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冬夜の巫  作者: 真鴨子規
第一章 星と羽翼
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星と羽翼 17

 それは、壊死した肉の塊のように見えた。

 芋虫じみた黄土色の肥満体は、大人の背丈を優に超えている。身体の側面からは、巨体に見合わぬ小さな手が、見える限り六本生えている。ずるずると這い寄る姿は赤子のようで、けれどそんな可愛らしい姿ではまったくない。

 見上げる先には、長い首と、人間のような頭部。

 人間、ではない。眼孔も鼻も口腔も、暗い穴でしかないそれを、人間だとは到底呼べない。叫びを上げる絵画のような、恐怖のうちに絶命したこうべのような、尋常ではなくグロテスクな何か。

 それが、そんな悪夢でしかないモノが。呻き声を垂れ流しながら、俺と一星の目の前で、少しずつ近付いてきている。

「――――」

 言葉が出なかった。

 何か発声したはずが、意味のある言葉にならなかった。

 悲鳴を上げて助けを呼ぶとか、立ち上がって逃げるとか、できることは幾らでもあるはずなのに、何の行動にも移せない。

 全身に力が入らない。さっきまでどうやって歩いていたのかさえ思い出せない。

 ただ、見る。見続ける。その、あり得ない、あってはならない、化け物の蠢動しゅんどうを。

「立て、一格」

 ふと、一星の声が聞こえた。

 少しだけ視野が戻り、小柄な少女の後ろ姿が目に留まる。

「立て」

 無理だ。

「立って逃げろ」

 立てない。走れない。馬鹿げてる。何もできない。どうしようもない。

「たわけ、それでもお前は――」

 一星の言葉が途切れる。いや、途中から頭に入ってこなくなった。長台詞を聴解ちょうかいする機能さえ麻痺している。

 化け物と俺たちとの距離は、最初の半分くらいにまで狭まっていた。

「――っ!」

 化け物の身体が、ぶよぶよと振動を始めた。

 排泄音のような汚らしい音が漏れ、肉の合間から二本、新しい腕が生える。

 それは図体にそぐう長大さで、蜘蛛の腕のような体毛に覆われている。糸を引き揺れ動くその様は、紛れもない人外の腕。先端に備わる鉤爪は、少女の身体など容易く貫通し得る、凶悪な刃物。

 そして。変貌はそれだけに留まらない。

 胴体――肉塊の中心に大きく亀裂が走り、上下にばっくりと開き。

 臼のような象牙色の歯が並ぶ、大人一人丸飲みにしかねない口が、悪臭を吐き出しながら出現した。

 これが。これが、あの不可思議な傷害事件の犯人だと? 人ではない、まるで獣に襲われたかのような。それでいて、誰にも見つけることのできなかった、まるで幽霊の仕業であるかのような、あの。

