星と羽翼 12
一般的に言って、高校の応援団が最も注目を浴びるのは夏だろう。しかし、じゃあそれ以外の季節は暇なのかと言えば、もちろんそんなことはない。高校野球の甲子園が一大イベントであることは間違いないが、世間の注目度が違うというだけで、高校生の競技大会など年中いつでもやっているのだ。
例えば、来月の十二月上旬にはテニス部の大会があるし、中旬には陸上部の大会も控えている。文化部だって無関係ではない。当日、会場に行って応援することができない行事でも、大会前の決起会を企画し運営するのは応援団の領分だ。一年を通して、暇になる期間などほとんどない。
そして、応援団に求められる最大の能力は『体力』である。声も勿論大事なのだが、その土台である体力は一切のごまかしが利かない。真夏の炎天、真冬の寒天に負けることなく、その熱量で消し飛ばすほどの気合いと根性を声に乗せる。それだけの気迫を見せて初めて、当事者である選手たちを応援することができる。
他人を元気づけられるのは、底なしに元気な人間だけだ。精も根も尽き果た死屍累々のゾンビみたいな奴に応援されて、やる気を出せる人間がどこにいるというのか。
一に体力、二に体力、そして五にも体力だ。繊細に磨かれた技術も、先天的な才能もセンスも、まず体力がなければ話にならないのである。
冬樫高校の応援団は、運動部顔負けの体力づくりを行うことで有名だ。特に冬は、基礎トレーニングを徹底して行う季節である。他の運動部と一緒になって飛んで跳ねても、置いて行かれるなどということがあってはならない。上手いバッティングができなくとも、綺麗なドリブルやシュートができなくとも。体力だけは、誰にも負ける訳にはいかないのだ。
「そこまで気合いの入った新入生はなかなかいないよ、野宮君」
そんなことを言いながら、クラス担任の時任 幹生先生が、木机の上に二人分のコーヒーカップを置いた。
今日のすべてのトレーニングを終え、帰り支度を整え更衣室を出た俺は、明日の授業の準備をしているという時任先生に出会した。
応援団の男性顧問だというのに、体力とは無縁絶縁の痩せぎすな時任先生が、重そうなファイルやら機材やらを抱えているものだから、思わず手伝いを申し出たのだ。
その手伝いを終え、今は他に誰もいない化学準備室で、コーヒーなど奢ってもらっている訳である。
香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。普段からこの準備室に漂っていた不思議な香りは、なるほどこのコーヒーの残り香だった訳か。よく行くファーストフード店のそれとは違う、柑橘系に似た風味が隠れている。
「体力かぁ、耳の痛い話だよ。学生の頃から運動は不得手だったけど、高校の教員になってからは更に機会がなくなってしまった。仮にも応援部の顧問なのだから、私も少しは見習わなければならないね」
血色の悪い顔で、時任先生は旨そうにコーヒーを啜る。
俺も真似て、白いカップに口を付ける。湯気の立つコーヒーは、身体を内側から温めてくれた。運動の後は冷たい水をがぶ飲みしたくなるが、やはり身体にはよろしくない。これから冷えた外気に包まれながら、帰路に就かなければならないのだ。一息つくにはもってこいの飲み物だろう。
「人には向き不向きがありますから。無理なく始めるのがいいと思いますよ」
「ははは、ありがとう。だがある程度は鞭を入れないと、私のような人間は室内に引きこもってしまうからね」
純粋なインドア派なのだろう。丸眼鏡を押し上げ、照れたように時任先生は笑った。
ほとんど運動部みたいな応援団の顧問として、運動向きでないこの先生が任命されるのは完全なミステイクだと思うのだが。それほどまでに教職が人材不足なのか、それとも応援団の活動というものを学校側が正しく理解できていないのか。どちらにせよ、その役割を果たそうという姿勢を見せるこの先生からは、人の良さがにじみ出ていた。愚痴一つこぼすくらい、共感は得られるだろうに。
「とは言えやっぱり、君は立派だよ、野宮君。私は、今の三年生が新入部員だった頃から応援部を見ているけれど、大抵の子は音を上げてしまうのさ。『自分はただ応援したいだけなのに、どうしてこんなにも厳しい訓練が必要なのか』と。だからまず、この部の精神というものを理解してもらうところから、いつもは始めなければならないというのに」
それは無理からぬことだろう、とは思う。
事実、俺の同期の部員たちからは、前々からそういう声も出てきていた。
こんなもの、ただのしごきじゃないかと。そう言って、夏の繁忙期を迎える前に部を去った一年生もいた。
実に失礼な話だが。この顧問の先生を引き合いに出して、辛いトレーニングメニューを批判する声もあった。
元より体力に自信のある生徒は、真っ当に運動部に入るのだ。誰かの応援がしたいと応援団に入って、過酷な訓練に面食らうのは必然とも言える。
立派だ、などと言われるのはくすぐったい。俺はただ、たまたま応援団の精神に合致する性格だったというだけだ。こうなるために努力して得た結果ではなく、だからこそ賞賛される謂われもない。評価するというのであれば、俺をこういう風に育ててくれた両親や、応援したい対象として理想的な背中を見せてくれた兄のことを誉めて欲しい。
俺自身の功績など、俺の人生では未だ、何も残せてはいないのだ。
