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冬夜の巫  作者: 真鴨子規
第一章 星と羽翼
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星と羽翼 15

 りんご教。

 正しくは『りんご教白暦会』というらしいが、信者も周囲も基本的には『りんご教』としか呼ばない。要するに、通称や俗称の類でも何でもなく、そのどうしようもなく甘酸っぱそうな名前を、かの宗教団体は正式名称として掲げているのである。

 俺も信者ではないので、あまり詳しいことは知らないが。以前受け取った教本からすれば、実際に果物のりんごを軸に据えた教義を持っているらしい。

 曰く、旧約聖書に現れる『禁断の果実』ないし『善悪を知る知恵の実』の伝説。

 始まりの人間であるアダムとイヴが、蛇にそそのかされてりんごを口にしたという、人間が犯した最初の罪。創世の時代、父たる神に背いた、人の祖による永劫許されない業。

 しかし、全治全能たる神が、そのような我が子の背信行為程度を、予見できなかったはずがない、と。りんご教の掲げる教義は、そこに端を発しているらしい。


 かの禁断の果実こそ、神が人に与えたもうた最初にして最大の試練である。

 そして、その試練は今なお終わってはいない。

 我々は未だ、我らが大いなる神に試され続けているのだ。

 人よ、りんごを食べよ。

 人よ、神の果実を崇めよ。

 人よ、父なる神の期待に応えるべく、りんごと共に己を磨くのだ!


 とか。

 なんというか、筋が繋がっているのかいないのか、正気なのか正気じゃないのか、何度読み返しても定かではない。

 公に知られている活動としては、街頭でりんごを配っての布教活動と、人に試練を与えてくれるという有り難いりんごへの感謝の祈り、それからりんごをより正しく食べる方法の模索だという。入会してまず教わるのが『大いなる皮むき方法』だという噂もある。実は料理同好会なのかも知れないし、実際料理好きな人間が入信したという話もあるらしい。

 宗教団体としてはどう考えても異端だし、当然歴史も浅く、いつどこで発祥したかも定かではない。しかし、それがどういうわけか、この町の若い女性を中心に、その勢力は少しずつ広がっているのだという。なぜかと言えば、

「入信すると痩せる?」

「あと、美肌になって、腸内環境が改善されて、金持ちになって、運命の人に出会えるんだって」

「りんご教でか?」

「りんご教で。まあ、ただの噂なんだけど」

 一星が真顔で聞いてくるのも無理はない。こんなにも眉唾な話が他にあるだろうか。

 いや、確かにりんごは健康にいい食品だし、高級スイーツやブランド品を買い漁る時間をりんごのために使えば節制にもなる。同じ信徒同士の新しい出会いもあるのだろう。

 だとしてもりんごはないだろう、というのは一般的な感想ではないだろうか。

 一体どれほど突飛なセンスを持った人間が、そんなものを新興宗教のシンボルにしようなどと思うのか。

 実におかしな話である。だが、そんなおかしな話は脇に置いたとして、それでも馬鹿にできないと思える理由が存在する。りんご教、いいじゃないかと、頭の片隅で思ってしまう要素もある。

 彼らの顔が。

 そう、何はともあれ、とにもかくにも。信徒が生き生きとしているのだ。思わずどきりとしてしまうほど、彼らの笑顔は素敵なのだ。それだけは本当に、紛れもない事実だった。

 喫茶店を出たあと、俺と一星は再び駅周辺へと戻ってきていた。

 悠助は他に用事があるということで、今日のところは別れることになった。若干口惜しそうな、というか不安そうな顔をしていたが。俺もりんご教のことを話したらすぐ家に帰るつもりなので、大した違いはない。

「確かに、布教は美人が行っているようだが。それにしてもりんごとは、奇っ怪な教義があったものだな」

 道路脇、人の往来の邪魔にならない場所で、一星は熱心にビラとりんごを配る彼らを眺めていた。

 ここから見えるのは、黒いケープに身を包んだ女性が三人、男性が一人。

 年齢は全員二十歳前後といったところだろうか。若く活力溢れる信徒が、にこやかに、そして熱っぽく、町ゆく人々へりんご教の教義を勧めている。「あなたもりんごを崇めませんか」「りんごとともに更なる知の高みへ」「りんごを愛することで、真なる神の寵愛ちょうあいを」、エトセトラエトセトラ。なんとも奇妙な光景である。

 だが。そんなことより何よりも。

 やはり彼らの表情は、とても眩しく見えるのだ。

 一星の言うとおり、言っていることはなんとも素っ頓狂で、宗教としても一際怪しいのだが。ああして布教する彼らは、事実として何らかの苦境をりんごに救われたのだろう。だからこそ俺の目には、とても輝いて映る。

 宗教色の弱い国柄である。宗教行事も単なる興行に近く、無関心ゆえに節操もない。俺も例外ではなく、知名度や勢力版図にかかわらず、宗教というものに馴染みはないし、その盛衰にも興味を持てない。

 けれど、だから不要なものだとは思わない。どんな些細なものであれ、他人からすれば馬鹿馬鹿しいようなものであれ。それがあることで救われ、それがあることで健やかに生きることができる誰かがいる。ならばそれは必要なものだし、それは価値あるものなのだから。

 春頃に突然現れたりんご教も、最初から歓迎一色という訳ではなかった。強引な布教、詐欺まがいの商売、そういう新興宗教にありがちな黒い噂は、今のところないにせよ。馴染みのない宗教団体というだけで、奇異の目で見られることは避けられない。強硬派も少なからずいて、街頭での活動を規制して欲しいという声もあったらしい。

 でも、いいじゃないかと、俺は思う。りんごを大事にして、りんごを好んで食べること、それが誰の迷惑になるというのか。

 何を好んで、何を嫌って、何を信じて、何を尊ぶのか。そんなものは人それぞれで、みんな自分勝手に、自分で選んで決めていいのだ。

 それが、誰かの邪魔にさえならなければ。別段、規制するほどのものではないはずだ。

「興味があるのか?」

 しげしげと信徒たちを見ていた一星に、俺は問いかけた。

「いいや」

 一星は迷わず首を振った。

「だが、信仰とはかくあるべきと思っていた」

「うん?」

「信じる者は救われる。それは『誰かに救ってもらえる』という意味ではないのだと。彼らを見て、再認識できた気がする」

 一星の言っていることが、俺にはよく分からなかった。

 後から考えれば、それは昨日今日あったばかりの俺が、踏み込んでいい領域ではなかったかも知れなかったが。

「反面教師になるって話か?」

「そう批判的な話ではない。彼らには彼らなりの正義があるのだろう。そこから得られる何かも。それは貴重なものだと私は思う。対象が何であれ、一心に信じることで、得られる幸福もきっとあると」

「……それは」

 そうだな、と。頷いておいて、正直俺には、一星が言いたいことの半分も理解できていなかったが。

 ただ、なんとなく嬉しかった。意味不明、理解不能、だから否定するのだと、排斥されるべきなのだと。そんな結論に至らなかった彼女が、自分と近いところにいるような気がして。

 だから。決意を新たにしたような、彼女の表情が気に入って。

 そして。より一層強ばった彼女の口元が、少しだけ気掛かりだった。

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