 いや。いいや。

 違う。これは違う、断じて違う。

 だって。だって、だって、だって。

 あり得ない。あんな刃に、あんな口に、襲われて――生きて帰れるわけがない。

「案ずるな」

 一星の、声が。

「案ずるな、一格」

 通りの良い声が。労るような声が。異常な光景を前にしても怯まない、力強い声が。今にも沈みそうな、俺の意識を押し上げる。

「お前だけは、必ず逃がしてみせる。八剣の、絶対正義の名の下に」

 手にしていた竹刀袋を放り捨て、収められていた刀を一星が握る。

 それは、竹刀や木刀の類ではなかった。

 黒い柄木、八つの菱を巻き描いた茶色の柄糸。

 僅かな明かりに照らされ、鈍く光る楕円の鍔。

 漆黒の中に、揺らめくような朱色の走る鞘。そしてそれが覆うのは、少女が握るにはあまりに長い刀身。

 それは現代、日常において目にすることの叶わない過去の遺物。

 刀。

 刀剣。

 いつか美術館で目にした、本物の武器。

 斬り裂き、突き穿ち、討ち払う凶器。

 けれど。

 一星が舌を打つ。その理由は、俺にもすぐに飲み込めた。

 一星は一瞬だけ、鞘に収められた刀身を引き抜き、そして再び戻した。

 その光景を、俺もまた見ていたのだ。

 鞘が保護するその刀身は、鋭利な刃も美しい刃紋も、何も備えてはいなかった。

 刃は零れ、浅黒く変色し、脆く腐敗したような、なまくら以前の廃品。

 斬れば崩れ、突けば折れる。一星が手にしているそれは、つまりそういった代物だった。

「一星、それは――」

 その刀が、本物かそうでないかは問題じゃない。あんな鉄屑、玩具の剣と変わりない。その辺でゴミのように転がる木片でも盾にした方が、まだ望みがあるくらいじゃないか。

 そんな見当違いな問答を、待ってくれるような相手ではない。

 怪物の刃がしなる。

 一直線に延びる鉤爪が一星に迫る。

 その先端は一星の細身を軽々と貫き、その上で俺の眉間に風穴を開けるだろう。そう確信していながらも、俺の身体はピクリとも動かない。

 怪我では済まない。一秒ののち、俺たちは死ぬだろう。

 死の予感に浸ろうか。絶望に酔いしれようか。

 どこまでも暢気に、俺の頭は空転し、ただ漫然とその未来を待っていた。

 もしかしたら、ようやく兄にも会えるのかな、と。安堵する心さえ抱いていた。

 だから、そのとき目の当たりにした現実を、すぐには受け入れられなかった。

 人骨さえ貫こうという鋭利な刃が。

 目で追うのもやっとの俊敏な刺突が。

 一星の握る刀によって、払い退けられたのだ。

「ふぅ――」

 絞り出すような呼吸。

 一切ぶれることのない体幹。

 一星の身体は、慣れ親しんだ動作で正眼に構える。

 刀身は鞘に隠れたまま。先ほどは、鞘に備えられた下緒さげおのようなもので鞘と本体を固定し、木刀のように振るったのだ。

 剣道のことは、それほど詳しくはない。

 素人と玄人の差ならともかく、有段者同士の優劣など一目で分かるものでない。

 でもこれは、この格差は間違いない。

 応援に行った剣道大会で見た、数多の強豪選手たちであろうとも。この八剣 一星には、束になっても敵わない。

「参れよ、『擬き』。何モノも断てぬ棒切れなれど、容易く越せると思うなよ!」

 一喝する一星に呼応するように、再び怪物が刃を仕向ける。

 空を切って走る凶器は、ただの一撃では終わらない。双腕による連撃は、最初の二撃を超えて数え切れない。

 そこに感情は読み取れない。或いはあの化け物は、機械的に直線的に、目の前の標的へと腕を振り下ろしているだけなのかも知れないが。

 胴体視力とか、反応速度とか。人間が訓練して身につけられる技能では、よけることも、受け止めることもできやしない。行動が予測できたとして、身体がついて行かないはずだ。

 それでも、一星はまだ立っている。

 膂力りょりょくの差は歴然だ。狙いを外した化け物の刃が、金切り声のような音を立ててコンクリートを抉る。一星の小さな身体では、鍔競り合いなど起こり得ない。だからこそ一星は、敵の攻撃全てをいなす必要があった。

 刀を操り、敵の攻撃をそらす。正中線めがけて振り下ろされた一閃を、脇腹を掠めるところまでずらした。あらゆる角度、あらゆる方向からの攻め手であろうと、一星は瞬時に対応している。

 曲芸めいていた。剣道の試合を想定しての練習など、幾ら重ねてもこうはならない。他流、異種――いや、それこそ、あのような化け物と相対することを、ずっと前から予期していたとしか考えられない。