そしてそれはきっと、今後もそのままなのだろうと、俺はほとんど確信している。
「まあ、何だかんだ文句はあるでしょうけど。今残ってる一年だってみんな、誰かを応援するのが好きな奴らばかりですから。心配することないと思いますよ」
「そう言ってくれるとありがたい。仕方ないとは思いつつも、部員が辞めてしまうのは寂しいしね。何事も未だに手探りで、迷いながらやっているから」
私も頑張らないといけないね、と。
前向きに語る時任先生は、生徒の前で言い訳をしなかった。
周知の事実ではあるが、時任先生は化学部の顧問も掛け持ちしている。応援団と違い、そちらでの時任先生には多岐に渡る役割がある。その専門的な知識をもって、部員たちを指導しなければならないし。扱いの難しい薬品を使うにあたり、監督役として立ち会わなければならないことも多いと聞く。
二つの部の顧問を掛け持ちし、更にクラス一つの担任も勤めている。これほどの業務過多では、取りこぼしの一つや二つ、あっても無理はないだろう。仕事が多すぎると訴えても、それは言い訳ではなく、当然の主張だと思える。
それを、少なくとも生徒の前で、この先生が言うことがないのだ。
当然のことであれ。至極まともな訴えであれ。嫌々やっているのだという姿勢を、生徒には見せず頑張っている。
ただそれだけのことで、俺はこの先生を尊敬できる。
入学した高校で、初めての担任がこの人で、本当に良かったと思っている。
「君を次期部長に、というのは、そう突飛な話じゃないと思ったんだけど」
「それは。二年の先輩たちが納得しないでしょう」
「いや、賛成多数だったよ。少なくとも、今の部長は賛同してくれた。まあ、君が受け入れてくれるのなら、という条件だったけどね」
「はあ……」
過大評価というのは面倒なものだ。
年功序列を尊んでいるわけではない。実力と人望を兼ね備えた人物ならば、学年も性別も関係なく、要職に就くことも良しと思っている。年下の団長、あるいは年下の上司、年下の先生。そういった存在に、俺は一切の疑問を抱かない。そこで人間関係の不和が起きたとして、年齢の上下などは要因の一つにしか過ぎないのだから。
でも、だから自分が団長に、という推薦には素直に頷けなかった。実力も人望も、実績も適性も気合いも負けん気も、俺なんかより上なんて幾らでもいる。上級生は勿論のこと、同級生にだって優秀な人材は溢れている。きっと来年もまた、将来有望な下級生が押し寄せてくるのだろう。
出る幕がない。結局俺は裏方気質だ。先頭に立つのではなく、前を行く誰かを後押しする方が、きっと役目を全うできる。
「まあ確かに、応援部に君を拘束してしまうのも最善ではないかも知れない。そうそう、都合良く忘れていたんだけど、君には結構オファーが来ているんだよ」
「オファー?」
「運動部の部長や、顧問の先生からさ。君のトレーニングに打ち込む姿は実にいい、是非うちに来て欲しい、というね」
ああ、という言葉にならない声が、ため息混じりに出て行った。
そういう勧誘は、実のところ夏の終わりから何度も直接受けていた。
「運動競技で強くなるには、なんと言っても練習量が大事だからね。野宮君みたいに熱心にトレーニングに励む一年生は、未経験からでもきっと伸びるだろう、って」
「考えてませんよ、そういうのは」
「匿名希望者から推薦があった、なんて言ってた先生もいたかな。そう、弓道部の古賀先生だ。昔やってたんだって? 弓道」
「悠助め……」
バレバレの匿名希望である。そんな大昔のことを覚えている奴なんて、家族以外ではアイツくらいしかいないのだ。
「ともかく、そういうのは無しですよ。俺は応援がしたいんです」
応援がしたい。
俺が主役になったところで、どうせ大したことはできない。今までずっとそうだったし、だからこれからもそうなるだろう。
だったらせめて、誰かを応援する脇役でありたい。
一番になれる誰かを、一番になろうと本気で頑張る誰かを、俺も本気で応援したい。そんな誰かと、応援という形で一緒に戦わせて欲しい。
それが俺の願いで、それだけが俺の望みなのだ。
「そうかそうか。いやあ、残念だなあ。その言葉、みんなにしっかり伝えておくよ」
時任先生は至極嬉しそうに、コーヒーを飲み干した。
俺のカップはというと、既に底が見えていた。落ち着かないと、つい味わわずに飲んでしまう。勿体ないが、かといって二杯目を要求する図太さは持ち合わせていない。
「ごちそうさまでした。そろそろ帰ります」
「やあ、引き留めて済まなかったね。車で送っていこうか?」
必要はないと断る。
外はもう随分暗いが、帰り道は充分に明るいし、大して長い距離でもない。このくらいで一々送り迎えを頼まなくてはならないのなら、早々に戒厳令でも敷いて、外出を制限すべきだ。最近物騒だといっても、そこまでの緊急事態ではないはずだ。
「ああ、そう言えば」
帰り際。洗い終わったコーヒーカップを棚に仕舞いながら、時任先生が思い出したように声を上げた。
「野宮君を是非ウチに、と言ってきたのは、部活だけじゃなかったんだ」
なんだそれは。
若干うんざりしつつも、しかし無視するわけにもいかず、出入り口のドアノブに手を掛けたまま振り返る。
「二年の光永 直紀君。一年の野宮君でも、彼のことはよく知ってるだろう。ああ、だからつまりね。君を、我が校の生徒会長が、生徒会に入れてくれないかと、そう言っていたんだよ」




