諦めないで欲しい、と。
「俺は、兄さんとは違うけど」
次に意識が沈み始めたら、きっともう戻ってはこられない。そういう確信があったから。
俺は、これが最期だと自分に言い聞かせて、必死に言葉を繋げていく。
「兄さんと、違って。生きてる価値なんて、ないかも知れないけど。優秀なんかじゃない、天才なんかじゃない。弱くて、みっともなくて、どうしようもない奴かも知れないけど」
兄さんの弟であることが、信じられないくらいでも。
それでも、本当に嬉しかったんだ。
生きていていいと、生きていて欲しいと、そう言葉にしてもらえたことが、心の底から嬉しかったんだ。
「一星、生きて」
最期の最後の、応援返しだ。
もう、無理だから。
俺のことなんて、どうでもいいんだから。
「頑張れ、頑張れ、頑張れ。こんなところで死んじゃいけない。俺なんかと共倒れなんて、あっちゃいけない。これまでたくさん、努力してきたんだろ。俺が思ってるよりずっとずっと、頑張ってきたんだろ。さっきの、凄かったよ。びっくりした、自分の目を疑ったくらい。俺が見てきた誰よりも、お前は強かったよ」
だから、生きて欲しい。
こんなところで、死んじゃいけない。
いつも応援歌に込める願いを、枯れかけの力を振り絞って言葉にする。
俺はこんな風に、今まで何人もの人を応援してきたけれど。
それでも当然、負けることだってあった。俺が必死で応援して、相手が必死で頑張っても。それでも色んな要因で、勝てないことなんて何度もあった。
そういうときは俺だって、当人にも負けないくらい落ち込んださ。大した役にも立ちゃしない、自分の無力を嘆いたさ。
でも、結局。俺のやることは変わらない。
だって俺には、これしかないんだから。
夏大会の、応援スタンドの上でも。
薄汚い路地裏で、死にかけていても。
頑張れ頑張れと、俺は誰かを応援するだけ。
負けたっていい。今は辛酸をなめたって。
生きて、生き延びて。そしていつか、勝つことができるように。
「……違う」
それは、小さな声だった。
一星の顔が、すぐ近くにあって。でなければ聞きこぼしてしまうような、囁きのような声だった。
「私は、弱い」
それが、あまりに弱々しい声だったから。
「私は、強くなんてない」
どうにか視線を上げて、一星の顔を見る。
真夜中よりも暗い視界で、それでも一星の顔が浮かび上がる。
一星は、静かに泣いていた。
「守ると、言ったのに。何もできなかった。何も救えなかった。目の前の人間一人すら見殺しにして、何が八剣だ、何が正義だ。何が……」
嗚咽を漏らし、言葉に詰まる。
そこに、恐ろしい怪物に立ち向かった強者はいなかった。
俺を守って戦った、剣の達人なんていなかった。
そこにいたのは、ただの女の子だった。
八剣 一星という、女の子がいるだけだった。
「私が、やるしかなかったのに」
「うん」
一歩、また一歩。俺たちは先へと進んでいく。
「みんな、みんな死んでしまうんだ。私のいないところで、私の知らないところで。私に、何の力もなかったばかりに」
「うん」
どこへ行けばいいのか、それすら分からずに。俺たちはただ、前へと行く。
「今度こそ。この刀さえあれば、今度こそ、私にだって。そう思って、そう信じて、ここまで来たのに」
「うん」
俺も、少しでも、一星の力になりたくて。動かない足で、それでもなんとか、地面を踏む。
「こんなので。こんな有様で」
豪雨にでも逢ったかのように。整った目鼻が台無しになるくらい、一星の顔はぐちゃぐちゃで。美しいなんて、お世辞にもいえない表情で。
「私は一体、いったい、何のために……!」
悔しい。
悲しい。
勝てなくて。救えなくて。申し訳なさでいっぱいで。
そんな一星から、目が離せなかった。
見ていられないほどの酷い顔を、それでも見ずにいられなかった。
だって。そんな一星と、まるで心を共有しているかのように。
俺も、俺だって。悔しくて、悲しくて、申し訳なかったから。
それは所詮、錯覚かも知れない。
死ぬ間際の夢幻に過ぎないかも知れない。
だけど。だけど、だけど――
「っ!」
一星がいきなり、俺を突き飛ばす。
配管か何かに、勢いよく半身を叩きつけられたが、不思議と痛みはない。気怠い衝撃だけが全身を襲って、視界が一気に明度を失って、人形のように倒れ伏した。
ただ、辛うじて。地面から延びる、あの怪物の腕が、そこにあった。
「くそ――」
怪物は、とっくに追いついてきていた。その巨体をずるずると這わせ、空腹を訴えるように呻き、歯を軋ませている。
一星は、また立ち向かおうとしている。乱暴に目元を拭い、刀を構える姿が映る。
目がかすんで、どちらも影しか見えないけれど。一星が逃げていない、そのことだけは間違いなかった。
どうしようもなく手遅れな俺を、守るために。
「かず、せ」
今度こそ、俺の声はもう、届かないだろう。
いや。声に出しているつもりで、もう喋れてもいないかも知れない。
――だけど。
震える右手で、胸元を探る。
首から提げていた兄さんの形見。母さんが作ってくれたお守りで、俺たち兄弟に与えられた家族の絆。
ああ、悔しい。
ああ、本当に。
俺の応援は。俺が、こんな俺でも、全身全霊で挑んできた、その応援に込めた願いは。
無駄だったのか――違う。
無意味だったのか――違う。
何も為すことはできなかったのか――そんなことはない!
「――な、い」
お守りを、掴む。
「まだ、まだ――」
もう、その右手以外、どこも動かないけど。
それでも、残る力の限り、握りしめる。
絶対に離さない。絶対に譲らない。
姿が見えないからどうした。声が聞こえないからどうした。
現実を見ろ。その光景から眼を背けるな。
「俺たちは、まだ――!」
一星はまだ、逃げていないんだ。
泣きながら、嘆きながら、それでもまだ、諦めてはいないんだ。
今もそこで、戦おうとしているんだ。
だったら俺だって、諦めない。
三点差のロスタイム、八対二の九回裏、先鋒に副将まで抜かれた一対五。欠片の勝ち目も希望もない、最低最悪を更に下回るような状況下――
それがなんだ。
それがどうした。
選手が諦めない限り、応援団は諦めない。
次じゃない。いつかじゃない。
彼女が立ち向かっているのは今なんだ。
彼女が勝ちたい勝負は今なんだ。
一星は、俺は、俺たちは!
「まだ何も、何ひとつ! 終わってなんていないんだから――!」
今、ここで、この戦いで、絶対に! 負けたくないと思ったんだ!
「あ――」
そのとき。
握りしめた右手が、強く強く、輝きだした。