 果たしてそれは、どれほどの地獄だったろうか。

 常識外の異形。一歩間違えれば、激痛と共に絶命するだろうという確信。こんな状況にあってなお冷静に、紙一重の防衛を続けられる彼女の、これまでの軌跡は想像を絶する。

 声が出ない理由は、果たして、化け物への恐怖だけなのか。

「――れ」

 一星の息が上がっている。

 攻撃を防げたとしても、だから勝てる訳じゃない。

「が、――れ」

 目に見えて削れていく体力、薄氷の上にあってすり減る精神。仮に一星が、その技量に見合うほど桁違いな持久力を獲得していたとしても。それらは確実に無限ではない。

 一星の背中から、苦悶の声が届く。

 一星はじりじりと後退している。余裕さえ感じていた一連の動きも、段々と綻びが目に付くようになる。

 時間の問題だった。

 一星の見せる奇跡のような戦いは、一秒後に崩れ去ってもおかしくはなかった。

 だからこそ、俺は立ち上がった。

 俺は逃げなくてはならない。

 誰の目から見ても明らかな、この無謀極まる防衛戦を、一星が続ける理由はただ一つ。

「一星――」

「立ったならば行け! いつまでそこに居座るつもりだ!」

 俺が逃げるまでの時間稼ぎ。そのためにこの少女は、俺の目の前で命を賭けている。

 赤い滴が飛ぶ。一星の制服は既に、最初に出会った夜以上にぼろぼろだ。今だって、ほんの少し首を傾けるのが遅れていたなら、一星の右目が潰されていたかも知れない。

 そんな一星の背中に隠れて、いつまでも佇んでなどいられない。

 怪物が、一星に集中しているうちに。音を立てず目立たずに、けれど素早く、この場を離脱すれば。きっと一星も逃げおおせる。足手まといがいなくなれば、一星ならば逃げきれる。

 慎重に後ずさりながら、一星を見守る。

 あんな怪物など、俺が注視していたところで意味はない。だからこそ今は、後ろ向きにこの場から離れながらも、その勇姿を目に焼き付ける。

「がん、ばれ」

 弾かれた爪が瓦礫を生み、土埃を巻き上げる。

「頑張れ」

 刀の守りが間に合わない二撃目を、重心をずらす最低限の動作で回避する。

「頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ――」

 この気持ちはなんだろうか。

 蚊帳の外で。戦力の外で。いつものように、けれど力が抜け落ちて、ろくに届きもしない声援を送り続ける。

 自分の無力には嘆き飽きた。

 兄さんや、悠助や、みんなのように。自分の力だけで、何かを成し遂げられるような人間では、俺はないんだと。ずっと昔に思い知った。

 だから。応援という形で、俺もみんなと一緒に戦うんだと。意地を張るように、悪足掻きのように、言い訳のように、俺はずっと誰かを応援し続けた。

 間違いだったとは思わない。俺には本当に、そんなことしかできないんだから。

 でも。

 でも。

 でも。

 一星の背中を見る。

 今にも折れそうな、軽々と吹き飛ばされそうな、細く小さな姿を見る。

 これまで積み重ねた努力を燃料としてくべ、神業のような戦いを繰り広げる、彼女を見る。

 その地獄は、もう随分と遠くに見える。

 ここまで後退すれば、あとは一目散に逃げればいい。

 だからもう、縮こまった俺の声なんか、彼女の耳に届きはしない。

 応援とは。声援とは。

 彼女の名前を呼ぶことが。頑張れと、やればできると称えることが。今の彼女の、いったい何の助けになるだろう。

 分からない。

 分からないけど、でも、俺にはもう、そんなことしかできないから――

「頑張れ……」

 力を込めろ。呼吸を正せ。

「頑張れ……!」

 その矜持を思い出す。

 無力ではないと。無意味ではないと。誰より信じ、本人以上にその勝利を願い、祈るように声を張り上げる。

 それが。

 それこそが、俺なのだと。

 俺のできる精一杯で、俺は俺を誇るのだ。


「頑張れ、一星ッ!」


 瞬間。

 トラックにでも跳ねられたかのような衝撃に、俺は唖然とした。

 地面から。足下から。あの化け物の腕に似た、何かが生えて。


 俺の腹を、貫いていた。

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